正しき者の放浪
調整局での失態により、故郷グラーヴェンホルト・コロニーへと戻ることになったエーリヒ・フォーゲル。成功者として迎えられることを期待していた彼を待っていたのは、疲弊しきった故郷の現実だった。故障した配給読み取り機、底を突きかけた環流核の予備部品、追い詰められて追放される住民たち。そして、幼馴染であるカスパーとの間に横たわる、埋めようのない「違い」。父ヴィルヘルムの沈黙が、かつて議長として追放の投票を見届けてきた男の重い過去を物語る。帰郷三日目の夜、遠くの空が白く光った。地鳴りが壁を伝い、コロニーは静かに孤立への一歩を踏み出そうとしていた——。正しさとは何か、居場所とはどこにあるのか。疲弊した故郷と向き合う一人の男の、静かな放浪が始まる。
正しき者の放浪 - 小麦畑の救い——名も問われぬ再会
雪は、灰を混ぜて降っていた。
空は一面の灰色で、どこまで見ても同じ色が続いている。吹き付ける風は、肌を裂くというより、骨の隙間まで入り込んで、内側から凍らせていくような冷たさだった。
エーリヒ・フォーゲルは、膝まで沈む雪の中を歩いていた。
いや、歩いている、というのは正確ではない。足を前に出し、体重を乗せ、倒れないように次の一歩を踏み出す。その繰り返しが、もはや歩行と呼べる代物ではなくなっていた。
黒髪は雪と汗で張り付き、灰色の瞳は落ちくぼみ、目元の隈は皮膚の色を超えて、もはや肉に刻まれた傷のようだった。背筋を伸ばす癖だけは、死に際になっても抜けないらしい。だが、その背筋も、今は風に押されて大きく曲がっていた。
水が尽きてから、どれだけ経ったか。
食料が尽きてからは、さらに長い。
喉の奥は乾ききり、舌は硬く腫れ上がって、口の中で異物になっている。唇はひび割れ、少し動かすたびに血の味が滲んだ。腹はもはや空腹を通り越し、内臓が互いに癒着していくような鈍い痛みを発していた。
指先の感覚は、とっくに消えている。
足も、同じだ。
それでも、体が動くのは、死ぬわけにはいかないという思いだけだった。いや、その思いさえ、今は薄れかけている。ただ、止まったら終わりだという、動物としての本能だけが、彼の体を前へ押し出していた。
(カスパー)
頭の片隅で、その名前が浮かんだ。
(お前は、この雪の中を、一人で歩いたのか)
答えはない。
(どうやって、生き延びた)
風が、一際強く吹いた。
雪の粒が、顔に叩きつけられる。痛みすら、もう遠い。視界が白く濁り、天地の区別がつかなくなる。エーリヒは足を止め、膝をついた。
雪が、腹のあたりまで埋まる。
冷たい。
冷たい、という感覚さえ、すぐに消えた。
(ここまでか)
その時だった。
視界の端で、何かが動いた。
遠くだ。雪煙の向こう、灰色の地平線に近い場所で、黒い影が、ゆっくりと、しかし確実に、こちらへ向かって移動している。
四つ足だ。
いや、六つか。
数えている余裕はない。あれが何かは、考えるまでもなかった。外域の噂で聞いたことがある。汚染体——外域に適応して変質した生物。あるいは、元人間だったもの。個体によって外見も危険度もまるで違うが、遭遇したら逃げるのが鉄則だと、誰もが言う。
逃げなければ。
そう思った。
だが、体が動かない。
恐怖は、彼の体を凍りつかせた。いや、凍りつかせたのは寒さだ。恐怖は、その奥で、心臓を締め付けた。胸の奥で、何かが早鐘を打つ。呼吸が浅くなる。肺が、冷たい空気を求めて、ひゅう、と鳴った。
影は、近づいてくる。
雪の上を、滑るように。
(動け)
指先に力を込める。雪を掴む。だが、腕が上がらない。
(動け、動け、動け)
声にならない叫びが、喉の奥で潰れた。
影が、止まった。
距離は、まだ百メートル以上ある。だが、あちらの目が、こちらを捉えているのが分かった。雪煙の向こうで、複数の目が、鈍く光っている。
エーリヒは、雪の上に倒れ込んだ。
顔の半分が雪に埋まる。冷たい。息が、白く濁って、目の前で消える。
