花と刃のあいだで
水瀬ひなは現代の高校生。修学旅行中に突然意識を失い、目を覚ますとそこは戦国時代の日本だった。スマートフォンは使えず、誰も彼女の言葉を理解せず、完全に途方に暮れてしまう。
そんな彼女を兵士たちが見つけ、有名な戦国武将、冷酷無比で「鬼将軍」と呼ばれる源義颯の前に連れて行く。義颯は詳しい説明もなく、ひなを側室として城に留めることを決める。ひなは混乱し恐怖を感じるが、選択の余地はなかった。
城での生活は厳しい。ほかの女性たちは彼女に嫉妬し、ルールも彼女の知るものとはまったく違う。しかし、ひなは少しずつ現代の知識を活かして城の小さな問題を解決し、居場所を見つけ始める。そして少しずつ、義颯の冷たい瞳が彼女にほんの少し長く留まるようになる。
ある夜、ひなは屋根の上に影を見つける。敵対する一族の若き忍者、カゲマルが密かに城に潜入していたのだ。危険な状況から彼女を救ったカゲマルに理由を尋ねると、彼は顔を背けて耳を赤らめ、「黙れ」とつぶやく。しかし彼は何度も城に現れるようになる。
カゲマルは影からひなを静かに見守り、彼女が危険にさらされるたびに現れる。ひなは彼のそばで心臓が早鐘を打つのを感じる一方
花と刃のあいだで - 政務の間の温もり——嫉妬の花と、夜風の花
石鹸の話が城内に広まってから、一週間が過ぎていた。
ひなにとっての一週間は、慣れと不安が交互にやってくる日々だった。厨での仕事は続いていた。洗濯も続いていた。言葉は少しずつ聞き取れるようになっていたが、侍女たちとまともに話したことはない。ゴンベエだけが、すれ違うたびに小さく頷いてくれた。それが今のひなにとっての唯一の「普通」だった。
そんな朝、家臣の一人が奥御殿にやってきた。
「[serious]水瀬ひなとやらに、殿よりお言葉じゃ。政務の間まで参れ」
ひなは、桶を持ったまま固まった。
政務の間。義颯がいる場所だ。大広間とは別の、城主が実務をこなす部屋だと侍女たちの話から聞いていた。なぜ呼ばれるのか、わからない。石鹸のことで何か問題が起きたのか。それとも——預かりの期限に関して、何か決まったのか。
どうしよう、とひなは思った。でも、足は動いた。
逃げない。逃げても何も変わらない。
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政務の間は、大広間の奥、本丸御殿の北側にあった。
廊下を歩くたびに、足音が静かに響く。外は秋の空が高く晴れていて、障子の向こうに薄い光が満ちていた。案内の家臣が立ち止まって、「こちらじゃ」とだけ言って頭を下げた。ひなは一人で、障子の前に立った。
ノックする習慣はこの時代にない、と気づいて、ひなは小さく声をかけた。
「[scared]失礼します……」
障子を引いた。
部屋の中央に、義颯が一人で座っていた。大きな文机の前に胡座をかいて、帳面を広げている。傍らに算木が並んでいた——細い竹のような棒を並べて計算する道具だと、厨での会話から知っていた。濃紺の長髪が後ろで束ねられ、黒の着物が部屋の暗さに溶け込んでいる。左頬の刀傷が、朝の光に浮かんでいた。
義颯がひなを一瞥した。
「[cold]座れ」
短い一言だった。感情がない。ひなは文机の斜め前に、膝をついて座った。
「[cold]米の収量が八百石、兵が二百五十名おる。一月の兵站量を出せるか」
ひなは一瞬、意味を処理した。兵站——兵士に必要な食料の量、ということだ。
米一人一日あたり、この時代の武士は約六合——現代換算で約一キログラム弱。一月は三十日として。
「[serious]二百五十人で一か月なら……一人あたり一日六合として、七十五石ほどです」
義颯の手が、止まった。
「[serious]続けよ」
ひなは指を折った。
「[serious]八百石のうち七十五石を兵站に使うと、余りは七百二十五石。冬に向けた備蓄分を引いて……この辺りの冬が四か月続くとしたら、さらに三百石は確保しておいた方がいいと思います。そうすると動かせる石数は四百石ちょっとです」
沈黙があった。
義颯は算木に手を伸ばした。並べて、また並べ直した。目が細くなる。ひなの答えと照らし合わせるように、視線が帳面の数字を追った。
その目が、ほんの一瞬——揺れた。
驚きとも、関心とも違う何か。氷の奥に、ほんのわずかな熱を感じた気がした。気のせいかもしれない。でもひなには、確かにそう見えた。
胸の奥で、何かが速く脈打った。
