青のフラッグ ~失われた未来を変えるために~
同じ夢を、三度見た。
桃真が振り返って、笑って——光が走る。そこでいつも、目が覚める。
一ノ瀬太一、高校三年生。夏休み最後の朝、彼は自分の心臓の音で飛び起きた。夢の内容ははっきりしている。幼なじみの三田桃真が、光に呑まれる夢。根拠なんて何もない。ただの夢だ。そう思い込もうとするたび、胸の奥がざわつく。
青浜市。海と山に挟まれた、静かになりつつある地方都市。太一はそこで生まれ、桃真とともに育った。小学校の頃はいつも一緒だった。遠見山を探検し、漁港で釣りをした。先頭を歩く桃真を、太一が後ろから追いかける。それが当たり前の光景だった。
けれど中学に入って、ふたりの距離は開いていく。野球部で活躍する桃真。人付き合いが苦手な太一。高校では同じクラスになったのに、桃真の周りにはいつも人がいて、太一はその輪の外側にいた。屈託のない笑顔を向けられるたび、まぶしくて、少し痛かった。
「俺は、桃真にはなれない」
何度も思ったことだ。それでも——「守らないと」。夢を見るたび、理由のわからない衝動が太一を突き動かす。
夏休み最後の登校日。野球部の練習を眺め、帰り道に古い温室の前を通
青のフラッグ ~失われた未来を変えるために~ - 青のフラッグ――運命を変えた夜、そして始まる本当の会話
夜の地獄坂。
街灯が、アスファルトを青白く照らしていた。太一は手すりに額を押し付けたまま、動けなかった。涙が止まらない。唇の端で、しょっぱい味がした。
(誰も信じてくれない)
(もう、一人じゃ、無理だ)
声を殺して泣く。肩が震える。手すりの鉄は、体温を奪って冷たかった。
その時だった。背後で、砂利を踏む音がした。ゆっくりと。確実に。太一のすぐ後ろで、足音が止まる。
「……あんた、二葉を泣かせたわね」
低い声。静かなのに、刃物を布で拭うような声だった。太一は振り返れなかった。涙でぐしゃぐしゃの顔を見られたくなかった。
「何か言ったらどうなの。あんたのせいで、二葉は保健室でずっと泣いてた」
太一は手すりを握りしめた。指の関節が白くなり、爪が掌に食い込んだ。
「……ごめん」
声がかすれた。それしか出なかった。
「ごめんで済むと思ってるの? あんた、二葉のこと、利用してたんでしょ」
一歩、近づく。靴底が砂利を潰す音が、妙に大きく聞こえた。空気が張り詰める。
「桃真に近づくために、二葉の気持ちを踏み台にした。そうでしょ。最低ね」
太一は唇を噛んだ。血の味が、鉄錆のように広がった。
「……違う」
「何が違うの」
「違うんだ……俺は、桃真を、守りたかっただけなんだ」
声が震えた。涙が、また頬を伝った。手すりを握る手が、指先から痺れるように冷えていた。
「守る? 何から? あんた、何言ってるの」
真澄の声に、初めて、困惑が混ざった。太一は手すりから手を離した。ゆっくりと、振り返る。涙で濡れた顔を、真澄に向けた。
「……夢を見るんだ」
「夢?」
「桃真が、死ぬ夢を。車に、轢かれて。何度も、何度も」
真澄の眉が、ぴくりと動いた。
「……冗談でしょ」
鼻で笑った。でも、その笑いは、すぐに消えた。太一の目を見たからだ。太一の拳が、震えている。唇が、青ざめている。目は血走って、それでも、真剣そのものだった。
「……あんた、本気で言ってるのね」
声が低くなった。
「予知夢ってやつ? そんな非現実的な話、普通は信じないわよ」
