薬と恋とポーカーフェイス
現代日本の古志私立学園に転校生・猫猫(マオマオ)がやって来た。黒く短い髪、眠たげな目、薄いそばかす――第一印象はただの「地味」だ。しかし、その平凡な外見の裏には並外れた才能が隠されている。彼女は学校の保健室のベッドの下で自家製の薬草を乾燥させ、ジュースの成分を一瞬で分析し、化学の授業中に先生の間違いを何気なく指摘し、どんな状況でもポーカーフェイスを崩さない。
そんな彼女に最初に気づいたのは、生徒会長の壬氏(ジンシ)。廊下を歩くだけで女子が気絶するほどの超絶イケメンだ。彼が気になるのは、猫猫だけが彼を見ても表情を変えないこと。自己中心的な理由で、彼は彼女の周りをうろつき始める。
これが連鎖反応を引き起こす。副会長の李白(リハク)は「壬氏が興味を持つなら私も興味がある」と決意し、保健室の看護師・羅漢(ラカン)は猫猫の薬学知識に含み笑いを浮かべる。そしてクラスメイトの楼蘭(ロウラン)は密かに戦いを宣言し、誰にも壬氏の注目を奪わせまいと決意する。
猫猫の彼らへの反応はただ一言、「面倒くさい」。
そんな中、文化祭の準備が本格化し、重大な生徒会の書類が紛失するという危機が訪れる。壬氏が犯人
薬と恋とポーカーフェイス - 書類と嘘と、胸のざわめき
昨日、棚の確認がまだ終わっていなかった。
その続きが今日できる保証はどこにもない、とマオマオは自転車を漕ぎながら思った。東の空が明るくなり始めた時間帯。コウシ学園前のバス停を過ぎて、校門をくぐる。
朝のHRが始まる前だった。
生徒会室の前を通りかかった時、廊下の向こうから壬氏の声が聞こえた。
「[surprised]……ない」
書記を呼ぶ声がする。マオマオは立ち止まった。
「[serious]全部ないんだが」
扉が開く。書記が青い顔で出てきた。マオマオを見て「あ、猫猫さん」と言った。それだけで状況がだいたいわかった。
書庫の中身が消えていた。
予算承認書、出展団体の企画許可証、外部業者との契約書控え——甲志祭に関わる書類が、一枚残らず。
壬氏は書庫の前に立って、空っぽの棚を見ていた。漆黒の長い髪、深紅色の目。普段は余裕のある立ち方をする人なのに、今日は少し違う。どこが違うのか言葉にはできなかったが、マオマオはそれを感じた。
「[serious]書庫の鍵穴は?」
壬氏が振り返った。
「[serious]無傷だ。こじ開けた形跡もない」
「[serious]そうですか」
HRのチャイムが鳴った。二人は教室へ向かった。
────
昼休みまでに、校内SNSに投稿が上がった。
隣の席の女子が「猫猫さん、見た?」と画面を向けてくれた。マオマオはスマートフォンを持っていない。ほとんどの生徒が朝から見ているのに、一人だけ乗り遅れていた。
写真が一枚。夜の廊下。生徒会室の書庫の前で、壬氏が鍵を持って立っている。角度からして廊下の壁際から撮ったもの。
「壬氏が深夜に一人で書庫に侵入、書類を横領か」というテキストが添えられていた。
「[whispers]やっぱりね。完璧すぎる人って裏があるよね」
「[whispers]近づかないほうがよかったわ……」
昨日まで壬氏の話題で声を上げていた女子たちが、あっという間に方向を変えていた。人間の変わり身は速い。マオマオは黙ってその会話を聞きながら、写真をもう一度見た。
窓の外の光の方向。影の角度。廊下のガラスに反射している蛍光灯の色。
「[serious]夜7時半前後ですね」
「え?」
「[serious]影の方向と長さから。残業です」
一瞬の沈黙があった。それからざわっと声が上がった。「ずっこける」という言葉があるとしたら、今の教室がそれに近かった。マオマオはずっこけた理由がよくわからないまま、弁当箱を取り出した。
────
放課後、生徒会室に向かうと、扉の前に見知らぬ人物が立っていた。
真っ白なミディアムの髪。穏やかな目元。右目が青で、左目が銀——左右で色が違うオッドアイ。身長は175センチくらい。壬氏より少し低い。立っているだけで「何か考えている」という印象を与える、奇妙な静けさがあった。
