青のフラッグ ~失われた未来を変えるために~
同じ夢を、三度見た。
桃真が振り返って、笑って——光が走る。そこでいつも、目が覚める。
一ノ瀬太一、高校三年生。夏休み最後の朝、彼は自分の心臓の音で飛び起きた。夢の内容ははっきりしている。幼なじみの三田桃真が、光に呑まれる夢。根拠なんて何もない。ただの夢だ。そう思い込もうとするたび、胸の奥がざわつく。
青浜市。海と山に挟まれた、静かになりつつある地方都市。太一はそこで生まれ、桃真とともに育った。小学校の頃はいつも一緒だった。遠見山を探検し、漁港で釣りをした。先頭を歩く桃真を、太一が後ろから追いかける。それが当たり前の光景だった。
けれど中学に入って、ふたりの距離は開いていく。野球部で活躍する桃真。人付き合いが苦手な太一。高校では同じクラスになったのに、桃真の周りにはいつも人がいて、太一はその輪の外側にいた。屈託のない笑顔を向けられるたび、まぶしくて、少し痛かった。
「俺は、桃真にはなれない」
何度も思ったことだ。それでも——「守らないと」。夢を見るたび、理由のわからない衝動が太一を突き動かす。
夏休み最後の登校日。野球部の練習を眺め、帰り道に古い温室の前を通
青のフラッグ ~失われた未来を変えるために~ - ヘッドライトの悪夢と、すれ違う想い
教室の窓から、朝の光が斜めに差し込んでいる。
太一は机の上に置いたスマホを、伏し目がちに見つめていた。
画面には、昨夜の桃真からのメッセージが、まだ開いたまま残っている。
『明日、駅前の喫茶ミナト寄ってかねえ? 話聞くだけ聞くからさ』
返信は、まだ打てていない。
(桃真に、なんて返せばいいんだ)
太一は右手で首の後ろを触った。
汗ばんでいる。
二学期二日目。
教室は、夏休みの名残を引きずった生徒たちで、朝からざわざわとしている。
太一は、その輪に入れない。
いや、入らない。
(今日も、一日が始まる)
太一は、スマホをポケットに押し込んだ。
(二葉は、どうしてるかな)
空勢二葉。
同じクラスの、園芸部の女の子。
昨日の放課後、太一は二葉と、桃真と、三人で下校した。
桃真は、二葉の話を楽しそうに聞いていた。
二葉も、緊張しながらも、嬉しそうに笑っていた。
(あの二人は、うまくいくのかな)
太一は、心の中で呟いた。
(でも、俺は)
太一は、二葉を利用している。
桃真の死の運命を探るために。
桃真を守るために。
(二葉には、悪いことをしてる)
罪悪感が、胸の奥にじわりと広がる。
でも、それ以上に、桃真を失う恐怖の方が大きかった。
太一は、立ち上がった。
教室を出て、廊下を歩く。
夏の終わりの空気が、開いた窓から流れ込んでくる。
汗の匂いと、消毒液の匂い。
(職員室に、出すプリントがあったんだ)
太一は、昨日の担任に頼まれたプリントを、職員室に届けるところだった。
廊下の角を曲がる。
職員室の前。
太一は、足を止めた。
そこに、桃真がいた。
そして、その隣に、一人の女子生徒が立っている。
八木原舞美。
同じ学年の、D組の女子。
髪をゆるく巻いて、制服のスカートを短くしている。
同性からの評判は、あまり良くない。
桃真以外の男子には、荒っぽい口調で接する。
でも、桃真にだけは、違う。
「桃真くん、おはよう」
舞美の声が、廊下に響いた。
甘えるような、柔らかい声。
太一は、思わず、物陰に身を隠した。
(舞美……)
「おう、舞美。おはよう」
桃真は、笑顔で答えた。
舞美は、桃真に一歩近づく。
距離が、近い。
「桃真くん、今日も部活? 頑張ってね」
舞美は、桃真の腕に、そっと触れた。
「おう、ありがとな。舞美も、また応援来てくれよ」
桃真は、嫌がる様子もない。
舞美は、桃真の腕から手を離さない。
「もちろん。桃真くんの試合、楽しみにしてる」
