正しき者の放浪
調整局での失態により、故郷グラーヴェンホルト・コロニーへと戻ることになったエーリヒ・フォーゲル。成功者として迎えられることを期待していた彼を待っていたのは、疲弊しきった故郷の現実だった。故障した配給読み取り機、底を突きかけた環流核の予備部品、追い詰められて追放される住民たち。そして、幼馴染であるカスパーとの間に横たわる、埋めようのない「違い」。父ヴィルヘルムの沈黙が、かつて議長として追放の投票を見届けてきた男の重い過去を物語る。帰郷三日目の夜、遠くの空が白く光った。地鳴りが壁を伝い、コロニーは静かに孤立への一歩を踏み出そうとしていた——。正しさとは何か、居場所とはどこにあるのか。疲弊した故郷と向き合う一人の男の、静かな放浪が始まる。
正しき者の放浪 - 名も問われぬ者——正しさの重みを抱えて
早春の風が、畑の土を撫でていった。
まだ冷たい。だが、雪が溶けた後の地面からは、かすかに湿った匂いが立ち上っていた。冬の間、凍てついていた土が、ゆっくりと息を吹き返す。その匂いを、エーリヒ・フォーゲルは肺の奥まで吸い込んだ。鼻腔の奥が、ちり、と痛んだ。冷気が歯の裏に触れる。
グラーヴェンホルト・コロニーを出てから、どれほどの日が経ったのか。
正確な日数は、もう数えていなかった。吹雪の中で行き倒れ、灰環の巡回者に拾われ、この農場に運び込まれてからは、時間の流れが以前とは違うものに感じられた。日付ではなく、日差しの傾きと、腹の減り具合と、体の痛みで一日を測る。そういう生き方に、少しずつ慣れ始めていた。朝、目が覚めるとまず肋骨の奥が疼き、次に指の節が軋む。それが、彼の暦だった。
「おい、そっちの袋、まだ運べるか」
声が飛んできた。振り向くと、カスパー・ブラントが畑の向こうから手を振っている。無造作な茶色の髪は、日に焼けて所々色が抜けていた。琥珀色の瞳が、遠くからでもはっきりと分かるほど、穏やかにこちらを見ている。
「ああ、問題ない」
エーリヒは短く答え、足元の麻袋を持ち上げた。中身は小麦の種籾だ。ずしりと重い。肩に担ぎ上げると、背筋に鈍い痛みが走った。外域をさまよった時に負った傷が、まだ完全には癒えていない。いや、傷だけではない。四十歳の体は、若い頃のようには動かなかった。袋の縄が肩の肉に食い込み、彼は奥歯を噛んだ。
それでも、彼は背筋を伸ばした。
伸ばす癖は、死に際になっても抜けないらしい。
畑の向こうまで袋を運び、地面に下ろす。息が上がった。額に汗が滲む。手のひらを見ると、まめが潰れて皮が剥けていた。政治家だった頃の自分の手とは、まるで違う手だ。あの頃は、書類に署名し、人と握手をし、演説のために拳を握る。そういう手だった。今は、土と汗と血が染み込んだ、労働者の手だった。皮のむけた箇所に、種籾の粉が張り付いている。
(それでいい)
エーリヒは心の中で呟いた。
(それで、いいはずだ)
カスパーが近づいてきた。手には、くわを持っている。作業着は泥だらけで、左腕に小麦の穂を模した古い刺青が覗いていた。少年の頃からあったものだ。あの刺青を入れた日のことを、エーリヒは覚えている。二人でフェンスの上に座り、外の世界のことを語り合った。明るい世界を作るのだと、子供の無邪気さで信じていた。刺青のインクは、歳月で青く滲み、輪郭がぼやけていた。
「井戸の様子がおかしいんだ」
カスパーが、くわの先で地面を軽く突きながら言った。
「水位が、また下がってる。このままじゃ、灌漑に使う水が足りなくなる。灰環からの水も、当分は来そうにない」
「分かっている。昨日、水がめを確認した。残りは、あと数日分だろう」
