石の世界のもう一人のキミへ
石の眠り三千七百年。科学によって世界はリセットされた。
千空は人類を蘇らせた。しかし、その戦いのどこかで彼は気づいた。ずっと自分のそばにいた、ちゃんと向き合ったことのない誰かがいることに。
彼女の名はヨミ。
文明が崩壊する前、ヨミは千空と同じ研究所で働いていた。彼より少し年上で、彼のノートよりもさらに乱雑な実験ノートを持っていた。二人は何年も並んで研究を続けてきた。しかし千空の頭の中は科学の夢とある少女でいっぱいで、ヨミのことはただの「研究パートナー」としか思っていなかった。
ヨミもまた石化した。しかし彼女が目を覚ましたのは別の時だった。目を開けると、すでに科学王国は動き出し、千空は周囲の人々に崇拝される伝説となっていた。
遠くからその輝きを見つめ、ヨミはつぶやいた。「嫉妬なんてしない。ちっとも。全然。」もちろん、彼女は絶対に嫉妬していた。
しかしヨミには千空にないものがあった。それは病理学の知識だ。彼女は人を見れば体の中の異変を大まかに見抜くことができた。石化病や栄養失調で倒れる人々を見過ごせず、彼女は村から村へと一人で助け歩いていた。
その噂が千空の耳に届くと、彼はす
石の世界のもう一人のキミへ - 余韻と新しい旅立ち——仮に、じゃなくて
ミズホ村の朝は、霧がかかっていた。
山間の空気はひんやりしていて、千空が荷物を縛り直しながら白い息を吐くと、それがふわりと広がってすぐ消えた。昨夜の焚き火の跡がまだ微かに温かい。あそこでノートを読んだ。丘の上で二人並んで、子供たちの笑い声を聞いた。
それが昨日のことだというのに、ずいぶん遠い気がした。
「準備できた?」
ヨミが村の木戸の前に立っていた。深い紫のロングヘアをゆるく束ねて、いつもの白い外套を羽織っている。症例ノートは肩のバッグにしまい込んだらしく、手ぶらで千空を見ていた。
「[serious]今すぐ行ける」
「じゃあ行くわね」
ヨミが歩き出した。千空も隣に並ぶ。
「……仮に道が同じだから、とかそういう話じゃないんだろうな、今は」
ヨミが一拍止まった。
「[cold]……なんでわざわざ確認するの」
「[serious]確認じゃない。記録だ」
実験ノートを取り出しながら、千空はさらっと言った。ヨミが眉間に皺を寄せる前に、千空はもうペンを走らせていた。
——ヨミ:仮に削除。断言形式に変更。観察日:本日朝。
ヨミがそのメモをちらりと横から見た。
「[sarcastic]……何してんの」
「[serious]観察記録」
「私が言葉を一個変えただけで即メモするの、どういう神経してんですか」
怒る一歩手前だった。でも次の瞬間、ヨミは口元を押さえた。笑いが先に来てしまったせいだ。
「……もう、本当に」
「[serious]何だ」
「なんでもない」
霧の中に、二人の足音が重なって響いた。
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キソ山道に入ったのは、村から一時間も歩かないうちだった。
旧時代の地図でいえば木曽山脈へ向かうルートにあたる。道は細くて、両側から木の枝が張り出している。足元の石が雨のたびに洗われて、つるつるに磨かれていた。渓谷の音がどこかから聞こえてくる。
千空とヨミは少し先を歩いていた。二人で実験ノートと症例ノートを開いて、ノウビ草原のイシヤミ患者に関する過去データを突き合わせている。会話は短くて的確で、余計なことは一言もない。
その二人の後ろ、少し離れたところで——
「[whispers]ね、ちゃんと聞いてる? 僕は第四話から——じゃなくて、最初からいるっすよ。序列的に考えたら明らかに僕の方が上じゃないっすか」
「[whispers]あたしは薬草なら先生の一番弟子なの。役割が違うんだから序列とか関係ないし」
「関係あるっすよ! 兄貴の隣を歩く権利、先着順っすよね普通!」
「先着順だったらあたしだって昨日から数えたら——」
「昨日からって短すぎっす! 僕は森の中で一緒に実験して——」
「実験って言っても右手が石になったんでしょ?」
カゼルが固まった。
「[sarcastic]……それは関係ないっすよ」
「全然関係あるじゃん!」
白銀色の短髪と紅色のショートボブが、道の真ん中でにらみ合っている。カゼルの金色の瞳がキラキラしているのに主張が負けてる、という奇妙な状況だった。