「分かってる。でも、俺には、確信があるんだ。夢で見た光景が、現実と、重なり始めてる」
「……いつから」
「夏休みの最後から。何度も、同じ夢を見る。桃真が、振り返って、笑って、それから——」
喉が詰まった。言葉の先が、喉の奥で引っかかる。
「それで、あんた、あんなに桃真に付きまとってたのね」
小さく息を吐く音がした。
「……全部、説明がついたわ。あんたの異常な行動、二葉への態度、全部」
真澄は、太一の腕を掴んだ。指が、制服の袖越しに食い込む。
「来なさい」
「え……どこに」
「温室よ。二葉を呼ぶ。あんたの話、二葉にも聞かせるべきでしょ」
有無を言わせない口調だった。太一はされるがままに、引っ張られていった。
校舎裏の温室。夜の温室は、昼間とは違う顔をしていた。ガラス越しに、月の光が差し込む。植物の影が、床に揺れている。土と、葉の匂いが、むっと立ちこめていた。真澄はスマホで二葉を呼び出した。
数分後、温室のドアが開いた。
「真澄ちゃん……どうしたの、急に」
二葉が、不安そうに入ってきた。目が赤い。泣き腫らした跡があった。太一を見て、二葉の足が止まった。
「……太一くん」
声が震えていた。
「二葉、座って。こいつ、話があるんだって」
真澄が、作業台の前の椅子を指した。二葉はおずおずと座った。太一は立ったまま、俯いた。床のタイルの目地が、やけに細かく見えた。
「太一。あんたが自分で話しなさい。全部」
背中を、軽く押された。太一は深呼吸をした。肺に、湿った土の匂いが満ちる。
「……俺、二葉に、言わなきゃいけないことがある」
二葉が顔を上げた。不安そうな目で、太一を見る。
「俺、二葉を、利用してた」
二葉の目が、大きく見開かれた。
「桃真に近づくために、二葉の気持ちを、利用した」
二葉の唇が震えた。
「……やっぱり、そうだったんだ」
声が涙で濡れていた。
「私、うすうす、気づいてた。太一くん、桃真くんのこと、すごく気にかけてるって。私のこと、協力してくれるって言ったけど、本当は、桃真くんのことが、目的なんだって」
涙が、ぽろぽろと、膝の上に落ちた。
「でも、それでも、私、嬉しかった。太一くんが、一緒にいてくれるだけで、嬉しかった」
二葉は顔を覆って、泣き出した。指の隙間から、喉を詰まらせる音が漏れる。
「……ごめん」
ただ、謝ることしかできなかった。
「謝るのは、まだ早いわ」
真澄が、太一を睨んだ。
「あんた、まだ、大事なことを、話してないでしょ」
太一は、拳をぎゅっと握った。爪が、また掌に食い込む。
「……桃真が、死ぬ」
二葉の泣き声が、ぴたりと止まった。しゃくりあげる音だけが、温室に残る。
「夢で、見たんだ。桃真が、車に轢かれて、死ぬ夢を。何度も、何度も」
二葉が顔を上げた。涙で濡れた目で、太一をまっすぐに見た。
「……桃真くんが、死ぬ?」
「ああ。だから、俺は、桃真を守らなきゃいけない。そのために、二葉を、利用した」
声は震えていたが、目を逸らさなかった。
「……信じられない」
二葉が、小さく呟いた。
「そうだよな。俺だって、信じられない。でも、夢が、現実と、重なり始めてるんだ」
太一は夢の内容を、詳しく話した。桃真が坂を下りて、振り返る。その瞬間、車のヘッドライトが迫る。激しい光。そして、桃真が光に飲まれる。
「……それが、いつ、どこで?」
「分からない。でも、最近、夢が、どんどん鮮明になってる。場所は、駅前の、喫茶ミナトの近く。時間は、夕暮れ時だ」