「あんた、よく見てるな」
カスパーが、少し驚いたように目を丸くした。その表情は、少年の頃と少しも変わっていない。無邪気で、人を疑うことを知らない。エーリヒは、その顔を直視できなかった。自分の視線を、乾いた土の割れ目に落とした。
「……井戸の底を、調べてみる必要がある」
エーリヒは、カスパーの視線から逃れるように、井戸の方へ歩き出した。
井戸は、農場の北東の隅にあった。石組みの古い井戸で、カスパーがこの土地に根を張ってから、ずっと使い続けてきたものだという。外域では、地面を掘っても汚染された水しか出ないことが多い。だが、この井戸は違った。地下深くの水脈から、まだ澄んだ水を汲み上げることができた。それが、この農場の生命線だった。
エーリヒは井戸の縁に手をかけ、中を覗き込んだ。
暗い。
水面は、はるか下の方で、わずかに光を反射している。水位は、以前より明らかに下がっていた。石壁には、黒い染みが広がっている。水が減ったことで、普段は水に隠れていた部分が露出しているのだ。染みの縁は白く乾き、石の目地が浮き彫りになっていた。
「ロープを降ろす。底まで行って、亀裂がないか見てくる」
「危険だぞ。底は狭いし、足場も悪い」
「構わない。私が行く」
エーリヒの声には、有無を言わせない響きがあった。かつて、会議の場で反対意見を封じ込めてきた時の、あの声だ。カスパーは、少しだけ眉をひそめた。だが、それ以上は何も言わず、倉庫からロープと滑車を持ってきて、井戸の上に組み立て始めた。金属の滑車が、乾いた音を立てて回る。
エーリヒは、ロープを腰に巻き付けた。結び方は、外域で灰環の巡回者から教わったものだ。体を支える輪を作り、滑車に通したロープを、カスパーがゆっくりと送り出す。
「行くぞ」
「ああ」
体が、暗闇の中へ沈んでいく。
井戸の内側は、思ったよりも冷たかった。石壁から染み出した水が、指先を濡らす。空気は重く、カビと土と、わずかに鉄の匂いが混ざっていた。上を見上げると、井戸の入り口が、小さな光の輪になっている。カスパーの顔が、その光の中に、ぼんやりと浮かんでいた。輪が、じわりと縮んでいく。
(私は今、かつて自分が追放を黙認した男に、命綱を預けている)
その事実が、不意に胸の奥に重くのしかかった。ロープが、腰の骨に食い込む。
(あの男が、ロープを放したら、私はここで死ぬ)
(だが、あの男は、そんなことをしない)
(あの男は、私が誰かを知らない。知らないまま、私を助けている)
ロープが、少しずつ下がっていく。
やがて、足先が水面に触れた。冷たい。底は、思ったよりも浅い。水位が下がっているため、膝下まで水に浸かる程度だ。エーリヒは、慎重に足場を探りながら、井戸の底に降り立った。泥が、長靴の底でぬめる。
水は、くるぶしの上まで来ていた。長靴の中に、じわりと冷たさが染み込んでくる。
「どうだ!」
上から声が降ってくる。井戸の壁に反響して、くぐもって聞こえた。
「まだ何とも言えない。壁を調べる」
エーリヒは、腰のランプに火を点けた。小さな炎が、井戸の底を照らし出す。石壁は、黒ずんだ苔に覆われていた。水が減ったことで、普段は見えない部分が露出している。エーリヒは、壁に手を当て、ゆっくりと指を滑らせた。苔が、指の腹で潰れる。
指先が、何かに触れた。
石と石の隙間だ。
いや、違う。
これは、亀裂だ。
エーリヒは、ランプを近づけた。壁の一部が、縦に裂けている。幅は、指一本分ほど。そこから、水がじわじわと滲み出ていた。亀裂は、井戸の底から、壁を伝って上へと続いている。
(地盤沈下だ)
