石の世界のもう一人のキミへ
石の眠り三千七百年。科学によって世界はリセットされた。
千空は人類を蘇らせた。しかし、その戦いのどこかで彼は気づいた。ずっと自分のそばにいた、ちゃんと向き合ったことのない誰かがいることに。
彼女の名はヨミ。
文明が崩壊する前、ヨミは千空と同じ研究所で働いていた。彼より少し年上で、彼のノートよりもさらに乱雑な実験ノートを持っていた。二人は何年も並んで研究を続けてきた。しかし千空の頭の中は科学の夢とある少女でいっぱいで、ヨミのことはただの「研究パートナー」としか思っていなかった。
ヨミもまた石化した。しかし彼女が目を覚ましたのは別の時だった。目を開けると、すでに科学王国は動き出し、千空は周囲の人々に崇拝される伝説となっていた。
遠くからその輝きを見つめ、ヨミはつぶやいた。「嫉妬なんてしない。ちっとも。全然。」もちろん、彼女は絶対に嫉妬していた。
しかしヨミには千空にないものがあった。それは病理学の知識だ。彼女は人を見れば体の中の異変を大まかに見抜くことができた。石化病や栄養失調で倒れる人々を見過ごせず、彼女は村から村へと一人で助け歩いていた。
その噂が千空の耳に届くと、彼はす
石の世界のもう一人のキミへ - 仮に、仮にだからね——軟膏と星空と無線の音
カントウ大森林の緑が、朝の光を受けてきらきら光っていた。
あの川沿いの夜から、もう五日が経っていた。ヨミは「次の村まで道が一緒だから」という一言だけで千空のそばに留まり続けている。正式な同行宣言は一切ない。でも気づけば、毎朝同じタイミングで荷物を背負う。
それだけのことだ、とヨミは自分に言い聞かせていた。
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カントウ大森林の南縁に点在する小集落を、二人は一日一村のペースで回っていた。
その日の村は、鉄骨の残骸が苔むした丘の麓にある十二軒ほどの集落だった。イシノミヤから北東へ七十キロほど、タカオ前哨村の活動圏のさらに南にあたる。村人たちは復活者と石化を免れた末裔が混じり合って暮らしていた。
千空が村の入り口に足を踏み入れた瞬間、もう目が光っていた。
「[excited]よし、まず検体採取だ! イシヤミの罹患パターンを記録する。お前らの唾液と皮膚の組織サンプルが——」
バシッ。
ヨミの手が千空の腕を掴んで止めた。
「[cold]患者さんは実験材料じゃないですわ」
「[surprised]わかってる、データ収集は科学的に——」
「[cold]まず話を聞く。症状を聞く。それが先」
千空が口をへの字にする。ヨミはすでに村人の方を向いて、穏やかな声で「具合の悪い方はいますか」と聞き始めていた。
村人たちが二人のやりとりをこそこそと見ている。老婆が隣の女に耳打ちした。
「夫婦みたいだねえ」
「[angry]違います!」
「[surprised]また夫婦って言われてる。なんでそう見えるんだ……」
千空が本気で首をかしげる。緑がかった銀髪がぼさっと揺れて、前髪の赤いメッシュが額に貼りついた。ヨミはその顔から目を逸らして、村人の案内に従って奥へ歩いた。
このやりとりは今日で四回目だった。
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村の端の家に、男の子がいた。
八歳くらいだろうか。床に座り込んで、両腕を抱えるようにしている。腕の皮膚が白くひび割れていて、動かすたびに痛むらしく、唇をぎゅっと噛んで泣くのをこらえていた。
イシヤミだ。石化解除から時間が経った復活者に出る後遺症で、皮膚がひび割れて炎症を起こす症状がある。復活者の十五人に一人くらいに出るとヨミが記録していた。
千空はすぐに膝をついて腕を観察した。
「[serious]ひび割れが表皮から真皮層まで達してる。乾燥と石化残留の複合だ。馬脂と硫黄を一対三で混ぜた軟膏が効く」
「待って」
ヨミも反対側で膝をついた。男の子の腕に指先をそっと当て、境界部分をゆっくりと確かめる。琥珀色の瞳が細くなった。
「右腕の方が浸透が深いですわ。赤みがある。その配合だと組織ごと刺激する。左は薄く、右は一日おいてから」
「……じゃあ左から始めて、右は希釈版を試す。最初は二分の一濃度で」
「それでいいですわ」
言い合いではなかった。ただ二人が同じ方向を向いて考えていた。
千空が荷物から素材を取り出して配合を始める。ヨミが男の子に「少しだけ痛いけど、すぐよくなるから」と声をかけながら腕を安定させる。
「[gentle]名前は?」
「……カイ」
「[gentle]カイくん。我慢してね、もう少しだけ」
軟膏が完成したのは三十分後だった。
塗布して、待って、患部を確認して、また塗って。千空とヨミは一言も余計なことを言わずに作業を進めた。窓から差し込む午後の光が斜めになってきた頃、カイが腕をゆっくりと動かした。
「……あ」
小さな声だった。それから、もう一回動かす。
「[excited]痛くない!!」
男の子は立ち上がって、家の中を走り回り始めた。外へ飛び出していく。裏庭の方で「痛くないー!」という声が聞こえた。
ヨミがその背中を目で追った。
ほんの少し、口元がほどけた。声にもならない、静かな微笑みだった。
千空はその横顔を見た。
胸の奥で、何かがドクンと脈打った。
(……なんだ?)
