薬と恋とポーカーフェイス
現代日本の古志私立学園に転校生・猫猫(マオマオ)がやって来た。黒く短い髪、眠たげな目、薄いそばかす――第一印象はただの「地味」だ。しかし、その平凡な外見の裏には並外れた才能が隠されている。彼女は学校の保健室のベッドの下で自家製の薬草を乾燥させ、ジュースの成分を一瞬で分析し、化学の授業中に先生の間違いを何気なく指摘し、どんな状況でもポーカーフェイスを崩さない。
そんな彼女に最初に気づいたのは、生徒会長の壬氏(ジンシ)。廊下を歩くだけで女子が気絶するほどの超絶イケメンだ。彼が気になるのは、猫猫だけが彼を見ても表情を変えないこと。自己中心的な理由で、彼は彼女の周りをうろつき始める。
これが連鎖反応を引き起こす。副会長の李白(リハク)は「壬氏が興味を持つなら私も興味がある」と決意し、保健室の看護師・羅漢(ラカン)は猫猫の薬学知識に含み笑いを浮かべる。そしてクラスメイトの楼蘭(ロウラン)は密かに戦いを宣言し、誰にも壬氏の注目を奪わせまいと決意する。
猫猫の彼らへの反応はただ一言、「面倒くさい」。
そんな中、文化祭の準備が本格化し、重大な生徒会の書類が紛失するという危機が訪れる。壬氏が犯人
薬と恋とポーカーフェイス - 黄金比と逃げたコーヒー——生徒会長、初めて顔色を変えられる
化学の授業が始まって15分。
門脇先生は黒板に酸化還元反応の化学式を書いた。白チョークがかつかつと音を立てる。マオマオは教科書を開いたまま、先生の手元をぼんやり見ていた。
(……係数、合ってない)
左辺の水素イオンが足りない。あと2つ必要だ。薬草を煎じる時の酸化反応で嫌というほど確認した反応式だから、間違えようがない。
先生がチョークを置いて「じゃあ、この反応の特徴をノートに——」と言いかけたところで、マオマオはゆっくり手を挙げた。
「[serious]係数が違います」
教室が、しんと静まった。
「[serious]左辺の水素イオン、あと2つ必要です。H⁺を2つ加えないと電荷が釣り合いません」
門脇先生は黒板を振り返り、10秒くらいじっと見た。それから真っ赤な顔で「……そうだね、ありがとう」と言いながら、チョークで書き直し始めた。
誰も何も言わない。
マオマオの隣の席の男子が、ひそひそと前の席の女子に囁いた。
「[whispers]……本当に合ってんの?」
「[whispers]先生が直してるんだから合ってるでしょ……」
「[whispers]転校して3日で先生を訂正する人、初めて見た」
マオマオはその会話を耳の隅で拾いながら、ノートに正しい反応式を書き直した。
授業後、また誰かが小声で言っていた。
「薬草を煎じる時の話、とか言ってたよね……?」
「何それ、ふつう高校生そんなこと知らんくない?」
まあ、いつものことだ。マオマオは机の引き出しから観察ノートを取り出した。
────
昼休みまでに、噂はクラスを出て学年全体に広まった。
「転校生が先生の化学式の間違いを指摘した」という話は、廊下を伝言ゲームで移動して、本館1階の生徒会室まで届いた。
生徒会室は25平方メートルほどの部屋だ。長机が4つ並んで、パイプ椅子が8脚。白いホワイトボード。窓の外には中庭の大銀杏が見える。その部屋の一番奥の席で、壬氏はノートパソコンのキーを叩いていた。
漆黒の長い髪、深紅色の目。座っていても背が高いのがわかる。コウシ学園史上最多得票87パーセントで生徒会長になった男だが、今は甲志祭の予算表を眺めながら眉間に小さな皺を寄せていた。
書記の一人が扉から顔を出して、小耳に挟んだ話を告げた。
「……へえ」壬氏はパソコンから顔を上げた。「3日目で門脇先生の化学式を訂正した?」
「しかも理由が『薬草を煎じる時の酸化反応で覚えたから』だって」
「[surprised]薬草?」
書記は困ったような顔で頷いた。
壬氏はパソコンを閉じた。椅子を引く音が部屋に響く。
「[serious]2年3組、どこだ」
「え、3階の——って、会長、まさか自分で行くんですか!?」
すでに壬氏は立ち上がっていた。
────
2年3組の廊下に壬氏が現れた時、まず異変を察知したのは教室前の女子グループだった。
ひとりがぱっと振り返って、固まった。
「……え」
「……え?」
「え!? 壬氏先輩!?」
次の瞬間、教室の窓に女子が殺到した。6人が一斉に窓に張り付いて、廊下を見下ろす。ひとりがハンカチを顔に押し当てて「無理、顔が良すぎて目が痛い」と座り込んだ。
壬氏はその反応に完全に慣れていた。一秒も立ち止まらず、視線だけを教室の中にすべらせる。
窓に殺到した6人の隙間から、教室の奥の席が見えた。
