スライムと呪いと恋の修羅場
ある普通の朝、リムル・テンペスト王国は大混乱に陥る。リムルは女の子の体で目覚め、ベニマルは女の子に、シオンは男に、シュナも男に変わってしまう。さらにミリムは「背が縮んだ!」と叫びながら壁をぶち壊していた。王国全体が完全にパニック状態だ。
慌てて調査した結果、原因は「裏返し壺」という古代の魔法の遺物だと判明する。暴走して皆の性別を入れ替えてしまったその壺を元に戻すには、四つのパートからなる対抗呪文を唱えなければならない。しかし、その四つのパートはそれぞれ別の場所に隠されている。そこでリムルたちは荷物をまとめ、旅に出ることに。
だが、性別が入れ替わったことはリムルの問題の中でまだ序の口だった。女のベニマルは恥ずかしそうに「リムル様、可愛すぎて痛い」と囁き続ける。女のシュウジ(ソウエイ)は体がどうであれ変わらぬ忠誠を静かに告白する。ミリムは「離れたら呪いが悪化する」というでたらめな理由でリムルの腕にしがみつく。男になったシュナは遠くから静かに「ちょっと…羨ましいのかも」とつぶやきながら、誰かがリムルに近づくたびに見守っている。
四人のライバルが激しくリムルを追いかける中、リムルの旅はノ
スライムと呪いと恋の修羅場 - 湖の底に謎の美女——ベニマル、岸で膝まで水に浸かる件
パルモ湖へ向かう道は、朝から妙に静かだった。
ヴェルグ渓谷を出てもうどのくらい歩いただろう。大森林ジュラの木々が頭上で葉を揺らし、木漏れ日が石畳の道に点々と落ちている。鳥の声だけが遠くから聞こえてくる。
リムルにとっては、その静けさがちょっと困った。
「あの……」
ベニマルが、前を向いたまま口を開いた。昨夜から女性の体になったままの、長い赤い髪。涼しい横顔が、どこか硬い。
「昨夜のことは、忘れてください」
リムルは数歩、無言で歩いた。
(昨夜?)
正直、昨夜の野営中、毛布が足りなくて二人でぶつかりながら寝たことくらいしか思い出せない。あとは焚き火の話……ああ、そういえばベニマルが不意に肩を貸してくれたやつか。
「[surprised]何のことです?」
「だから……毛布の、件です」
それを言葉にした瞬間、ベニマルは明らかに後悔した顔になった。リムルは立ち止まりそうになるのをこらえて歩き続ける。
(あ、毛布ね。確かにちょっとそれは)
じわ、と頬が熱くなった。
「[serious]……念のため確認しますが、毛布一枚で二人で寝たことについて、という話ですね」
「ですからそれを蒸し返さないでいただけますか!」
「蒸し返したのは君の方では?」
ベニマルが黙った。
二人して、また無言で歩く。
大賢者が、ちょうどそのタイミングで頭の中に割り込んできた。
《現在の二者間の会話量は平常時比23%に低下しています》
(……わかってる。うるさい)
リムルは大賢者に心の中でツッコんだ。道幅が少し狭くなったところで、足元の石を踏みそうになったベニマルの腕が、反射でリムルの肩に触れた。
二人が同時に、全力でそれぞれ反対方向に身を引いた。
「す、すみません」
「い、いえ、わたしこそ」
そのまま二人とも、何故か早足になった。
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パルモ湖が見えてきたのは、昼過ぎだった。
湖面は想像以上に透き通っていた。首都リムルスの西70キロに位置するこの淡水湖は、直径約8キロ。透明度が高く、晴天の今日は水面から湖底の輪郭がうっすらと見える。深い場所は青みがかっていて、水草がゆらゆらと揺れているのが上から見えた。
そして、その水底の、青の奥に——古い建物の影があった。
シズルの水廟。水深40メートルの場所に沈む古代の神殿。カエシの詞の第二節の巻物が、その最奥の祭壇室に眠っている。
「[serious]では、俺が先行します」
リムルは静かに首を振った。
「[gentle]ベニマル、君は炎系の魔素を持っているでしょう」
「それはそうですが……」
「水に入ったら消火器に水ぶっかけるみたいなことになりますよ。わたしが行きます」
ベニマルが顔を曇らせた。納得はしていない、でも反論もできない。悔しそうな顔で湖面を睨んでいる。
「[serious]では防水の魔道具を調達します」
「……ここ、湖のど真ん中の岸ですよ。どこで調達するんです?」
「…………」
「まぁまぁ、そんな顔しないで。ちゃんと戻ってきます」
