反骨のグレイ~魔族の少女は奴隷から這い上がる~
魔族というだけで人間に狩られ、奴隷に堕とされた少女・グレイ。角を持つその身に刻まれたのは、焼き印と鎖、そして屈辱の記憶だけだった。
グランヴェルド――大陸最大の奴隷貿易都市。そこでは魔族は「動く財産」でしかなく、抵抗すれば踏みにじられ、黙れば喰い物にされる。オークションで売れ残ったグレイに目をつけたのは、闘技場の興行主ヴァルド。与えられたのは錆びついた短剣一本と、猛獣の待つ死の檻だった。
絶望の底で、彼女の暗い紫の瞳に宿るのは諦めではなく、燃えるような殺意。
――奪われたものは、全部奪い返す。
――私を踏みつけた奴らは、いつか必ずこの手で殺す。
生き延びるためではない。喰らい尽くすために、少女は牙を剥く。
鎖に繋がれた「角の奴隷」が、血と砂の闘技場で、人間たちの作った地獄そのものを喰い破っていく――。
これは、奪われた少女が、奪う側へと成り上がる、復讐と解放の物語。
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反骨のグレイ~魔族の少女は奴隷から這い上がる~ - 弱者の理屈
剣闘士用の房は、地下牢よりはいくらかマシだった。
石壁は相変わらず冷たく湿っていたが、床には薄い藁が敷かれ、木の寝台があった。食事も、エサの頃の腐りかけたパンと水ではなく、固い黒パンと薄いスープ、時には塩気のある干し肉が出た。体を動かすための、最低限の燃料。
グレイは房の隅に座り、膝を抱えていた。
支給された長剣が、手の届く場所に立てかけてある。刃渡り九十センチの鉄の塊。木の盾も、革の防具も、額の銅プロテクターも、すべて興行主ヴァルドの貸与品だ。
(私のものは、何一つない)
首に手をやる。黒鉄の首輪。重く、冷たく、肌に食い込む。鍵はヴァルドが持っている。外れることはない。
胸の烙印も、服の下でじくじくと疼いていた。焼き鏝で押された、奴隷の印。この二つが、彼女が誰の所有物かを、常に黙らせずに語りかけていた。
房の外から、足音が近づいてくる。
革靴の底が石畳を叩く、規則正しい音。やがて鉄格子の向こうに、無精髭を生やした大柄な男が立った。濃紺のマントに銀の胸章。腰には鞭。あの憲兵だった。
「おい、ガキ」
グレイは顔を上げなかった。
「訓練場に行く時間だ。立て」
返事をしない。憲兵は鉄格子を蹴った。ガン、と音が響く。
「聞こえてんだろ、クソ魔族。てめぇの返事待ってるんじゃねえんだよ。さっさと立て」
グレイはゆっくりと立ち上がった。長剣を手に取る。重い。だが、この重さに慣れてきた自分がいた。
憲兵が房の鍵を開ける。グレイが外に出ると、憲兵はわざとらしく鼻をつまんだ。
「くせぇな。洗えよ、汚ねえ奴隷が」
グレイは無言で歩き出した。憲兵が後ろからついてくる。その気配だけで、首筋がむずむずした。
(こいつは、私を踏みつけた)
(私が何もできなかった時、後頭部を踏みつけて、笑った)
あの感触を、グレイは忘れていない。砂の上に這いつくばって、憲兵の靴底に頭を押さえつけられた。鼻に血が流れ込み、口の中に砂が入った。観客の笑い声が遠くに聞こえた。
(いつか、殺す)
心の中で、静かに、しかし確かに、その言葉が燃えた。
訓練場は、闘技場の地下にある広い空間だった。
天井は高く、壁には燭台が並び、揺らめく炎が土の床を照らしていた。空気は汗と土埃と、かすかな血の匂いが混ざっている。剣闘士たちが集まっていた。新人もいれば、何戦も生き延びた古参もいる。
グレイが入っていくと、いくつもの視線が突き刺さった。
「反骨のグレイだ」
誰かが小声で言った。
「あの魔族のガキか。マンティコアを殺したって」
「人間の犯罪奴隷も、四人まとめてだ」
「へえ……見た目は、ただのガキじゃねえか」
ひそひそと交わされる言葉。値踏みする視線。グレイはそれらを無視して、訓練場の中央へ歩いた。
そこに、隻眼の男が立っていた。
歳は五十を過ぎている。髪は白く、顔には深い傷がいくつも刻まれていた。右目は潰れて閉じられ、代わりに黒い眼帯をしている。元剣闘士。今は新人たちに剣を教える教官だ。
「集まったな」
低く、落ち着いた声だった。
「俺は教官だ。名前はどうでもいい。これからお前たちに、剣闘士として生き延びるための技術を教える」
教官はゆっくりと、集まった新人たちを見渡した。その視線がグレイに止まった。
「剣闘士の仕事は、殺し合いだけじゃない」