「喫茶ミナト……あの、商店街の?」
「ああ。だから、俺は、桃真を、あの場所に、近づけないようにしてた」
真澄が腕を組んで、考え込んだ。
「……仮に、あんたの夢が、本当に未来を映してるとして。それを、どうやって防ぐの?」
「分からない。でも、桃真のそばにいれば、何か、できるかもしれない」
「……馬鹿ね」
真澄が、ため息をついた。
「あんた一人で、何ができるの。また、空回りして、周りを傷つけるだけよ」
太一は、何も言えなかった。喉の奥が、乾いていた。
「……真澄ちゃん、言い過ぎだよ」
二葉が、真澄をたしなめた。
「太一くんは、桃真くんを守りたくて、必死だったんだよ。私たちに、迷惑をかけようと思って、やったんじゃない」
二葉が、太一の方に体を向けた。
「太一くん、私、信じるよ。太一くんの、夢のこと」
胸の奥が、じわりと温かくなった。
「……いいの?」
「うん。だって、太一くん、こんなに真剣な顔してるんだもん。嘘をついてる顔じゃない」
二葉が、少し微笑んだ。涙の跡の上で、唇が緩む。
「……二葉が信じるなら、私も、信じるわ」
真澄が、小さく息を吐いた。
「でも、条件があるわ」
「……なんだ」
「これからは、一人で抱え込まないこと。私たちにも、ちゃんと、話すこと」
真澄が、太一の目をじっと見た。
「……ああ、分かった」
太一は頷いた。
「私も、手伝うよ。桃真くんを、守るの」
二葉が、太一に近づいた。
「私、桃真くんのこと、好きだから。桃真くんに、死んでほしくない」
声は震えていた。でも、その目はまっすぐだった。
「……ありがとう、二葉。真澄も」
声が、震えた。
三人は、温室の中で、しばらく黙っていた。月の光が、ガラス越しに三人を照らしていた。植物の葉が、光を受けて、銀色に縁取られていた。
「で、具体的に、どうするの?」
真澄が、口を開いた。
「夢では、桃真が、坂を下りて、振り返った瞬間に、車が来る。だから、桃真が、坂を下りるときに、俺が、そばにいればいい」
「でも、いつ、桃真が、坂を下りるか、分からないでしょ」
「……そうなんだ。だから、毎日、桃真のそばに、いたんだ」
「それで、ストーカー扱いされたわけね」
皮肉っぽく、真澄が言った。
「……その通りだ」
太一は、苦笑いした。
「太一くん、大変だったね」
二葉が、太一の手をそっと握った。小さくて、温かい手だった。
「これからは、私も、一緒に、見張るよ。桃真くんのこと」
「……ありがとう」
太一は、二葉の手を握り返した。
「私も、協力するわ。ただし、あんたの行動は、私が監視するから」
真澄が、太一を指さした。
「……分かった」
素直に頷いた。
その夜、三人は遅くまで話し合った。桃真を守るための具体的な方法を。太一が夢で見た事故の状況を詳しく聞き出し、真澄が冷静に分析し、二葉が桃真の普段の行動を思い出した。
「桃真は、野球部の練習が終わった後、よく、駅前の商店街に寄ってる」
「そうなの?」
「ああ。喫茶ミナトで、コーヒーを飲んでるらしい」
「あの、私、知ってる。桃真くん、あそこの、ミルクセーキが好きなんだって」
二葉が、口を挟んだ。
「……なるほどね。それで、あんたの夢に、喫茶ミナトが、出てきたのかもしれないわね」
真澄が、顎に手を当てた。
「とにかく、桃真が商店街に行くときは、必ず誰かがそばにいるようにしましょう」
「うん、そうしよう」
「……ああ」
三人は、固く約束した。