黒髪おかっぱ。うっすらそばかす。薄い灰色の目。全員が壁際に集まって廊下を見ている中、その生徒だけが自席で観察ノートをめくっていた。顔色ひとつ変えない。
壬氏は教室のドアを開けた。
どたっ、と誰かがどこかで音を立てた。ハンカチ女子が本格的に崩れ落ちたらしい。
「猫猫さん」
呼ばれた方向に顔を向けたのが一人だけだった。他の女子全員が自分の名前が呼ばれたと思って硬直したのとは正反対に、当のマオマオはノートから目を上げて、一秒だけ壬氏を見た。
「[serious]何か用ですか」
廊下に固まっていた女子グループから小さな悲鳴が上がった。「今、普通に話しかけた……」「顔色も変わってない……」「人間?」
壬氏は少し面食らった顔をしたが、すぐに口の端を上げて教室に入ってきた。
「[serious]化学式を訂正したと聞いた。本当か」
「[serious]はい」
「[serious]理由は」
「[serious]間違ってたので」
「……それはそうだが」
一瞬、壬氏の目の奥に何か面白そうなものを見つけた光が浮かんだ。
「[sarcastic]僕の顔を見て、何も思わないのか」
周囲の女子が全員息をのんだ。マオマオはノートを持ったまま、今度は少し長く——3秒か4秒か——壬氏の顔を正面から観察した。
壬氏の顔の前で他の人間がそういう目つきになったことはなかった。圧倒されるでもなく、照れるでもなく、まるで標本でも見るような、静かで真剣な目。
周囲の女子が嫉妬で化石になっていく中、マオマオは口を開いた。
「[serious]骨格のバランスが良いですね。顔面の黄金比に近い。鼻梁と目の間隔が1対1.618に近似しています」
間。
「[serious]……それが何かの役に立つんですか?」
壬氏は固まった。
褒めているのか分析しているのか、判断できない。少なくとも「素敵」でも「かっこいい」でも「ドキドキした」でもない。黄金比。比率。役に立つか。
頬に、熱いものが上がってきた。
(……なんで俺が、今)
「[cold]……お前、変わってるな」
それだけ言い残して、壬氏は廊下へ消えた。早足で、それでもギリギリ走ってはいない足取りで。
後に残された教室は、20秒くらい誰も何も言えなかった。
────
生徒会室に戻った壬氏は、コーヒーメーカーの前に立った。
カップをセットして、ボタンを押す。コーヒーが落ちる音。
(骨格のバランスが良い。顔面の黄金比に近い)
そういう返し方を、されたことがなかった。
カップを取ろうとして——指先が引っかかった。
カップがひっくり返った。コーヒーが机の書類に盛大にこぼれた。
「……っ」
慌ててティッシュを引き抜いて押さえる。予算の確認書の角が茶色く染まっていく。
「会長……顔、赤くないですか?」
気づいたら扉のところに書記が立っていた。
「[cold]赤くない」
「でも——」
「[cold]赤くない」
書記は「……はい」と言ってそっと扉を閉めた。
壬氏は濡れた書類をティッシュで押さえたまま、窓の外の大銀杏を見た。昼の光の中で、黄色い葉がゆれている。
(役に立つか、ときいてきた)
誰もそんなことを聞いてきたことがなかった。
────
放課後。
保健室の扉に、手書きのメモが貼ってあった。
「猫猫さんに用があります ——羅漢」
マオマオはメモを一度読んで、二度読んで、仕方なく保健室に向かった。
扉を開けると、羅漢がベッドの横の丸椅子に腰かけていた。白衣、細い眼鏡、胸ポケットの万年筆。目が細くて、何を考えているかわかりにくい顔。火曜と木曜と金曜の週3日だけコウシ学園に来る非常勤の保健指導員で、薬学の博士号を持っているらしいと聞いた。
羅漢は机の上のビニール袋を指で示した。
中にドクダミが入っている。マオマオが先日ベッド下に干したやつだ。
「[cold]干し方が独特だ」
「縦に吊るすのが一般的だけど、斜め45度でロープに並べてある」羅漢は眼鏡の奥を細めた。「これ、教科書には書いていない方法だよ」
マオマオはイスに座った。
「[serious]有効成分の揮発を抑えるためです。斜め45度にすると直射日光が当たりにくくなって——」
言いかけて、口をつぐんだ。
これ以上説明しても、この人には逆効果な気がした。知識があればあるほど、次の質問が増える。
羅漢はそれを待っていたように、すぐに続けた。
「[cold]高校生の知識の範囲を大きく超えている。誰に教わった?」
マオマオは一瞬だけ視線を下げた。
「[serious]祖母です」
短く答えて、それ以上は出さなかった。
羅漢はしばらく黙ってマオマオを見た。追及されると思った。でも羅漢はポケットから古いメモ用紙を取り出して、何かを書き始めた。ペンが走る音だけが保健室に響く。
