石の世界のもう一人のキミへ
石の眠り三千七百年。科学によって世界はリセットされた。
千空は人類を蘇らせた。しかし、その戦いのどこかで彼は気づいた。ずっと自分のそばにいた、ちゃんと向き合ったことのない誰かがいることに。
彼女の名はヨミ。
文明が崩壊する前、ヨミは千空と同じ研究所で働いていた。彼より少し年上で、彼のノートよりもさらに乱雑な実験ノートを持っていた。二人は何年も並んで研究を続けてきた。しかし千空の頭の中は科学の夢とある少女でいっぱいで、ヨミのことはただの「研究パートナー」としか思っていなかった。
ヨミもまた石化した。しかし彼女が目を覚ましたのは別の時だった。目を開けると、すでに科学王国は動き出し、千空は周囲の人々に崇拝される伝説となっていた。
遠くからその輝きを見つめ、ヨミはつぶやいた。「嫉妬なんてしない。ちっとも。全然。」もちろん、彼女は絶対に嫉妬していた。
しかしヨミには千空にないものがあった。それは病理学の知識だ。彼女は人を見れば体の中の異変を大まかに見抜くことができた。石化病や栄養失調で倒れる人々を見過ごせず、彼女は村から村へと一人で助け歩いていた。
その噂が千空の耳に届くと、彼はす
石の世界のもう一人のキミへ - 100億パーセント上の空
無線機が、またノイズを吐いた。
ザザ、という音と一緒に、遠い村の報告が飛び込んでくる。千空はそれを聞きながら、蒸留器の目盛りを確認していた。正確には、確認しようとしていた。
「……なんだって?」
思わず手が止まる。
「ビョウリ士を名乗る女医が西の集落を巡ってる、って報告ですよ。患者の体を診て、薬を渡して、また次の村へ移動するらしくて」
無線の向こうで、タカオ前哨村の連絡係がのんびり話し続ける。
「それと、その人、患者の記録ノートへの書き込みがかなり雑らしくて。中身は詳しいのに、字とか余白の使い方が汚いって、村の人が笑ってました」
ピタッ。
千空の思考が、一瞬止まった。
実験ノートを汚す。記録の内容はすごいのに、見た目が壊滅的。それどころか、実験器具の置き方も雑で、後から片付けるのが大変で——
(……いや待て。これは情報の照合だ。科学的な判断だ)
千空は自分にそう言い聞かせた。
同時に、蒸留器の加熱ダイヤルを二十度、間違えた方向に回した。
ブシュァッ!!
白い液体が天井に向かってまっすぐ噴き上がった。実験室の上半分が、白い霧に包まれる。ナイタール液——石化した人間を復活させるための溶液の原液——がしたたって、千空の緑がかった銀髪に落ちてくる。
「うわ」
壁際で鉱物サンプルを整理していたクロムが、のっそりと振り返った。背が高くて、野性的な赤茶色の髪をした少年だ。その目が、天井を見て、千空を見て、また天井を見る。
「……お前、最近ぼーっとしてんな」
「[angry]100億パーセント集中してるっつの!」
「じゃあその液体は何」
「[serious]……実験の副産物だ」
クロムが「ああそうですか」という顔で肩をすくめる。千空は濡れた前髪をはらいながら蒸留器を確認し、ため息をついた。赤いメッシュが額に貼りついている。
そのとき、ドアが開いた。
「千空ー、復活泉の見回り終わったよー……って何この惨事」
入ってきたのはコハクだった。明るい金髪を結い上げた、体格のいい少女。目がぱちりと大きくて、表情がくるくる変わるタイプだ。今は口をぽかんと開けて、天井を見上げている。
少し遅れて、ルリも入ってくる。コハクの姉で、落ち着いた雰囲気の少女。黒髪をきれいに整えて、いつも静かに微笑んでいる。彼女は状況を一目で把握して、黙って棚からタオルを取り出した。
「ありがとよ」
「いいえ」
短いやりとり。ルリが千空にタオルを渡す。コハクはというと、すでに床に落ちてきた液体をふきんで拭き始めながら、ニヤニヤしていた。
「ねえ千空。さっきの無線、聞こえてたけど」
「[cold]なんだ」
「[laughing]その噂の女医ってさ、ヨミのことじゃない?」
千空は手を止めなかった。タオルで髪を拭きながら、まっすぐコハクを見る。
「[serious]ビョウリ士の技術水準の調査が必要なだけだ。感情論を混ぜるな」
「うん、それがさ」
コハクが床を拭く手を止めて、こちらを見た。
「[sarcastic]感情論って言葉、今一番感情的に見えるの千空くんだよ」
静かな声だった。でも的確すぎて、千空はしばらく何も言えなかった。
「…………」
「反論する?」
「[serious]……反論の余地がねえ」
コハクが吹き出した。ルリが小さく微笑む。千空はそっぽを向いて、蒸留器の設定を直し始めた。
外から蒸気機関の試運転音が聞こえてくる。ドスン、ドスン、という重い振動。科学王国イシノミヤ——千空が作り上げた、この世界でたぶん唯一の「文明」——は今日も動いていた。
「蒸気機関、また改良したんでしょ?」
「[serious]出力を1.3倍にした。燃料効率も上がってる」
「ナイタール液の在庫はどう?」
「フジヤマのコウモリ大洞から先月採ってきた硝石で、あと三十人分くらいは作れる」
コハクがうなずく。千空の話を、ちゃんと理解して聞いている。
ナイタール液というのは、石化した人間を復活させるための溶液だ。硝酸とアルコールを混ぜて作る。一人を復活させるのに約三リットルいる。材料の硝酸は、フジヤマの洞窟に群れるコウモリの糞から作った硝石が必要で、月に一回の採掘遠征でやっと集まる量だ。