翌日。放課後、太一は桃真の様子をこっそり見に行った。桃真はグラウンドで野球部の練習をしていた。いつものように、明るく、元気に。バットを振るたびに、白球が空に弧を描く。
(桃真は、まだ、何も知らない)
(俺が、守らなければ)
校舎の陰から、桃真を見つめていた。
「……また、見張ってるの?」
突然、後ろから声がした。
「……真澄か」
振り返ると、真澄が立っていた。陸上部のジャージ姿。肩で息をしている。
「あんた、本当に、桃真のことになると、周りが見えなくなるのね」
「……悪い」
「別に、責めてるわけじゃないわ。ただ、あんたが、また、空回りしないか、心配なだけ」
真澄が、太一の隣に立った。
「……あんたの夢の話、私、まだ、完全には信じてないから」
「……分かってる」
「でも、二葉が信じるって言ったから、私も協力する。それだけよ」
真澄が、グラウンドを見つめた。
「……真澄は、二葉のことが、大切なんだな」
「……当たり前でしょ。二葉は、私の、一番の親友だもの」
声が、少し柔らかくなった。
「……そうか」
太一は、真澄の横顔を見た。真澄の目は、まっすぐにグラウンドを見ていた。風が、真澄の前髪を揺らした。
(真澄は、二葉のことを、親友として、大切に思ってる)
(でも、もしかしたら、それ以上に)
そう思った。でも、口には出さなかった。
「……あんた、何か、言いたそうね」
真澄が、太一の視線に気づいた。
「……いや、別に」
目を逸らした。
「ふうん。そういうことね」
少し、意地悪そうに笑った。
「……なんだよ、それ」
「別に。あんたの考えてることくらい、なんとなく分かるわ」
真澄が、太一から視線を外した。
「……私は、二葉を守る。それだけよ」
声は、静かだった。
「……ああ」
それ以上、何も聞かなかった。
その日から、三人は交代で桃真を見守るようになった。太一が朝、桃真の家の前で待つ。二葉が休み時間に桃真の教室を通りかかる。真澄が放課後、桃真の部活の様子を遠くから見る。
桃真は三人の行動に、気づいていなかった。いや、気づいていたが、気にしていないようだった。
「太一、最近、お前、よく、俺の近くに、いるよな」
ある日、桃真が太一に言った。
「……そうか?」
「そうだよ。それに、二葉ちゃんも、よく、俺の教室の前を通るし。真澄ちゃんも、グラウンドを見てるし」
桃真が、笑いながら言った。
「……気づいてたのか」
「当たり前だろ。俺、一応、野球部のキャプテンだぜ。周りの視線には敏感なんだよ」
桃真が、太一の肩を組んだ。
「なあ、太一。お前たち、何か、隠してるだろ?」
声が、急に真剣になった。
「……隠してるって、何を」
「分かんない。でも、お前たち、最近、ずっと、俺のことを見てる。まるで、俺が、何か悪いことをするんじゃないかって、見張ってるみたいに」
桃真の目が、太一をじっと見た。
「……気のせいだよ」
「気のせいか? 本当に?」
肩を掴む力が、強くなった。
「……桃真、痛いよ」
「あ、悪い」
手を離した。
「……なあ、太一。俺、お前に、何か、隠し事をしてるように、見えるか?」
「……え?」
「俺、お前に、何も隠してないぜ。だから、お前も、俺に、何か隠してるなら、教えてほしい」
声は、真剣だった。
「……桃真」
言葉に詰まった。
(言いたい)
(今、ここで、全部、言いたい)
(でも、言ったら、桃真は、どう思う?)
(夢で、お前が死ぬって、言ったら)
(桃真は、信じてくれるか?)
