薬と恋とポーカーフェイス
現代日本の古志私立学園に転校生・猫猫(マオマオ)がやって来た。黒く短い髪、眠たげな目、薄いそばかす――第一印象はただの「地味」だ。しかし、その平凡な外見の裏には並外れた才能が隠されている。彼女は学校の保健室のベッドの下で自家製の薬草を乾燥させ、ジュースの成分を一瞬で分析し、化学の授業中に先生の間違いを何気なく指摘し、どんな状況でもポーカーフェイスを崩さない。
そんな彼女に最初に気づいたのは、生徒会長の壬氏(ジンシ)。廊下を歩くだけで女子が気絶するほどの超絶イケメンだ。彼が気になるのは、猫猫だけが彼を見ても表情を変えないこと。自己中心的な理由で、彼は彼女の周りをうろつき始める。
これが連鎖反応を引き起こす。副会長の李白(リハク)は「壬氏が興味を持つなら私も興味がある」と決意し、保健室の看護師・羅漢(ラカン)は猫猫の薬学知識に含み笑いを浮かべる。そしてクラスメイトの楼蘭(ロウラン)は密かに戦いを宣言し、誰にも壬氏の注目を奪わせまいと決意する。
猫猫の彼らへの反応はただ一言、「面倒くさい」。
そんな中、文化祭の準備が本格化し、重大な生徒会の書類が紛失するという危機が訪れる。壬氏が犯人
薬と恋とポーカーフェイス - 毒キノコ女と、信じる理由
昨日、書庫の鍵に複製の痕を見つけた。
犯人は外にいる。壬氏はやっていない。
マオマオはその結論を頭の中で確認しながら、自転車のペダルを踏んだ。コウシ学園前のバス停を過ぎて校門をくぐる。空はまだ薄曇りで、中庭の大銀杏が朝の空気の中でぼんやりしている。
甲志祭まで、あと2日だ。
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朝のHRが始まって3分で、教室の空気が変わった。
担任の三宅先生が出席簿を置いて、少し困った顔をした。
「[serious]昨日の職員会議でね。顧問の片岡先生から、書類が期限までに提出されない場合、甲志祭の実施が難しくなるという話が出ました」
ざわ、と音がした。
「え、マジで」「中止って話?」「嘘でしょ」
前の席の女子がスマートフォンを見ながら低い声で隣に言った。「[whispers]ほんとに横領してたのかもね。だって証拠映像まであるじゃん」
「[whispers]私たちの文化祭費なんだけど」
マオマオは窓の外の大銀杏を見た。
昨日まで廊下で壬氏に向かって「会長さんって格好いいですよね」と言っていた三年の女子が、今日は「ほんとやばくない?」と小声で話している。人間の向きが変わる速さは、化学反応に似ている。触媒があれば一瞬だ。
(面白いな、という意味では全くない)
マオマオは鉛筆を持ったまま、教室のざわめきを聞いていた。
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休み時間、廊下でそれは起きた。
3年生の男子が4人、壬氏の前に立っていた。壬氏は廊下の真ん中で、背筋をまっすぐ伸ばしている。いつも通りの立ち方だった。でも何かが違う。
「お前のせいで文化祭なくなるんだけど」
「責任取って辞めろよ」
「87パーセントの得票がどうとか言ってたよな、あれって何だったわけ」
三人が代わる代わる言う。壬氏の顔は動かない。
「[cold]僕はやっていない」
その声が、少しだけかすれていた。
マオマオは廊下の端から聞いていた。声帯の緊張。呼気のコントロールがほんの少しだけ乱れている。怖い、という状態が体に出ているのを、マオマオは音で認識した。
(この人、怖いんだ)
胸の奥に何かが引っかかった。名前のない、小さなもの。
「証拠があるって言ってんだよ」
「動画見ただろ」
そのとき、一番声の大きかった男子のカバンのチャックが全開になっているのにマオマオは気づいた。しかも中身が少しずつ廊下に落ちていく。消しゴム。鉛筆。折りたたんだプリント。本人は全員、気づいていない。
マオマオはその光景を見て、少しだけ事態の重さが軽くなる感覚を覚えた。なぜかは説明できない。
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昼休み、生徒会室の前に李白が立っていた。
真っ白な髪。右が青、左が銀のオッドアイ。穏やかそうな顔をしているが、その目が今日は少しだけ違う色をしている。マオマオを見つけて、口を開いた。
