薬と恋とポーカーフェイス
現代日本の古志私立学園に転校生・猫猫(マオマオ)がやって来た。黒く短い髪、眠たげな目、薄いそばかす――第一印象はただの「地味」だ。しかし、その平凡な外見の裏には並外れた才能が隠されている。彼女は学校の保健室のベッドの下で自家製の薬草を乾燥させ、ジュースの成分を一瞬で分析し、化学の授業中に先生の間違いを何気なく指摘し、どんな状況でもポーカーフェイスを崩さない。
そんな彼女に最初に気づいたのは、生徒会長の壬氏(ジンシ)。廊下を歩くだけで女子が気絶するほどの超絶イケメンだ。彼が気になるのは、猫猫だけが彼を見ても表情を変えないこと。自己中心的な理由で、彼は彼女の周りをうろつき始める。
これが連鎖反応を引き起こす。副会長の李白(リハク)は「壬氏が興味を持つなら私も興味がある」と決意し、保健室の看護師・羅漢(ラカン)は猫猫の薬学知識に含み笑いを浮かべる。そしてクラスメイトの楼蘭(ロウラン)は密かに戦いを宣言し、誰にも壬氏の注目を奪わせまいと決意する。
猫猫の彼らへの反応はただ一言、「面倒くさい」。
そんな中、文化祭の準備が本格化し、重大な生徒会の書類が紛失するという危機が訪れる。壬氏が犯人
薬と恋とポーカーフェイス - 蛍光粉末と四角関係——甲志祭前夜、罠が光る
昨日の夜、蛍光粉末の最終調整が頭から離れなかった。
朝6時。東館の化学実験室Bはまだ誰もいない。蛍光灯の白い光の中、マオマオは実験台に向かっていた。ルミノール系の自作粉末——正確には、壬氏の書庫金具に塗布して接触した人間の手に付着させるためのもの。害はない。ただ、紫外線を当てると青白く光る。
配合は昨日の夜のうちに計算した。あとは最終濃度の確認だけだ。
扉が開いた。
「[sarcastic]来たよ。手伝う」
漆黒の長い髪、深紅色の目。制服のボタンをまだ一つ留め忘れているが、それでも廊下から異様に浮いて見えるほど端正な顔をしている人だ。マオマオはその顔を一秒見て、試験管に視線を戻した。
「[serious]触らないでください」
「……え」
「[serious]近づかないでください」
壬氏が一歩踏み出そうとした足を止めた。
「[serious]息もなるべく止めてください」
三連続で言い放った。壬氏がゆっくりと壁際に後退する。腕を組んで、壁にもたれた。
「[sarcastic]……じゃあ何で来いって言ったんだ」
「[serious]来てくださいとは言いませんでした」
沈黙。
壬氏が何か言おうとして、止まった。確かにそうだ。昨日、マオマオは「明日朝に粉末が完成します」と報告しただけで、来いとは一言も言っていない。壬氏が勝手に来た。
ぐうの音も出なくなった壬氏は、そのまま壁際で腕を組んだまま立っていた。
マオマオは作業を続けた。粉末の最終濃度を確認して、小さなプラスチックケースに移す。密封する。ラベルを貼る。
終わった。
「[serious]完成しました」
壬氏がケースを見た。
「[gentle]……すごいな」
独り言みたいに、ぽつりと言った。褒めてやろうとか、機嫌を取ろうとか、そういう声じゃなかった。ただ素直に出てきた言葉という感じがした。
マオマオは手元の作業を止めた。0.5秒くらい。それからすぐに道具を片付け始めた。
何が起きたのかはよくわからない。ただ、その一言が耳に残った。
────
生徒会室は朝から静かだった。
書庫の金具——二重施錠の南京錠の側面と、ドアノブ周辺の縁——に粉末を薄く塗布する作業は、細かい。マオマオは綿棒で丁寧に、均一に塗っていく。壬氏は今度こそ近づかずに、長机の端で腕を組んで見ていた。
扉が開いた。
「[gentle]壬氏くん、大変だって聞いて」
赤紫のロングヘア。金色の切れ長の目。片手にペンを握っている。おっとりした表情で、でも目だけはどこか鋭い。2年3組のクラスメイト——楼蘭だ。マオマオは綿棒の作業を止めずに横目で確認した。
「[gentle]私も手伝わせてほしいですわ」
壬氏が表情を少しやわらげた。
「[cold]ありがとう、ロウラン。でも今は——」
「[gentle]お力になりたいんです」
静かで、穏やかな声だった。壬氏は一拍置いて「……じゃあ、様子を見ていてくれ」と言った。楼蘭が頷いて、長机の椅子を引いて座る。
マオマオは作業を続けた。
楼蘭の声のトーンを、無意識に整理していた。壬氏に向ける声と、マオマオに向ける笑顔が、わずかに違う。壬氏を見るときの楼蘭の目は、ペンを握る指先と同じくらい、力が入っている。
(この人は壬氏さんのことが好きだ)
マオマオが出した結論は単純だった。恋愛的な意味で。証拠は視線の方向と、声帯のわずかな緊張と、壬氏との距離の取り方。
それを頭の中で処理したとき、胸の奥でチクリとした。
(何だ?)
