花と刃のあいだで
水瀬ひなは現代の高校生。修学旅行中に突然意識を失い、目を覚ますとそこは戦国時代の日本だった。スマートフォンは使えず、誰も彼女の言葉を理解せず、完全に途方に暮れてしまう。
そんな彼女を兵士たちが見つけ、有名な戦国武将、冷酷無比で「鬼将軍」と呼ばれる源義颯の前に連れて行く。義颯は詳しい説明もなく、ひなを側室として城に留めることを決める。ひなは混乱し恐怖を感じるが、選択の余地はなかった。
城での生活は厳しい。ほかの女性たちは彼女に嫉妬し、ルールも彼女の知るものとはまったく違う。しかし、ひなは少しずつ現代の知識を活かして城の小さな問題を解決し、居場所を見つけ始める。そして少しずつ、義颯の冷たい瞳が彼女にほんの少し長く留まるようになる。
ある夜、ひなは屋根の上に影を見つける。敵対する一族の若き忍者、カゲマルが密かに城に潜入していたのだ。危険な状況から彼女を救ったカゲマルに理由を尋ねると、彼は顔を背けて耳を赤らめ、「黙れ」とつぶやく。しかし彼は何度も城に現れるようになる。
カゲマルは影からひなを静かに見守り、彼女が危険にさらされるたびに現れる。ひなは彼のそばで心臓が早鐘を打つのを感じる一方
花と刃のあいだで - 崩れた優しさ——干し飯と、赤い腕紐の正体
軟禁が始まって、三日が経っていた。
朝が来ても、侍女は誰も来なかった。
昼になっても、来なかった。
ひなは格子窓の近くに座り込んで、ぼんやりと外の屋根を眺めた。秋の瓦がぼやけて見える。目が乾いているのか、それとも空腹で視界がおかしくなってきたのか、自分でもわからなかった。
手元のスマホを取り出した。画面は真っ暗なまま。充電も切れて久しい。電源ボタンを押しても、何も変わらない。それでも押してしまうのは、もう癖みたいなものだった。
(友達の春野は今頃何してるんだろう)
修学旅行のバスの中。みんなの笑い声。お母さんの作ったお弁当の匂い。お父さんが朝、ドタドタと廊下を歩く音。
全部が遠い。
帰れるのか、帰れないのか、それすらわからないまま、こうして腹を空かせて格子窓の前に座っている。
お腹が鳴った。我慢していたのに、静かな四畳半によく響いた。ひなは膝を抱えて、額を膝に乗せた。頭が重い。空腹からくる頭の重さは、泣きたい気持ちとは少し違う。じわりじわりと、思考をぼかしていく。
(このまま死ぬのかな)
浮かんだ思考を、すぐに打ち消した。諦めるな、と心の中で自分に言い聞かせた。でも、その声が、前の日より少し弱くなっている気がした。
壁にもたれたまま、ひなは目を閉じた。
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夕方になる頃、廊下に足音が聞こえた。
ゆっくりとした足音。急いでいない。落ち着いた、計算されたような歩幅。ひなは顔を上げた。
格子窓の向こうに、サクラが立っていた。
藤色の着物が、廊下に差し込む薄い夕光を受けている。切れ長の目が、ひなを静かに見下ろしていた。隣に侍女が一人。その侍女は視線をひなから逸らしていた。
サクラは格子に近づいた。距離を三歩ほど残したまま、動きを止めた。
「[cold]明日、評定がございます」
ひなは格子に手をかけた。
「[serious]殿への進言は、もう決まっておりますの」
低く、静かな声だった。怒っていない。それがかえって、ひなの皮膚を粟立てた。
「[cold]預かりの女が城の機密に触れた罪、それを外へ漏らした疑い——処刑が妥当と、申し上げるつもりです」
「[scared]違う、私はそんな——」
サクラは口元だけで、ほんの少し笑った。
「[cold]楽しみにしていてね」
それだけ言って、踵を返した。藤色の着物の裾が、廊下の暗がりに吸い込まれていく。足音が遠ざかり、また静かになった。
ひなは格子を両手で掴んだまま、しばらく動けなかった。
明日で終わる。
その言葉が、全身の血を冷やしていく。違う、やっていない、信じてほしい——そう叫んでも、誰もこの格子の外には来ない。義颯の冷たい銀の目が浮かんだ。あの目が氷に戻った瞬間が、また浮かんだ。
夜になった。
布団の上に横になったが、眠れなかった。目を閉じると、サクラの笑顔が来た。義颯の背が見えた。家臣たちの声が聞こえた気がした——処刑が妥当。処刑が妥当。処刑が妥当。
うなされていたのかもしれない。気づいたら目が覚めていて、頬が濡れていた。
暗い四畳半。行灯の油は昨日から補充されていない。もう消えそうだ。
その時、格子窓の外に気配があった。
ひなは体を起こした。ゆっくりと、格子に近づく。
闇の中に、人がいた。
黒装束のまま、格子の前にしゃがんでいる。頭の半分だけが、外の薄い月明かりに照らされていた。短い黒髪に、赤が混じっている。片方の目が赤い。
カゲマルだった。
格子の隙間から、何かが差し入れられた。折りたたまれた布の包みと、竹筒。
包みを開くと、干し飯が入っていた。
ひなの手が震えた。三日ぶりだった、まともな食べ物は。口の中に涎が出た。こんな状況なのに、体はちゃんと生きていた。
ひなは食べた。急いで食べた。みっともないと思ったが、止められなかった。竹筒の水が、乾いた喉に沁みた。飲み込むたびに、体の奥に熱が戻ってくる気がした。
カゲマルは何も言わなかった。
ただ、そこに座っていた。ひなが食べ終わるまで、格子の外で、ただ待っていた。
ひなは最後の一粒を飲み込んだ。竹筒を両手で持ったまま、格子の向こうを見た。