エーリヒは、直感的にそう判断した。井戸の周辺の地盤が沈下し、水脈を押しつぶしている。その結果、水の流れが変わり、水位が下がっているのだ。
だが、それだけではない。
エーリヒは、亀裂の奥に、何かが挟まっているのに気づいた。
指を突っ込んで、それを取り出す。爪の間が、黒い泥で埋まる。
金属片だった。
手のひらに載せて、ランプの光に当てる。銀色に鈍く光る、小さな破片だ。表面には、細かい溝が刻まれている。機械加工の跡だ。自然にできたものではない。
エーリヒは、息を呑んだ。喉の奥が、ひゅ、と鳴った。
(これは……)
心臓が、胸の奥で激しく脈打つ。
(環流核の部品と、同じ材質だ)
彼は、グラーヴェンホルト・コロニーで、環流技術の老朽化を目の当たりにしてきた。技術者団の詰所で、交換部品の金属片を見たことがある。あの時、手に取った部品と同じ、微細な溝。同じ、鈍い銀色の輝き。
(なぜ、こんなものが、外域の井戸の底に)
エーリヒは、亀裂の向きを確かめた。ランプの光を、壁に沿って動かす。亀裂は、井戸の底から、南西の方角へ向かって伸びている。
南西。
あの方角には、灰燼の谷がある。
かつての戦争で汚染が集中した場所。調査隊が全滅した記録が残る、危険地帯。最近、あの谷で、汚染体の目撃例が増えているという。
(水脈の異変は、あの谷と繋がっているのか)
エーリヒは、金属片を握りしめた。指の骨が、白くなる。
(環流核の部品が、なぜ外域に)
(いや、環流核そのものが、もしかしたら)
思考が、加速していく。政治家として培ってきた分析力が、断片的な情報を繋ぎ合わせようとしていた。だが、それを口にすることはできない。自分が環流技術に詳しいことを、カスパーに知られてはいけない。知られれば、素性を問われる。なぜ、外域で倒れていた男が、コロニーの最高機密である環流技術を知っているのか、と。
エーリヒは、金属片を懐に隠した。胸骨の裏に、冷たい重みが当たる。
それから、ロープを引いて、上へ上がる合図を送った。
「どうだった」
井戸の縁に手をかけ、這い上がってきたエーリヒに、カスパーが尋ねた。
「壁に亀裂があった。地盤沈下の痕跡だ。水脈が、押しつぶされている」
「やっぱりか」
カスパーは、深く息を吐いた。疲れたような、それでいて、どこか諦めのような表情だった。
「この辺りの地盤は、昔から不安定なんだ。灰燼の谷の近くは、特に。あの谷で何かが起きると、必ず、こっちの水脈にも影響が出る」
「灰燼の谷で、何が起きている」
「さあな。巡回者たちの話じゃ、最近、谷の入り口で汚染体の目撃が増えてるらしい。水脈そのものも、汚染され始めてるって話だ」
カスパーは、井戸の縁に腰を下ろし、遠くの空を見た。
「あんたを拾った日も、巡回者たちが言ってたよ。谷の方向から、変な音が聞こえるって」
エーリヒは、何も言えなかった。
懐の中の金属片が、冷たく、重く、胸に食い込んでいた。
午後になると、灰環の巡回者たちが農場を訪れた。
三人組だった。皆、分厚い防寒着に身を包み、顔の下半分を布で覆っている。背には、改造した猟銃や、刃の欠けた鉈を背負っていた。外域を移動する者たちの、典型的な装備だ。革の帯が、古い傷のように軋む。
カスパーは、農場の小屋に彼らを招き入れた。小屋の中は、土間になっていて、壁際に農具が立てかけてある。中央には、粗末な木の机が一つ。カスパーは、巡回者たちに、水で薄めた麦茶を出した。
「水の話だ」
リーダー格の男が、布を外して言った。四十代半ば。顔には、古い火傷の痕があった。左目は白く濁り、光を失っている。