「……太一、お前、何か、抱えてるんだろ?」
桃真が、太一の顔を覗き込んだ。
「……ああ」
小さく頷いた。
「……やっぱりな。でも、今は、言いたくないんだろ?」
「……ごめん」
「謝るなよ。お前が話したくなったら、いつでも聞くから。俺は、お前の親友だろ?」
桃真が、笑った。白い歯が、夕日に照らされて光った。
「……桃真」
胸が熱くなった。
(桃真は、やっぱり、すごい)
(俺とは、違う)
桃真の笑顔を見つめた。
(でも、その笑顔を、守りたい)
(絶対に、守る)
心の中で、強く誓った。
数日後。週末の夜。太一のスマホが震えた。桃真からだった。
『明日の夜、駅前の喫茶ミナトの前で待ち合わせな。大事な話がある』
文面を見て、全身が硬直した。駅前。喫茶ミナト。夢の中で、光が走った場所。時刻も、夢で見た薄暗い夕暮れに近い。
(来た)
(ついに、来た)
すぐに真澄と二葉に連絡した。三人は夜の温室に集まった。
「明日、桃真が、駅前に来る。夢の場面と、一致する」
声は震えていた。
「じゃあ、私たちも行くわよ。あんた一人に、任せない」
真澄が、即断した。
「私、桃真くんを、呼び止める役をやる。自然に話しかければ、怪しまれないと思うから」
二葉が、提案した。
「私は、周囲の車を警戒する。太一は、桃真の一番近くにいて」
三人は翌日の段取りを、細かく確認した。
「絶対に、桃真を、死なせない」
真澄と二葉が、頷いた。
決戦前夜。太一は自室のベッドに仰向けに倒れ込んだ。目を閉じる。夢の場面を何度も反芻する。桃真が振り返る角度。光の位置。路面の勾配。すべてを頭に叩き込む。
(桃真は、俺が守る)
緊張で眠れない。天井の木目が、夢の中の道路のひび割れに見えた。スマホが震えた。真澄から。
『準備はいい?』
短く返した。
「ああ」
学校では、いつも通りを装った。でも、太一は桃真の様子をこっそり観察していた。桃真はいつもと変わらず、笑っていた。
(今夜、この笑顔を守らなければ)
胸に、決意が漲る。
放課後。太一は真澄と二葉と合流した。三人で駅前の下見に向かう。喫茶ミナトの前の道路。信号の位置。車が通るルート。真澄が冷静に確認していく。
「車が来る方向は? あんたが突き飛ばすにしても、二人で転ぶ余裕はある?」
「多分、大丈夫だと思う。でも、もし、俺が失敗したら——」
「失敗なんて言葉、使わないで。私たち、ちゃんとやるんだから」
二葉が、太一の言葉を遮った。まっすぐな目で、太一を見た。
三人は円陣を組んだ。固い決意で、顔を見合わせる。
夕日が、青浜の街を赤く染めていた。駅前のアスファルトが、血のように光っていた。
薄暗い夕暮れ。青浜駅前商店街。喫茶ミナトの前。太一は真澄と二葉と共に、物陰に身を潜めていた。心臓が早鐘を打つ。手が震える。背中の汗が、シャツに張り付いて冷たかった。
(落ち着け)
(夢を、思い出せ)
目を閉じて、夢の光景を思い浮かべた。桃真が坂を下りてくる。振り返る。笑顔。そして——光。
(あの光が、車のヘッドライトだ)
(あれを、止めなければ)
「太一、大丈夫?」
二葉が、心配そうに太一の顔を覗き込んだ。
「……ああ、大丈夫だ」
小さく頷いた。
「緊張してるわね。当たり前よ。でも、私たちが、ついてるわ」
真澄が、太一の背中を軽く叩いた。
「……ありがとう」
その時だった。商店街の入り口に、人影が現れた。長身で、短く整えた黒髪。左手首に、リストバンド。
(桃真だ)
心臓が、さらに激しく脈打った。
桃真はキョロキョロと周りを見渡していた。太一を探しているようだった。
「桃真くん、来た」
「ええ。太一、行くわよ」
真澄が、太一の腕を引っ張った。
「……ああ」
物陰から、飛び出した。
「太一! お前、どこにいたんだよ」
桃真が、太一を見つけて手を振った。
「……悪い、待たせたか?」
桃真の隣に立った。
「いや、今、来たとこだよ。それより、なあ、太一、お前、今日、なんか、顔色、悪くないか?」
桃真が、太一の顔を覗き込んだ。
「……そうか? 気のせいだよ」
笑おうとした。でも、口元が、うまく動かなかった。
「……そうか? まあ、いいや。それより、話って、あれなんだけど」
桃真が、改まった顔で太一に向き合った。
「……なんだよ、改まって」
「いや、その、お前に、どうしても、言いたいことが、あって」
桃真が、少し照れくさそうに頭をかいた。
(桃真が、俺に、話したいこと?)