教官は言葉を続けた。
「観客を楽しませる。それも仕事のうちだ。一瞬で終わる殺し合いは、観客を飽きさせる。互いの技を見せ合い、緊迫した戦いを演出し、盛り上げる。そして、勝敗が決したら、それ以上はやらない」
グレイは黙って聞いていた。
「俺が教えるのは、相手を殺す技術だけじゃない。互いの安全を守る技術だ。剣闘士同士の試合で、必要以上に相手を傷つけない。武器を落とした相手に、とどめを刺すかどうかは勝者の自由だが、真っ当な剣闘士は刺さない」
教官の隻眼が、新人たちを順番に見た。
「なぜだか分かるか? 剣闘士は、使い捨てのエサとは違う。長く現役として戦い、稼ぎ続ける。それが、この闘技場で生き延びる道だ。互いに殺し合っていては、誰も残らない」
その言葉に、グレイの奥歯が、ぎり、と鳴った。
(安全を守る技術)
(互いに殺し合わない)
(長く生き延びる)
グレイの手が、長剣の柄を握りしめた。
「……弱者の理屈だ」
声が、静かに訓練場に落ちた。
教官の隻眼が、グレイに向く。
「なんだと?」
「観客を楽しませる? 安全を守る? ふざけるな」
グレイは一歩、前に出た。
「試合は殺し合いだ。勝った方が生きて、負けた方が死ぬ。それだけだ。観客がどう思おうが、関係ない。私が殺すのは、私の邪魔をする奴だ」
訓練場の空気が、張り詰めた。
新人たちが息を潜める。教官はしばらくグレイを見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「そういう考え方もあるだろう。だが、それが通じるのは、お前が勝ち続けられる限りだ。一度負ければ、お前は死ぬ。そして、その考え方が、仲間を殺すことにも繋がる」
「仲間なんて、いない」
きっぱりと言い放った。
「私は一人で戦う。誰の助けも借りない。誰にも頼らない。だから、安全を守る技術なんて、必要ない」
教官の顔から、表情が消えた。
「そうか。ならば、その自信が本物か、確かめてみよう」
教官は傍らの木剣を手に取った。
「模擬試合だ。お前の言う通り、手加減はしない。かかってこい」
グレイは長剣を構えた。
(手加減しない? 望むところだ)
二人の間に、殺気が満ちる。
教官が、動いた。
木剣が、まっすぐにグレイの顔面を狙って突き出される。速い。だが、グレイはそれを読んでいた。
(この男の立ち方、重心の置き方、剣の握り)
(最初の一歩で、どこを狙うか分かる)
グレイは体を沈めて木剣を避け、長剣を下から斬り上げた。
ガキン!
教官が木剣で防ぐ。衝撃が手に伝わる。教官の隻眼が、わずかに見開かれた。
「ほう……速いな」
「喋ってる暇があるのか」
グレイは踏み込んだ。長剣を横に薙ぐ。教官が後ろに下がる。だが、グレイは止まらない。二撃、三撃、四撃。休むことなく攻め続ける。
教官の顔に、焦りが浮かんだ。
(こいつ、攻めが止まらない)
(いや、それ以上に——)
グレイの剣が、教官の木剣を弾き飛ばした。
カラン、と木剣が土の床に落ちる。
教官の体が、大きく仰け反った。グレイはその隙を逃さなかった。長剣を振りかぶり、教官の頭めがけて振り下ろす。
——殺す。
その瞬間、グレイの腕が、後ろから強く掴まれた。
「そこまでにしておきなよ」
声は、明るく、軽やかだった。
グレイは振り返った。
そこに立っていたのは、一人の女だった。
長く艶のある黒髪が、燭台の光を反射して輝いている。褐色の肌に、長く尖った耳。ダークエルフ。魔族同様に、人類から忌み嫌われる種族の女。
頭には金の月桂冠を戴き、黒地に金糸のコルセットが、豊満な胸とくびれた腰を強調していた。腰には短い布を巻き、太腿がむき出しになっている。肩から背中にかけて、いくつもの細い金の鎖が肌に沿って垂れていた。
そして、背中には、異様なものを見た。
処刑用の大剣。
刃渡りは、グレイの身長ほどもある。幅広で、分厚く、先端がわずかに曲がっている。首を斬り落とすための、断頭台の刃のような剣。それを、この女は背中に背負っていた。
「ここで殺しは、どうかと思っただけさ」
女は人懐っこく笑った。
「模擬試合なんだろ? 教官が死んじまったら、新人の教育係がいなくなっちまう」
グレイは女の手を振り払おうとした。だが、腕を掴む力が、びくともしない。
(こいつ、強い)
女の手から逃れようと力を込める。しかし、まるで鉄の輪に嵌められたようだった。
「放せ」
「おっと、失礼」
女はあっさりと手を離した。グレイは距離を取って、長剣を構え直す。