「灰燼の谷の入口で、汚染体の群れが確認された。数は、少なくとも二十。いや、もっとかもしれん。あいつら、水脈の近くに集まってきてる」
「水脈が、汚染されてるってことか」
「ああ。谷の底から、汚染された水が流れ出してる。あの水が、地下水脈に混ざってるんだろう。このままじゃ、お前の井戸も、遅かれ早かれ使えなくなる」
エーリヒは、小屋の隅で、黙って話を聞いていた。
(汚染体が、水脈の近くに集まっている)
(水脈の異変が、灰燼の谷と繋がっている)
(そして、井戸の底で見つけた金属片)
頭の中で、ピースが、ゆっくりと、しかし確実に、一つの絵を形作り始めていた。
「それで、水はどうするんだ。こっちも、もう限界だ」
カスパーの声は、相変わらず穏やかだった。だが、その穏やかさの奥に、切迫したものを感じる。エーリヒには分かった。カスパーは、この農場を守るために、どんな条件でも飲むつもりでいる。
「水を回すことはできる。ただし、条件がある」
巡回者は、机の上に身を乗り出した。
「小麦だ。お前の小麦を、俺たちに優先的に回してほしい。それと、護衛だ。灰燼の谷の近くまで、水を運ぶ護衛を出してほしい。道中、汚染体に襲われる危険がある。人手が足りないんだ」
「護衛……」
カスパーは、腕を組んで考え込んだ。
「畑を離れることになる。今の時期は、種まきの準備で、一番人手が要る。だが、水がなければ、そもそも種も蒔けない」
「分かってるなら、話は早い」
「……分かった。護衛を出す。ただし、俺が直接行く。あんたたちと一緒に、灰燼の谷の近くまで」
「お前がか?」
巡回者が、意外そうに目を見開いた。
「ああ。畑のことは、他の者に任せる。俺が行けば、道案内にもなる。この辺りの外域は、俺が一番詳しい」
エーリヒは、カスパーの横顔を見た。
(こいつは、いつもそうだ)
(自分の危険を、まるで考えない)
(損得を考えず、他人のために動く)
(そして、そのせいで、いつも孤立する)
かつて、地下区画への避難を拒否し、地上に残ると主張した時も、そうだった。カスパーは、自分の命よりも、小麦と、別の避難路を守ることを選んだ。そして、追放された。
エーリヒは、その追放を、止めなかった。
黙認した。
「それなら、俺も行く」
気がつくと、口が動いていた。自分の声が、他人の声のように耳に届く。
カスパーが、驚いた顔でこちらを見る。巡回者たちも、一斉にエーリヒに視線を向けた。
「あんたは、無理しなくていい。外域の道は、危険だぞ」
「危険なのは、分かっている。だが、水がなければ、この農場は終わりだ。それに、私も、少しは役に立ちたい」
(役に立ちたい、だと)
(私が、何を言っている)
(私は、この男の追放を黙認した張本人だ)
(その私が、今さら、何の役に立つというのか)
カスパーは、しばらくエーリヒの顔を見ていた。琥珀色の瞳が、静かに、しかし深く、こちらを見つめている。エーリヒは、まばたきをしなかった。
「……分かった。じゃあ、あんたも来てくれ。ただし、無理はするなよ」
「ああ」
エーリヒは、短く頷いた。
胸の奥で、何かが軋む音がした。
それは、罪悪感というには、あまりにも鈍い痛みだった。
翌朝、エーリヒとカスパーは、灰環の巡回者たちと共に農場を出発した。
空は、相変わらず灰色に閉ざされていた。早春とはいえ、外域の空気は冷たく、風が吹くたびに、肌がひりつく。地面は、雪解けでぬかるみ、一歩踏み出すごとに、靴底が泥に吸い付いた。足を抜くたびに、粘つく音がした。
一行は、灰燼の谷の外縁部へ向かって、南西に進んだ。