桃真の顔を見つめた。
その時だった。
桃真が、ふと、坂の下を振り返った。
夢と同じ。桃真が、振り返る。そして——
太一の視界に、光が飛び込んできた。車のヘッドライト。夢と同じ。車が坂を上ってくる。速度を落とす様子はない。エンジン音が、耳の奥で、低く唸った。
(来る)
桃真が振り返る。笑顔。光。
「桃真——!!」
叫んだ。体当たりした。肩に、桃真の肋骨の硬さが伝わる。ドンッ、という鈍い音が、腹の底まで響いた。
二人は道路に転がった。アスファルトのざらつきが、肘と膝を擦った。
キキキ——ッ!! 車が急ブレーキをかけた。タイヤがアスファルトを削る音。車は二人のすぐ脇をかすめて通り過ぎた。風圧で、太一の髪が激しく揺れた。鼻先を、ゴムの焦げる匂いが掠めた。
静寂。遠ざかるエンジン音だけが、夜に残った。
太一は、桃真の上に覆いかぶさるようにして倒れていた。掌が、アスファルトの熱を吸っていた。
「……って、太一!? お前、何してんだよ!?」
桃真が、太一の下で驚いた声を上げた。
「……間に合った」
震えていた。歯が、かちかちと鳴った。
「間に合った……桃真、お前、生きてる……」
涙が、桃真の顔に落ちた。
「……太一、お前、泣いてるのか?」
桃真が、太一の顔を見上げた。
「……泣いてない」
涙を拭おうとした。でも、止まらなかった。
「……よかった……本当に、よかった……」
桃真にしがみついた。シャツ越しに、桃真の心臓の音が聞こえた。速い。でも、確かに、打っていた。
「……太一、お前、一体、どうしたんだよ。何が、あったんだ?」
桃真が、太一の背中を優しく抱きしめた。
「……夢で、見たんだ」
「夢?」
「お前が、死ぬ夢を。車に轢かれて、死ぬ夢を。何度も、何度も」
声が震えた。
「……俺が、死ぬ?」
「ああ。だから、俺、お前を守らなきゃって。ずっと、そう思ってた」
桃真の胸で泣き続けた。
「……太一、お前、それ、本気で言ってるのか?」
声が、真剣になった。
「……信じられないよな。俺だって、信じられない。でも、今、夢と同じことが起きたんだ。お前が振り返って、車が来て——」
「……ああ、確かに、今、車が来たな。お前が突き飛ばしてくれなかったら、俺、あの車に轢かれてたかもな」
桃真が、太一の体を強く抱きしめた。腕の力が、背中に食い込む。
「……そっか。お前、そんなこと、一人で抱えてたのか」
声が震えた。
「……桃真」
「……ごめんな、太一。俺、お前が変だって、思ってた。お前が俺のことを見張ってるって、思ってた。でも、お前は、俺を守ろうとしてくれてたんだな」
桃真の涙が、太一の髪に落ちた。温かい雫だった。
「……桃真、お前、泣いてるのか?」
「……泣いてない」
桃真が、涙を拭った。
「……お前、泣いてるだろ」
「……お前もな」
二人は道路に倒れたまま、しばらく泣いていた。アスファルトが、背中に冷たかった。
「……太一、ありがとうな。俺、お前がいてくれて、よかった」
「……当たり前だろ。お前は、俺の親友なんだから」
「……ああ、そうだな。俺も、お前の親友だ」
桃真が、太一の頭を撫でた。掌が、髪の上で、ゆっくり動いた。
「……太一、話してくれよ。お前の夢のことを。全部」
「……ああ」
太一は、桃真に夢のことを全て話した。夏休みの最後から同じ夢を何度も見ていること。桃真が車に轢かれて死ぬ夢を。夢がどんどん鮮明になっていること。そして今日、夢と同じことが起きたこと。
桃真は黙って、太一の話を聞いていた。途中で、一度だけ、喉を鳴らした。
「……そっか。お前、そんなにずっと、怖かったんだな」