舞美の笑顔は、完璧だった。
でも、太一には、その笑顔の裏に、何か別のものが見えた気がした。
(舞美は、桃真に何か企んでるのか)
太一の警戒心が、強くなる。
その時だった。
廊下の向こうから、男子生徒が一人、歩いてきた。
野球部の、一年生だ。
「あ、八木原先輩、おはようございます」
後輩が、舞美に挨拶した。
舞美は、桃真に向けていた笑顔を、一瞬で消した。
「は? 何見てんの。うざい」
後輩は、びくっと体を震わせた。
「す、すみません!」
後輩は、逃げるように去っていった。
舞美は、また、桃真の方に向き直る。
「ごめんね、桃真くん。変なのに絡まれちゃった」
舞美は、桃真に、また甘えるような笑顔を見せた。
(豹変ぶりが、すごい)
太一は、背筋が寒くなった。
桃真にだけは、あんなに柔らかい声を出すのに。
他の男子には、あんなに冷たい。
(舞美は、桃真に何か良からぬ企みを持っている)
太一は、確信に近い違和感を抱いた。
その時だった。
舞美が、ふと、太一の方を向いた。
一瞬だけ。
でも、確かに。
舞美の目が、太一を冷たく見返した。
氷のような、鋭い視線。
太一の首筋から腰へ、冷たいものが這う。
(今の……)
(俺を、見た)
舞美は、すぐに桃真の方へ視線を戻し、何事もなかったかのように笑った。
「じゃあね、桃真くん」
舞美は、桃真に手を振って、廊下を歩いていった。
太一の前を通り過ぎる時、舞美は、小さく呟いた。
「……見てんじゃねえよ」
太一の耳にだけ、届く声。
太一は、動けなかった。
(舞美は、俺を警戒してる)
(俺が、桃真を守ろうとしてることを、知ってるのか)
太一の胸の奥で、何かが激しく脈打つ。
桃真は、太一に気づいていない。
職員室に用事があるのか、そのまま中へ入っていった。
太一は、一人、廊下に立ち尽くした。
(桃真の周りで、何かが動いてる)
(二葉、真澄、そして舞美)
(俺は、桃真を守れるのか)
太一は、ぎゅっと拳を握った。
朝の光が、廊下に長く伸びている。
太一の影が、床に黒く落ちていた。
遠くで、始業のチャイムが鳴る。
太一は、重い足取りで、教室へ向かった。
放課後。
教室の窓から差し込む光が、少し弱くなっている。
太一は、スマホを確認した。
二葉から、メッセージが届いていた。
『一ノ瀬くん。今日も、温室に来てもらえますか。昨日のお礼がしたいです』
太一は、短く「わかった」と返した。
(二葉は、昨日の下校を、喜んでくれてた)
(でも、俺は)
太一は、心の中で、自分を責めた。
(俺は、二葉の好意を、利用してる)
太一は、立ち上がった。
教室を出て、下駄箱で靴に履き替える。
校舎の裏へ回る。
青浜高校の校舎裏。
そこに、園芸部の温室がある。
ガラス張りで、八メートル×十二メートル。
築三十年の、古い温室。
夕方の光を受けて、ガラスが鈍く輝いている。
太一は、温室の前に立った。
中を覗くと、人影が見える。
栗色の髪を、ゆるい三つ編みにした女の子。
空勢二葉。
太一は、一度深呼吸してから、温室の扉を開けた。
むっとする暑さと、土と草の匂いが太一を包む。
「あ……一ノ瀬くん」
二葉が振り返った。
大きな薄茶色の瞳が、少し不安そうに揺れている。
手のひらには、小さな絆創膏がいくつも貼ってある。
「来てくれて、ありがとう」
二葉は指を組み、もじもじとしている。
「別に、いいよ。それで、昨日のお礼って」
太一は、なるべく優しく聞こえるように言った。
二葉は、うつむいた。
後れ毛が、汗で頬に張り付いている。
「昨日、桃真くんと三人で帰れて、本当に嬉しかったんです」
二葉の声が、少し弾んでいる。
「桃真くん、私の話、いっぱい聞いてくれて。園芸部のこととか、植物のこととか。すごく楽しかった」
二葉は、顔を上げて、太一を見た。
