薬と恋とポーカーフェイス
現代日本の古志私立学園に転校生・猫猫(マオマオ)がやって来た。黒く短い髪、眠たげな目、薄いそばかす――第一印象はただの「地味」だ。しかし、その平凡な外見の裏には並外れた才能が隠されている。彼女は学校の保健室のベッドの下で自家製の薬草を乾燥させ、ジュースの成分を一瞬で分析し、化学の授業中に先生の間違いを何気なく指摘し、どんな状況でもポーカーフェイスを崩さない。
そんな彼女に最初に気づいたのは、生徒会長の壬氏(ジンシ)。廊下を歩くだけで女子が気絶するほどの超絶イケメンだ。彼が気になるのは、猫猫だけが彼を見ても表情を変えないこと。自己中心的な理由で、彼は彼女の周りをうろつき始める。
これが連鎖反応を引き起こす。副会長の李白(リハク)は「壬氏が興味を持つなら私も興味がある」と決意し、保健室の看護師・羅漢(ラカン)は猫猫の薬学知識に含み笑いを浮かべる。そしてクラスメイトの楼蘭(ロウラン)は密かに戦いを宣言し、誰にも壬氏の注目を奪わせまいと決意する。
猫猫の彼らへの反応はただ一言、「面倒くさい」。
そんな中、文化祭の準備が本格化し、重大な生徒会の書類が紛失するという危機が訪れる。壬氏が犯人
薬と恋とポーカーフェイス - 水垢と硝酸と、肩の距離
壬氏がコーヒーメーカーのタンクを外した時、マオマオは本を読んでいた。
生徒会室の隅の席。甲志祭の準備書類を「整理」という名目で預けられたけど、もうとっくに片づいている。今日で月曜から数えて何日目だっけ、とマオマオは頭の端で考えた。
月曜は書類の整理。火曜はお茶の補充。水曜はホワイトボードの字が汚いから書き直してほしい。
理由が毎回ちがう。
マオマオは視線を手元の本に落としたまま、書記が手帳に何かを書いているのをぼんやり認識していた。読めないけど、たぶん「会長の呼び出し理由、また変わった」みたいなことだと思う。
「[serious]……マオマオ」
本から顔を上げた。
壬氏がコーヒーメーカーのタンクを外して、眉をひそめている。コーヒーメーカーは壬氏が私費で持ち込んだやつだ。タンクの内側に、白っぽい何かがついている。
「[serious]これ、汚れてる気がするんだが」
「[serious]水垢です」
マオマオは本を閉じて立ち上がった。壬氏の隣に並んで、タンクを受け取る。内側を指でなぞった。ざらざらしている。
「[serious]カルシウムが沈着してます。水道水に含まれるミネラルが乾燥すると残るやつです。台所用の米酢と重曹があれば10分で落とせます」
壬氏が少し間を置いた。
「[sarcastic]……お前、本当に何でも知ってるな」
それは疑問文じゃなかった。ただの独り言みたいな言い方だった。
「[serious]知らないことも普通にあります」
「[sarcastic]具体的には」
「[serious]恋愛の仕組みとか」
沈黙。
書記が手帳に何かを書き足した。壬氏の耳の先が、微妙に赤い。マオマオはそれに気づかなかった。
購買のトミさんに米酢を借りに行き、重曹は東館の化学準備室から持ってきた。タンクを洗い、酢を注いで5分待ち、重曹を加えて泡立てて、すすぐ。手順は単純だ。
タンクが元の透明に戻った。
壬氏は光るタンクをしばらく、ただ眺めていた。
「[gentle]……すごい」
小声だった。誰かに言うつもりじゃない声の大きさだった。
マオマオは手を拭きながら、その一言が胸の隅にひっかかるのを感じた。
なぜひっかかったのか、わからない。「すごい」という言葉は技術への評価であって、人への評価じゃない。ただの事実だ。なのに、なんか、嫌な気持ちがしない。
めんどくさい人間だと思ってたのに。
マオマオはその違和感をとりあえず棚に上げて、本を取りに席に戻った。
────
放課後、東館の化学実験室Bに向かった。
今日は持参した乾燥カモミールの成分を調べる予定だ。廊下を歩きながら、どのカラムを使うかを頭の中で組み立てていると、実験室の扉を開けた。
いつもの匂い。薬品と埃が混じったやつ。
