花と刃のあいだで
水瀬ひなは現代の高校生。修学旅行中に突然意識を失い、目を覚ますとそこは戦国時代の日本だった。スマートフォンは使えず、誰も彼女の言葉を理解せず、完全に途方に暮れてしまう。
そんな彼女を兵士たちが見つけ、有名な戦国武将、冷酷無比で「鬼将軍」と呼ばれる源義颯の前に連れて行く。義颯は詳しい説明もなく、ひなを側室として城に留めることを決める。ひなは混乱し恐怖を感じるが、選択の余地はなかった。
城での生活は厳しい。ほかの女性たちは彼女に嫉妬し、ルールも彼女の知るものとはまったく違う。しかし、ひなは少しずつ現代の知識を活かして城の小さな問題を解決し、居場所を見つけ始める。そして少しずつ、義颯の冷たい瞳が彼女にほんの少し長く留まるようになる。
ある夜、ひなは屋根の上に影を見つける。敵対する一族の若き忍者、カゲマルが密かに城に潜入していたのだ。危険な状況から彼女を救ったカゲマルに理由を尋ねると、彼は顔を背けて耳を赤らめ、「黙れ」とつぶやく。しかし彼は何度も城に現れるようになる。
カゲマルは影からひなを静かに見守り、彼女が危険にさらされるたびに現れる。ひなは彼のそばで心臓が早鐘を打つのを感じる一方
花と刃のあいだで - 覆された裁き——老女の証拠と、鬼の謝罪と、夜を割く爆発音
家臣たちの声が、義颯の答えを待たずに広間を満たしていた。
処刑が妥当。処刑が妥当。
ひなは義颯だけを見ていた。さっき、あの銀色の目が揺れた。一瞬だけ。でも確かに揺れた。その一瞬にひなは全てをかけていた。震える足で立ちながら、ただその返事を待っていた。
そのとき。
大広間の奥、奥御殿に続く廊下から、はっきりとした足音が響いてきた。
ゆっくりした歩み。急いでいない。でもその音には、乱れた広間の空気を一瞬で静める何かがあった。
白髪を高くきっちりまとめた老女が、敷居を踏んで入ってきた。
家臣たちが振り返る。ひなも見た。
小柄な体。でも背筋は真っ直ぐで、一歩一歩が広間の床を確かに踏んでいる。はっきりとした黒い目が、ざわめく家臣たちを順番に見渡した。誰もその目から逃げられない。それほどの目だった。
「[serious]お待ちなさい」
声は大きくなかった。でも広間の隅まで届いた。
家臣たちの声が、止まった。
ひなはこの人を知らなかった。城に来てから一度も会ったことがない。でも誰もが黙った。それだけで、この老女がどんな立場の人間かがわかった。
老女は上座の義颯に向けて、静かに頭を下げた。それだけで礼儀は十分と言わんばかりに、すぐ顔を上げて広間の中央に歩み寄ってくる。
サクラの目が、はじめて動揺した。
老女は床に広げられていたサクラの文書に目を落とした。かがんで、布越しに端を持ち上げる。横から差し込む光に、文字の上で墨の光沢が浮かんだ。
「[serious]この文書に使われた墨をご覧ください、殿」
義颯の銀色の目が、老女を見た。
「[serious]奥御殿の管理を長年任されてきた私には、わかります。この光沢と筆の太さは、一ノ方サクラ様の侍女頭・オキクが専用で使っている研ぎ墨のものです。預かりの部屋には、この種の墨は一度も持ち込まれておりません。私が管理しておりますゆえ、断言できます」
ひなは呼吸のしかたを忘れた。
この人は——自分のために、今ここに立っている。
家臣の一人が声を上げた。
「[angry]老婆の見立てなど、証拠にもならん!」
老女は家臣をちらりと見て、それから懐に手を入れた。
取り出したのは、小さな帳面だった。
「[serious]では数字でお答えします」
老女はひなを一度だけ見た。その目に、怒りも憐れみもなかった。ただ、公平だった。
「[serious]預かりの水瀬が石鹸の製法を厨に伝えてから、城内の発熱者数は三分の一に減りました。先月との比較を帳面に記してございます。また、水瀬が兵站の計算に関わるようになって以来、無駄飯の量が月に米二俵分、削減されております。これも帳面に。数字は嘘をつきません」
広間が静まり返った。
義颯が無言だった。長い沈黙の中で、帳面のページをめくる音だけがした。
サクラの顔が、青から白へ変わっていくのが、ひなにも見えた。
義颯は帳面から目を離さずに言った。
「[cold]オキクを連れてこい」
家臣二人が走った。
しばらくして、サクラの侍女頭が連行されてきた。四十がらみの女で、いつもはきびきびと動く人間だった。でも今は足元がおぼつかない。義颯の前に膝をつかされた瞬間、その体が小刻みに震えはじめた。
義颯は何も言わなかった。ただ、文書と帳面と侍女を、順番に見た。
その沈黙が、全部の答えだった。
「[crying]……申し訳ございません……」
侍女の声が割れた。
「[crying]布団への虫の仕込みも、壁への墨書きも、文書の偽造も——全て、サクラ様のご指示でございました……! 私は……私はただ……」
広間が、完全に静まった。
サクラが唇を震わせた。何かを言おうとして、言葉が出なかった。はじめて、反論の言葉を失った顔をしていた。