意識が、薄れていく。
遠くで、別の音がした。
鈴の音だ。
金属が擦れ合うような、澄んだ音。風に乗って、断続的に、近づいてくる。
影が、一瞬、動きを止めた。
それから、ゆっくりと、後退していく。
雪煙の奥へ、溶けるように消えていった。
(助かった、のか)
エーリヒは、顔を横に向けた。
鈴の音は、どんどん近づいてくる。やがて、雪を踏みしめる足音が聞こえた。複数人だ。それから、低い男の声。
「いたぞ」
別の声が、応じる。
「生きてるか」
エーリヒは、何か言おうとした。だが、唇が動かない。喉から出たのは、潰れた吐息だけだった。
目の前に、人の影が立った。
分厚い防寒着に身を包んだ、大柄な男だ。顔は、布で覆われていて見えない。男は、エーリヒの首筋に手を当て、脈を確かめた。
「……生きてるな。運べ」
別の男が、荷車を引いてきた。木製の、粗末な作りの荷車だ。二人がかりで、エーリヒの体を持ち上げる。
「水を……」
自分の声だとは思えなかった。掠れきって、空気が漏れるだけの音。それでも、口は確かに、その言葉を形作っていた。
「水を、くれ」
巡回者の一人が、腰の水筒を外し、エーリヒの口元に近づけた。
「少しずつだ。一気に飲むな」
水が、唇に触れた。
ぬるかった。
それでも、喉を通る水は、全身に染み渡るようだった。喉の奥が、ようやく開いていく。舌が、感覚を取り戻す。
「……もう少し」
「あとでな。まずは運ぶ。寝てろ」
男は水筒をしまい、荷車に毛布を被せた。
エーリヒは、抵抗する力もなく、荷車の上で目を閉じた。
鈴の音が、また聞こえた。
荷車が、動き出す。
雪を踏む音。風の音。そして、あの鈴の音。
意識は、その音に揺られながら、ゆっくりと、暗い底へ沈んでいった。
目を開けた時、最初に見えたのは、木の天井だった。
粗い木目の板が、何枚も並んでいる。隙間から、細い光が差し込んでいた。
暖かい。
体の上に、何かが掛かっている。毛布だ。厚手の、しかし使い込まれて毛羽立った毛布。
空気が、違った。
外の、あの凍てつく空気ではない。土と、埃と、それから、何か甘い匂いが混ざった空気。
小麦の匂いだ。
エーリヒは、ゆっくりと体を起こした。
全身が痛む。関節が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。それでも、体は動いた。死んではいない。
部屋は、狭かった。
壁は土壁で、ところどころ藁が混ざっている。窓は一つだけ。木枠に、曇ったガラスが嵌め込まれていた。外の光が、その窓から差し込んで、部屋の中の埃を浮かび上がらせている。
寝かされていたのは、簡素な木の台の上だった。藁を敷き、毛布を重ねただけの、粗末な寝床。
「起きたか」
声がした。
入口の方だ。
エーリヒが顔を向けると、一人の男が立っていた。
無造作な茶色の髪。日に焼けて、所々色が抜けている。琥珀色の瞳は、穏やかで、まっすぐにこちらを見ていた。手のひらには、厚い畑仕事の跡。笑うと目尻に深い皺ができる、と、昔からそういう顔だった。
カスパー・ブラントだった。
エーリヒの呼吸が、止まった。
心臓が、胸の奥で、重く脈打つ。
(カスパー)
目の前の男は、エーリヒの顔を見て、少し首を傾げた。
「顔色は、昨日よりましだな。熱も、下がってるみたいだ」
昨日、という言葉に、エーリヒは自分がどれだけ眠っていたのかを知った。
カスパーは、手に持っていた椀を、寝台の横の小さな台に置いた。湯気が立っている。野菜の匂いがした。
「食えるか? 無理なら、あとででもいい」
エーリヒは、何か言わなければと思った。だが、喉が張り付いて、言葉が出ない。
礼を、言わなければ。
そう思うのに、声が出ない。
カスパーは、エーリヒの沈黙を、気にした様子もなく、椀を差し出した。
「まあ、一口でもいい。腹に入れないと、体が戻らないよ」
エーリヒは、震える手で椀を受け取った。