「一ノ瀬くんのおかげです。ありがとう」
二葉の笑顔は、温室に咲く花みたいだった。
太一は、その笑顔を直視できなかった。
「……俺は、別に何もしてないよ」
太一は、目を逸らした。
(俺は、お前を利用してる)
(それなのに、お前は俺に感謝する)
太一の胸が、ぎゅっと締め付けられる。
二葉は、太一の様子に気づいたのか、少し首をかしげた。
「一ノ瀬くん?」
「……なんでもない」
太一は、小さく首を振った。
二葉は、太一をじっと見つめた。
「一ノ瀬くんって、桃真くんのこと、すごく気にかけてるんだね」
太一は、息を止めた。
二葉の言葉が、胸に刺さる。
「昨日も、桃真くんの隣にいて、ずっと見てた。私、気づいたの」
二葉は、何か言いたげな表情で、俯いた。
「……桃真くんのこと、大切なんだね」
太一は、言葉に詰まった。
(違う。俺は、ただ)
(桃真を、守りたいだけだ)
(でも、それを、二葉に言うことはできない)
太一は、何も言えなかった。
沈黙が、温室の中に流れる。
二葉は、太一の沈黙を、何か別の意味に受け取ったのか、寂しそうに微笑んだ。
「……ごめんなさい。変なこと言って」
二葉は、枯れかけた鉢植えの手入れに戻った。
「この子、また枯れそうで。水をあげすぎちゃったみたい」
二葉は、カサカサになった葉に、そっと触れた。
その横顔は、どこか寂しげだった。
太一は、二葉の背中を見つめた。
(俺は、二葉を、都合よく利用している)
(その事実から、目を逸らせない)
太一は、右手で首の後ろを触った。
汗が、止まらない。
「……俺、そろそろ帰るよ」
太一は、絞り出すように言った。
「あ、うん。ありがとう、一ノ瀬くん」
二葉は、振り返って、小さく手を振った。
太一は、温室を出た。
外は、すっかり暗くなっていた。
夏の夜の、生ぬるい風が吹いている。
太一は、地獄坂を下り、自宅へ向かった。
家に帰ると、誰もいなかった。
母は、まだ仕事から帰っていない。
太一は、自分の部屋に入り、制服のままベッドに倒れ込んだ。
天井を見上げる。
今日一日のことが、頭の中でぐるぐる回る。
舞美の豹変ぶり。
舞美の冷たい視線。
二葉の、寂しそうな横顔。
(疲れた)
太一は、目を閉じた。
いつの間にか、眠りに落ちていた。
光が走る。
桃真が振り返る。
その顔が、笑う。
そして、世界が真っ白に——
違う。
今度は、違う。
太一は、夢の中で、はっきりと見た。
桃真が振り返る。
笑う。
その先に——
二つの、丸い光。
白く、眩しい、二つの光。
それが、真っ直ぐに、桃真に向かってくる。
光の下に、暗い影。
車体の輪郭。
タイヤ。
ボンネット。
フロントガラス。
車だ。
車が、桃真に、迫ってくる。
桃真は、まだ笑っている。
気づいていない。
「桃真!!」
太一は、叫んだ。
でも、声が出ない。
体が、動かない。
車が、桃真に、ぶつかる——
「——っ!!」
太一は、飛び起きた。
心臓が、ばくばくと鳴っている。
全身が、汗でびっしょりだ。
太一は、震える手で、枕元のスマホを掴んだ。
時計を見る。
午前三時。
冷たい汗が、背中を伝う。
(車だ)
(桃真は、車に轢かれる)
(交通事故で、死ぬ)
太一は、確信した。
今までは、ただの白い閃光だった。
でも、今は、違う。
あれは、車のヘッドライトだ。
(日時も、場所も、分からない)
(でも、死因だけは、はっきりした)
太一は、自分の体を抱きしめた。
震えが、止まらない。
(桃真が、死ぬ)
(俺の、目の前で)
太一は、眠れなかった。
夜明けまで、天井を見つめて、震えていた。
朝になった。
太一は、ほとんど眠れないまま、制服に着替えた。
鏡を見る。
顔色が、ひどい。
(でも、学校に行かなければ)
太一は、リュックを背負った。