「あんた、面白いね。新人だろ? 名前は?」
「……お前には関係ない」
「そうかい。まあ、いいさ。あたしはセラフィナ。ここの剣闘士だよ」
セラフィナ。その名前が、訓練場に響いた瞬間、空気が変わった。
新人たちが、一斉にざわめく。
「セラフィナ……あの、凶刃の女王が」
「なんで、こんなところに……」
「やばい……あの人、本当にいたのか」
グレイは初めて聞く名前だった。だが、周囲の反応が、その女がただ者ではないことを雄弁に物語っていた。
教官も、顔色を変えていた。
「セラフィナ……お前、なぜここに」
「ちょっとね。新しい玩具が入ったって聞いて、見に来たのさ」
セラフィナは、グレイをじっと見つめた。その金色の瞳は、怪しい輝きを宿している。
「あんた、さっきの試合、見てたよ。いいねえ。あの殺気。あの目の色。あたし、あんたみたいな子、好きだよ」
グレイは警戒を解かなかった。
「で、あんた。あたしと試合しない?」
「……なに?」
「あたしと戦って、勝ったら、興行主に口添えしてやるよ。あんた、もっと良い条件で戦えるようになるかもしれない。悪い話じゃないだろ?」
セラフィナは、まるで茶飲み話でもするような気軽さで言った。
グレイは、セラフィナの目を見た。
(この女、私を試している)
(いや、違う。楽しんでいる)
戦いを、楽しんでいる。その目は、獲物を見つけた獣の目だった。
グレイの胸の奥で、何かが熱くなった。
(面白い)
(この女、強い)
(強さの質が、今までの奴らと違う)
「……受けて立つ」
グレイは言った。
セラフィナは、にっこりと笑った。
「いいね。話が早い」
そう言うと、セラフィナは背中の大剣を抜き、傍らにいた牢番に放った。
「これ、預かってて。今日は、これを使うから」
牢番は大剣を受け取ると、その重さにたたらを踏んだ。
「お、重い……」
セラフィナは、新人の一人に近づいた。
「あんた、長剣、貸してくれる?」
「え、あ、はい……どうぞ」
新人は震える手で、自分の長剣を差し出した。セラフィナはそれを受け取ると、軽く振った。
「うん、悪くない。あたしのには軽すぎるけど、あんたと戦うなら、これくらいでいいだろ」
セラフィナは、グレイと向かい合った。
「じゃあ、始めようか」
その時だった。
「ま、待ってください!」
剣を貸した新人が、腰を抜かしたように地面に座り込み、震え声を上げた。
「あ、あんた、知らないのか!? そ、その人は……凶刃の女王、セラフィナだぞ!」
新人の声は、恐怖で裏返っていた。
「ここの闘技場で、一番強い剣闘士だ! 処刑用の大剣で、何百人も首を斬り落としてきた! 殺し合いを楽しんでる、狂人だ!」
訓練場の空気が、凍りついた。
牢番も、憲兵も、顔色を変えている。憲兵は一歩後ろに下がり、腰の鞭に手をやっていた。
「おいおい、人を殺人狂みたいに言わないでくれる?」
セラフィナは、困ったように笑った。だが、その笑顔が、かえって恐ろしかった。
グレイは、セラフィナを見た。
(凶刃の女王)
(この闘技場で、一番強い)
(何百人も殺してきた)
グレイの心臓が、ドクン、と鳴った。
(……そうか)
(この女が、そういう奴なのか)
グレイは、セラフィナの立ち方を見た。剣の握り方を見た。重心の置き方を見た。呼吸の仕方を見た。
(強い。間違いなく、今までの奴らとは、格が違う)
(でも、だからこそ)
グレイの唇が、わずかに歪んだ。
(殺し甲斐がある)
「始めの合図は、誰がする?」
セラフィナは、首を傾げた。
「あんた、怖くないの? 凶刃の女王だよ? あたし」
「関係ない。強い奴と戦えるなら、それでいい」
セラフィナの黄金の瞳が、きらりと光った。
「……いいね。本当に、いい子だ」
セラフィナは、長剣を構えた。
グレイも、長剣を構えた。
二人の間に、沈黙が落ちる。
訓練場にいる誰もが、息を潜めていた。燭台の炎が、風もないのに揺れた。
グレイは、セラフィナの一挙手一投足を、目に焼き付けた。
(この女の立ち方、剣の握り、呼吸)
(全部、覚える)
(そして、殺す)
グレイは、先に動く構えを見せた。
左足を、わずかに前に出す。重心を、前へ。
セラフィナの笑みが、深くなった。
「来なよ」
その声が、合図だった。
グレイは、床を蹴った。Noveliaとは?
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