桃真が、太一の肩を抱いた。
「……ああ。でも、もう、一人じゃない。真澄と二葉も、協力してくれるって」
「……真澄ちゃんと、二葉ちゃんも?」
「ああ。二人には、もう話したんだ。夢のことを」
「……そうか。そうだったのか」
桃真が、遠くを見た。商店街の灯りが、彼の瞳に映っていた。
「……太一、俺、お前に、言わなきゃいけないことが、ある」
桃真が、太一に向き直った。
「……なんだよ」
「……実は、俺、今日、お前に、話したいことがあって、呼び出したんだ」
「……ああ、そういえば、大事な話があるって言ってたな」
「……ああ。それ、実は、お前の夢の話と、関係あるかもしれない」
桃真の顔が、真剣になった。
「……どういうことだ?」
「……俺、最近、変な夢を見るんだ」
「……変な夢?」
「ああ。お前が泣いてる夢。お前が俺のことを見て、泣いてる夢。それで、俺がお前に何か言おうとするんだけど、声が出ないんだ」
太一は、息を呑んだ。
「……桃真、お前、それ、いつから?」
「……夏休みの終わりくらいから。お前の夢と、同じ時期だ」
頭が混乱した。
(桃真も、夢を見てる?)
(俺が泣いてる夢を?)
「……太一、お前の夢と、俺の夢、何か関係があるのかもしれない」
桃真が、太一の目をじっと見た。
「……分からない。でも、もしかしたら」
言葉を濁した。
「……まあ、いいや。今日は、お前が俺を助けてくれた。それで、十分だ」
桃真が、立ち上がった。
「……立てるか、太一」
手を差し出した。
「……ああ」
その手を掴んだ。掌が、温かかった。
二人は立ち上がった。
「……太一、ありがとう。本当に、ありがとう」
桃真が、太一を抱きしめた。
「……ああ」
背中を抱きしめ返した。
(桃真が、生きてる)
(俺は、桃真を、守れた)
安堵が、胸の底からじわりと広がった。膝の力が抜けて、一瞬、よろけた。
物陰から、真澄と二葉が飛び出してきた。
「太一、大丈夫!?」
「太一くん、桃真くん、よかった……本当に、よかった……」
二葉が泣きながら、二人に駆け寄ってきた。スニーカーの底が、アスファルトを弾む音がした。
「……ああ、大丈夫だ。二人とも、ありがとう」
「……太一、お前、本当に、無茶をするわね。でも、今回は、結果的に、桃真を助けられた。よかったわ」
真澄が、太一に言った。声は、少しだけ、柔らかかった。
「……真澄ちゃん、太一くんを、褒めてあげて。太一くん、すごく頑張ったんだから」
「……別に、褒めてないわ。事実を言っただけ」
真澄が、少し照れたように言った。耳の先が、赤くなっていた。
「……真澄ちゃん、素直じゃないな」
「……うるさいわね」
真澄が、桃真を睨んだ。
四人は、笑った。夜の商店街に、笑い声が響いた。閉まりかけたシャッターの隙間から、漏れる光が、足元を照らしていた。
翌日。青浜高校、校舎裏の温室。太一、桃真、真澄、二葉の四人が集まっていた。鉢植えの土の匂いと、葉の擦れる音が、静かに満ちていた。
「……それで、太一、お前、俺に、ずっと、劣等感を感じてたのか?」
桃真が、太一に尋ねた。
「……ああ。ずっと、そうだった。お前は明るくて、人気者で、野球部のキャプテンで。俺とは、住む世界が違うって、思ってた」
俯いた。床のタイルの目地が、やけに細かく見えた。
「……俺、お前のこと、すげえと思ってたぜ」
「……え?」
顔を上げた。
「お前、すげえよ。だって、お前、俺のことを、誰よりも、よく見てる。俺が困ってるとき、いつもそばにいてくれた。俺が落ち込んでるとき、何も言わずに隣にいてくれた。そんなお前を、すげえって、思ってた」
言葉を失った。
