石の世界のもう一人のキミへ
石の眠り三千七百年。科学によって世界はリセットされた。
千空は人類を蘇らせた。しかし、その戦いのどこかで彼は気づいた。ずっと自分のそばにいた、ちゃんと向き合ったことのない誰かがいることに。
彼女の名はヨミ。
文明が崩壊する前、ヨミは千空と同じ研究所で働いていた。彼より少し年上で、彼のノートよりもさらに乱雑な実験ノートを持っていた。二人は何年も並んで研究を続けてきた。しかし千空の頭の中は科学の夢とある少女でいっぱいで、ヨミのことはただの「研究パートナー」としか思っていなかった。
ヨミもまた石化した。しかし彼女が目を覚ましたのは別の時だった。目を開けると、すでに科学王国は動き出し、千空は周囲の人々に崇拝される伝説となっていた。
遠くからその輝きを見つめ、ヨミはつぶやいた。「嫉妬なんてしない。ちっとも。全然。」もちろん、彼女は絶対に嫉妬していた。
しかしヨミには千空にないものがあった。それは病理学の知識だ。彼女は人を見れば体の中の異変を大まかに見抜くことができた。石化病や栄養失調で倒れる人々を見過ごせず、彼女は村から村へと一人で助け歩いていた。
その噂が千空の耳に届くと、彼はす
石の世界のもう一人のキミへ - 追いかけたのは科学的根拠があるからだ(嘘)
イシノミヤを出発してから三日が経った。
千空の足は、ヒガシノ村の入り口で止まった。
小さな集落だった。丘の斜面に沿って木造の家が十数軒並び、煙が細く立ち上っている。住人たちは千空の姿を見て、最初は警戒した顔をした。でも荷物に下げた科学王国のマークを見て、すぐに表情を和らげた。
「ああ、科学王国の人か」
「[serious]ビョウリ士を探してる。この村に来たか」
村人たちの顔が一斉に明るくなった。
「来たよ! すごく腕が立つ先生でさ」
「めちゃくちゃよく診てくれたんだ。ただ……」
と、老婆が少し笑いながら言葉を足した。
「口がちょっと悪いんだよねえ。『なんでこんなになるまで放置したんですか』って、ズバズバ言うから。正しいんだけど」
(口が悪い女医。心当たりしかねえ)
千空は小さく息をついた。
「今はどこに?」
「昨日の朝に出てったよ。南の川沿いを歩いてたな」
千空は荷物を背負い直して、村の南へ向かう路地に目をやった。
地面を確認する。草が踏まれている。向きは南。歩幅の間隔から、急いでいたわけじゃない。途中、道の端に薬草が一本、根元から丁寧に採取された跡がある。
(100億パーセントこっちだ)
千空は確信して歩き始めた。
これは追跡調査だ。行動記録の追跡。科学的に正しい判断だ。感情とは一切関係ない。
川沿いの道は湿り気を帯びていた。スルガ湾岸湿地に近いこのあたりは、夕方になると霧が出る。葦が生い茂り、遠くで水鳥が鳴いている。空はまだ明るいが、西の空が橙色に変わり始めていた。
三十分ほど歩いた頃、遠くに小さな光が見えた。
焚き火だ。
千空の足が、止まった。
どうしてかわからないが、急に走るのが億劫になった。歩幅を少し縮めて、ゆっくりと近づいていく。心拍数が少し上がっている。走ってきたせいだ、と千空は思った。あるいは荷物が重いせいかもしれない。科学的に考えれば、そのどちらかのはずだ。
焚き火の前に、人が一人いた。
深い紫のロングヘアを後ろで束ねた女だった。薄手の外套をまとい、膝の上にノートを広げて何かを書いている。ペンを走らせる手が、ためらいなく動く。目尻に小さなほくろ。琥珀色の瞳が、炎の光を受けてゆらいでいる。
(いた)
「[serious]ヨミ」
声をかけた瞬間、ノートを走るペンが止まった。
ヨミは顔を上げなかった。一拍、二拍。それからゆっくりと顔を上げて、千空を見た。その表情が、みるみる固まっていく。
「……なんであなたがここにいるの」
声は冷たかった。でも千空には、その冷たさがどこか普通じゃない感じがした。
「[serious]お前の足跡を追って来た。ビョウリ士の技術水準の——」
「科学王国で女の子たちにキラキラ囲まれてればいいじゃない」
遮るように言った。声は静かだったが、語尾にほんのわずか、尖ったものがついていた。
「[surprised]女の子に囲まれる? 俺が?」
「コハクさんとかルリさんとか。楽しそうな場所があるでしょう」
「[serious]あいつらは関係ない。お前のビョウリ学の診断技術がイシヤミ研究に必要なんだ。俺の化学分析と組み合わせれば、症例の解析速度が桁違いに上がる」
ヨミはノートを膝の上に置いたまま、千空をじっと見た。
「[sarcastic]科学的根拠だけで人を追いかけてくるの、あなただけだよ」
「[surprised]何が問題なんだ?」
本当にわからない、という顔で千空は首をかしげた。
ヨミは少し目を細め、それからため息をついた。
「[serious]一緒に来い」
「いらないわ、あなたの王国も科学的根拠も」
「データ収集の効率が——」
「一人でできますわ」
「お前一人じゃイシヤミの化学的処置ができないだろ。ナイタール液の希釈計算は——」
「できますわ」