その時、スマホが震えた。
太一は、スマホを見た。
桃真からのメッセージだった。
『太一、今日一緒に学校行こうぜ。待ってるから』
太一は、その文面をじっと見つめた。
(桃真と、一緒に)
太一は、これまで、桃真の誘いを、何度も断ってきた。
(でも、今日は)
太一は、返信を打った。
『わかった。行く』
(桃真を、一人にしない)
(俺が、守る)
太一は、家を出た。
地獄坂の下。
桃真が、待っていた。
「太一! おはよう!」
桃真は、太一を見つけると、手を振った。
「……おはよう」
太一は、小さく答えた。
「一緒に登校すんの、久しぶりだな!」
桃真は、嬉しそうに笑った。
「……そうだな」
太一は、桃真の隣に並んだ。
二人は、地獄坂を上り始めた。
急な坂道。
最大勾配十二パーセント。
朝の日差しが、アスファルトをじりじりと焼いている。
桃真は、いつものように、明るく話し続ける。
「昨日、舞美に会ったんだよ。応援来てくれるって」
桃真の口から、舞美の名前が出た。
太一の胸が、ざわつく。
「……舞美って、桃真にだけ、すごく優しいよな」
太一は、探りを入れるように言った。
「そうか? 普通だろ」
桃真は、気にした様子もない。
(普通じゃない)
(あれは、絶対に、何かある)
太一は、心の中で呟いた。
その時だった。
キキキキキ——ッ!!
鋭いブレーキ音が、坂の下から響いた。
続いて、クラクション。
太一は、弾かれたように振り返った。
坂の下の交差点で、一台の車が、急停止していた。
車のヘッドライトが、朝の光の中で、二つ、白く光っている。
(車)
(ヘッドライト)
太一の頭の中で、昨夜の夢が、フラッシュバックする。
桃真が振り返る。
笑う。
光が走る。
「あぶねーな、おい」
桃真が、笑いながら、振り返った。
その動作が、夢の光景と、重なる。
太一の全身が、凍りついた。
呼吸が、止まる。
(桃真が、振り返った)
(車の光)
(夢と、同じだ)
太一の体が、震える。
「おい、太一? 顔色悪いぞ」
桃真が、太一の顔を覗き込んでくる。
「……なんでもない」
太一は、笑おうとした。
でも、喉が渇いて、声が震える。
「ほんとか? なんか、今日、ずっと変だぞ」
桃真は、心配そうに、太一の肩に手を置いた。
「……大丈夫。行こう」
太一は、桃真の手を、そっと外した。
(守らなければ)
(桃真を、守らなければ)
太一は、震える足を、無理やり前に動かした。
教室に入る。
太一は、自分の席に座った。
スマホを見る。
二葉から、メッセージが届いていた。
送信時刻は、昨夜の深夜。
太一は、メッセージを開いた。
『桃真くん、最近八木原さんとよく一緒にいるみたいで……私、どうしたらいいのかな』
太一は、その文面を、じっと見つめた。
(二葉も、舞美のことを、不安に思ってる)
(舞美が、桃真に近づいていることを)
太一は、返信の指を止めた。
舞美の甘えるような笑顔。
車のヘッドライトの悪夢。
その二つが、頭の中で、重なる。
(桃真の死の未来に、舞美が、関わっているのか)
根拠のない疑念が、太一の胸に、黒く澱のように広がる。
(舞美が、桃真を)
(いや、考えすぎだ)
(でも、もし)
太一は、頭を振った。
教室の喧騒が、遠くに聞こえる。
クラスメイトたちの笑い声。
楽しそうな会話。
太一は、その中で、一人、孤立していた。
(俺は、桃真を守れるのか)
(二葉を、これ以上、利用していいのか)
(舞美は、何者なんだ)
太一は、スマホを握りしめた。
画面には、二葉からのメッセージが、まだ開かれたまま残っている。
『私、どうしたらいいのかな』
その言葉が、太一の胸に、重く沈んでいった。
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