「……桃真、お前、そんな風に、思ってたのか?」
「当たり前だろ。お前は、俺の自慢の親友だぜ」
桃真が、笑った。
「……俺、お前のこと、全然、分かってなかった」
自分の浅はかさを、恥じた。
(俺は、桃真の表面しか、見ていなかった)
(桃真は、俺のことを、ちゃんと見てくれていたのに)
「……太一、お前は、お前のままでいいんだよ。俺は、お前のそういうところが、好きなんだから」
桃真が、太一の肩を叩いた。
「……桃真」
胸が熱くなった。
「……太一くん、よかったね」
二葉が、太一に微笑んだ。
「……ああ」
頷いた。
「……でも、まだ、問題は残ってるわ」
真澄が、口を開いた。
「……ああ、舞美の脅迫者のことだな」
「ええ。舞美を脅してる、あの男の正体が、まだ分からない」
「……あと、太一の予知夢のことも、まだ謎が多いわ」
真澄が続けた。
「……そうだな。夢が今後も続くのか、それとも、もう終わったのか。それも分からない」
「……でも、もう、一人で抱え込まないって、約束したでしょ」
真澄が、太一に言った。
「……ああ。分かってる」
「……これからは、四人で考えよう」
「そうだな。太一、これからは、俺も、一緒に考えさせろよ」
桃真が、太一の肩を組んだ。
「……ああ、ありがとう」
肩を抱き返した。
「……それと、太一、二葉に、ちゃんと謝りなさい」
真澄が、太一に言った。
「……ああ」
二葉の方を向いた。
「……二葉、今まで、お前を利用する形になって、ごめん。本当に、悪かった」
深く、頭を下げた。
「……ううん。謝らないで。私も、桃真くんを守りたかったから」
二葉が、首を振った。
「……二葉」
「……私、太一くんに協力できて、よかった。太一くんは、私を利用してたかもしれない。でも、私は、太一くんと一緒に、桃真くんを守れて、嬉しかった」
二葉が、太一に微笑んだ。目元が、少しだけ、赤かった。
「……二葉、ありがとう」
その優しさに、胸を打たれた。
真澄は、そんな二人を、複雑な表情で見つめていた。
(真澄は、二葉のことを、どう思ってるんだ?)
(親友として? それとも——)
太一は、真澄の視線に気づかなかった。
「……さて、これからのことを、話し合いましょう」
真澄が、切り出した。
四人は、温室の作業台を囲んだ。舞美の脅迫者のこと。太一の予知夢のこと。これから、どうするか。四人は真剣に話し合った。
「……舞美の脅迫者については、私が少し調べてみるわ」
「……危ないよ、真澄」
「大丈夫。私、陸上部で鍛えてるから」
真澄が、二葉に微笑んだ。
「……俺も、協力する」
「……あんたは、桃真のそばにいて。あんたの夢が、また見えるかもしれないから」
「……そうだな。分かった」
「……俺も、太一のそばにいるよ。太一が、また変な夢を見ないように」
桃真が、太一の肩を叩いた。
「……ああ、頼む」
「……私も、できることするよ。園芸部の活動とかあるけど、時間は作るから」
「……ありがとう、二葉」
四人は、それぞれの役割を確認した。
「……これから、何が起きるか分からない。でも、四人で乗り越えよう」
「そうだな。なんとかなるって」
「……桃真、お前、それ、口癖だろ」
「いいだろ、別に」
四人は、笑った。温室の外では、夕日が沈みかけていた。オレンジ色の光が、ガラス越しに四人を照らしていた。葉の影が、床で長く伸びていた。
(俺は、変わらなければ)
(桃真を守るために)
(二葉や、真澄を、傷つけないために)
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