「できるわけが——」
「できますって言ってる!」
ヨミの声が少し大きくなった。
川沿いで釣り糸を垂れていた地元の男たちが、ちらりとこちらを見た。二人ひそひそと何か言い合っている。
「……夫婦喧嘩じゃないか?」
「いや、あの言い合い方は昔馴染みだな。絶対そうだって」
ヨミが真っ赤になった。
「[angry]違います!」
「[surprised]夫婦って何だ。俺たちは研究パートナーだろ」
ヨミの表情から、何かがすっと消えた。
「研究パートナー、"だけ"ね」
静かな声だった。笑ってもいない。怒ってもいない。千空には読めない、何か別の感情が混じった言い方だった。
「はいはい、わかりました」
ヨミが荷物を掴んで立ち上がった。
千空は止めようとして、でも何と言えばいいのかわからなかった。何かまずいことを言った気がする。でも何がまずかったのかが、どこを探してもわからない。
そのとき。
川下の方から、悲鳴が聞こえた。
二人の動きが、同時に止まった。
「行くわよ」
声をかけたのはヨミの方だった。荷物を背負い直して、もう走り出している。千空も後を追った。
---
川沿いの小さな集落だった。
十人ほどの村人が輪になって、地面に倒れた老人を囲んでいる。老人の両腕は、肘から先が白く変色していた。石のように固まっている。関節が完全に動かない。苦痛で顔が歪んでいる。
イシヤミだ。しかも重症だ。
「[cold]どけてください」
ヨミが人垣をかき分けて膝をつく。荷物を開きながら老人の腕を観察し始めた。指が患部の境目を丁寧に確かめていく。
「石化してから何年経ってますか、この方」
「復活して一年くらいです。最近急に腕が……」
千空も隣に膝をついて、老人の腕の石化部位を見た。硬化のパターンが関節部に集中している。分布が特徴的だ。
「[serious]関節周りに石化残留が集中してる。ナイタール液を十分の一希釈で患部に塗布すれば、石殻が溶けて関節が戻る可能性がある」
「待って」
「[serious]何だ」
「関節周りの組織、赤みが出てる。炎症を起こしてますわ。その濃度だと組織ごと傷める。半分にして」
千空は患部をもう一度見た。
(……合ってる)
「[serious]わかった。二十分の一希釈だ」
二人は口では言い合いながら、体は完全に同じ方向を向いて動いていた。千空が荷物からナイタール液の小瓶を取り出して希釈する間、ヨミが老人に声をかけて体を安定させる。千空が希釈液を老人の腕に少量ずつ塗布すると、ヨミが患部の変化を指先で確かめながら次の部位を示す。
じわじわと、白い石化が薄くなっていく。
関節がほんのわずか、動いた。
「あ……」
老人が細く声を出した。涙がこぼれている。
「[gentle]もう少しですよ」
ヨミの声が、さっきまでとは全然違った。柔らかくて、静かで、揺るぎない。千空は一瞬そっちを見て、また作業に戻った。
処置が終わる頃には、老人の腕はかなり動くようになっていた。完全ではないが、さっきとは別人みたいだ。
「すごい……二人いると全然違うな」
「二人揃うと無敵じゃないか!」
「[serious]当然だ」
「当然でしょ」
声が重なった。
千空とヨミが同時に顔を見合わせた。ヨミが目をすぐに逸らす。千空はその横顔をしばらく見た。
---
夜になった。
村人たちが食事を持ってきてくれたので、千空とヨミは川沿いの焚き火の前に戻っていた。炎がゆっくりと揺れている。遠くで虫が鳴いている。
二人の間には、さっきまでの言い合いとは別の、静かな時間があった。
ヨミが症例ノートを開いた。今日の老人の記録を書き始める。ペンが走る。千空は自分の記録帳に処置の内容を書き留めながら、その音を聞いていた。
しばらくして、ヨミがペンを止めた。
「……石になる前にさ」
独り言みたいな声だった。
「あのとき千空に、言おうとしてたことがあったんだけど」
千空は顔を上げた。
「[surprised]何を?」
ヨミは一拍置いた。炎がゆらいで、ヨミの横顔を照らす。琥珀色の瞳が、ノートの上で止まっている。
「もう忘れた」
すっと答えが返ってきた。
「[serious]そうか」
千空は引き下がった。でも腑に落ちない。ヨミはノートに目を落としているが、ペンが動いていない。さっきからずっと、同じページで止まっている。
字を書いていない。
(忘れてないだろ、それ)
千空はそこまで考えて、でも何も言わなかった。
代わりに、別のことを聞いた。
「……なんで科学王国に来なかったんだ」
さっきみたいに理由を並べた言い方じゃなかった。科学的根拠もデータ収集も関係ない。ただ、聞きたかっただけの問いだった。
ヨミは答えなかった。
焚き火がぱちりと弾けて、小さな火の粉が夜空に散った。
ヨミの横顔は動かない。答えが来ないまま、沈黙が積み重なっていく。千空もそれ以上は聞かなかった。
夜が更けていく。
ヨミはまだ、同行を正式に認めていない。ノートの中の言葉の正体も、千空には届かないままだ。でも今夜、二人は同じ焚き火の前にいる。それだけは確かだった。