「[gentle]猫猫さん」
「何ですか」
李白が少し間を置いた。言葉を探しているときの間だ、とマオマオは思った。
「[cold]壬氏のそばにいてやってくれ。保健室にいる」
声は穏やかだった。友人を心配している言葉に聞こえた。でもその目線が、一瞬だけ下を向いた。
マオマオはその0.5秒を見逃さなかった。
(複雑な気持ちがある)
「[serious]わかりました」
それだけ答えて、保健室に向かった。李白の背中を確認する余裕はなかったが、していないことは正確に分かった。
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保健室のドアを開けると、ベッドに壬氏が一人でいた。
腰を下ろして、床を見ている。漆黒の長い髪が肩に落ちていた。深紅色の目が、マオマオが入ってきても動かない。
マオマオは部屋の真ん中に立った。
沈黙。消毒液の匂い。ベッド下のドクダミがかすかに香る。
「[cold]……なんで来た」
「[serious]李白さんに頼まれました」
「そうか」
壬氏はまた床を見た。マオマオは壬氏の隣の丸椅子を引いて座った。特に何も言わなかった。言う必要がある言葉が、今のところ見つからない。
しばらくして、壬氏が掠れた声で言った。
「[sad]……なんで僕が犯人じゃないって言い切れる」
マオマオは壬氏の横顔を見た。
目の下が少し赤い。泣いた後か、泣きそうなのを我慢しているかのどちらかだ。プライドの高い人間がそういう状態になっている。これは「大丈夫ですよ」という言葉を必要としていない状況だと、マオマオは判断した。
「[serious]顔があんなにいいのに、自分で評判を落とすメリットがないからです」
壬氏が顔を上げた。
「[serious]損益計算が合いません。動機がない」
二秒、三秒。壬氏が何か言おうとして、止まった。
「[sarcastic]……お前、本当に変な奴だな」
苦く笑った。その笑い方が少しだけゆがんでいて、目の端がうっすら光っていた。
マオマオはそれを見て、自分の胸のあたりが痛いような感覚を覚えた。
(泣きそうだ、この人)
痛い、というより、重い。胸の奥に何かが沈む感覚。それが何なのか分析しようとしたが、うまく分類できなかった。薬草のデータベースにも、この感覚に対応する項目がない。
そのとき、保健室のドアが開いた。
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白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、羅漢先生が入ってきた。
非常勤の保健指導員で、薬学博士号を持つ変わった教員。週3日しか来ない。今日は金曜だ。
羅漢はベッドの壬氏と、その隣の丸椅子に座るマオマオを交互に見て、口の端を上げた。
「[sarcastic]書類の件、面白いことになってるねえ」
壬氏が顔を上げた。
「[cold]知っていることがあるなら——」
「[sarcastic]まあ、焦らなくていい。君たちは頭が悪いわけじゃないんだから」
それだけ言って、羅漢は白衣のポケットに手を入れたまま出ていった。ドアが静かに閉まる。
マオマオは羅漢の背中が見えなくなってから、頭の中で整理した。
(情報を持っている。でも動かない。利益がないのか、動けない理由があるのか)
壬氏がぼやいた。
「[sarcastic]あの先生、毎回意味深なことだけ言って何もしないな」
「[serious]ドラッグストアの試供品配布みたいですね。中身は出さない」
壬氏がこちらを見た。
数秒の間があった。5秒くらい。それからようやく「……そのたとえ、合ってるのか合ってないのか」と言いながら、少し笑った。今度は、さっきよりましな笑い方だった。
マオマオは羅漢について後で李白に確認しようと決めた。あの先生は何かを知っている。
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放課後、東館の化学実験室Bに向かった。
廊下の窓から差し込む午後の光が長くなっている。扉に手をかけると、鍵がかかっていない。
(おかしい。出るとき施錠したはずだ)
扉を開けた。
匂いが違う。いつもの薬品と埃じゃない。何か別のものが混じっている。
棚を見た。
乾燥薬草の袋が、全部ない。
