正しき者の放浪
調整局での失態により、故郷グラーヴェンホルト・コロニーへと戻ることになったエーリヒ・フォーゲル。成功者として迎えられることを期待していた彼を待っていたのは、疲弊しきった故郷の現実だった。故障した配給読み取り機、底を突きかけた環流核の予備部品、追い詰められて追放される住民たち。そして、幼馴染であるカスパーとの間に横たわる、埋めようのない「違い」。父ヴィルヘルムの沈黙が、かつて議長として追放の投票を見届けてきた男の重い過去を物語る。帰郷三日目の夜、遠くの空が白く光った。地鳴りが壁を伝い、コロニーは静かに孤立への一歩を踏み出そうとしていた——。正しさとは何か、居場所とはどこにあるのか。疲弊した故郷と向き合う一人の男の、静かな放浪が始まる。
正しき者の放浪 - 崩環——名を捨てる夜
地下区画の空気は、冷たさを通り越して、もはや重い泥のように人々の肺へ沈んでいた。
グラーヴェンホルト地下区画。あの夜、地上を焼いた閃光と地鳴りから、季節は冬へと移ろっていた。第二層の居住予備区画には、収容限界を超えた約二万人が身を寄せ合っている。壁には結露が凍りつき、薄い氷の膜が青白い照明を鈍く反射させていた。間引き点灯された灯りは、昨日からさらに数を減らし、通路の奥は暗闇が口を開けている。
換気が、止まっていた。
いや、正確には、換気を動かすための電力が、もう残っていなかった。
人々は薄い毛布を何枚も重ね、互いの体温を分け合うように身を寄せ合っていた。それでも、寒さは骨の芯まで染み込んでくる。咳をする者が増え、子供たちは泣く力さえ失くしていた。空気は澱み、汗と排泄物と、わずかな腐敗の匂いが混ざり合って、地下全体を覆っている。
エーリヒ・フォーゲルは、第二層の奥に設けられた臨時指揮所に立っていた。
黒髪は短く整えられているが、つやは完全に消え、灰色の瞳の下の隈は、もはや皮膚の色ではなく痣のように黒ずんでいる。背筋だけは、それでも伸びていた。伸ばし続けていた。机の上には、配給の在庫表と、技術者団からの要求書。それから、今朝方届いたばかりの、環流核の完全停止を知らせる報告書が、乱雑に積み重なっている。
「エーリヒさん」
アンネローゼ・キルヒナーが、仕切りの向こうから声をかけた。肩までの黒髪は後ろで束ねているが、癖毛が凍りついたように跳ねている。茶色い瞳は、疲労で赤く充血していた。彼女は左手首の古い組紐の腕輪を、無意識に何度も指でなぞっている。
「ヴェルクシュタットから、正式な回答が届きました」
彼女は、一枚の紙をエーリヒの机の上に置いた。技術者団詰所、ヴェルクシュタットの印が押された回答書。エーリヒはそれを手に取り、素早く目を通す。
内容は、以前から変わっていなかった。違反者摘発の即時停止。配給優先順位法の見直し。そして、追放処分の執行凍結。それらを受け入れなければ、環流核の修理には一切着手しない、と。
「……ギュンター・ハルトマンは、どこまで本気なんだ」
エーリヒの声は、乾いていた。喉の奥が、冷たい空気で張り付いている。
「本気です。技術者団十四名全員が、この回答書に署名しています。エーリヒさん、もう、時間がありません。水も、電気も、このままでは」
彼女の声が、わずかに震えた。エーリヒは彼女の顔を見た。彼女はいつもそうだ。対立する者の間で、どちらの言い分も正しいと信じ、誰も傷つかない答えを探して、結局空回りする。その誠実さが、今、彼女自身の首を絞めていた。
「これは、要求ではない。脅迫だ。技術者団は、コロニーの生命線を盾に、政治的な譲歩を迫っている。こんなものを飲めば、配給制度そのものが崩壊する。次の災害で、誰も守れなくなる」
「でも、このままでは今ここで、みんな死んでしまいます」
「死なせない。私が決めたことだ」
エーリヒは、回答書を机の上に叩きつけるように置いた。
「技術者団の全員を、職務放棄の容疑で摘発対象とする。通告を出せ。彼らがサボタージュを続けるなら、配給停止と追放投票の対象になる。そうなれば、彼らとて命が惜しいはずだ」
アンネローゼは、言葉を失った。唇が、わずかに動いたが、声にならない。彼女の茶色い瞳が、エーリヒの灰色の瞳を、まっすぐに見つめていた。そこに浮かんでいるのは、もはや信頼ではなかった。恐怖でもなかった。ただ、深い悲しみだった。
