花と刃のあいだで
水瀬ひなは現代の高校生。修学旅行中に突然意識を失い、目を覚ますとそこは戦国時代の日本だった。スマートフォンは使えず、誰も彼女の言葉を理解せず、完全に途方に暮れてしまう。
そんな彼女を兵士たちが見つけ、有名な戦国武将、冷酷無比で「鬼将軍」と呼ばれる源義颯の前に連れて行く。義颯は詳しい説明もなく、ひなを側室として城に留めることを決める。ひなは混乱し恐怖を感じるが、選択の余地はなかった。
城での生活は厳しい。ほかの女性たちは彼女に嫉妬し、ルールも彼女の知るものとはまったく違う。しかし、ひなは少しずつ現代の知識を活かして城の小さな問題を解決し、居場所を見つけ始める。そして少しずつ、義颯の冷たい瞳が彼女にほんの少し長く留まるようになる。
ある夜、ひなは屋根の上に影を見つける。敵対する一族の若き忍者、カゲマルが密かに城に潜入していたのだ。危険な状況から彼女を救ったカゲマルに理由を尋ねると、彼は顔を背けて耳を赤らめ、「黙れ」とつぶやく。しかし彼は何度も城に現れるようになる。
カゲマルは影からひなを静かに見守り、彼女が危険にさらされるたびに現れる。ひなは彼のそばで心臓が早鐘を打つのを感じる一方
花と刃のあいだで - 黒い影と白い嘘——格子の向こうの手拭い
城壁の上で泣いた夜から、二日が経っていた。
あの白い花は、まだひなの部屋の隅に置いてある。干からびて、少し縮んでいたけれど、捨てられなかった。誰かがいた、という確かな証拠みたいで。
タイムスリップから十日目の夜。
ひなは眠れなかった。
布団の上に横になっても、瞼が閉じない。夜の音だけがある。秋の虫の声、遠くで川が流れる音、時折廊下を歩く番兵の足音。それ以外は静かすぎて、自分の呼吸だけが大きく聞こえる。
(お腹が空いた)
それだけで、ひなは立ち上がることにした。厨まで行けば、残り物くらいはある。ゴンベエが夜食用に土鍋を火の傍に置いておいてくれることを、この十日で覚えていた。
行灯を持つと影が揺れる。廊下に出た。
夜の城は別の顔をしていた。昼間は人の気配がどこにでもあるのに、今は石の冷たさと暗さだけがある。足音を立てないように、ひなはそっと歩いた。本丸御殿の北廊下を曲がって、厨へ向かう渡り廊下へ入ったところで。
突然、手が出てきた。
口を塞がれた。
ドン、と背中が壁に押しつけられる。行灯が揺れた。消えそうになる炎。ひなの体が完全に固まった。悲鳴を上げようとした喉が、塞がれた手のせいで声にならない。
暗い廊下に、黒い人影があった。
黒装束。頭から首まで覆った布。でも、月明かりがわずかに差し込む角度で、ひなは見た。手首に、赤い腕紐。
耳元に、低い声が落ちてきた。
「[whispers]声を出すな。死にたくなければ」
ひなの心臓がおかしな打ち方をした。恐怖と、もう一つ別の何かが混ざり合って、全身が震えているのに足だけは動かない。
その時、廊下の奥から音が来た。
ぼんやりした光。松明の揺らめき。番兵の足音が、ゆっくりと近づいてくる。
一秒も経たないうちに、ひなの体が宙に浮いた。
片腕で抱えられた。天井板が外れる音がした。そのまま、上へ。音もなく、息もなく。まるで重力を無視するように。
ドスッ、と低い音で天井板が戻る。
天井裏だった。
梁と梁の間の、狭い空間。ほこりの匂い。木の古い匂い。暗くて、低くて、二人の体が触れそうな距離しかない。ひなは行灯を握ったまま、息が上手くできなかった。
真下を、番兵が歩いていく。松明の光が、天井板の隙間から細く漏れてくる。足音が近づいて、通り過ぎて、遠ざかる。
その間、カゲマルはひなを見ていた。
ひなも、見た。
顔が、近かった。黒装束の覆いが外れて、顔の上半分が見えた。短い黒髪に、赤が混じっている。目が鋭かった。右目が赤い。左目が黒い。二つの色が、全く違う光を持っていて、それが暗い天井裏でひなの方を真っすぐ向いていた。無表情だった。緊張の気配もない。まるでこれが日常のように、梁の上に体重を乗せて静止している。
ひなは、腕の温度に気づいてしまった。
さっき抱えられた、その腕の温かさが、まだ体に残っていた。危険な人のはずだ。敵かもしれない。なのに、なぜかその温度が、怖さよりも先に来た。
(なんで、こんな時に)
胸の奥が、変な脈の打ち方をした。
番兵の足音が完全に消えた。
カゲマルが先に動いた。天井板を静かに外して、廊下へ降りる。ひなも後を追った。足が少し震えていた。