巡回者たちは、慣れた足取りで、見た目には何の目印もない荒野を進んでいく。時折、立ち止まっては、地面に耳を近づけたり、風の匂いを嗅いだりしていた。外域で生き延びるための、彼らなりの知恵なのだろう。
カスパーも、彼らに負けず劣らず、外域の道に詳しかった。
「この先に、古い水路がある。水脈に沿って掘られた、廃墟の名残だ。そこを伝っていけば、谷の入口まで、比較的安全に近づける」
カスパーは、地図も持たずに、そう言った。彼の頭の中には、この外域の地図が、克明に刻み込まれているのだろう。
(こいつは、追放されてから、この土地で生き延びてきた)
(一人で、この過酷な外域を、歩き回って)
(小麦を育て、灰環と繋がり、避難路まで掘った)
エーリヒは、カスパーの背中を見ながら、自分の足の遅さを恥じた。政治家として、会議室で決断を下すことには慣れていた。だが、外域を歩くことには、まるで慣れていない。足が重く、呼吸が乱れる。何度も、ぬかるみに足を取られそうになった。
「大丈夫か」
カスパーが、振り返って声をかけた。
「問題ない」
エーリヒは、息を整えながら答えた。
「無理するなよ。あんた、まだ本調子じゃないだろ」
「……すまない」
「謝ることなんてないさ。俺だって、最初はそうだった。外域の歩き方は、体で覚えるしかない。まあ、いいさ。土が教えてくれた」
カスパーは、そう言って、また前を向いた。
エーリヒは、カスパーの口癖を、懐かしく聞いていた。
(土が教えてくれた、か)
(こいつは、昔から、そういう男だった)
(理屈ではなく、体で、経験で、物事を理解する)
(私とは、正反対だ)
灰燼の谷の外縁に近づくにつれて、空気が変わってきた。
風に混じって、異臭が漂い始めた。腐敗した植物と、金属が錆びる匂い。それから、もっと別の、何かが焦げたような匂い。エーリヒは、思わず口元を覆った。胃の奥が、小さく痙攣した。
「ここから先は、警戒しながら進むぞ」
巡回者のリーダーが、声を潜めて言った。
「汚染体は、音に敏感だ。できるだけ、物音を立てるな。銃は、いつでも撃てるようにしておけ」
エーリヒは、背筋を伸ばした。心臓が、胸の奥で、ゆっくりと、しかし力強く脈打っている。
(汚染体)
(外域に適応して変質した生物。あるいは、元人間だったもの)
(遭遇したら、逃げるのが鉄則)
(だが、逃げられるのか)
一行は、古い水路の跡に沿って、慎重に進んだ。水路は、かつての文明の遺物だった。コンクリートの壁はひび割れ、ところどころ崩れ落ちている。水は、黒く濁り、異臭を放っていた。
「この水は、もう使えないな」
「ああ。完全に汚染されてる」
「やっぱり、谷から流れてきてるんだ。この水路は、谷の底に繋がってる」
エーリヒは、黒い水を見つめた。
(この水が、地下水脈に混ざっている)
(そして、カスパーの井戸も、同じ水脈から水を汲んでいる)
(時間の問題だ)
その時だった。
ザッ。
遠くで、何かが動く音がした。
「止まれ」
リーダーが、手を上げて、一行を止めた。
全員が、息を潜める。
風が、異臭を運んでくる。
ザッ。ザッ。ザッ。
音が、近づいてくる。
一つではない。
複数だ。
「……群れだ」
巡回者の声が、低く震えた。
「走れ。谷の入口から、離れるんだ」
その瞬間、前方の廃墟の陰から、黒い影が飛び出してきた。
四つ足の生き物だった。いや、四つ足だったもの、と言うべきか。体は毛皮ではなく、黒い鱗のようなもので覆われている。頭部には、目のようなものが、いくつも並んでいた。口は、耳まで裂け、鋭い牙が覗いている。
「グァァァァァッ!」
汚染体が、耳をつんざくような咆哮を上げた。