実験台にカモミールの袋を置いて、棚に手を伸ばした。フラスコを取ろうとして、その手が止まった。
おかしい。
マオマオは止まったまま、もう一度鼻を使った。
棚の奥の方から、何か刺激臭がする。かすかだけど、確実にある。フラスコじゃなくて、その奥のビンから来ている。
手をゆっくり引いた。
ビンを目で確認した。ラベルに「食塩水 NaCl 0.9%」と書いてある。
食塩水に刺激臭はない。
マオマオはキャップを開けずに、鼻をビンの近くに持っていって、一度だけ息を吸った。
(硝酸だ)
揮発の速さと、この刺激臭の種類。間違えようがない。しかも濃度が低くない。60パーセントくらいはある。
ラベルを剥がした。指先が少しだけ震えた。別に怖いわけじゃない。これが何を意味するかを考えているだけだ。
ラベルの下から、もとのシールが出てきた。「HNO₃ 60%」。
意図的な貼り替えだ。
知らずに使っていたら——フラスコに注いでいたら——手に、顔に、かかっていた。60パーセントの硝酸が皮膚についたら、組織が壊死する。笑い話にならない。
マオマオは剥がしたラベルをチャック袋に入れて、鞄にしまった。
実験室の電気を消して、扉を閉めて、廊下に出た。
足が自然と生徒会室の方向に向いていた。
────
壬氏はまだ残っていた。
パソコンを見ていた壬氏が、扉を開けたマオマオの顔を見た瞬間、何かを察したらしかった。
「[surprised]どうした」
「[serious]東館の実験室で、試薬のラベルが貼り替えられているものを見つけました」
マオマオは事実だけを、順番に言った。食塩水のラベルが硝酸のビンに貼られていたこと。匂いで気づいたこと。キャップを開けずに確認したこと。ラベルを証拠として保管したこと。
壬氏は黙って聞いていた。
聞き終わった後、5秒くらい何も言わなかった。
「[cold]……お前が知らずに使ってたら」
途中で止まった。声に、いつもない何かが混じっていた。焦りというか、怖さというか。
「[serious]使う前に匂いで気づいたので大丈夫です」
マオマオはそう答えた。壬氏の顔が青ざめているのは、生徒会長として設備管理の責任を感じているからだろう、と分析した。
それ以外の可能性は思いつかなかった。
「[cold]入退室の記録を調べる。来い」
────
東館には紙の台帳があった。
生徒会室の長机に二人で並んで座って、台帳を広げる。
マオマオは台帳の日時と名前を指でなぞりながら読んでいった。日付を確認し、時間を確認し、名前を確認する。
壬氏の肩と自分の肩の距離が、5センチもない。
マオマオはそれに特に何も思わなかった。台帳を読むには近い方が見やすい。合理的だ。
一方、壬氏は台帳の同じ行を、すでに3回読んでいた。
数字が頭に入ってこない。隣にいるマオマオが台帳を指でなぞるたびに、その指先が視界の端に入ってくる。そっちを見てはいけないとわかっているのに、なぜか目線がそっちに行こうとする。
(集中しろ)
壬氏は台帳を4回目に読んだ。
マオマオは完全に無反応で、台帳の上で指を動かし続けていた。
「[serious]ここに防犯カメラがないのは、設置の話が出なかったからですか」
「[cold]……俺が反対した」
マオマオが顔を上げた。
「[cold]生徒を四六時中監視するみたいで嫌だった。プライバシーの話もある。だから否決した」
「[serious]では今回の件に関しては、会長の判断ミスですね」
間髪入れない返事だった。
壬氏は苦く笑った。笑い方が、いつもの余裕のある笑い方と少しちがう。
「[cold]……そうだな」
それだけ言って、台帳に視線を戻した。でも手が止まっている。
「[cold]俺、正しいと思ってやってることが、誰かの賛成を得たことって少ない」
ぽつりと出た言葉だった。独り言に近い。
「[cold]87パーセントの得票で選ばれたのに、本音を言えるやつが一人もいない。みんな俺に「会長」として話しかけてくる。俺が一人でいた方が全体がうまく回るから、そうしてる。それだけの話なんだが」