リムルは笑顔を作って、湖に足を踏み入れた。水が冷たい。夏の終わりの湖は、表面だけ温かくて、足首から先は急に冷たくなる。
水中行動スキルを起動する。魔素が体を包み、呼吸の補助と水圧への耐性が展開される……が。
(あれ)
なんか、薄い。
大賢者が即座に解析結果を出した。
《女体化の固定化が進行中。スキル出力の安定限界まで残り推定40分》
(最悪だ)
リムルは岸のベニマルを振り返った。ベニマルが何か察したような顔をしていた。でも何も言わなかった。リムルも何も言わなかった。
《40分以内に決着をつけること》
(わかってる。行くよ)
水面に体を沈めた。
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水中は、静かだった。
光が水を通過して、揺れながら差し込んでくる。魚が一匹、リムルの横をすり抜けて逃げた。深く潜るほど、光が届かなくなる。水温が下がる。圧力が増す。スキルが体を保護しているはずなのに、どこかじわじわと抵抗を感じた。
水深40メートル付近で、神殿の入り口が見えた。
シズルの水廟。石造りの門柱が海底の砂に埋もれながら、それでも1000年以上そこに立っていた。内部に入ると、暗い。岩盤の天井が頭上に迫る。三つの部屋が続く構造で、目指す祭壇室は最奥だ。
最初の部屋を通り抜けたところで。
水流が変わった。
リムルが振り返った瞬間——巨大な影が壁から剥がれた。
ナーギア。水蛇型の魔物、全長15メートル。鱗は青黒く、目が黄金色に光っている。水中での動きが恐ろしく速い。尾が壁を叩いた音が、神殿全体に響いた。石材のかけらが舞う。
リムルはすぐに魔法を発動しようとした。
出力が、乱れる。
(スキルが!)
魔法の形成が途中で崩れた。ナーギアがその瞬間を見逃さない。大きな体が回転して、リムルを神殿の壁に追い詰める。尾の一振りで神殿の石材が崩れ落ちた。
再構築。集中する。もう一度——。
出力が揺れた。スキルが途切れかけた。
(まずい。あと何分——)
呼吸補助が切れた。
水が、入ってくる感覚。肺が痛い。視界がぼやける。
(落ち着け。落ち着——)
でも意識がかすれていく。暗い水の中で、ナーギアの黄金色の目だけが見えた。
その瞬間。
ドン、と水が揺れた。
黒い影が、猛烈な速さで水中に飛び込んできた。
一瞬だった。その影はナーギアの首を腕で一気に締め上げた。絞り込む力が水中に波紋を作るほどで、ナーギアが藻掻く間もなく、その長い体が力を失って沈んでいく。
リムルは、引っ張り上げられた。
水面に出た瞬間、光がまぶしかった。空気を吸い込む。咳き込む。何度も、何度も咳が出る。
誰かが横にいた。
黒いフード。背が高い。濡れた長い黒髪が頬にかかっている。顔は——見えない。フードの陰で、表情がわからない。
「[serious]……誰」
かすれた声で聞いた。
その人物は、顔を見せなかった。声は平静だった。感情が、ない。
「[cold]ご無事で何よりです」
それだけ言って、水面を走った。
音もなく。まるで水面が地面であるかのように、足が沈まない。波紋すら立てずに、岸の反対方向へ消えていった。
リムルは水面に浮いたまま、その背中が消えた方向を見た。
(……今の、誰だ)
水を吐き出しながら、脳裏にその声が残っている。感情のない、冷たい声。ご無事で何より——助けに来たにしては、温かみがない。でも確かに助けられた。しかも、自分がそこにいると知っていたかのような速さで。
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神殿の祭壇室に辿り着いたのは、スキルを安定させ直してからもう少し後のことだった。
祭壇の台座の上に、巻物があった。古代の素材で作られていて、水中に何百年も沈んでいたのに崩れていない。封印の魔素が残っているせいだろう。
リムルは巻物を手に取って、大賢者に解析を頼んだ。
第二節の呪文が刻まれている。それとともに、短い文章が添えられていた。
《この器、心なき魔導師アザリアの作。器は使い手の心を映す鏡なり》
アザリア。
リムルは石の祭壇の前で、その名前を頭の中で繰り返した。ヴェルグ渓谷の石板の裏に刻まれていた文字が、頭の中に蘇る。《器を求むる者、すでに目覚めたり》。
ウラガエシのツボを作った人物がいる。アザリア。
その人物が、今も動いているとしたら?