カゼルが思い出したように前を向いた。千空とヨミに向かって声をかけようとする。
「ね、兄貴! 裁定してほしいんすけど——」
二人が振り返った。
が——千空とヨミは並んで歩きながら、ノートを開いたまま完全に話し込んでいた。千空が何かの数値を指さして、ヨミが短く頷く。ヨミが別のページを開いて、千空が覗き込む。二人とも、カゼルの声が聞こえていないわけじゃないだろうに、そちらを向く気配が一切なかった。
カゼルとレイナが顔を見合わせた。
「[whispers]……あれ、なんか邪魔したら怖くないっすか」
「[whispers]研究パートナーってやつじゃないの……あたしにはよくわかんないけど」
「[whispers]なんか、こう、踏み込んじゃいけない感じっすよね」
二人が同時に一歩後ろへ下がった。
そのまま揃って後方を歩き始める。序列争いはいつの間にか終わっていた。前を歩く二人を眺めながら、カゼルとレイナはなんとなく横に並んだ。
「[whispers]……まあ、ここでいいか」
「[whispers]うん。ここで」
四人のポジションが、特に誰も宣言しないまま、静かに決まった。
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その夜は、清流が近くに聞こえる平地で野営した。
焚き火を作ったのは千空だった。薪を組んで、火打ち石で火をつけて、燃え方を確かめる。特に何も言わなかったし、ヨミも何も言わなかった。でもヨミは、その光景をちらりと見て、少し間を置いてから採集袋を開いた。
あの最初の夜、川沿いで千空を見つけた時は、焚き火はヨミが一人で作っていた。今は千空が作っている。小さな変化が、静かにそこにあった。
夕食が終わると、ヨミがカゼルとレイナを焚き火の近くに呼んだ。
「[serious]山と平地で薬草は全然違う。ノウビ草原に入る前に、キソ山道で採れるものを覚えておいてほしいの」
「[excited]マジすっか! 授業っすか!!」
「あなたは傷の手当くらいしか使わないけど、一応知っといて損はないわ」
「[excited]わかったっす!!」
レイナが採集袋から数種類の薬草を並べ始めた。真剣な顔で、葉の形と色を見比べている。ヨミが隣で一つずつ名前と効能を説明し始めた。
千空は焚き火の反対側に座って、そちらを眺めていた。
ヨミが説明する時の声は、普段より少しだけ穏やかだ。レイナが間違えると静かに訂正して、正しく答えると短く頷く。カゼルが的外れな質問をして、ヨミがため息をつきつつも答える。炎の光が三人の顔を照らしている。
千空が不意に口を開いた。
「[serious]石化前に伝えようとしてたこと——もう一個あったりするか」
ヨミの手が止まった。
カゼルとレイナは薬草に集中していて気づいていない。
ヨミが千空を見た。
「[cold]……なんで、あんたにわかるの」
「[serious]最後のページの書き出しの前に、消えた文字がある気がした。鉛筆の跡が」
沈黙があった。
川の音が、ずっと聞こえている。
ヨミが薬草から視線を離して、炎の方を見た。長い間、何も言わなかった。それから、ごく小さな声で——
「[whispers]……まだ、一個。あるかも」
それだけだった。
千空は何も聞き返さなかった。急かさなかった。
「[serious]そうか」
短く返して、焚き火を見続けた。
ヨミがまたレイナの方を向いて、薬草の説明を再開した。カゼルが「ちょっと待って今の会話、なんか大事な話してませんでしたか!?」と言い出したが、二人ともすでに無視していた。
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翌朝、ヨミがカゼルの右手を診た。
「広げて」
カゼルが右手の指先を差し出す。石化したままの指先、その表面に、昨日より細かい亀裂が入っていた。ヨミが顔を近づけて確かめる。
「[serious]……亀裂が増えてる。石化物質の流入が止まって半日以上経ったから、自然回復が始まったのね」
「[surprised]じゃあ、治るっすか!?」
「軟膏を塗れば早くなる。ここを柔らかくする成分が必要なんだけど——レイナ、昨日採ったものの中にある?」
レイナが採集袋を引っ張り出して、顔を突っ込んだ。真剣な顔で中をあさっている。
千空が横から口を開いた。