分析しようとしたが、該当データがない。痛みの種類がわからない。薬草データベースにも、症例集にも、この感覚に対応する項目がない。
わからないものは棚に上げる。マオマオは綿棒の角度を調整して作業に戻った。
「[gentle]壬氏くん、あの——昨日ちゃんと眠れました?」
楼蘭が壬氏に話しかける声が聞こえた。
「[sarcastic]まあな」
「[gentle]無理しないでくださいね」
「[cold]心配ない」
その会話を聞きながら、マオマオは金具の塗布を終えた。均一に塗れている。問題ない。
問題はない。
なのに胸のチクリがまだ消えていないのが、初めて自分の体の反応が理解できない状況だとわかった。
────
午後になった。
廊下を歩いていたマオマオに、李白が声をかけてきた。
「[cold]猫猫さん、ちょっといいか」
真っ白なミディアムヘア、右が青、左が銀のオッドアイ。穏やかそうな顔をして、でも何かを計算しているような微笑みがある。副会長の李白だ。
「[serious]何ですか」
「[cold]情報処理室に来てくれ。見せたいものがある」
────
情報処理室にはPC端末が40台並んでいる。放課後前の静かな時間帯、誰もいない。
李白が一台の端末を立ち上げた。
「[cold]見ろよ。校内SNSへの匿名投稿——そのIPログだ」
画面を見た。ログが表示されている。マオマオは画面に近づいた。
「[surprised]校内のPC端末から投稿されていた」
「[cold]そう。しかも端末番号まで絞れる。あとは利用記録と突き合わせれば、投稿した人間がわかる」
「[serious]……二人で追い詰めようということですか」
「[cold]まあな。壬氏を巻き込むより、俺とお前の方が動きやすいだろ」
純粋に意味を考えた。犯人を特定できる。利用記録を照合すれば絞れる。筋は通っている。
「[serious]わかりました」
二人で並んで画面を確認し始めた。端末番号。アクセス日時。ログの照合。
────
一方、生徒会室では。
書記が壬氏に報告した。「猫猫さん、情報処理室に李白さんと——」
壬氏がコーヒーカップを持ったまま止まった。
楼蘭が椅子から「どうしたの?」と見上げた。その手が、壬氏の腕に伸びかけた。
壬氏はその手に気づかないまま立ち上がった。
「[cold]ちょっと確認してくる」
廊下に出た。歩きながら、自分でも何を確認しに行くのかわからなかった。情報処理室。端末番号の照合は李白がやっている。自分が行く理由は特にない。
わかっている。
でも足が動いていた。
情報処理室の前に着いた。ガラス越しに、並んで座るマオマオと李白の背中が見えた。二人の肩の距離が近い。李白が画面を指で示していて、マオマオがそれを見ている。
……足が止まった。
(何をしているんだ、僕は)
引き返した。廊下を歩く。曲がり角で柱に肩をぶつけた。
「[sarcastic]……痛い」
誰もいない廊下で、小声で言った。
────
情報処理室から戻ったのは30分後だった。
「[serious]端末番号は特定できました。あとは利用記録を照合すれば投稿者が絞れます」
生徒会室。壬氏と楼蘭が長机にいた。壬氏がマオマオの顔を見た。
「[cold]よくやった。それで——」
楼蘭が立ち上がった。壬氏の隣に静かに立って、その腕の近くに手を伸ばした。
「[gentle]壬氏くん、あたしがそばにいるから大丈夫ですよ」
壬氏はその手を、気づいているのかいないのか、体をわずかにずらして避けた。
「[cold]……ありがとう」
声は普通だった。でも視線がマオマオに戻っていた。
楼蘭の指先が宙に止まった。一秒くらい。それから楼蘭は「そう……」とだけ言って、静かに手を引いた。微笑みは崩れていない。でも指先だけが、ペンをいつもより強く握っていた。
マオマオはそれを横目で見た。
チクリ、とした。
(……今のは)
今度は分析できた。さっき楼蘭の手が避けられた瞬間だった。自分の体の反応が、楼蘭の行動と連動している。
(変な感じだ)
それだけ処理して、マオマオは端末のメモを取り出した。先に進まなければいけない。
────
夜になった。
文化祭前日の校舎は、遅くまで人が残っている。各クラスの準備委員が荷物を運んで廊下を行き交い、部室棟からは何かを切る音が聞こえる。生徒会室の前の廊下も、30分おきに誰かが通る。
マオマオと壬氏は、廊下の曲がり角の暗がりに並んでいた。
「[serious]犯人はまだ証拠を隠蔽しきれていない可能性があります。書庫の中に何か残っているとしたら、今夜動くかもしれない」
「[cold]本当に来ると思うか」
「[serious]五分五分です」
正直な数字を言った。壬氏が「……そんなもんか」と呟いた。
廊下が静かになった。準備委員たちが引き上げていく音がして、やがて遠くなった。蛍光灯の一本が、かすかにちらついている。
壬氏が小声で言った。
「[cold]お前、緊張しないのか」
「[serious]心拍数は上がっています。でもそれが緊張なのか、別の何かなのか判断できません」
壬氏がこちらを見た。
「[surprised]……別の何か?」
「[serious]わかりません」
壬氏が何か言おうとした——その時。
生徒会室の扉が、わずかに開く音がした。
二人が同時に動きを止めた。廊下の暗がりから、角を少しだけ覗く。
人影。
書庫の前に立っている。金具に手をかけている。
マオマオは紫外線ライトを握った。スイッチを入れた。
青白い光が走った。
その人物の手のひらが光った。袖口が光った。蛍光粉末の痕跡が、くっきりと浮かび上がった。
壬氏が息を呑んだ。
マオマオも無表情のまま、固まった。
光った人物の顔が、暗がりの中ではっきりと見えた。
——予想と、違った。
壬氏が低い声で何か言おうとして、その人物が光に気づいて振り返った。三人が、一瞬だけ見つめ合った。
マオマオは紫外線ライトを握ったまま、その場に立っていた。
手がかりは、今、確かに手の中にある。
あとは証拠を持って、顧問の片岡先生と全校生徒の前に出るだけだった——それが、どれだけ難しいことかを、マオマオはすでに計算し始めていた。