中身は、薄い野菜スープだった。人参と、芋と、それから、少しだけ麦の粒が浮いている。
スプーンで掬って、口に運ぶ。
温かい。
喉を通る。胃に落ちる。
体の奥から、じわじわと、温かさが広がっていく。
「……うまい」
やっとのことで、その一言だけが出た。
カスパーは、目尻に皺を寄せて笑った。
「よかった。口に合ったみたいだな」
その笑顔を、エーリヒは直視できなかった。
(この男は、私を追放された)
スープを掬う手が、震える。
(私が、追放を、黙認した)
カスパーは、エーリヒの顔を、じっと見ていた。
「……どこから来たんだ?」
心臓が、跳ねた。
「いや、無理に話さなくていい。外域で倒れてたってだけで、ここでは十分だ。名前も、聞かないよ。聞いたところで、何も変わらない」
カスパーは、そう言って、軽く手を振った。
「ここにいる間は、ゆっくり休め。働けるようになったら、手伝ってくれればいい。人手は、いくらあっても足りないからな」
エーリヒは、何も言えなかった。
名を問われない。
素性を問われない。
ただ、倒れていたから助けられた。
それだけのことが、なぜ、これほど胸を締め付けるのか。
「……すまない」
絞り出すように、言った。
カスパーは、首を振った。
「謝ることなんて、何もないよ。外域じゃ、みんな、いつか倒れる。倒れた奴を拾うのは、当たり前のことだ」
当たり前のこと。
その言葉が、エーリヒの胸の奥に、深く突き刺さった。
(当たり前のことを、私は、しなかった)
スープの椀を、両手で握りしめる。
温かさが、手のひらから伝わってくる。
その温かさが、苦しかった。
農場は、思っていたよりも広かった。
エーリヒが寝かされていた小屋を出ると、まず目に入ったのは、雪に覆われた畑だった。いや、畑、というよりも、畑だった場所、というべきかもしれない。
小麦は、すでに刈り取られた後だった。
短く切りそろえられた株が、雪の下に規則正しく並んでいる。その列は、視界の果てまで続いていた。広さは、ざっと見て、二ヘクタールほどだろうか。
コロニーの屋内栽培区画で見た小麦畑とは、まったく別物だった。
ここは、屋外だ。
外域の、汚染された大地の上で、小麦が育てられている。
「驚いたか」
隣に立ったカスパーが、畑を見渡しながら言った。
「外域で、こんなものが育つのか、って顔をしてるな」
エーリヒは、正直に頷いた。
「ああ。外域の土は、汚染されていて、作物は育たないと聞いていた」
「全部が全部、そうじゃないんだ。土が教えてくれるんだよ。どこに、何を植えればいいか。どの深さに、種を蒔けばいいか。何年もかけて、少しずつ、この土地に合う小麦を選んできた」
カスパーは、しゃがみ込んで、雪を手で払った。
下から、黒い土が現れる。
「ほら、この土だ。外域の土は、確かに汚染されている。でも、全部じゃない。場所によって、汚染の薄いところがある。そういう場所を、何年もかけて探して、土を入れ替えて、石灰を混ぜて。そうやって、ここまで来たんだ」
彼は、土を一掴みして、エーリヒに見せた。
黒く、湿った、豊かな土だった。
「この土は、生きてるよ。汚染されても、死んじゃいない。時間をかければ、ちゃんと、応えてくれる」
エーリヒは、その土を、ただ見つめた。
(この男は、コロニーを追放された後、この土と向き合って生きてきたのか)
胸の奥が、ざわついた。
「……立派な畑だ」
正直な言葉だった。
カスパーは、照れたように笑った。
「まあ、まだまだだよ。去年は、半分以上が駄目になった。今年は、なんとか、これくらいは収穫できたけどな」
そう言って、カスパーは立ち上がり、畑の奥を指さした。
「あっちに、貯蔵庫がある。見てみるか? ここで働くなら、場所は覚えておいた方がいい」
エーリヒは、黙って頷いた。
貯蔵庫は、地面に掘られた穴蔵だった。
入口は、畑の隅に設けられた、木製の蓋で隠されていた。カスパーが蓋を持ち上げると、下へ続く階段が現れる。