「[serious]石化残留に効くとしたら、カルシウム代謝に干渉する成分だ。あとは表皮の水分保持を助けるやつ。具体的には——」
千空がいくつかの名前を挙げた。レイナがそれを聞きながら、袋から一つ、また一つと薬草を取り出す。葉の形を確かめて、においを嗅いで、選り分けていく。迷いが少なかった。
「これと、これと——あ、これも」
「[surprised]……全部合ってる」
ヨミが少し意外そうな顔をした。レイナが「えへへ」と笑う。
ヨミが素早く薬草を処理して、軟膏にした。カゼルの指先にそっと塗る。
しばらく、誰も喋らなかった。
じわり、と——石化した指先の色が変わり始めた。白みがかっていた部分が、少しずつ、普通の肌の色に戻っていく。
「[excited]あっ! 動いた!! 指が動いたっすよ!!」
カゼルが右手を空中で振り回した。
「[cold]安静にしなさい」
「でも動くんすよ! 見て見て!!」
「[cold]だからって振り回さない!!」
レイナがうれしそうに千空を見上げた。
「先生! 役に立てました!」
「[serious]悪くないな」
レイナが満面の笑みになった。それから何かを思いついたように、ヨミをちらりと見た。
「[whispers]……あの、先生のOKより、あたし的には先生のOKの方が嬉しいんですけど」
「[serious]俺を先生って呼ぶな。俺はお前の先生じゃない」
「じゃ、じゃあ兄貴でいいっすか!」
「[serious]お前にはもう許可してない」
「え、撤回!?」
レイナが笑い転げた。ヨミが小さく息をついたが、口元がわずかに緩んでいた。
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昼を過ぎた頃、キソ山道が高台に差し掛かった。
木々がひらけて、遠くまで見渡せる場所だった。山の向こうに広大な草原が広がっている。地平線近くまで続く緑と黄色の帯——あれがノウビ草原だ。野生の馬の群れがいると聞いていたが、この距離ではまだ見えない。
そこで千空のポケットが震えた。
腰のベルトに括りつけた携帯無線機——科学王国が復活させた真空管ラジオを小型化したもので、半径五十キロ圏内の通信をモールス信号で受信できる——が、かすかな音を立て始めた。
千空が立ち止まって、受信を確かめた。コードを解読しながら、顔が少しずつ変わっていく。
「[serious]……科学王国から。緊急通信だ」
三人が振り返った。
「[serious]ノウビ草原の周辺集落で、イシヤミとは症状が違う石化後遺症クラスターが発生してる。患者が三十名を超えた。科学王国だけでは対処できないから、俺たちへの支援要請だ」
誰も喋らなかった。
草原の方から風が吹いてくる。遠く、草が揺れている音がする。
千空が顎に手を当てた。
(ミズホ村は水源汚染だった。局所的な問題だ。でも草原スケールで三十名を超えてるなら——石化物質が水以外の経路でも広がってる可能性がある)
「[serious]……ヨミ。症状の詳細は来てるか確認する。イシヤミと何が違うのか、お前に診てもらいたいデータがある」
ヨミが頷いた。
「[serious]患者の皮膚症状と関節の状態、それから発症のタイムラインが一番重要ね。送れる?」
「[serious]追加送信を要請する」
カゼルが草原の方を見た。
「[excited]草原なら馬がいるっすよね! 移動速度、だいぶ上がるっすよ!」
「[serious]それは正しい判断だ」
「マジすっか! 珍しく即褒めてもらえた!!」
「[serious]珍しくは余計だ」
レイナが草原を見つめながら、採集袋の紐を握りしめていた。
「……草原の薬草って、山とは全然違うから。あたし、ちゃんと役に立てるか——」
ヨミが隣に立った。
「[serious]前の村で何ができたか、覚えてる?」
レイナが顔を上げた。
「……うん」
「じゃあ、それと同じことをすればいい」
それだけだった。でもレイナは、ゆっくりと表情を整えて頷いた。
千空が無線機をしまい込んだ。
「[serious]行くぞ。ノウビ草原だ」
四人が歩き出す。高台の先に続く道は、草原へと下りていく。
石化物質がなぜ草原規模で広がっているのか。水源以外に、どんな経路があるのか。それはまだ、誰にもわからなかった。
でも四人は、その答えを探しに行く。仮に、なんて言葉を使わずに。