「撃て!」
巡回者たちが、一斉に銃を発砲した。銃声が、荒野に響き渡る。弾丸が、汚染体の鱗に当たって、火花を散らした。だが、汚染体は、ひるまない。
「効いてない! 硬すぎる!」
「逃げるぞ! こっちだ!」
カスパーが、エーリヒの腕を掴んで、走り出した。指が、腕の肉に食い込む。
「待て、どこへ行く!」
「いいから、来い! 近くに、隠れられる場所がある!」
カスパーは、外域の荒れ地を、迷いなく駆け抜けていった。エーリヒは、必死にその後を追う。肺が、焼けつくように痛い。足が、もつれる。それでも、カスパーの手を離すわけにはいかなかった。
後ろから、汚染体の咆哮と、巡回者たちの銃声が聞こえる。
「こっちだ!」
カスパーが、崩れかけた廃墟の壁の前に立ち止まった。壁には、鉄の扉が埋め込まれている。カスパーは、扉の横の石を動かし、隠されていたレバーを引いた。
ゴゴゴゴ……
重い音を立てて、鉄の扉が開いた。
「入れ!」
エーリヒは、カスパーに押し込まれるようにして、扉の向こうに飛び込んだ。カスパーも続いて入り、内側から扉を閉めた。
暗闇が、二人を包んだ。
「……ここは」
エーリヒは、荒い息を整えながら、周囲を見回した。
目が慣れてくると、ここが地下へと続く通路になっているのが分かった。壁は、コンクリートで補強され、天井には、古い照明器具が並んでいる。通路の奥からは、かすかに、水の流れる音が聞こえてきた。
「避難路だ」
カスパーが、壁に手を当てながら言った。
「俺が、追放されてから、一人で掘り続けてきた。外域で生き延びるための、隠し場所だ。地下貯蔵庫に繋がってる。種籾と、予備の水が、少しだけ蓄えてある」
エーリヒは、言葉を失った。
(これが、カスパーが守ろうとした避難路)
(あの夜、私が、地下へ降りることを拒否したカスパーが、それでも一人で、命綱を作っていた)
(私の判断が、届かなかった場所で)
(私の判断に、代わるものを)
カスパーは、ランプを点けた。小さな炎が、通路を照らし出す。壁には、つるはしで掘った跡が、無数に残っていた。一人で、どれほどの時間をかけて、この通路を掘ったのか。エーリヒには、想像もつかなかった。爪先で、壁の削り跡をなぞる。溝は、指の腹にざらりと引っかかった。
「あんたを拾った時も、ここを通ったんだ。吹雪の中で、あんたを運ぶのに、地上を歩くのは危険だったからな」
「……そうか」
エーリヒは、それ以上、何も言えなかった。
(私は、この男の命綱に、救われたのか)
(私が、追放を黙認した男の、命綱に)
通路の奥へ進むと、小さな地下貯蔵庫があった。壁際には、麻袋に入った小麦の種籾が積み上げられ、木箱には、水の入った容器が並んでいる。カスパーは、その一つを手に取り、エーリヒに差し出した。
「飲め。落ち着く」
エーリヒは、水を受け取った。
冷たかった。
喉を通る水が、全身に染み渡る。生き返るような感覚だった。容器の縁が、唇に当たって、冷たく弾けた。
「……助かった」
「まあ、いいさ。あんたが無事で、何よりだ」
カスパーは、そう言って、笑った。
その笑顔は、少年の頃と、少しも変わっていなかった。
エーリヒは、その笑顔を、直視することができなかった。
汚染体の群れが去るまで、二人は地下貯蔵庫で待った。
数時間後、地上に出ると、巡回者たちの姿はなかった。銃声も、咆哮も、もう聞こえない。彼らは、無事に逃げ延びたのか、それとも。
「……戻ろう」
カスパーは、静かに言った。
「巡回者たちは、ああ見えて、しぶとい。心配するな。それに、水の交渉は、また別の機会にすればいい」