「[cold]そうか。また来てくれ」
それだけだった。
マオマオは立ち上がった。扉に手をかけた時、ちらりと羅漢の手元を見た。
メモ用紙に「猫猫」という文字。その下に、何かもう一つ書かれているが、読める角度ではなかった。
マオマオは扉を閉めた。廊下に出て、少しだけ立ち止まった。
(あの人は何を書いたんだろう)
わからない。めんどくさい予感だけが、うっすら残った。
────
夕方。中庭を横切って帰ろうとすると、後ろから足音が来た。
「[serious]待て」
振り返ると壬氏がいた。書類の束を片手に、長い髪が夕陽を受けて光っている。昼間より少しだけ、表情が固い。
「[serious]お前、今日から生徒会の雑務手伝いをしてもらう。来い」
マオマオはその文の構造を一瞬考えた。
「[serious]なぜですか」
「[serious]人手不足だ。化学式も正確だし、頭も悪くなさそうだ。適任だろ」
理由は一応筋が通っている。でも、壬氏の耳の先がわずかに赤い。マオマオはそれに気づかなかった。ただ「強引だな」とは思った。
「[serious]……わかりました」
大銀杏の葉が一枚、ひらりと落ちた。
────
生徒会室に連れてこられたマオマオは、部屋を一通り見回した。
長机4つ。ホワイトボード。コーヒーメーカー。窓の外に大銀杏。そして壁際の書庫——鍵が二重についている。南京錠と、ドアノブに別の鍵穴。
壬氏が説明した。
「[serious]書庫は僕と顧問の片岡先生しか開けられない。副会長のリハクも持っていない。鍵の管理は徹底している」
「[serious]厳重ですね」
「文化祭の予算承認書から企画許可証まで全部あそこに入っている。万が一のことがあったら甲志祭全体が止まる」
甲志祭、というのは毎年11月第2土日にあるコウシ学園の文化祭だ。来場者が4000人を超える大規模なもので、生徒会が全体を統括している。準備期間は3週間で、今ちょうどその手前にあたる。壬氏の肩にかかっているものが何なのか、部屋の空気から少しだけわかった。
書記が大量のプリントを抱えてきた。
「[serious]これ、日付順に並べてほしいんですけど……」
マオマオは黙って受け取った。
日付を確認しながら並べていく。手が動く間、考えることは特にない。こういう単純作業は嫌いではない。頭の半分が空いて、薬草の成分分析の続きを考えられる。
コーヒーメーカーの前に立った壬氏が、新しいカップにコーヒーを注いでいた。
チラリと、こちらを見た。
マオマオは気づかなかった。プリントの日付を確認するのに集中していた。
壬氏がまたチラリと見た。書記が見て見ぬふりをしていた。
窓の外の大銀杏が夕陽を浴びて金色に染まっている。ガラス越しに光が入ってきて、書類が温かい色になった。マオマオはそれをぼんやり見た。
(悪くない景色だ)
一人でいる時間に慣れすぎていた。転校のたびに孤立して、薬草の話をすれば引かれて、それが普通になった。ここに来てまだ3日で、今日も誰かに「変わってる」と言われた。でもここの空気は——なんとなく、少しだけ、息がしやすい気がした。理由はよくわからない。
────
解散の少し前、壬氏がコーヒーのカップをマオマオの前に置いた。
「[serious]飲むか」
マオマオはカップを持ち上げて、一度匂いをかいだ。
「[serious]カフェインは集中力を上げますが、利尿作用もあります。夜9時以降は勧めません。今は——」
壁の時計を確認した。
「[serious]7時10分なので、飲むなら今がギリギリです」
壬氏は5秒くらい黙った。
「[surprised]……そういう返し方、初めてされた」
「[serious]普通の答えでしたが」
壬氏は何か言い返そうとして——言葉が出なかった。
マオマオのカップを自分の方に引き寄せて、そのまま一気に飲んだ。
鞄を持って立ち上がったマオマオは、扉を開ける前に振り返った。
「[serious]あの書庫の鍵穴、油が切れています。錆びかけてます。潤滑油を使った方がいいですよ」
壬氏は扉が閉まった後、一人で書庫の鍵穴をしばらく眺めていた。
鍵穴は確かに少し変色していた。言われなければ気づかなかった。
どんな場面でも薬か成分か道具の話に着地する。なぜそうなるのか、理屈がわからない。それなのに——不思議と、不快ではなかった。
(なぜだ)
壬氏は自分の胸の真ん中に、じわりと名前のない何かが温まっているのを感じながら、それが何なのかまだわからないでいた。
窓の外では、大銀杏の最後の金色がゆっくり暗くなっていった。