「猫猫さん?」
マオマオを見て、その人物は微笑んだ。計算された笑顔か自然な笑顔かは、一秒見ただけではわからない。
「[cold]俺、李白。壬氏の中学からの同級生。副会長だぜ」
生徒会室の扉が開き、壬氏が出てきた。
「[surprised]リハク」
「[cold]連絡したのに返事がないから来た。何かあった?」
「[serious]……書類が消えた」
「見た。SNSも」李白は淡々と言った。「[cold]俺が調査する。壬氏、お前は何もするな」
一見すると完璧な援軍だった。壬氏は少し間を置いて「リハク……ありがとな」と短く言った。
李白は部屋の中を見回した。その視線がマオマオの上で一瞬止まる。止まって、また動く。さりげない確認だったが、確実に確認していた。
「[cold]壬氏が気にかけてる子なんだって?」
マオマオに近づきながら、李白は意味深に微笑んだ。「[cold]俺も気になるな」
マオマオは一秒間、李白の顔を正面から観察した。骨格。左右対称の度合い。オッドアイの虹彩の形。
「[serious]骨格のバランスは壬氏さんの方が優れています」
李白が固まった。
完全に、固まった。
口が半開きになって、次の言葉を探している。マオマオには何が起きているのか正確にはわからなかった。事実を言っただけだ。壬氏は182センチで、顔面の黄金比により近い。それは観察すれば誰でもわかることだと思う。
壬氏の方を見ると、壬氏は笑いたいのに笑えない顔をしていた。なぜそういう顔になるのかも、よくわからなかった。
────
三人で長机に並んで座った。生徒会室。窓の外の大銀杏。コーヒーメーカー。
「[serious]書庫の構造を確認します」
マオマオは書庫の前に立って、二重施錠を確認した。南京錠と、ドアノブの鍵穴。前回来た時に見た傷の跡はまだそのままだ。
「[serious]この書庫の鍵を持つのは会長・副会長・顧問の3本だけです」
それだけ言った。続きは言わなかった。続きを言わなくても、室内の視線が自然と動いた。
李白に向いた。
李白の微笑みが、わずかに固くなった。
「[serious]……俺を疑うのか」
声が低くなった。穏やかだった話し方に、初めて棘が混じる。
「[cold]落ち着けリハク。マオマオは事実を言っただけだ」
「[serious]事実を言えば犯人が絞られる。それは俺にとって——」
「[cold]わかってる。でも今は感情的になる場面じゃない」
沈黙が落ちた。長机の上に、誰も触らない書類の束がある。コーヒーメーカーの保温ランプだけが赤く光っている。
マオマオは書庫の鍵穴から視線を外して、ぽつりと言った。
「[serious]顧問の片岡先生は、いつ学校に来ますか」
実務的な一言が、固まった空気を少し動かした。壬氏が「水曜と金曜の週2日だ」と答えた。李白の肩から、わずかに力が抜けた。
誰かが犯人で、誰かが無実で、その判断をする根拠がまだない。マオマオはそれだけを考えていた。李白を責めるつもりも、庇うつもりもない。ただ、鍵の本数は3本だ。
壬氏はマオマオの横顔を見た。
李白がマオマオのそばに立った瞬間から、胸の奥で何かがざわついている。何かがざわついているのに、それが何なのか全然わからない。不快というわけでもない。ただ、落ち着かない。
(なぜだ)
壬氏は自分の胸の真ん中を一瞬、押さえた。誰にも見られていないタイミングで、素早く。
────
その夜、書記経由でマオマオにメッセージが届いた。
件名はなかった。「SNSに追加投稿があった」とだけ書いてあった。
マオマオは隣の家の奥さんのスマートフォンを借りて確認した(今日で3回目だ。そろそろ気まずい)。
新しい投稿には動画が添えられていた。廊下のガラス越しに撮った映像。書庫を操作している壬氏の後ろ姿。「証拠映像・壬氏が書類を隠す現場」とテキストがついている。