エーリヒは、頷いた。
農場への帰路、二人は、ほとんど言葉を交わさなかった。
風が、外域の砂塵を巻き上げて、灰色の空を舞わせていた。砂の粒が、頬に細かく当たる。
エーリヒは、懐の中の金属片を、何度も指で確かめた。
(この金属片のことを、カスパーに話すべきか)
(いや、話せば、素性を問われる)
(環流技術の知識を、なぜ持っているのか、と)
(私は、それに答えられない)
(答えたくない)
(答える資格がない)
夕方、農場に戻ると、カスパーは、労働者たちに水を配り始めた。
井戸の水は、さらに減っていた。バケツで汲み上げられるのは、泥の混じった、わずかな水だけだ。それでも、カスパーは、一人一人に、平等に水を分け与えた。
「すまない。今日は、これだけだ」
「いや、カスパーさん。あんたは、いつも自分を後回しにする。少しは、自分の分も残しなよ」
「俺は、大丈夫だ。土が教えてくれた。水は、明日になれば、また湧くかもしれない」
カスパーは、そう言って、笑った。
だが、その笑顔には、疲労の色が濃く滲んでいた。目の下の隈が、薄暮の中でもはっきりと見えた。
エーリヒは、その背中を見ていた。
(この男は、いつも、こうだ)
(自分のことを、最後に回す)
(そして、誰にも頼らない)
(私とは、正反対だ)
夜が来た。
エーリヒは、農場の片隅で、一人、空を見上げていた。
外域の空は、今日も、星一つ見えない。灰色の雲が、厚く、低く、空を覆っている。
(私は、かつて、正しさを振るった)
(人々を救うために、正しい決断を下した)
(その結果、コロニーは崩壊した)
(そして、私は、この男の小麦畑に救われた)
(この男の畑は、今、危機に瀕している)
(水が枯れ、汚染が迫り、灰環との交渉も決裂した)
(それなのに、私は、何もできない)
(かつての私なら、数瞬で条件を整理し、合意をまとめただろう)
(だが、今の私は、名も地位もない、ただの労働者だ)
(交渉の場に同席しても、口を挟むことさえできない)
(私に残されたものは、何だ)
エーリヒは、懐から金属片を取り出した。
月明かりもない暗闇の中で、金属片は、かすかに、しかし確かに、銀色の光を放っていた。
(これは、環流核の部品だ)
(環流技術は、コロニーの生命線だ)
(その部品が、なぜ、外域の井戸の底に)
(そして、灰燼の谷の異変と、どう繋がっている)
(私には、分かる)
(私には、分かってしまう)
(だが、それを、誰に話せばいい)
(誰が、名も知らぬ労働者の言葉を信じる)
エーリヒは、金属片を握りしめた。
冷たい。
硬い。
この金属片は、かつて私が守ろうとした世界の、残骸だ。
(それでも、私は、ここで生き延びる)
(名も問われぬまま、正しさの重みだけを抱えて)
翌朝、エーリヒは、カスパーのもとへ行った。
カスパーは、井戸の前に立っていた。乾いた畑を見つめ、小麦の穂を、そっと手で確かめている。その背中は、昨日よりも、さらに小さく見えた。穂の先が、乾いた風に揺れる。
「カスパー」
エーリヒは、意を決して、声をかけた。
「これを見てほしい」
エーリヒは、懐から金属片を取り出し、カスパーに差し出した。
カスパーは、金属片を受け取り、まじまじと見つめた。
「井戸の底で見つけた。亀裂の中に、挟まっていた」
「……これは」
「機械加工の跡がある。自然にできたものじゃない。それに、この金属は、特殊な合金だ。高温にも、腐食にも強い。こんなものが、井戸の底にあるのは、おかしい」
エーリヒは、淡々と説明した。