「足元、気をつけて」
二人は、暗い階段を下りた。
地下は、ひんやりとしていた。外の寒さとは違う、土の冷たさ。空気は、乾燥していて、埃っぽい。
カスパーが、壁に掛けられたランタンに火を灯した。
橙色の光が、地下空間を照らし出す。
エーリヒは、息を呑んだ。
いや、呑みかけて、止めた。
そこにあったのは、小麦だった。
麻袋に詰められた小麦が、壁に沿って、天井近くまで積み上げられている。袋の数は、ざっと見て、数十ではきかない。
「これは……」
「去年と、一昨年の収穫だ。あっちには、種籾がある」
カスパーは、奥の一角を指さした。
木箱が、いくつも並んでいる。その中に、布に包まれた種籾が、大切そうに保管されていた。
「種籾は、食料とは別に、必ず残しておくんだ。どんなに飢えても、種だけは食わない。種を食ったら、来年がなくなるからな」
エーリヒは、言葉を失っていた。
コロニーでは、食料貯蔵庫の小麦が、暴動で焼けた。
人々は、明日のことを考えずに、今日の空腹を満たそうとした。
だが、この男は、外域で、一人で、来年のための種を守っている。
(私が追放した男が、誰かの来年を、守っている)
胸の奥で、何かが、音を立てて崩れていく。
「……すごいな」
それだけを言うのが、精一杯だった。
カスパーは、ランタンの光の中で、穏やかに笑った。
「畑があれば、誰かが食える。それだけだよ」
農場には、エーリヒの他にも、何人かの労働者がいた。
皆、外域で行き倒れていたところを拾われた者たちだった。名前を名乗らない者もいれば、偽名を名乗る者もいる。素性を詮索する者はいなかった。
エーリヒは、その中の一人として、黙々と働き始めた。
麦の袋を運ぶ。
畑の雪を除ける。
壊れた柵を直す。
水を汲む。
体を動かすのは、久しぶりだった。
政治家として、机の上で書類と向き合っていた頃とは、まったく違う。筋肉が悲鳴を上げ、手のひらに豆ができ、腰が軋んだ。
それでも、体を動かすことは、苦ではなかった。
いや、苦痛はあった。
だが、その苦痛が、頭の中の何かを、少しだけ静かにしてくれる。
(私は、今、何をしているんだ)
麦の袋を担ぎながら、エーリヒは考えた。
(私が追放した男の畑で、麦を運んでいる)
袋は、重い。
肩に食い込む。
(あの男は、私の顔を見ても、何も言わなかった)
カスパーは、本当に、エーリヒに気づいていないのか。
それとも、気づいていて、何も言わないのか。
分からなかった。
どちらでも、苦しさは変わらない。
「おい、そこのあんた」
声がして、振り返った。
年配の労働者が、荷車を指さしていた。
「その袋、こっちに積んでくれ。あんた、なかなか力があるな」
エーリヒは、黙って頷き、袋を荷車に積んだ。
「どこから来たんだ?」
「……東の方だ」
「東か。あっちは、もう、駄目なのか」
「ああ」
「そうか……」
老人は、それ以上、何も聞かなかった。
外域では、誰も、深くは聞かない。
聞けば、自分も話さなければならなくなるからだ。
皆、何かを背負って、ここにいる。
その日の夕方、カスパーがエーリヒに声をかけた。
「あんた、仕事が丁寧だな」
エーリヒは、手を止めた。
「……そうか」
「ああ。無駄がない。それに、袋の積み方が、崩れにくい。見てて感心したよ」
カスパーは、目尻に皺を寄せて笑った。
「いい仕事だ。助かるよ」
エーリヒは、その言葉を、まっすぐに受け止めることができなかった。
(いい仕事、か)
かつて、彼は、二万四千人の命を預かり、正しい決断を下してきた。
その自負があった。
だが、今、彼が褒められているのは、麦の袋を、崩れにくく積んだことだった。
それが、皮肉でなくて、何だというのか。
「……あんたの畑は、よく手入れされている」
エーリヒは、目を逸らしたまま言った。
「土が、生きてるのが分かる。あれだけの畑を、一人で守ってきたのか」