ひなはその顔を見ながら、なぜか泣きたいような気持ちになった。怒りではなく、ただ、長かった、という感覚だった。
義颯が立ち上がった。
全員の視線が集まる。
「[cold]サクラ」
たった一言。でもその声には、刃の冷たさがあった。
サクラが頭を下げた。
「[cold]この城において、嘘をもって他者を陥れることを、拙者は許さぬ。一ノ方の役を一時停止。奥御殿にて謹慎とする」
サクラは何も言わなかった。唇を結んだまま、ただ頭を下げ続けた。
「[cold]水瀬の軟禁を解け」
その一言が、ひなの足から力を抜いた。
膝が折れた。廊下の板が、ひなの膝を受けた。立っていられなかった。四日間ずっと、立っていた。この場でも立っていた。でも、もう無理だった。
肩に、手が添えられた。
あの白髪の老女が、ひなの横に膝をついていた。背筋は曲げないまま、ただひなの肩だけを、両手で支えていた。
「[gentle]よく耐えましたね」
その言葉が来た瞬間、全部崩れた。
ひなは声を殺して泣いた。声にならなかった。ただ涙だけが、止まらなかった。軟禁の四日間。評定の場。ずっと我慢していたものが、その一言で全部溶けた。老女の手が、ひなの肩を静かに支え続けていた。
老女の名前を、後から侍女に聞いた。タエ——奥御殿の管理を束ねる御年寄、と。
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夜になった。
ひなは四畳半に戻っていた。疲れていた。泥のように疲れていた。座ったまま、何もする気が起きなくて、壁にもたれていた。
秋の虫が鳴いていた。格子窓から入ってくる夜風が、少しだけ冷たい。
廊下に、足音が来た。
ひなは顔を上げた。
扉の前で、足音が止まった。
少しの間があって、扉が開いた。
義颯だった。一人だった。侍女も家臣も連れていない。濃紺の長髪を後ろで束ねたまま、黒の着物で、左頬の刀傷が行灯の光に浮かんでいた。その目は、いつもの石ではなかった。
ひなは起き上がろうとした。義颯が手で制した。
義颯はひなの前に座った。正座で。
長い沈黙があった。虫の声がしていた。川の音が遠くから来ていた。
それから義颯が、頭を下げた。
ゆっくり、深く。
ひなは固まった。
鬼将軍と呼ばれる男が、今、ひなの前に頭を垂れていた。城の中で誰にも頭を下げないと、家臣たちが口々に言うあの人が。
「[serious]……すまなかった」
声は静かだった。でも重かった。
ひなは何も言えなかった。こんな時に何を言えばいいのか、全くわからなかった。
義颯が顔を上げた。
その目が、いつもと違った。銀色の左目の奥に、氷ではない何かがあった。ひなが初めて見る義颯の目だった。
ひなの胸の中で、何かがざわりと動いた。
義颯はゆっくりと手を伸ばした。
指先が、ひなの頬に触れた。
そっと。本当にそっと。傷つけないように、確かめるように。
ひなの胸の奥で、脈が一つ大きく打った。体が動かない。目が離せない。義颯の目がひなをまっすぐ見ていた。
「[gentle]もう少し、ここで——」
ズドォォン!!!
城の北側から、地面が揺れるような轟音が来た。
窓の外が、一瞬明るくなった。炎だ。見張り台の方から、炎が上がっている。
義颯の顔が、瞬時に変わった。
さっきまでの、あの目が消えた。戦士の顔だった。冷たく、鋭く、全てを計算する目。
義颯は立ち上がり、傍に立てかけていた刀を掴んだ。
「[cold]奥御殿へ走れ。一人で動くな」
それだけ言って、部屋を飛び出した。廊下に足音が響いて、遠ざかった。
ひなは一人になった。
頬に、まだ義颯の指の温かさが残っていた。
城の外で、また爆発音が鳴った。今度は東の方から。城全体が揺れた気がした。廊下から兵士たちの怒声が聞こえ始めた。
ひなは立ち上がった。奥御殿へ。義颯がそう言った。走らないと。
廊下に出た。松明が揺れている。遠くで誰かが叫んでいる。走った。
角を曲がった瞬間。
ドン、と正面から体にぶつかった。
暗がりの中に、黒装束があった。
赤い腕紐。
左腕と脇腹から、血が流れていた。廊下の床に、じわりと広がっていた。
カゲマルだった。
ひなの胸の中で、兵士の言葉が蘇った。黒装束に赤い腕紐——トガリ衆の忍の目印。手拭いをくれた夜のこと。干し飯を差し入れてくれた夜のこと。全部が混ざって、ひなの中でぶつかり合った。
カゲマルの赤い右目が、ひなを見た。
「[serious]……俺は、お前を連れて行く命令だった。でも、俺は——」
ズガァァァン!!!
城の東側から、さらに大きな爆発音が来た。廊下の柱が揺れた。天井から細かい埃が降ってきた。
カゲマルが口をつぐんだ。言葉が続きを失った。
ひなはカゲマルの目を見ていた。
あの続きが、聞きたかった。
「[cold]行け。奥御殿の奥まで」
カゲマルの手がひなの肩を掴んで、廊下の奥へ押し出した。血が滲んだ手だった。それでも力はあった。
ひなは走った。走りながら、後ろを振り返った。
カゲマルの姿が、爆発音の続く廊下の暗がりに消えていった。
言葉の続きが、ひなの中に残ったまま、夜が続いていた。