「井戸の亀裂は、南西の方角に伸びている。あの方角には、灰燼の谷がある。水脈の異変は、谷と繋がっている。そして、この金属片は、その水脈の異変と、何か関係があるかもしれない」
カスパーは、金属片を、じっと見つめていた。
「……あんた、ただの倒れていた男じゃないな」
カスパーが、静かに呟いた。
エーリヒは、何も言えなかった。
(今だ)
(今、名乗ればいい)
(私は、エーリヒ・フォーゲルだ)
(お前を追放した、あのコロニーの、元政治家だ)
(お前の追放を、黙認した男だ)
(そう言えばいい)
(だが、言えない)
(喉が、塞がっている)
(追放を黙認した者としての重みが、喉の奥で、言葉を押しつぶしている)
カスパーは、金属片を、エーリヒに返した。
「これを、井戸の底に戻しておいてくれ。誰にも見つからないように」
「……なぜ」
「灰環の連中に、知られたくない。あいつらは、こういう物に、異常に敏感だ。環流技術の部品が外域にあると知れたら、何が起きるか分からない。騒ぎになる。この農場の平穏が、壊れる」
「しかし、これは、重要な手がかりかもしれない」
「あんたの言う通りかもしれない。だが、今は、まだ。俺たちにできることは、この畑を守ることだけだ。水を確保して、小麦を育てて、生き延びる。それ以外のことは、考えない」
カスパーは、エーリヒの目を、真っ直ぐに見た。
「あんたが誰でも、あんたは、この農場で、俺と一緒に働いてる。それだけで、十分だ」
エーリヒは、カスパーの言葉を、胸の奥で反芻した。
(あんたが誰でも)
(それだけで、十分だ)
(この男は、私が誰かを知らない)
(知らないまま、私を受け入れている)
(赦しでも、詮索でもない)
(ただ、共に生きる者として、私を見ている)
エーリヒは、金属片を握りしめた。
「……分かった。井戸の底に、戻しておく」
「頼む」
カスパーは、そう言って、また畑の方を向いた。
エーリヒは、井戸に向かって歩き出した。
ロープを腰に巻き、井戸の底へ降りる。
冷たい水が、足を濡らす。
亀裂の中に、金属片を、元の場所へ戻した。指先が、石の縁に触れて、止まる。
(これでいい)
(私は、この男の言葉に、黙って従った)
(名を明かす機会を得ながら、結局、黙って従った)
(赦しでも告白でもない)
(名も問われぬ共犯のような、静けさの中で)
エーリヒは、井戸の底で、しばらく動けなかった。
上を見上げると、井戸の入り口が、小さな光の輪になっていた。
その光は、遠く、冷たく、しかし、確かに、そこにあった。
夕方、エーリヒは、井戸から上がり、農場の作業に戻った。
麦の袋を運び、土を耕し、種籾を選別する。
名も問われぬ労働者としての一日が、淡々と過ぎていく。
カスパーは、エーリヒに、それ以上、何も聞かなかった。
ただ、時折、エーリヒの方を向いて、穏やかな笑顔を見せるだけだった。
エーリヒは、その笑顔に、安堵と、寂しさを、同時に感じていた。
(この男は、私を、友人だと思っている)
(その思いを、口にしないまま)
(私もまた、自分が何者かを、明かさないまま)
(それでいい)
(それで、いいはずだ)
夜が来た。
農場の井戸は、完全に枯れた。
カスパーは、労働者たちに、最後の水を配った。バケツの底が、乾いた音を立てる。
「すまない。これで、本当に最後だ」
「カスパーさん、あんたの分は」
「俺は、いい。明日、灰環の連中に、もう一度、交渉してみる」
カスパーは、乾いた畑に立って、小麦の穂を確かめた。
穂は、まだ青い。
だが、水がなければ、この穂は、やがNoveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。