義颯はすぐに帳面に目を戻し、次の数字を指差した。「こちらも確かめろ」と言った。その声は、また冷たかった。でも、さっきとは微妙に違った気がした——ひなだけが感じる、かすかな変化だった。
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それから小半刻ほど、二人は黙って作業を続けた。
義颯が帳面の数字を指差す。ひなが答える。義颯が算木で確認する。それだけの繰り返しだった。会話らしい会話はなかった。ただ、静かな時間があった。
秋の日差しが障子越しに差し込んで、部屋の床に細い光の筋を作っていた。どこかで風が吹いて、木の葉が一枚、窓の外を過ぎていくのが見えた。
義颯がふと、帳面から目を離した。
窓の外を見ていた。秋の空が、高く澄んでいる。
「[serious]……父が死んだのは、俺が十二のときだ」
ひなは手を止めた。
前後の文脈がなかった。唐突だった。でも、義颯の声のトーンが、それまでとは違った。命令でも確認でもない、独り言みたいな声だった。
「[serious]それから誰も、数の話のわかる者がいなかった」
義颯はそれだけ言って、また帳面に目を戻した。次の数字を指差す。何事もなかったように。
ひなは答えを出した。声は、少し掠れた。
十二歳で家督を継いだ。それは世界観の知識として聞いていた。でも今、それが——ただの事実じゃなくなった。十五年分の孤独が、あの短い一言に滲んでいた。
誰も数の話のわかる者がいなかった——それは、一人でずっとやってきたということだ。誰にも頼れないまま、冷たい目のまま、一人で城を守ってきたということだ。
ひなは何も言えなかった。言うべき言葉がわからなかった。慰めも、共感も、的外れな気がして。ただ、次の数字をきちんと答えることだけが、今できることだと思った。
政務の間を出たのは、昼前だった。
廊下に出たひなは、しばらく動けなかった。壁に背を預けて、天井を見上げた。
この人を守りたい、という気持ちが、胸の奥にあった。
そう気づいた瞬間、ひなは自分で驚いた。守る? わたしが? どうやって? でも、その感情は確かにそこにあった。義颯が自分に向けてくれた——ほんの一瞬だけの、あの目の変化が、ひなの中で何かを変えていた。
どうしよう、とひなは思った。でも、どうしようもない気持ちだった。
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夕方になる前に、話は奥御殿に届いていた。
「[whispers]殿が預かりの女を政務の間に呼んだって……本当?」
「[whispers]それどころか、一刻近く二人きりで帳面をいじってたって聞いたわ」
廊下の角でひそひそ交わされる声は、ひなが近づいたとたんにぴたりと止まった。侍女たちが、ひなを見て目を逸らした。
奥御殿の一番奥の部屋に、サクラがいた。
一ノ方——この城で最も序列の高い側室——の部屋は、ひなの四畳半の倍以上の広さがある。切れ長の目と整った顔立ちは相変わらず美しかったが、今のサクラの目には普段と違うものがあった。
感情を押し殺した笑顔。ひなが一番怖いと感じるやつだ。
サクラは侍女二人を傍に呼び、声を低くして何かを命じた。ひなには聞こえなかった。侍女たちが頷いて、去っていく。
ひなは嫌な予感がした。でも、確かめる術もなかった。
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その夜、ひなが厨から戻ったのは夕餉の後だった。
四畳半の障子を開けた瞬間、何かが違った。
部屋の中の空気。物の配置。何かが微妙にずれている。
ひなは布団に近づいた。端を持ち上げた。
——虫が、いた。
大量に、いた。
ひなは悲鳴を上げた。自分でも気づかないうちに声が出て、部屋を飛び出した。廊下に出た瞬間、転びそうになった。膝が震えていた。
「[laughing]まあ」
声がした。
廊下の先に、サクラが立っていた。侍女が三人。それ以外の側室たちも、部屋から出てきていた。全員がひなを見ていた。誰かが口元を押さえて笑っていた。
サクラが、ゆっくりとひなの方へ歩いてきた。藤色の着物の裾が床を滑る。澄んだ顔に、冷たい笑みが浮かんでいる。
「[cold]虫が怖いの。どこの生まれかも知れない汚らしい生き物には、虫がよく似合うこと」
侍女の一人が、ひなの悲鳴を口で真似た。ほかの侍女たちが笑った。くくっ、と抑えた笑い声が廊下に広がった。
