石の世界のもう一人のキミへ
石の眠り三千七百年。科学によって世界はリセットされた。
千空は人類を蘇らせた。しかし、その戦いのどこかで彼は気づいた。ずっと自分のそばにいた、ちゃんと向き合ったことのない誰かがいることに。
彼女の名はヨミ。
文明が崩壊する前、ヨミは千空と同じ研究所で働いていた。彼より少し年上で、彼のノートよりもさらに乱雑な実験ノートを持っていた。二人は何年も並んで研究を続けてきた。しかし千空の頭の中は科学の夢とある少女でいっぱいで、ヨミのことはただの「研究パートナー」としか思っていなかった。
ヨミもまた石化した。しかし彼女が目を覚ましたのは別の時だった。目を開けると、すでに科学王国は動き出し、千空は周囲の人々に崇拝される伝説となっていた。
遠くからその輝きを見つめ、ヨミはつぶやいた。「嫉妬なんてしない。ちっとも。全然。」もちろん、彼女は絶対に嫉妬していた。
しかしヨミには千空にないものがあった。それは病理学の知識だ。彼女は人を見れば体の中の異変を大まかに見抜くことができた。石化病や栄養失調で倒れる人々を見過ごせず、彼女は村から村へと一人で助け歩いていた。
その噂が千空の耳に届くと、彼はす
石の世界のもう一人のキミへ - 森の中で泣いてんじゃねえ——3700年分の言いかけ
夜明け前の空は、まだ真っ暗だった。
村の端、ミズホ村の井戸の近くで、ヨミは荷物の紐をきつく締めた。音を立てないように。誰かが起きないように。
書き置きは残さなかった。
残したら、追いかけてくる。いや、千空が追いかけてくるとしたら、それはビョウリ士を失いたくないからだ。患者が増えているから。戦力として必要だから。
それだけだ。
(だったら、意味ない)
ヨミは荷物を背負った。深い紫のロングヘアが夜風に揺れる。琥珀色の瞳が、千空たちが眠っている方向を、一度だけ見た。
カゼルがあの子が来てから、カゼルが当然のように千空の隣に収まって、千空が心から嬉しそうに笑って、ヨミは——
(仮に、仮にだからって、ついてきた自分がバカみたいじゃないの)
村の木戸を抜けて、森へ入った。
足元の草が露でぬれていた。木々が暗くて、前があまり見えない。それでも歩いた。どこへ行くかなんて決めていない。ただ、ここにいたくなかった。
しばらく歩くと、足が止まった。
大きな木の根元に、ヨミはしゃがみ込んだ。誰もいない。誰にも聞こえない。一人だという確信があるから——初めて、声を上げて泣けた。
しゃくりあげるような泣き方だった。声を殺そうとしても、止まらない。三七〇〇年前に伝えられなかった言葉が。ずっと隣にいたのに気づいてもらえなかった時間が。全部まとめて、今になって溢れ出てきた。
「……バカみたいでしょ」
誰に言うでもなく、ヨミは呟いた。
その声が、夜の森に消えた。
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千空が目を開けたのは、まだ薄暗い時間だった。
実験ノートをめくる手が止まる。昨夜の続きを書こうと思ったのに、なぜか頭にヨミの顔が浮かんだ。あの、音もなく変わった表情が。
(……ん?)
千空はヨミが寝ていたはずの場所を見た。荷物がない。
まあ、外に出ただけだろう——と思って、でも、なぜか立ち上がっていた。村の外へ出る。朝露が靴を濡らす。木戸の外に足跡がある。森の方へ続いている。
「[serious]……面倒くせぇな」
そう言いながら、走り出した。
メドゥーサの欠片のサンプルは、小屋の床にそのまま置いてきた。分析ノートも広げたままだ。
「[surprised]兄貴ぃ! サンプルが——! データがぁ——!」
後ろでカゼルの叫ぶ声がした。千空は一切振り返らなかった。
カゼルが目を丸くしたのは、村人の誰かが目撃した。「あの人が研究より先に人を追いかけるの、初めて見た」と村人がヒソヒソする声も。
千空の耳には届いていなかった。ただ走っていた。
足跡を辿って森に入る。早朝の鳥の声と、濡れた葉の匂い。千空には植物の芳香成分の化学式が頭の隅にあるが、今はそれどころじゃなかった。
足跡が大きな木の根元で止まっている。
「[serious]ヨミ」
振り返ったヨミの目が、真っ赤だった。
泣いていた。袖で拭いていたが、誤魔化しきれていない。琥珀色の瞳が揺れている。
千空の顔が、初めて見るような表情になった。怒りでも困惑でもなく、ただ——取り乱した顔だった。
「[angry]なんで黙って出てくんだよ」
怒鳴った。でも次の瞬間には、
「[serious]……お前がいなきゃ、村の患者、誰が診るんだ」
と続けてしまった。
ヨミが小さく笑った。笑い方が、泣いていた直後のやつだった。
「[cold]患者のため。そう、やっぱりそれだけ」
声が震えていた。
「私はビョウリ士としてだけ必要で……ヨミ個人としては、あんたにとって三七〇〇年ずっと空気だった」
言い切った。千空はすぐに言い返せなかった。「科学的根拠が」とも「データの観点から」とも言えない。ヨミの声が、いつもと全然違う。傷ついた声だ。はっきり、そう分かった。
千空が口を開いた。
「[serious]違う。俺は——」
その瞬間だった。
「[scared]兄貴いいいいいい!! 村がヤバいっす!! 患者三人同時にガクガクしてます!!」