「一人じゃないよ。ここにいる皆が、手伝ってくれてる。それに、灰環の連中も、水や薬を融通してくれることがある」
灰環。
その言葉に、エーリヒの体が、わずかに強張った。
外域で活動する追放者たちのネットワーク。互助組織とも、略奪集団とも言われる、謎の集団。
「灰環と、繋がりがあるのか」
「繋がり、というほどのものじゃないよ。向こうも、食い物が必要で、こっちは水や薬が必要だ。持ちつ持たれつ、ってやつだな。小麦と、水を交換したり、種籾を分けたり。そういう、ゆるい付き合いだ」
カスパーは、何でもないことのように言った。
「外域で生きるには、一人じゃ無理なんだ。誰かと、繋がらないと。それは、コロニーの中でも同じだろ?」
エーリヒは、答えられなかった。
コロニーの中で、彼は、誰とも繋がれなかった。
正しさで、人を裁き、追放し、最後は、誰にも看取られずに、外域へ消えた。
「……そうだな」
ようやく、それだけを言った。
その夜、エーリヒは、小屋の外に出た。
雪は、まだ降り続いている。
空は、相変わらずの灰色で、星は見えない。
風が、畑の上を吹き抜けていく。
(私は、ここで、何をしているんだ)
畑を見つめながら、エーリヒは考えた。
(名を捨てて、地位を捨てて、正しさだけを背負って、外域に消えた。そして、行き倒れて、拾われた。私が追放した男に)
息が、白く濁って、闇に消える。
(カスパーは、私のことを、友人だと思っているのだろうか)
あの男は、今も、エーリヒのことを友人だと思っている。
そう、キャラクター設定にはあった。
だが、目の前のカスパーは、エーリヒを、ただの行き倒れとして扱っている。
(それでいい。それで、いいはずだ)
エーリヒは、自分に言い聞かせた。
(私は、名乗る資格がない)
それから、数日が過ぎた。
エーリヒは、農場での仕事に、少しずつ慣れていった。
体は、まだ本調子ではない。
だが、動かさなければ、動かなくなる。
彼は、毎日、黙々と働いた。
麦の袋を運び、雪を除け、水を汲み、柵を直す。
労働者たちは、エーリヒの素性を問わなかった。
外域で生き延びる者同士の、ゆるい連帯。
それだけが、ここでのルールだった。
エーリヒは、初めて、名も地位もなく、他者に依存して生きていた。
コロニーでは、彼は、常に、誰かに依存されていた。
「エーリヒが言うなら」「エーリヒが決めてください」
その言葉に、彼は、押し潰されそうになりながら、逃げられなかった。
だが、ここでは、誰も、彼に何かを求めない。
ただ、働けば、飯が食える。
それだけのことが、こんなにも、難しい。
異変が起きたのは、エーリヒが農場で働き始めてから、十日ほど経った頃だった。
井戸の水が、濁り始めた。
最初は、わずかな濁りだった。
だが、日を追うごとに、水は黒ずみ、やがて、汲み上げた水から、鉄錆のような匂いがするようになった。
「井戸が、枯れかけている」
労働者の一人が、深刻な顔で言った。
「水位が、下がってる。このままじゃ、飲み水が足りなくなる」
カスパーは、井戸を覗き込み、しばらく考え込んでいた。
「灰環に、水を頼めるか、聞いてみるよ。今までも、何度か、水を融通してもらったことがある」
しかし、灰環からの水の供給は、その日を境に、ぱったりと滞るようになった。
巡回者が、農場に来る頻度が、明らかに減っている。
来ても、水を持ってこない。
「灰燼の谷の方角で、何かが動いている」
ある日、巡回者の一人が、カスパーにそう告げた。
「水脈が、おかしい。谷の周辺の井戸が、次々に枯れている。灰環の連中も、水の確保に手一杯で、ここまで回す余裕がないんだ」
カスパーは、腕を組んで、黙り込んだ。
エーリヒは、その会話を、少し離れた場所で聞いていた。
(灰燼の谷)
コロニー南西十五キロにある、深さ八十メートルの窪地。
過去の戦争で汚染が集中した場所で、汚染体の目撃例が多い。
(あそこで、何が起きている)