「……分かりました。伝えます」
彼女はそう言って、背を向けた。その背中が、仕切りの向こうに消えるまで、エーリヒは動けなかった。
(間違ってはいない。決めたことだ)
彼は心の中で、そう繰り返した。だが、その言葉は、以前ほど強く響かなかった。
夜が来た。
正確には、地下区画には昼も夜もなかった。だが、配給の時間だけが、人々にとっての「朝」だった。その配給の時間が、来るはずだった。
配給所の前に、長い列ができていた。皆、手に配給カードを握りしめている。しかし、配給所の窓口は、固く閉ざされたままだった。
「どうなってるんだ!」
「開けろ! 水を出せ!」
怒号が、あちこちで上がり始めた。配給管理官の一人が、窓口の向こうから顔を出した。
「落ち着いてください! ただいま、システムの復旧を……」
「システムだと!? こっちは子供が熱を出してるんだぞ!」
列の先頭にいた男が、配給所の扉を拳で叩いた。ドン、ドン、と、鈍い音が地下に響く。配給カードの読み取り機は、電力が止まったことで完全に沈黙していた。生体認証も、配給ポイントの照合も、何も動かない。配給管理官は、ただ立ち尽くすしかなかった。
公平に配るための機械が死んで、公平を装うための人間が、ただ震えていた。
「俺のカードは、ちゃんとポイントが残ってるはずだ! 見ろ!」
男が、配給カードを窓口に叩きつけた。別の男が、列に割り込んだ。
「てめえ、割り込むな!」
「うるさい! 先に並んでたのは俺だ!」
殴り合いが始まった。拳が顔にめり込み、鼻血が飛び散る。悲鳴。怒号。そして、誰かが配給所の扉に体当たりした。古い蝶番が、悲鳴を上げて外れる。
ドッ、と、群衆が雪崩れ込んだ。
「食料だ! 食料を出せ!」
「小麦だ! コルンシュパイヒャーの小麦を!」
人々は、配給所の奥へ、食料貯蔵庫コルンシュパイヒャーへと殺到した。配給管理官は、群衆に押し倒された。誰かが彼の手を踏みつけた。骨が折れる音が、悲鳴にかき消された。
エーリヒは、警備の数人とともに現場へ駆けつけた。
「全員、止まれ! これは配給ではない、略奪だ!」
彼の声が、地下に響き渡った。一瞬、群衆の動きが止まる。しかし、それもほんの一瞬だった。
「エーリヒがいるぞ!」
「あんたのせいで、俺たちはこんな目に遭ってるんだ!」
「技術者を締め上げたのは、あんただろうが!」
怒号が、エーリヒ個人に向けられた。その瞬間、配給所の奥、灯りの消えた区画から、火の手が上がった。
誰かが、照明の代わりに灯した火が、積み上げられた麻袋に燃え移ったのだ。
「火事だ!」
「小麦が焼けるぞ!」
炎が、地下の暗闇を赤く染めた。煙が、換気の止まった空間に充満していく。人々は、悲鳴を上げて逃げ惑った。エーリヒは、その場に立ち尽くしたまま、燃え上がる食料貯蔵庫を見つめていた。
(ああ、これが、私の守ろうとした秩序か)
炎の熱が、彼の頬を炙った。
暴動は、夜明けまで続いた。
鎮圧後、集計された焼失分は、コロニーが冬を越すのに必要な小麦の、およそ四割に達していた。
アンネローゼは、焼け跡の前で、ただ立ち尽くしていた。彼女の顔には、すすが付き、茶色い瞳は、何かを見失ったように、ぼんやりと炎の残骸を見つめている。
「私が、もっと早く、何かできていたら」
彼女は、掠れた声で呟いた。
「君のせいではない。私の判断が、この結果を招いた」
エーリヒは、彼女の隣に立った。だが、彼の目は、焼け跡の向こう、暗闇の奥を見つめていた。
「エーリヒさん、お願いです。ギュンターさんと、話し合ってください。技術者団の要求を、聞いてください。水さえ戻れば、電気さえ戻れば、まだ、立て直せる」
彼女は、エーリヒの腕を掴んだ。その手は、氷のように冷たかった。
「……君が、間に入るのか」
「私にできるのは、それだけです。どっちも間違ってない。でも、このままでは、みんな死んでしまう。一緒に考えましょう。お願いです」
彼女の声は、涙で濡れていた。エーリヒは、彼女の手を、そっと外した。
「分かった。話し合いの場を設けろ。ただし、私の判断は変わらない」
ラートハウスの一室。中央管理棟の執務室は、地上にあるため、照明も暖房も止まり、吐く息が白く濁った。