(単なる事故じゃない、かもしれない)
初めて、その可能性がはっきりした形でリムルの頭に入ってきた。壺は偶発的に暴走したんじゃなく、誰かが——意図を持って——動かした?
水廟の天井から、かすかな光が差し込んでいた。
巻物を懐にしまって、リムルは水面に向かった。
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岸に上がると、まず目に入ったのは——ベニマルだった。
湖岸から3メートルほど先。膝まで水に浸かって、必死に水面を覗き込んでいる。
「[surprised]え……」
ベニマルがリムルの姿を見た瞬間、顔が変わった。
「[sad]リムル様ぁ!!」
水をバシャバシャさせながら、ものすごい速さで近づいてくる。炎系の鬼人族が水に膝まで入ってどれだけ消耗するのか、リムルにはわかった。それでも来た。
「[scared]っ、つ、つめ……い、いえ何でもありません!」
リムルの目の前まで来たベニマルは、ブルブル震えながら真顔を作っていた。でも隠しきれていない。
「[surprised]何でそんなところまで入ってるんです」
「[serious]……念のため。近くで待機していた方が良いと判断しました」
リムルは少し黙った。
「それ全然念のためじゃないでしょう」
「……」
ベニマルがまたブルブルした。唇が少し青い。炎系の体にとって冷水は、ただの冷たいじゃない。魔素の流れが乱れる。本当に消耗してる。
リムルは肩に掛けていたマントを外した。
「[gentle]ほら、温まって」
ベニマルが固まった。
「[serious]早く受け取って。風邪引きますよ、炎系でも」
マントを押しつけると、ベニマルが両手でそれを受け取った。ゆっくり。大事なものを扱うみたいに。そして顔を——そっと背けた。
耳が、赤い。
リムルはそれを見て、なんか言おうとして、やめた。
何も言わず、二人で岸に上がった。夕方の光がパルモ湖の水面に長く伸びていた。
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夜になった。
焚き火を挟んで二人で座っていた。湖面に満月が映っている。水面が、鏡みたいに静かだった。
しばらく、誰も話さなかった。
炎の音だけがパチパチと鳴っている。ベニマルはマントを肩に掛けたまま、湖を見ていた。リムルも湖を見ていた。どちらも、正面を見ていた。
ベニマルが、ぽつりと言った。
「[gentle]リムル様」
「……はい」
「元の体に戻っても」
焚き火の音。
「俺のこの気持ちは、変わりません」
静かな声だった。怒っているわけでも、泣いているわけでも、求めているわけでもない。ただ、そこにある事実を、そのまま口にしたような。
リムルの胸の真ん中が、じわりと温かくなった。同時に、なにかが詰まるみたいな感覚もあった。
「[surprised]え、それって……」
言葉が出てこなかった。続きを言おうとして、喉のところで詰まった。
ベニマルが、静かに続けた。
「答えは求めません。ただ、知っておいてほしかっただけです」
それ以上何も言わず、焚き火の番に戻った。薪を一本足して、炎を見ている。その横顔は、穏やかだった。
リムルは膝を抱えて、湖面を見つめた。
(どうしよう)
ベニマルへの気持ちなのか、困惑なのか、リムル自身にもよくわからない。謎の美女のことも頭の片隅にある。アザリアという名前も。タイムリミットも。全部が頭の中でぐるぐるしている。
でも今、一番リムルの胸を占領していたのは、焚き火の光の中で静かに薪を見ているベニマルの横顔だった。
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翌朝、目が覚めたらベニマルが隣で寝ていた。
寝顔を、無意識に見てしまった。
(……また)
昨夜と全く同じことをしていると気づいて、リムルは静かに視線を逸らした。空が明るくなっている。鳥が鳴いている。パルモ湖の水面が、朝の光でキラキラしていた。
(わたし、これどうするんだ……)
ベニマルへの気持ちの正体。謎の美女の正体。アザリアという名前と、《器は使い手の心を映す鏡なり》という言葉。
二つの問いを抱えたまま、リムルは静かに立ち上がった。
次はカグツチ砂丘。首都から南へ150キロの、砂嵐の地。
まだ答えは出ていなかった。