「[whispers]……なんで、助けてくれるの」
声が小さかった。擦れていた。
「[whispers]あなたは、敵なんでしょ」
沈黙があった。
長い沈黙だった。カゲマルは格子の外で、ひなとは逆の方向を向いていた。暗がりで、その横顔だけが見えた。
やがて、ぼそりと答えた。
「[cold]……知らん」
たった二文字だった。
でも、耳が赤かった。暗がりでも、はっきりとわかるほど。
ひなの胸の奥に、じわりと何かが広がった。あたたかくて、苦しくて、今の自分には持てないはずの感情だった。処刑を前にした夜に、格子一枚を挟んで、この人だけがそこにいる。それだけのことが、ひなの感情の制御を崩しそうになった。
カゲマルはそれ以上何も言わなかった。夜明け前に、音もなく姿を消した。格子の外には、誰もいなくなった。
手元に竹筒だけが残っていた。
ひなはそれを胸に抱いて、目を閉じた。
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朝の光が格子窓から差し込んできた頃、廊下を歩く足音が聞こえた。
兵士だった。二人組で、話しながら通り過ぎていく。
「北の山から、また動きがあったらしいぞ」
「[serious]昨夜か?」
「[serious]トガリ衆の忍が城内に入り込んでいるという話だ。黒装束に赤い腕紐が目印、だと」
「見つけ次第、捕らえよとのお達しだ」
足音が遠ざかる。廊下がまた静かになった。
ひなは動けなかった。
頭の中で、昨夜の光景が再生された。
黒装束。赤い腕紐。格子の外にしゃがんでいた、あの姿。
全部、ぴったり一致する。
干し飯を差し入れてくれた手。竹筒の水。何も言わずにそばにいてくれた時間——それが全部、任務の一環だったのか。ひなを城から連れ出すための、計算だったのか。信じかけていた優しさが、足元から崩れ落ちていく。音がする気がした。
(あの赤い耳は、嘘だった?)
ひなは床に崩れた。膝から力が抜けて、そのまま座り込んだ。声を殺して泣いた。声を出したら誰かに聞こえる。だから声を出さずに、ただ涙だけが落ちた。
でも、泣きながらも消えない疑問があった。あの耳の赤さは、演技だったのか。任務でそこまでできるのか。矛盾が、ひなをさらに苦しめた。答えが出ないまま、時間だけが過ぎていった。
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昼過ぎ、扉が開いた。
兵士二人が立っていた。ひなを見て、無言で顎をしゃくった。
来い、という意味だった。
足が震えていた。でも、ひなは立ち上がった。逃げない、と自分に言い聞かせた。逃げても、もう行くところがない。
本丸御殿の大広間は、がらんとして広かった。秋の日差しが外から差し込んで、畳の上に白い四角を作っていた。
上座に、義颯がいた。
濃紺の長髪を後ろで束ねて、黒の着物。左頬の刀傷が、側面から差す光に浮かんでいる。その目は——石だった。銀色の左目も、黒い右目も、何も映していないように見えた。
両脇に、家臣たちが並んでいた。
広間の端に、サクラが立っていた。侍女を連れて、家臣の列の脇に。その表情は、ひなが一番怖いやつだった。感情を押し殺した、静かな笑顔。
ひなは広間の中央に引き出された。膝をつくように兵士に促されたが、ひなは立ったままでいた。
家臣の一人が声を上げた。
「[angry]預かりの女が間者であることは明白。拷問にかければ口を割ろう。処刑が妥当でございます!」
別の家臣が続いた。
「[serious]城の機密を外に漏らした罪、見逃すことはできませぬ」
声が重なる。処刑せよ、処刑せよ、と。広間の中に言葉が積み重なっていく。
ひなは義颯の顔を見ていた。
あの目は、何も変わらない。石のように冷たく、感情がない。家臣たちの声を聞きながら、何も言わない。義颯がひなを見る。ひなは義颯を見る。声が重なる中、二人だけが静止しているみたいだった。
足が震えていた。
サクラの口元に、薄く笑みが戻った。
(終わりだ)
そう思った。でも——俯かなかった。
怖い。怖くて、足がガタガタ震えている。でも、これだけは言わなければならない。言わなかったら、本当に終わる。言っても終わるかもしれない。それでも言う。
ひなは息を吸った。
「[serious]私は間者じゃない!」
声が、広間に響いた。震えていたが、止まらなかった。
「[serious]私はあなたの城を守りたいと思った。あなたの民を、守りたいと思った。石鹸も、計算も、全部本当のことだった。嘘をついたことは一度もない。それだけは——それだけは、嘘じゃない!」
広間が、一瞬静まり返った。
家臣たちの声が止んだ。
ひなは義颯だけを見ていた。
義颯の目が——ほんの一拍だけ、揺れた。
石のような銀色の中に、何かが走った。驚きとも、痛みとも違う。何と呼べばいいかわからない、ごく小さな揺れ。でも確かに、ひなにはそれが見えた。
次の瞬間、家臣の一人が声を張り上げた。
「[angry]処刑せよ!」
他の声が続く。また波になって、広間を満たす。
サクラの口元に、笑みが戻った。
義颯はまだ、何も言わない。
ひなは揺れた義颯の目だけを見ていた。震える足で立ちながら、ただその返事を待った。家臣の声が重なり合う広間の中で、ひなと義颯の間だけが、妙に静かだった。
義颯の口が、かすかに動いた——その続きを聞く前に、家臣の声がまた大きくなった。