ひなは唇を噛んだ。
何か言いたかった。言い返したかった。でも、何を言っても通らない。ここでの身分がひなにはわかっていた。預かり——発言権のない、三か月の仮住まい。誰かに訴えても、誰もひなの味方にはならない。義颯に言う? あの人を煩わせるための訴えなんて、できない。
サクラたちがひなを取り囲んでいた。
「[cold]政務の間にお呼びいただいて、さぞかし嬉しかったでしょうね。でもね——数を数えるだけなら、算木がある。あなたが必要な理由なんて、ないのよ」
ひなは答えなかった。答えられなかった。ただ、目が熱くなるのを必死にこらえた。泣かない。泣いたら負けな気がした。泣いたら、この人たちに全部差し出してしまう気がした。
サクラは満足そうに一度だけひなを見て、踵を返した。侍女たちがついていく。側室たちが部屋に戻っていく。廊下が静かになった。
ひなは一人になった。
布団はそのままだった。ひなは奥歯を噛みしめて部屋に戻り、布団を抱えて外に出した。廊下の端に置いて、中身を丁寧にはたいた。虫が何匹か落ちた。胃が縮む感覚があった。でも、手を止めなかった。
怒りと悲しさと無力感が、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。この城に来て一週間。石鹸を作って、義颯に認めてもらって——そう思った途端、これだ。
泣きそうだった。でも、泣かなかった。
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深夜になっても、ひなは眠れなかった。
はたいた布団を敷いて横になったが、目が閉じない。秋の虫の声がどこかから聞こえてくる。部屋の中が寒い。着物の合わせを直したが、それでも冷えた。
ひなはやがて、立ち上がった。
城壁の上に出られる場所を、先週ひとりで探し回ったときに見つけていた。石段を上がって、細い通路を抜けると、外の空気に出られる。番兵の交代の時間を、最近なんとなく覚えていた。この時間帯なら、しばらく誰も来ない。
城壁の上は、風が冷たかった。
ひなは膝を抱えて、石の上に座った。眼下に城下町の灯りが見えた。小さな火が点々と並んで、暗い中に揺れている。遠くにカワセ川の光の筋が、細く見えた。空には星が出ていた。
帰りたい、という気持ちが、波みたいに来た。
お母さん。お父さん。春野。朝ご飯。スマホの画面。コンビニの明かり。バスの中の笑い声。そういうものが全部、一度に押し寄せてきた。
ひなは声を殺して泣いた。
声が出ないように、膝に顔を押しつけた。肩が震えた。泣いても何も変わらないとわかっていても、止められなかった。サクラのこと、義颯の一言、あの虫、全部全部が混ざって、涙になって出てきた。
どれくらい泣いていたか、わからない。
泣き疲れて、ぼんやりとしていた。
その時、頭上を風が吹き抜けた。
——人の気配があった。
ひなはとっさに顔を上げた。振り返った。
誰もいなかった。
城壁の上の通路は暗くて、石と石の間に夜の陰が落ちているだけだった。番兵もいない。風だけが吹いている。
ひなは見間違いかと思った。でも、そのとき——石の上に、何かがあることに気づいた。
さっきまでは、なかった。
ひなは手を伸ばした。指先に、柔らかいものが触れた。
小さな花だった。
野に咲くような、白くて小さな花が一輪。茎が短く、露がついていた。風に運ばれてくる偶然では、ここには置かれない。石の面のくぼみに、誰かが意図して差し込んだとわかる置き方だった。
ひなは花を手のひらに乗せた。
誰かがここにいた。自分が泣いているのを、誰かが見ていた。そして去り際に——これを置いていった。
ひなの胸の奥に、ほんの少しだけ、温かいものが灯った。
名前も顔もわからない。でも、誰かがいた。この城の夜に、ひなを見ていた誰かが。
ひなは花を握ったまま、しばらくそこに座っていた。城下の灯りが揺れている。秋の風が冷たい。でも、さっきよりも少しだけ、寒くなかった。
部屋に戻ったひなは、花を布団の傍らに置いた。行灯の薄い光の中で、白い花弁が小さく光っていた。
目を閉じた。義颯の一言が浮かんだ——父が死んだのは、俺が十二のときだ。次にサクラの笑顔が浮かんだ。胸が重くなった。それから、手のひらの花が浮かんだ。
三つの感情が、ぐるぐると混ざり合っていた。
眠れそうにない夜だと思いながら、ひなは静かに目を閉じたままでいた。