エーリヒの頭の中で、かつての政治家的な思考が、動き始める。
水の供給網。
交渉の優先順位。
資源の再分配。
(私なら、灰環との交渉で、より良い条件を引き出せる)
そう思った。
(私には、交渉の経験がある。連合調整局で、何度も、コロニー間の利害調整をしてきた)
だが、その経験を、ここで使うことはできない。
名乗れない。
素性を明かせない。
(私は、ここでは、ただの労働者だ)
エーリヒは、拳を握りしめた。
爪が、手のひらに食い込む。
(動けない。動きたくても、動けない)
もどかしさが、胸の奥で、黒く渦巻いていた。
その夜、エーリヒは、カスパーの小屋を訪ねた。
何か、言わなければならないことがあるような気がした。
だが、何を言えばいいのか、分からない。
小屋の扉の前で、立ち尽くす。
風が、雪を運んでくる。
凍てつく空気が、肺の奥まで入り込んでくる。
(私は、お前に、謝らなければならない)
(いや、謝って済むことではない)
(私は、お前の追放を、止めなかった)
(黙認した)
(あの投票の場で、私は、何も言わなかった)
扉に手をかける。
だが、開けることができない。
(名乗ったところで、何になる)
(私は、あの時、確かに、お前を見捨てた)
(その私が、今さら、何を言える)
エーリヒは、扉から手を離した。
雪が、肩に積もる。
翌朝、カスパーが、エーリヒに声をかけた。
「水の話をしよう」
エーリヒは、顔を上げた。
カスパーは、畑の方を指さしていた。
「井戸が枯れ始めてる。灰環からの水も、当分は期待できない。だから、自分たちで、どうにかするしかない。あんたにも、知恵を貸してほしい」
エーリヒは、カスパーの顔を見た。
琥珀色の瞳は、相変わらず、穏やかだった。
その瞳に、自分が映っている。
名も、地位も、何も持たない、一人の男が。
「……分かった」
エーリヒは、そう言って、畑の方へ歩き出した。
カスパーは、その隣に並んだ。
「あんたは、何か、考えがあるか?」
「井戸の水位が下がっているなら、まず、水脈の状態を調べる必要がある。それから、別の水源を探す。雪を溶かして水を作ることもできるが、燃料が必要だ。灰環との交渉は、こちらから出向く方がいい。待っていても、水は来ない」
エーリヒは、淡々と、自分の考えを述べた。
カスパーは、少し驚いた顔をした。
「……あんた、なかなか、頭が切れるな」
「昔、少し、こういうことを考えたことがある」
「そうか」
カスパーは、それ以上、深くは聞かなかった。
「じゃあ、まずは、井戸の水脈を調べるところからだな。俺は、この辺りの地盤には詳しい。あんたは、頭を使ってくれ。二人で、なんとかしよう」
エーリヒは、頷いた。
(私は、ここで、何ができる)
畑の雪が、朝の光を反射して、白く輝いている。
その光は、冷たく、しかし、どこか、清々しかった。
エーリヒは、カスパーの隣を歩きながら、初めて、この農場で、自分の居場所を見つけようとしていた。
名も、地位も、正しさも、何もかもを失った男に、残されたものは、ただ、体を動かすことと、考えることだけだった。
(それでいい)
エーリヒは、心の中で、そう呟いた。
(それで、いいはずだ)
雪は、まだ、降り続いていた。
外域の空は、今日も、灰色に閉ざされている。
だが、足元の土は、確かに、生きていた。
カスパーが守ってきた、この土だけは。
エーリヒは、その土を踏みしめながら、歩き続けた。
行く先に、何が待っているのかは、分からない。
水は、枯れかけている。
灰環の動きは、不穏だ。
灰燼の谷では、何かが起きている。
だが、今は、ただ、目の前の一歩を進むしかなかった。
雪の下で、小麦の根が、静かに、春を待っている。
エーリヒ・フォーゲルは、そのことを、初めて、自分のことのように感じていた。Noveliaとは?
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