走っていない。重いものを持ったわけでもない。軟膏の揮発物質を吸い込んだか? いや、硫黄と馬脂の混合物に心拍を上げる成分はない。
(科学的に説明できない)
千空は本気で困惑しながら、目を逸らした。
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夜になった。
村の外れで焚き火を起こす。木が乾いていたのでよく燃えた。虫の声が森の方から聞こえてくる。星が出ていた。カントウ大森林の上には光を遮るものが何もなくて、空が広い。
千空は実験ノートを膝に置いて、今日の処方データを書き込んでいた。馬脂の配合比、硫黄の純度、塗布時間と反応の相関。数字を並べていると落ち着く。世界はいつも数字で説明できる。
ヨミは反対側に座って、症例ノートに記録をつけていた。ペンが走る音が聞こえる。
しばらくして、ヨミがペンを止めた。
「……ねえ」
「なんだ」
「あのラボ、あなたは私のことなんか空気だったでしょ」
千空がペンを動かす手を止めた。
「ドラマにハマって、実験中もイヤホンして、こっちが声かけても返事しなかったじゃない」
声は落ち着いていた。責めてるわけじゃない、ただ思い出したみたいな言い方だった。でも炎の光でヨミの横顔を見ると、口元がわずかに尖っていた。
千空はしばらく黙って、夜空を見上げた。星が多い。旧時代の照明がない世界の星空は、いつ見ても多すぎるくらい多い。
「……いや」
千空が口を開いた。
「[serious]お前がいなかったら、実験ノートの五ページ目から先に進めなかった。お前の仮説が、いつも正しかったから」
ヨミが顔を上げた。
一秒、二秒。ヨミはそのまま千空を見ていた。千空はノートに目を戻している。そこに特別な意図はない。思ったことを言っただけの顔だった。
「……バカ」
小さな声だった。それからヨミは背中を向けた。
千空には意味がわからなかった。褒めたのに、なぜバカと言われるのか。論理的につながらない。首をかしげて、でも何も言わずにノートに戻った。
ヨミの肩が、ほんの少しだけ震えていたことには気づかなかった。
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その夜から、焚き火の座る位置が変わった。
千空がさりげなく隣に来て、ヨミの横に並んで座った。向かい合うのをやめた。
「[serious]こっちの方が火の当たり具合が均一だ。熱効率が上がる」
ヨミは何も言わなかった。ただノートのページを一枚めくった。
二人分の影が、同じ方向に伸びていた。
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翌朝、空が白み始めた頃に出発の準備をしていた。
ヨミが荷物の紐を確認している。千空が無線機の電池を確かめている。朝の鳥の声がうるさいくらい聞こえてくる。森の空気は湿り気があって、葉っぱのにおいがした。
ザザッ。
無線機にノイズが入った。それから、明るい声が飛び込んできた。
「[excited]千空ー!! 早く帰ってきてよー! 実験の続きやろうよー! みんな千空がいないと寂しいって言ってるよー! 私も早く帰ってきてほしいし!」
コハクの声が、朝の静かな森に大音量で響いた。
千空が無線機を持ち直した。
「[serious]ああ、あとで連絡する。今は移動中だ」
それだけ言って、ブツッと通信を切る。荷物の紐を締め直した。
「出発するぞ」
振り返ったとき、ヨミが荷物を背負っていた。
表情が、なかった。昨夜の焚き火の横顔でも、子供が走り出したときの微笑みでもない。何もない顔だった。
「[cold]……ええと」
それだけ答えた。
歩き始める。千空の少し後ろを、一定の距離を保って歩く。
千空は道を進みながら、後ろの気配を感じた。おかしい。昨日まではもっとペラペラ文句を言いながら歩いていたのに。
「[surprised]お前、何か俺悪いことしたか?」
「[cold]何もないですわ」
声が平たかった。
千空は前を向いた。
(何もないと言っている。でも何かある顔をしている。この矛盾をどう解釈すれば——)
考えながら歩く。森の葉が風に揺れる。遠くで鳥が鳴く。二人の足音だけが、それぞれのリズムで地面を踏む。
昨夜まで続いていたあの空気が、跡形もなく消えていた。
千空には理由がわからなかった。でもヨミの横顔には、千空の知らない何かがしっかりと根を張り始めていた。