翌朝、学校に着いたマオマオが最初にしたことは、動画を見直すことではなかった。生徒会室に行き、書庫の錠前を正面から眺めた。南京錠の側面。ドアノブの鍵穴の縁。
壬氏が来た。
「[serious]……錠前の傷の付き方が二種類あります」
「は?」
「[serious]元の鍵でつく傷と、それより少し薄い傷。別の鍵、つまり複製品を使った跡があります」
壬氏が錠前に近づいた。マオマオの指が示している場所を見た。確かに——言われれば、傷の深さが微妙に違う。
「[surprised]……お前、いつの間に確認したんだ」
「[serious]ここに来て最初に見ました。前々回から気になっていました」
「[surprised]前々回って何……」
壬氏が頭を抱えた。マオマオには壬氏が何に困惑しているのかがよくわからない。気になっていたから確認した。それだけのことだ。
ただ。鍵の複製者が存在するという証拠が初めて出た。犯人が会長でも副会長でも顧問でもない可能性が、初めて浮かんだ。
壬氏が錠前を見ながら、低く呟いた。
「[cold]……誰かが複製した。いつ? どうやって?」
「[serious]わかりません。まだ」
まだ、という一言に少しだけ重みを込めた。わからないことと、わかっていないことは、違う。
────
放課後。
書記と会計が連れ立って生徒会室に来た。二人とも、どこか顔が固い。書記の方が先に口を開いた。
「[serious]会長、本当のことを話してください」
壬氏の顔が変わらない。変えなかった。
「[cold]俺はやっていない」
「でも証拠が——」
「[cold]複製鍵の跡が錠前にある。犯人は第三者だ」
「その証拠は猫猫さんが言ったことですよね」
「……ああ」
「猫猫さんが先週転校してきたばかりだってことは」
二人は壬氏の目を見ないまま「失礼します」と言って出ていった。扉が閉まる。
コーヒーメーカーの保温ランプが赤い。
李白が立ち上がった。
「[cold]俺は外から動く。学校の外で情報を集める方が早いかもしれない」
壬氏は何も言わなかった。李白は一瞬マオマオを見て、それから出ていった。
部屋に二人が残った。
壬氏はコーヒーメーカーの前に立って、カップをセットした。一人分。コーヒーが落ちる音。窓の外の大銀杏が、夕方の光の中で静かに揺れている。
その背中が——なんとなく、小さく見えた。第2話で初めてこの部屋に来た時の、あの生徒会長の背中より、少しだけ。
マオマオはカバンを持った。立ち上がった。扉の方へ歩いた。
ドアノブに手をかけたところで、足が止まった。
(なぜ止まった)
わからない。合理的な理由が見当たらない。帰るべきだ。今日の探索でわかったことはメモした。明日以降の方針も考えてある。帰って薬草の乾燥具合を確認しなければいけない。
なのに足が、動かない。
マオマオは半歩だけ戻って、壁際の椅子に座り直した。
「[serious]もう一杯分のコーヒー、淹れた方が効率的じゃないですか。どうせ二杯分の電力を使っています」
壬氏が振り返った。
マオマオのカバンがまだ机の上にある。
数秒。それから壬氏は棚から二つ目のカップを取り出した。
「[cold]……そうだな」
コーヒーが二つ並んで、湯気が上がる。壬氏が一つをマオマオの前に置いた。
二人で、窓の外の大銀杏を見た。何も言わない。言わなくていい気がした。大銀杏の葉が夕風に揺れて、ざわざわと音を立てる。光が少しずつ薄くなっていく。
マオマオの胸の奥に、名前のつかない何かが一粒だけ落ちてきた。何なのかわからない。薬学的に分析しようとしたが、成分が特定できなかった。
それはたぶん初めての感覚だった。
複製鍵を使った人物がいる。書類はまだ見つかっていない。犯人の動機も、正体もわからない。壬氏を信じない仲間が増えていく中で、謎はまだ何一つ解けていない。
でも今この瞬間だけは、大銀杏が揺れていて、コーヒーが温かくて——マオマオには、それでいい気がした。
なぜかは、まだわからない。