三千七百年前、人類はみんな石になった。まだ石のままで、世界のどこかに転がっている人が山ほどいる。それを一人ずつ復活させていく。それが科学王国の仕事だった。
「無線の通信範囲、今どのくらいまで届いてる?」
「半径五十キロ。タカオ前哨村には余裕で届く。もうちょっと出力上げれば、エンシュウのあたりまで届くかもな」
「遠いね」
「[serious]そこから先は足で行くしかない」
言いながら、また無線機に目がいってしまう。
(足で行くしかない、か)
千空は気づいていた。自分がいまどこを見ているか。でも、なぜそこを見ているかは、まだわかっていなかった。
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夕方になると、評議会が開かれる。
イシノミヤの共同食堂「フランソワの台所」——元一流シェフのフランソワが仕切る、王国唯一の食事施設——の長テーブルに、主要メンバーが集まった。ジビエの煮込み料理のにおいが漂っている。初夏の風がゆるく入ってくる。
千空が立った。白い実験用コートの胸ポケットに、丸めた紙束を入れている。
「[serious]遠方集落への技術支援と、石化後遺症の体系的調査のため、出張チームの結成を提案する」
全員が顔を上げた。千空は続ける。
「石化から復活した人間の約十五パーセントに、イシヤミの症状が出てる。関節が部分的に固まったり、皮膚がひび割れたり。科学王国の周辺はまだいい。でも遠い集落には医療も技術もなくて、放置されてる患者が大勢いる」
クロムがうなずく。
「まあ、確かに必要だな」
「出張チームが直接村を巡って、蒸気技術の普及と医療支援を同時にやる。移動しながら情報も集める。効率は100億パーセント上がる」
メンバーが資料を受け取る。千空がまとめた提案書だ。びっしり数字と計画が書いてある。
クロムがページをめくっていって——途中で止まった。
「……千空」
「なんだ」
「[sarcastic]最後のページにさらっと書いてあるんだけど。『ビョウリ士・ヨミとの合流および診療記録の収集』って」
一瞬、食堂が静かになった。
「[serious]それは科学的データ収集の一環だ!ヨミの病理分析はイシヤミ研究に不可欠だ!!」
千空の声がちょっと大きかった。頬が、なんかほんのり赤い。
コハクが口元をぎゅっと押さえた。笑いをこらえている。ルリが静かに資料を閉じた。クロムが天井を見た。
全員が無言で拍手をした。
「[serious]なんで拍手なんだよ!」
「[laughing]承認!」
「賛成です」
「俺も異論ない」
三人の声が重なった。千空は口をへの字にして、それ以上何も言わなかった。
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夜になった。
食堂のにぎやかさがおさまって、イシノミヤは静かになる。遠くで焚き火が揺れているのが窓から見えた。見張りの人間だろう。
千空は一人、実験室に戻って出発の準備をしていた。
荷物をまとめながら、棚の整理をする。実験器具、薬品の瓶、記録ノート。ひとつひとつ確認して、必要なものを分ける。
棚の奥に手を入れたとき、指が何かに触れた。
引っ張り出してみると、古いノートだった。
表紙が少し黄ばんでいる。でもそれは三千七百年分の劣化じゃない。石化する前——千空たちが研究をしていたあのラボで、すでにこうだった気がする。
千空はそのノートを、しばらくじっと見た。
開く。
几帳面な文字が並んでいた。でも「几帳面」というのは、内容の話だ。レイアウトはぐちゃぐちゃで、余白の使い方がめちゃくちゃで、右下の隅にちっちゃな落書きが入っていたりする。記録の精度は高いのに、ページを見た瞬間ごちゃごちゃに見える。
昔から、こういう書き方だった。
千空は一ページ、また一ページとめくっていく。病理分析の記録が続く。症状の観察、組織の状態、仮説と結論。読んでいくと、ちゃんとわかる。この人間がどれだけ真剣に医学に向き合っていたか。
最後のページで、手が止まった。
ページの途中で、文章が終わっていた。
正確には「終わっていた」じゃなくて、「止まっていた」。文の途中で、インクが途絶えている。
そしてページの一番下、余白のあたりに、こう書かれていた。
「千空に——」
その続きはない。
千空はしばらく、その四文字を見ていた。
(石化する直前に、書こうとしたのか)
ペンを持ったまま石になった。そういうことだ。
胸の奥で、何かがぎゅっとなった。
千空は自分の胸を確認した。べつに走っていない。重いものを持ったわけでもない。なのに心拍数が上がっている。科学的に説明できない。
(なぜだ)
本気でわからなかった。
ノートをそっと閉じる。表紙を手のひらで一回だけ、軽く叩く。それから棚に戻そうとして、少し迷って、荷物袋の中に入れた。
窓の外で、焚き火がゆれた。
イシノミヤは今夜も静かだ。蒸気機関は止まっていて、無線機は低くノイズを出している。三千七百年かけて自然に戻ったこの世界で、千空が作り直した小さな「文明」が、呼吸している。
千空は窓枠に肘をついて、外を眺めた。
ヨミはなぜ、科学王国に来なかったのだろう。
ノートの続きには、何が書かれるはずだったのだろう。
答えは出ない。でも千空は明日、出発する。その理由が「科学的データ収集」だというのは、100億パーセント正しいことにしておきたかった。
夜風が実験室に入ってきた。蒸留器が、かすかに揺れた。