カゲマルはひなに背を向けたまま、低く言った。
「[cold]忘れろ。俺のことは誰にも言うなだぜ」
それだけだった。
次の瞬間には、もう天井の闇に消えていた。音がしなかった。気配も消えた。廊下にひなだけが残された。
行灯の炎が揺れている。ひなは壁に手をついて、ゆっくり息を吐いた。心臓がまだ速い。忘れろと言われた。でも、逆だった。あの赤い右目が、暗い天井裏でこちらを見ていた顔が、頭に焼きついて離れない。
(誰なの、あの人)
答えは出なかった。
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翌朝、ひなは部屋が変わっていることに気づいた。
早い。ひなが目を覚ました時点で、すでに変わっていた。
布団が切り裂かれていた。中の綿が飛び出して、床に散っている。棚の上の物が全部落ちていた。あの白い花も、踏みにじられて、床に張りついていた。
壁を見た。
太い筆で書かれた墨文字が、四畳半の壁に大きく走っていた。
——出て行け。穢れ女。
ひなは、しばらくその文字を見つめた。
腹が立った。怖いより先に、怒りが来た。誰がやったか、わかる気がした。昨夜サクラが何かを侍女に耳打ちするのを見ていた。でも証拠はない。この城で預かりの身分のひなには、訴える場所も手段もない。
奥歯を噛んで、散らかった床を片付け始めた。
その日の午後、ひなは義颯の前に引き出された。
呼んだのは、義颯ではなかった。
サクラが、政務の間に乗り込んできたのだ。侍女二人を連れて。切れ長の目が今日は違う色をしていた。勝算のある人間の目だった。
「[cold]殿。ご報告がございます」
サクラが義颯の前に膝をついた。藤色の着物の裾が、床に静かに広がる。手に、一枚の文書を持っていた。
「[cold]預かりの女が、城の兵站情報を外へ漏らしたと思われる文を、見つけました」
文書を差し出した。義颯がそれを手に取った。
ひなは、部屋の端に正座させられていた。視線がすべて自分に向いているのがわかった。義颯の目が文書を追っている。ひなは膝の上で手を握った。
「[scared]違います。私は書いていません」
声が出た。震えていたが、はっきり言えた。
「[cold]文字が書けないと?」
サクラがゆっくりとひなの方を向いた。笑顔だった。その笑顔が、ひなには一番怖い。
「[cold]では、お聞きします。文字も書けぬ女が、なぜ兵站の計算ができるのでしょう? 殿の前で算術を見せたと伺いました。——文字が読み書きできない者が、数だけ計算できる。おかしいとは思いませんか? つまりこういうことです。誰かに数を教わり、誰かに代わって書かせた。外と内で繋がった間者、そう考える方が自然ではないでしょうか」
静かな声だった。怒鳴っていない。淡々としている。それがかえって、ひなの反論を封じた。
違う、と言いたかった。そんな人間いない、と言いたかった。でも、何を言っても、サクラはこうやって言葉を積み重ねてくる。証明する手段がない。この城では、ひなを信じてくれる人間が一人もいない。
義颯を見た。
義颯の目が、あった。
銀色の左目が、ひなを見ていた。この十日で、ひなはあの目の変化を少しだけ読めるようになっていた。政務の間で算術を見せた時、厨で石鹸を作った時、あの目はほんの一瞬だけ揺れた。でも今は違った。
氷だった。感情のない、冷たい銀色。最初の日と同じ目が、そこにあった。
「[cold]軟禁とする。四畳半に鍵をかけよ」
短かった。それだけだった。
立ち上がり、政務の間を出ていく。足音が遠ざかる。ひなは何も言えなかった。言葉が出てこなかった。喉の奥で何かが詰まったみたいに、声にならなかった。
サクラがひなの隣を通り過ぎた。廊下に出る前に、一度だけ振り返った。
何も言わなかった。ただ微笑んだだけだった。
その笑みが、全部の答えだった。
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四畳半は、思っていたより静かだった。
鍵がかかった。外から。廊下に番兵が一人立っている気配がある。格子窓からは城下の屋根が見えるだけで、人の顔は見えない。
昼餉は扉の前に置かれた。声をかけても、返事がなかった。冷めた雑穀飯と、塩漬けの菜。それをひなは一人で食べた。味がよくわからなかった。
夕方、廊下に足音が来た。
