薬と恋とポーカーフェイス
現代日本の古志私立学園に転校生・猫猫(マオマオ)がやって来た。黒く短い髪、眠たげな目、薄いそばかす――第一印象はただの「地味」だ。しかし、その平凡な外見の裏には並外れた才能が隠されている。彼女は学校の保健室のベッドの下で自家製の薬草を乾燥させ、ジュースの成分を一瞬で分析し、化学の授業中に先生の間違いを何気なく指摘し、どんな状況でもポーカーフェイスを崩さない。
そんな彼女に最初に気づいたのは、生徒会長の壬氏(ジンシ)。廊下を歩くだけで女子が気絶するほどの超絶イケメンだ。彼が気になるのは、猫猫だけが彼を見ても表情を変えないこと。自己中心的な理由で、彼は彼女の周りをうろつき始める。
これが連鎖反応を引き起こす。副会長の李白(リハク)は「壬氏が興味を持つなら私も興味がある」と決意し、保健室の看護師・羅漢(ラカン)は猫猫の薬学知識に含み笑いを浮かべる。そしてクラスメイトの楼蘭(ロウラン)は密かに戦いを宣言し、誰にも壬氏の注目を奪わせまいと決意する。
猫猫の彼らへの反応はただ一言、「面倒くさい」。
そんな中、文化祭の準備が本格化し、重大な生徒会の書類が紛失するという危機が訪れる。壬氏が犯人
薬と恋とポーカーフェイス - 毒キノコと黄金比——転校生マオマオ、孤立という名のスタートラインに立つ
保健室のベッドの下に、誰かが薬草を干していた。
乾燥ドクダミ。干し方が、市販品とちがう。茎の向きが逆で、束の間隔が均等。これは……教科書に載ってない方法だ。
羅漢は細い眼鏡の奥を細めた。
さて。いったい誰の仕業だろうか。
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10月下旬の朝。
コウシ学園の校門をくぐった時、猫猫はまず銀杏の匂いを嗅いだ。
甘いような、少しだけ臭いような、あの独特の匂い。中庭にある大きな銀杏の木から流れてくるらしい。樹齢80年くらいかな、とぼんやり思う。
(生き物として見れば、立派なものだ)
猫猫——猫猫(マオマオ)は、校舎を眺めた。
本館が4階建て。右手に東館、左手に西館。合わせて3棟。全部で生徒数は1200人くらいと聞いた。なかなか大きい学校だ。
でも猫猫の目を引いたのは建物じゃなかった。
廊下の壁。
模造紙がびっしり貼ってある。赤や青や黄色。手書きの文字で「甲志祭まであと3週間!」「2年3組 準備班スケジュール確認!」「中庭ステージ出演希望者は10月中に申請!」。
廊下を歩く生徒たちが、でかい声で何か話している。
「ねえ、模擬店の机、もう予約した?」
「してないしてない、やばい!」
「クラスの衣装、誰が作るの問題まだ決まってないんだけど!」
うるさい。
猫猫は心の中でそう思いながら、人の波をよけて歩いた。
みんな、すごいエネルギーだ。文化祭がそんなに楽しいのか。猫猫には正直よくわからない。それだけの時間があるなら、薬草でも育てた方がよっぽど生産的だと思う。ドクダミ1株から採れるクロロゲン酸の量を計算する方が、ずっと有意義だ。
まあ、人それぞれだけど。
猫猫は2年3組の教室を探して、階段を上がった。
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「はい、みんな聞いてー。今日から転校生が来てるからね」
担任の門脇先生は、見るからに化学の先生らしい顔をしていた。白衣の下に白いシャツ。メガネのレンズが分厚い。
クラス全員の視線が、猫猫に集まった。
猫猫は黒板の前に立った。
黒髪のおかっぱ。細身で小柄な体。紺色のブレザーに灰色チェックのスカート。顔には薄いそばかすが散っていて、目はぼんやりした灰色だ。表情は、ほとんど変わらない。
クラスの何人かが、なんとなく好意的な顔で猫猫を見ている。女子の転校生、しかも地味めな子。警戒するほどじゃない、みたいな空気。
「猫猫さん、何か趣味とか、気軽に話してくれると嬉しいんだけど」
門脇先生がにこやかに言った。
0.2秒考えた。
「[serious]毒キノコの分類です」
教室の空気が、凍った。
物理的に凍った。エアコンが効いてるわけじゃないのに、温度が下がった気がした。
「特にテングタケ属の識別に興味があります。ドクツルタケとシロタマゴテングタケは外見が似てるので、胞子紋で確認する方法が確実で——」