実験台を見た。手書きの実験ノートが、ない。
壁を見た。
印刷された紙が数枚、貼ってある。
「毒キノコ女は学校から出て行け」
マオマオは動かなかった。5秒くらい、その場に立ったまま壁の紙を見ていた。
無表情が崩れた。はっきりと分かるくらい、顔が曇った。
怒りではない。悲しみでもない。恐怖でもない。
自分がここにいることを、誰かが本気で邪魔しているという事実が、体の中に落ちてきた。それだけだった。ただ、その重さが思ったより重かった。
マオマオはゆっくりとゴミ箱に近づいた。乾燥薬草の袋が押し込まれている。一つ取り出して確認すると、蓋が開けられた跡がある。中身を確かめてから捨てた、ということだ。偶然じゃない。意図的だ。
しゃがんで、袋を全部拾い出した。一つ、一つ。ゴミ箱から出して、持ってきた布袋に詰めていく。再利用できるものはある。使えないものでも、何かの原料になる。捨てたままにする理由がない。
そのとき、廊下を走る足音が聞こえた。
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勢いよく扉が開いた。
壬氏が立っていた。息が少し乱れている。書類も何も持っていない。来る途中でそのまま走ってきた、という格好だった。
「[worried]実験室、やられたって聞いた。お前、大丈夫か」
マオマオは壬氏の顔を一秒見た。それから手元の薬草袋に視線を戻した。
「[serious]薬草は再利用できます。ノートの内容は頭に入っています。問題ありません」
壬氏が一歩、部屋に入ってきた。壁の紙を見た。深紅色の目が、細くなった。
「[cold]……そういうことじゃなくて」
言いかけて、止まった。
お前が傷ついていないか、という言葉が出てこなかった。出し方が分からなかった。プライドとか、格好つけたいとか、そういう話じゃなくて、ただ、そういう言葉の出し方を自分は知らないんだと壬氏は思った。
黙ったまま、マオマオの隣に立った。
マオマオが布袋に最後の一個を詰めて、立ち上がった。そのまま壬氏の顔を見ずに言った。
「[serious]一つ聞いていいですか」
「何だ」
「[serious]蛍光粉末を作るための材料、化学実験室に揃っていますか」
壬氏が止まった。
「[surprised]……何を考えてる」
「[serious]犯人を捕まえる罠です」
マオマオは初めて壬氏の方を向いた。
「[serious]薬も毒も、使い方次第なので」
静かな声だった。感情はほとんど乗っていない。でも壬氏には、それが今日聞いた中で一番まっすぐな言葉に届いた。
保健室で「損益計算が合わない」と言われた時と、同じ重さで。
壬氏の目に、何か違うものが入ってきた。
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二人は中庭に出た。
大銀杏の根元に、銀杏の葉が積もっている。夕方の光が長く伸びて、木の影が中庭の石畳を斜めに切っている。
マオマオが葉を一枚拾い上げた。黄色い。きれいな黄色だと思った。それだけだった。
幼い頃、祖母と薬草畑にいた記憶がある。泥のついた手でマオマオの頭を撫でながら、祖母は言っていた。
薬も毒も同じ植物から生まれる。使い方次第よ。
その声と、今日の保健室での壬氏の顔が、なぜか同じ輪郭でマオマオの頭の中に並んでいた。なぜ並ぶのかは分からない。理由の分からないことは、棚に上げておく。
「[serious]材料の目算はついています。あとは仕掛ける場所と、犯人が次に動くタイミングを読む必要があります」
壬氏が隣に立った。少し間があって、低い声で言った。
「[cold]手伝う」
「必要ありますか」
「[cold]ある」
迷いがなかった。
マオマオは葉を一枚持ったまま、少し考えた。一人でやった方が効率はいい。でも書庫の鍵の問題がある。顧問の片岡先生へのアクセスがある。壬氏にしかできない動きがある。
「[serious]では、お願いします」
銀杏の影が長く伸びている。空が少しずつ橙になっていく。
離れた廊下の窓に、白い髪が見えた。
李白がそこに立っていた。マオマオと壬氏が並んでいる中庭を、ただ見ていた。その顔は遠くて読めない。ポケットの中で、何かを握っているように見えた。
マオマオはそちらに気づかなかった。
壬氏は気づいていたかもしれないが、何も言わなかった。