森の向こうから、カゼルが全速力で駆けてきた。白銀色の短髪が木の枝に引っかかりながら、転びそうになりながら。金色の瞳が本気でパニックを起こしている。
千空とヨミが、同時に顔を上げた。
次の瞬間には、二人とも村に向かって走り出していた。言いかけた言葉が、朝の森の空気の中に残った。
カゼルが走りながら叫んだ。
「[surprised]あ、でも兄貴、何か大事な話してました?」
「「後にしろ」」
二人同時だった。声が重なった。カゼルがひっ、と縮んだ。
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村に戻ると、修羅場だった。
三軒の家から呻き声が聞こえている。若い男が一人、床でがくがく震えている。隣の家では女が二人、熱でうなっていた。村人が右往左往している。
ヨミが走って膝をついた。患者の唇を見る。皮膚を確かめる。
「[serious]……感染症じゃない」
冷静だった。さっきまで泣いていたのと同じ人間とは思えない声だった。
「化学的な中毒症状。口唇の色と皮膚の質感、それにこの痙攣のパターン——炎症じゃなくて、毒素の蓄積が原因ですわ」
千空がその情報を受けて、頭の中で地図を広げた。ミズホ村の水源の位置。森の奥でカゼルがメドゥーサの欠片を触った採取場所。川の流れる方向。
「[serious]……川だ」
「え?」
「[serious]上流に欠片がある。昨日の雨で溶け出して川に混入してる。石化物質の微粒子が水に溶けた状態で体内に入ると、この症状が出る」
ヨミが顔を上げた。千空と目が合った。
言葉はなかった。でも二人は同時に動いた。
ヨミが患者の冷却と水分補給の指示を村人に出す。千空が荷物から使えるものを引っ張り出す。今すぐできる処置。毒素を薄める、体を冷やす、痙攣を抑える。
「[serious]カゼル、村人全員に今すぐ川の水を使うなと伝えろ。飲料は雨水か井戸水だけにしろ。分かったか」
「[excited]マジすっか! わかったっす!」
カゼルが走り出した。右手の指先は石化したままだ。でもカゼルは左手を振りながら、声の限りに叫んで回った。
千空とヨミは一言も余計なことを言わずに動いた。
ヨミが「右の患者、酸素が薄い」と言えば、千空が体位を変える。千空が「この患者、水分が足りてない」と言えば、ヨミが量を計算する。怒鳴り合いも掛け合いもなく、ただ同じ方向を向いて、黙って動く。
村がパニックから静かさを取り戻し始めたのは、それから二時間後だった。
三人の患者が、落ち着いた。熱は下がり切っていないが、痙攣は止まった。呼吸が安定している。
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夕方になって、千空が戻ってきた。
川の上流まで行って、土嚢でメドゥーサの欠片の周辺を囲んできた。川への流入を遮断する応急処置だ。カゼルが「伝言係」として、千空の指示を一言一句復唱しながら村人に伝え続けた。
「[sad]俺、伝言係っすか……」
しょんぼりしたのは、一秒だった。
「[excited]でも兄貴の指示を一番近くで聞けるってことっすよね!? マジすっか!!」
立ち直りが早すぎて、千空が「……お前は本当に」と呟いた。
ヨミが横でそれを聞いていた。
「[cold]その発想力は、認めるわね」
小さく、でも確かにそう言った。カゼルへの、初めての評価の言葉だった。カゼルの金色の瞳がぱっと輝いた。
「[excited]ヨミさんに褒められた!! マジすっか!!」
「褒めてない」
「褒めてましたよね!? ね!?」
「……寝なさい」
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深夜になった。
焚き火が小さく燃えている。村の人たちはもう寝ていた。カゼルも途中で力尽きて倒れるように眠った。明日の采配をどうするか、村長と相談した千空が戻ってきたとき、ヨミはまだ起きていた。
焚き火の前に座って、ノートを膝に抱えている。
千空は黙って隣に腰を下ろした。遠慮がちに、でも確かに隣に。
炎が揺れる。木が爆ぜる音がする。
しばらく、誰も喋らなかった。
千空が口を開いた。
「[serious]……森で言いかけてたこと」
ヨミが動きを止めた。
「[serious]聞かせてくれないか」
科学的な根拠も、理屈も、一切なしで言った。千空らしくなかった。でも、それが千空の本音だと、今夜の動きを全部見ていたヨミには分かった。
長い沈黙があった。
ヨミは答えなかった。ノートの表紙を、ぎゅっと指で押さえている。
その表紙に——「千空へ——」という書き出しが、かすかに見えた。
千空の目が、そこに止まった。
どこかで見た書き方だ。科学王国のラボに置いてきた、書きかけのノートと同じ——
「[surprised]……そのノート」
言いかけたところで、ヨミがノートを胸に引き寄せた。隠すように。
でも、背中は向けなかった。
焚き火を、二人で正面から見ていた。
炎が揺れる。ヨミの横顔が、その光の中にある。目尻の小さなほくろ。きつく結んだ口元。それから——ほんの少しだけ、震えている指先。
千空には、まだ自分の気持ちに名前がつけられなかった。でも、このまま何も言わないのは違うと、初めて思った。
ヨミのノートが、まだ「千空へ——」の先に続いていることを、千空はまだ知らない。