「[surprised]そ、そう……」
先生が引きつった笑いで止めた。
クラスは静かだった。笑いが起きるわけでも、怖がるわけでも、驚くわけでもない。ただ、誰も何も言えない沈黙。
猫猫は自分の席に向かった。窓際の、後ろから3番目。
隣の席の女子が、前の席の女子に小声で囁いた。
「[whispers]……え、大丈夫?」
「[whispers]さあ……」
猫猫はその声を耳で捉えながら、ノートを取り出した。
まあ、いつものことだ。
────
休み時間になると、教室はすぐに賑やかになった。
女子グループは集まって文化祭の話をしている。男子は廊下でバカなことをして笑っている。猫猫の席の周りだけ、少し静かだった。
誰も来ない。
当然といえば当然だ。転校初日に毒キノコの話をした子に、積極的に話しかける人間はそう多くない。
猫猫は鞄から小さな手帳を取り出した。
薬草の観察ノートだ。方眼紙に手書きで書いた図と、細かい文字でびっしり埋まったメモ。昨日の夜に追記した、ヨモギのフラボノイド含有量の変動データが最後のページにある。
窓の外を見ると、中庭の大銀杏が見えた。
葉の色が黄色に変わり始めている。もうそろそろ落葉の時期だ。銀杏の葉にはフラボノイドの一種、ギンコフラボノイドが含まれていて、血行改善に使われることがある。薬として使う場合は乾燥させて——
「猫猫さん、席は合ってた?」
門脇先生が声をかけてきた。
「[serious]はい」
「何かわからないことあったら聞いてね。化学実験室Bはね、自主研究したい生徒が放課後使うこともあるから、ルール守れば使っていいよ」
猫猫はそこで初めて、少しだけ先生の顔をちゃんと見た。
「[surprised]……使っていいんですか」
「うん、私が責任者だから。机は綺麗にしてね」
先生は他の生徒のところへ行った。
猫猫は手帳に「化学実験室B・放課後OK」と小さくメモした。
これは、いい情報だ。
────
昼休み。
購買部「マルシェ・コウシ」は混んでいた。
本館1階の奥、小さなスペースにパンや飲み物が並んでいる。レジの前に列ができていて、猫猫はその後ろに並んだ。
にぎやかだ。あちこちで声が重なって、何を言ってるかよくわからない。猫猫は列を眺めながら、前の人の制服の素材をぼんやり分析していた。ポリエステルとウールの混紡。こういう生地は静電気が起きやすいので、ドクダミの乾燥には向かない——いや、関係ない話だ。
前に並んでいた女子3人組が、少しだけ声のトーンを落とした。
でも落とし方が足りなかった。
「転校生、毒キノコって言ったんだって」
「え、マジで?変わってるね」
「ちょっと怖くない?」
猫猫の耳は、普通の人より少しいい。薬草の匂いをかぎ分けるために鍛えてきた鼻と同じくらい、音にも敏感だ。聞こうとしなくても、聞こえてしまう。
猫猫は無表情のまま、列を進んだ。
レジの前に「名物メロンパン 180円」と書いてある。受け取って、お金を払った。
店番のおばちゃんが「はい180円」と明るく言った。猫猫は小さく頭を下げた。
中庭に出た。
大銀杏の近くのベンチに座って、メロンパンを袋から取り出す。表面がサクッとしていて、甘い匂いがした。
一口食べた。
甘い。ちゃんと甘い。
でも、なんか。
味が薄いような気がした。
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放課後。
東館1階、化学実験室B。
廊下側の窓から見ると、電気が消えていた。猫猫はドアをそっと開けた。誰もいない。薬品の匂いと、少しだけ埃っぽい空気。実験台が3列並んでいて、シンクがある。奥の棚にビーカーと試験管が並んでいた。
猫猫は鞄を実験台に置いた。
中から取り出したのは、小さなチャック袋。乾燥ヨモギだ。昨日の朝、川沿いで採ってきたやつを自宅で乾燥させた。葉の色はちゃんと緑が残っている。乾燥具合は悪くない。
実験室の設備を確認する。
ガスクロマトグラフィーの機器がある。型番を見た。3年前のモデルだけど、使えそうだ。
猫猫は小さくうなずいた。
準備を始めた。
機器の電源を入れる。カラムの温度を設定する。試料を取り出す。手順は全部、頭の中に入っている。祖母に教わったのは本草学の話だけど、成分を調べたくて自分で勉強した。