言い終わった後で、壬氏自身が少し驚いたように口を閉じた。
こんなことを誰かに言ったのは、初めてだった。なぜ今ここで言ったのか、自分でもわからなかった。
マオマオは台帳から顔を上げなかった。指の動きも止めなかった。しばらくして、ぽつりと言った。
「[serious]人が多くても寂しい人は、いるんですね」
感慨も慰めも含まない。ただの観察だった。
壬氏の胸の奥で、何かが止まった。
誰かに見えていなかった部分を、ピンポイントで言い当てられた感覚。慰めじゃない。哀れみでもない。ただ、見えている、という確認。
壬氏は何も言わなかった。台帳を見つめたまま、静かに息をついた。
────
台帳を全部調べても、実験室の入室記録は化学部の部長・藤田(前日)とマオマオ(当日)の二人しかなかった。
「[serious]藤田に話を聞きますか」
「[cold]聞いた方がいいだろうな。怪しいのは事実だし」
「[serious]あの人は私に入部を断られています。動機はありますが、証拠がありません。今話を聞きに行けば警戒されるだけです」
壬氏が止まった。
「[surprised]……入部、断ったのか」
「[serious]部費が無駄と伝えました」
「[sarcastic]そりゃ怒るわ」
壬氏が額を押さえた。
しばらくして「では今何をする」という問いに、二人が同じ方向を向いた。
「[serious]もし今回の犯人が別の試薬のラベルも替えているなら、棚を全部確認すれば被害の範囲がわかります。同じ手口が他にも使われているなら、目的は私個人じゃなくて、実験室の混乱を狙っている可能性が高い」
壬氏が少し間を置いて、マオマオを見た。
「[cold]……俺より頭いいな」
「[serious]そうですね」
一秒の迷いもなかった。
壬氏が笑い出した。今度は本物の笑い方だった。
「[laughing]正直すぎるだろ」
マオマオは壬氏が笑っている意味がよくわからなかったけど、なんか嫌じゃなかった。
────
翌朝、二人で東館の化学実験室Bに入って、薬品棚を端から確認した。
ビン一本一本、ラベルと中身を照合していく。マオマオが鼻で確認して、壬氏が台帳にチェックを入れる。
3列目の棚まで来た時、マオマオの手が止まった。
エタノールのラベルがついたビン。
匂いをかいだ。
「[serious]……アセトンです」
壬氏がペンを止めた。
「[cold]もう一本か」
「[serious]エタノールとアセトンは匂いが似てるので、気づきにくい。でもアセトンは引火性が高い。実験中に火気があれば危ない」
一本じゃない。複数だ。
マオマオは棚を見渡して、口を開いた。
「[serious]これは偶然の悪戯じゃないです。誰かが計画的に、特定の誰かを狙っています」
壬氏の表情が引き締まった。
二人で実験室を出て、本館に向かう廊下を歩いた。廊下の窓から外を見ると、甲志祭の飾り付けを作っているクラスメイトたちが中庭で動いていた。カラフルな模造紙。わいわいした声が窓ガラス越しにも聞こえてくる。
マオマオはその光景をぼんやり眺めながら、ふと思い出したことを口にした。
「[serious]生徒会の書庫の鍵、油は差しましたか」
「[cold]まだだが」
「[serious]早めにやった方がいいです。あの鍵、ガタついてました」
壬氏は少し遅れて「わかった」と答えた。
マオマオの後ろ姿を見ながら、このまま帰らせるのが何となく嫌だという気持ちがあった。理由は言葉にならなかった。ただ、なんとなく。
「[cold]明日も来い」
マオマオは振り返らずに「理由は何ですか」と聞いた。
壬氏は少し考えてから答えた。
「[cold]棚の確認、まだ終わってない」
「[serious]それはそうですね」
マオマオは廊下を歩き続けた。壬氏はその背中を見ながら、今日初めて笑った瞬間のことを、なんとなく思い出していた。
実験室の棚には、まだ確認が終わっていない段がある。犯人の正体は、まだわからないまま。