ゆっくりした足音。急いでいない。ひなは格子窓から顔を離して、扉の方を見た。
足音が近づいて、止まった。
また動き出した。でも、扉は開かなかった。廊下をゆっくりと通り過ぎていく足音だった。
ひなは格子窓から外を見た。
廊下に面した格子の向こうに、サクラが歩いていくのが見えた。藤色の着物が夕光を受けている。ゆっくりと歩きながら、ほんの一瞬だけこちらを向いた。
目が合った。
サクラは笑った。薄く、短く。それから前を向いて、そのまま歩き去った。
誰も来なかった。
侍女たちのひそひそ声が廊下を通っていくのが、格子越しに聞こえた。預かりがとうとう軟禁になったって。義颯様もようやく気づかれたのねって。ひなのいる部屋の前では、声が少し大きくなった。わざとだと、ひなにはわかった。
暗くなった。
ひなは部屋の隅に座った。膝を抱えた。切り裂かれた布団の綿をかき集めて、なんとか形にした。その上に座ると、少しだけ床の冷たさがましになった。
(帰りたい)
その言葉が、また来た。
お母さんの声が聞きたかった。お父さんがドタドタ廊下を歩く音が聞きたかった。友達の春野が「ねえ聞いて、きのうね」って言い出す声が聞きたかった。コンビニの自動ドアが開く音でよかった。バスが来る時のブレーキ音でよかった。なんでもよかった。現代の何かが、一つでも。
涙が出てきた。
止めようとした。泣いても何も変わらないとわかっていた。泣いたら負けな気がした。でも、どうしても止まらなかった。声を殺して、膝に顔を押しつけた。肩が震えた。
義颯に信じてもらえなかった。
それが、一番つらかった。怒りではなかった。義颯を責める気にもなれなかった。あの人の立場では当然の判断だと、頭ではわかっていた。それがわかるから、余計に苦しかった。信じてもらいたかった。たった一言でよかった。でも、あの銀色の目が氷に戻った瞬間、ひなの中で何かがひびを入れた。
泣き疲れて、壁にもたれた。
行灯の油が少なくなっている。炎が小さくなっていた。ひなはそれを見ながら、ぼんやりとしていた。
その時、格子窓の外で、小さな音がした。
ひなは顔を上げた。
闇の中に、人がいた。
格子に背を預けて、しゃがんでいる。黒装束に赤い腕紐。昨夜の人が、そこにいた。
カゲマルだった。
顔はそっぽを向いていた。ひなの方を見ていない。でも、確かにそこにいた。格子を挟んだ向こう側に。
「[whispers]……なんで、ここに」
声が掠れた。泣いた後の声だった。
カゲマルは顔をそっぽに向けたまま言った。
「[cold]うるさい。寝ろだな」
それだけだった。
去る気配はなかった。
ひなは格子の前に座った。壁に背を預けて、カゲマルと同じ向きで。格子を挟んで、背中合わせみたいな形になった。
沈黙があった。
虫の声がしていた。遠くで川が流れていた。城の夜の音だけがある。その中で二人は、何も言わなかった。
ひなの目からまた涙が出てきた。止めようとしたが、無理だった。声は出さなかった。でも、滲んで、頬を伝って、顎から落ちた。
格子の隙間から、何かが差し入れられた。
手拭いだった。白い布が、折りたたまれて、カゲマルの手から静かに渡ってきた。
何も言わなかった。慰めの言葉もなかった。説明もなかった。ただ、手拭いだけがひなの手に渡った。
ひなはその布を両手で受け取った。冷えた夜の空気の温度を持った布が、手のひらの中にある。
顔を押しつけて、声を殺して泣いた。
カゲマルは何も言わなかった。去らなかった。格子の向こうで、ただそこにいた。
敵かもしれない。正体もわからない。なぜ来たのかも、なぜここを知っていたのかも、何も知らない。
でも、今夜。
この城でひなのそばにいてくれたのは、この人だけだった。
胸の奥の、痛くなった場所に、小さな熱が灯った。涙で霞んだ視界の中で、ひなは格子の向こうの影を見た。
夜が明ける前に、カゲマルは静かに消えた。
足音もなく。気配も残さず。ただ、手拭いだけがひなの手の中に残った。
ひなはそれを握ったまま、壁にもたれて目を閉じた。
軟禁は続いている。サクラはまだ笑っている。義颯の目は氷に戻ったまま。何も変わっていない。
でも、ひなの中の何かは、変わっていた。
泣き疲れた後の、静かな場所に、答えの出ない問いがあった。あの人は、敵なのか。味方なのか。なぜ、助ける。なぜ、来る。
そしてなぜひなは、その問いを怖いと思わないのか。
夜が、少しずつ、白んでいく。