エーリヒと、ギュンター・ハルトマン。二人は、長いテーブルを挟んで向かい合っていた。アンネローゼが、二人の間に立ち、震える声で口を開いた。
「今日は、非公式の話し合いです。どうか、お互いの言い分を、最後まで聞いてください」
ギュンター・ハルトマンは、六十代の老練な技術者だった。白い髪は薄く、顔には深い皺が刻まれている。だが、その目だけは、青白い炎のように鋭く光っていた。彼は、環流保守技術者団のリーダーとして、グラーヴェンホルトの生命線を四十年にわたって守ってきた男だ。
「エーリヒ・フォーゲル。お前の通告は、技術者団全員を職務放棄で摘発するというものだったな」
ギュンターの声は、低く、静かだった。だが、その静けさが、かえって冷たく響いた。
「事実だろう。君たちは、修理に着手せず、要求を突き返した。それは職務放棄だ」
「職務放棄、か。お前は、環流核を何だと思っている」
ギュンターは、ゆっくりと首を振った。
「環流核は、機械ではない。わしら技術者団の、命そのものだ。お前が摘発すると言った十四名は、全員、このコロニーのために、自分の家族よりも環流核を優先して生きてきた者たちだ。その者たちに、お前は、国家反逆罪に近いと断じた。お前の正しさは、そういうものか」
「君たちの要求を飲めば、配給制度が崩れる。違反者を見逃し、優先順位法を骨抜きにすれば、次の災害で、より多くの人間が死ぬ。私の判断は、間違っていない」
エーリヒの声は、断定的だった。だが、ギュンターの目を見返すことは、できなかった。
「お前は、いつもそうだな。間違っていない、決めたことだ、と。だがな、エーリヒ。お前の正しさは、誰のための正しさだ。住民のためか。それとも、お前自身が、間違っていたと認めたくないだけの、正しさか」
「……黙れ」
「図星か。お前は、カスパーを追放した時から、ずっと、自分の正しさに縋ってきた。だが、その正しさで、お前は何を守れた。小麦は焼けた。水は止まった。住民は、お前を信じなくなった。それでも、お前は間違っていないと言うのか」
「黙れと言っている!」
エーリヒは、テーブルを拳で叩いた。乾いた音が、冷たい空気に響く。
「私が、全員を地下に避難させなければ、あの夜、もっと多くの人間が死んでいた。私の判断が、一万七千人の命を救ったんだ。それを、君は否定するのか」
「あの夜の判断は、間違っていなかったかもしれん。だが、その後の判断は、全部間違っていた。お前は、英雄として祀り上げられ、自分が間違うわけがないと信じ込んだ。そして、お前に逆らう者を、片っ端から摘発し、追放した。お前が守ったのは、住民ではない。お前の正しさという偶像だ」
ギュンターは、立ち上がった。
「技術者団は、地下区画を去る。環流核の復旧は、もう不可能だ。お前の正しさで、このコロニーは死ぬ。それが、わしからの最後の言葉だ」
彼は、そう言い残し、部屋を出て行った。
アンネローゼは、二人の間で、ただ立ち尽くしていた。彼女の顔から、血の気が引いていく。
「エーリヒさん……」
「……出て行け」
エーリヒの声は、絞り出すように、低かった。
「私は、間違っていない。決めたことだ」
アンネローゼは、何かを言おうとした。だが、言葉は出てこなかった。彼女は、誰も傷つけない答えなど、最初から存在しなかったことを、その瞬間、身を裂かれるように思い知った。
彼女は、ゆっくりと、部屋を出て行った。
技術者団が去った地下区画は、もはや墓場のようだった。
換気は完全に停止し、空気は澱み、悪臭が充満していた。水の供給も止まり、人々は、壁に結露した水滴を舐めて喉を潤した。電力のない暗闇の中で、高熱と咳を伴う伝染病が、瞬く間に広がっていった。
診療所「静かな灯」の医師と看護師は、薬品不足の中で手を尽くしたが、感染は止まらない。死者が、毎日、増えていった。
人々は、エーリヒの指示を待たなくなった。
勝手に区画を移る者。地上への脱出を試みる者。廃墟と化した居住区画に籠城する者。まとめ役であるアンネローゼの調整も、もはや機能しなかった。
エーリヒを信じていた住民が、一人、また一人と、彼の元を離れていった。
エーリヒは、それでも、ラートハウスの執務室に一人、座り続けていた。誰の声も聞かず、誰の目も見ず、ただ、机の上の書類を眺めていた。彼の指示を実行する者は、もう、ほとんど残っていなかった。