しばらくして、機器が稼働し始めた。
低い動作音。試薬の少し酸っぱい匂い。ビーカーを動かす時の、軽いガラスの音。
モニターに数値が流れ始めた。
猫猫はその数字を見て、ほんの少しだけ、顔がゆるんだ。
「[gentle]……フラボノイドの含有量、予想より高い」
誰もいない実験室に、自分の声が小さく響いた。
数値を手帳に書き写す。ペンを走らせる手が、いつもより少しだけ速い。
ここにいると、落ち着く。
誰も話しかけてこないし、毒キノコの話をしても誰も凍りつかない。機器は正直で、数値は嘘をつかない。こういう場所が、猫猫には一番しっくりくる。
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保健室に忘れ物をしたのは、実験室を出た後だった。
手帳の替えページ。本館1階、保健室に朝置いてきてしまった。ベッドの下に乾燥ドクダミを吊るした時に、一緒に置いてきたらしい。
猫猫は廊下を歩いて保健室に向かった。
扉を開けた。
「[cold]やあ」
白衣を着た男が、ベッドの横に立っていた。
40代くらいだろうか。背が高くて、細い眼鏡をかけている。胸ポケットに万年筆。眼鏡の奥の目が、細くて鋭い。ニヤニヤしているような、していないような、読みにくい表情だ。
手には、猫猫のドクダミが握られていた。
猫猫は一瞬止まった。
「[cold]ほう。乾燥ドクダミ」
男は束を眺めながら言った。
「干し方が教科書じゃない。茎を上向きにして吊るしてる。どこで覚えた?」
猫猫はその男を観察した。
白衣。万年筆。薬草の干し方を「教科書じゃない」と正確に指摘できる知識。これは……普通の保健の先生じゃない。
「[serious]祖母です」
短く答えた。
男はほんの少し眉を上げた。そして笑った。
ニヤリ、という感じの笑い方だった。感じがよくない笑い方だ。なんか、試されてる気がする。
「[cold]祖母ね」
男はポケットから小さなメモ帳を取り出した。ペンを走らせる。
「猫猫……ね」
名前を書いている。なぜ。
猫猫は忘れた替えページを回収しながら、この人は何者なのかを頭の片隅で考えた。薬学の知識がある。週3日しか来ない非常勤の教員だと聞いた。
めんどくさい人に目をつけられた気がする。
「[cold]また来なさい。話が聞きたい」
メモ帳を閉じる手が、少し速かった。
何かを急いでいるような気がした。でも理由はわからない。
猫猫は「はあ」とだけ答えて保健室を出た。
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帰り道、中庭を横切った。
夕方の光が斜めに差し込んでいて、大銀杏が金色に光っていた。葉っぱが風に揺れて、ひらひらと落ちてくる。地面に積もった黄色い葉の上を歩くと、カサカサと音がした。
猫猫は銀杏の根元のベンチの前で、少しだけ立ち止まった。
静かだ。みんなもう帰ったのか、中庭に人の気配がない。
「[whispers]……この学園でも、やっぱり一人か」
声に出すつもりはなかった。でも出た。
怒ってるわけじゃない。悲しいわけでもない。ただ、ずっとそうだったから。転校するたびに一人で、薬草の話をすると引かれて、それに慣れてしまっている。
慣れてるから、平気だ。
たぶん。
その時、銀杏の向こうを人影が横切った。
早足。書類の束を小脇に抱えている。制服を着ているけど背が高い。夕陽を受けた横顔が、一瞬だけ視界に入った。
3秒くらいで、視界から消えた。
猫猫はその後ろ姿を見送りながら、思った。
(……顔が、異常に整った人がいた)
それだけだった。
名前も知らない。何者かも知らない。ただ、走っていた。書類を抱えて、どこかに急いでいた。
猫猫は視線を空に戻した。
空が、オレンジ色になっている。
銀杏の葉がまた一枚、ひらりと落ちた。足元に落ちた葉を一瞬見て、また歩き出した。
今日は長い一日だった。メロンパンの味が薄かったこと、羅漢という謎の先生のこと、化学実験室Bのガスクロが思ったより性能がいいこと。
色々あった。
でも、明日また来なきゃいけない。
猫猫は校門を出た。ミヅキ駅の方向へ続く道を、一人で歩き始めた。
銀杏の匂いが、風に乗って少しだけついてきた。