(私は、間違っていない)
彼は、心の中で、そう繰り返した。
だが、その言葉は、もはや、何の意味も持たなかった。
フォーゲル家旧宅に、父ヴィルヘルムが倒れた、という知らせが届いたのは、そんな夜のことだった。
エーリヒは、地上の旧宅へ急いだ。外は、雪が降っていた。汚染された空から降る雪は、灰色を帯び、肌に触れると、じわりと沁みた。
旧宅の寝室。ヴィルヘルム・フォーゲルは、薄い布団の上で、静かに横たわっていた。白髪混じりの短髪は乱れ、鋭い灰色の瞳は、天井を見つめている。右手の杖は、枕元に立てかけられていた。
「父さん」
エーリヒは、枕元に膝をついた。
「……来たか」
ヴィルヘルムの声は、掠れていた。だが、その目は、まだ、息子の姿をしっかりと捉えていた。
「無理をするな。今、医者を」
「医者は、もういい。わしの体は、わしが一番よく分かっておる」
ヴィルヘルムは、ゆっくりと、息を吐いた。
「お前は、正しかったかもしれん」
エーリヒは、父の手を握った。骨ばった、冷たい手だった。
「だがな、正しさだけでは、人は生きられん」
ヴィルヘルムの言葉が、静かに、エーリヒの胸の奥に沈んでいった。
「わしは、議長時代、多くの者を追放した。正しいと信じて、裁いた。だが、裁いた者の顔は、今でも、夜な夜な、夢に出る。お前も、いずれ、そうなる。いや、もう、なっておるのかもしれんな」
「父さん、私は……」
「お前は、わしのようになるな」
ヴィルヘルムは、エーリヒの目を、真っ直ぐに見た。
「お前は、まだ、やり直せる。わしと違って、な」
そう言って、ヴィルヘルムは、静かに目を閉じた。
エーリヒは、父の手を握り続けた。
どれほどの時間が経ったのか、分からなかった。
やがて、握っていた手から、力が抜けていった。
エーリヒは、父の顔を見た。安らかな顔だった。
「……父さん」
声が、震えた。
彼は、自分が裁いてきた者の顔を、一人一人、思い出していた。カスパーの顔。配給所で摘発された、母子家庭の女の顔。技術者団の、ギュンターの顔。そして、父の顔。
涙が、溢れてきた。
声を上げずに、ただ、涙だけが、頬を伝って落ちていった。
彼は、初めて、一人の人間として、崩れ落ちた。
葬送は、行われなかった。
地下区画は、もはや、死者を弔う余裕を失っていた。ヴィルヘルムの遺体は、旧宅の寝室に、静かに横たえられたままだった。
エーリヒは、ラートハウスの執務室に戻った。
机の上には、議長の証と、配給カードが置かれていた。議長の証は、父が退任する際に、コロニーから贈られた銀の徽章だった。配給カードは、彼がこのコロニーの住民であることを証明する、唯一の物だった。
彼は、その二つを、机の上に、ゆっくりと置いた。
見栄も、誇りも、地位も、すべてを、そこに置いた。
そして、彼は、外域へ通じる連絡坑道の出口へ向かった。
誰にも別れを告げなかった。
振り返った時、グラーヴェンホルト・コロニーの窓という窓に、灯りは一つも点いていなかった。
彼が守ろうとした秩序の代償として、この場所は、死んでいた。
外域の吹雪は、想像を絶するものだった。
空は、灰色に濁り、雪は、灰と混ざり合って、黒く汚れた塊となって降り注いでいた。風は、刃物のように冷たく、肌を裂いた。大地は、ひび割れ、ところどころから、黒い水が滲み出している。
エーリヒは、ただ、歩き続けた。
水も、食料も、尽きていた。
喉は、焼けつくように渇き、足は、鉛のように重い。
それでも、彼は、歩いた。
どこへ行くのか、自分でも分からなかった。
ただ、死ぬわけにはいかない、という思いだけが、彼の体を動かしていた。
(カスパー。お前は、この外域を、一人で歩いたのか)
彼は、心の中で、そう呟いた。
(お前は、どうやって、生き延びたんだ)
答えは、返ってこない。
吹雪の向こうに、小さな灯りが揺らめくのを、遠目に見た。
それが何なのか、確かめる術はなかった。
彼は、ただ、歩き続けた。
名も、地位も、何も持たない、一個の人間として。
正しさの重みだけを背負って、彼は、吹雪の中へ消えていった。Noveliaとは?
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