もしもセンセイが選ばなかったら
キヴォトスには奇妙なルールがある――センセイだけが学園都市のすべての生徒たちを見守ることが許されている。しかし、あの運命の日に、もしもセンセイが別の選択をしていたら?
連邦生徒会の緊急会議の最中、センセイは決断を迫られた。トリニティ総合学園を守るか、ゲヘナ学園を守るか。時間はなかった。両方を救う方法もなかった。センセイはトリニティを選び――ゲヘナは見捨てられた。
そのたった一つの選択が、すべてを変えたのだ。
ゲヘナの風紀委員長、狭山ナギサは激怒した。しかしその怒りの奥には、深く静かな傷があった。センセイがキヴォトスに来る前、ゲヘナの生徒たちは自分たちだけで生き抜いてきた。誰の助けも必要としなかった。だからこそ、センセイが「守る」と言いながら現れなかったことは、ナギサにとって最悪の裏切りだった。
一方、センセイは後悔に溺れ、ゲヘナと向き合うことを恐れていた。毎日シュレーデルの机に座り、ゲヘナのファイルを見つめながら、「もしも」を繰り返していた。そんな時、ミレニアム科学学園の天才発明家、綾瀬ホシノが奇妙な装置を持って現れた。「センセイ、過去の選択をやり直せるかもしれないものを作った
もしもセンセイが選ばなかったら - 灰の報告書——選ばなかった未来
報告書の数字が、滲んで見えた。
違う。滲んでいるのは数字じゃない。
センセイは手元に視線を落としたまま、ゆっくりと瞬きをした。目は乾いていない。ただ、どこを見ているのか、自分でもよくわからなくなっていた。
死傷者:12名。
校舎損壊:3棟半壊。
風紀委員会詰所:全焼。
復旧見込み予算:2,400万クレジット超。
A4の紙に、数字が並んでいる。たったそれだけ。でもその数字の一つ一つが、センセイの手をじわじわと締め付けてくる感覚があった。
気づくと、紙の端が折れていた。
いつの間にか強く握りすぎていた。くしゃっとよれた角を見て、センセイはそっと力を抜いた。でも手は、まだかすかに震えていた。
——ここが、シャーレ本部だ。
フェデラルコモンズという名の古いテナントビルの、3階。築35年のその建物は、エントランスで向かうエレベーターが半分の確率でしか動かないし、廊下は歩くたびにきしむ。一階のコンビニ「トーテム」の匂いが夜になると上まで漂ってくるのも、最初は気になった。
でも今は、その匂いすら気にならない。
オフィスは約40平米。デスクが4つ、古いソファ、壁際には大型モニターが一台。資料棚が窓際にぎっしり並んでいて、棚の間から差し込む朝の光が埃っぽく見える。これがシャーレ——キヴォトス連邦生徒会が設置した「総合戦術状況対応室」の本部だ。名前だけはでかい。でも実態は、このくらい小さい。
センセイはデスクの椅子にもたれて、天井を仰いだ。
黒いショートヘアが背もたれに押されて、少しはねる。白いシャツに黒いスラックス。今日も同じ格好。着替える気力があるかどうか、昨夜から怪しかった。
額の薄い傷が、蛍光灯の光に白く光っている。
(どうして、あの時もっとうまくやれなかったんだろう)
また考えてしまう。数字を見るたびに、こうなる。
キヴォトス——この学園都市では、10代の生徒たちが自分たちで全てを切り盛りしている。学校が国みたいなものだ。行政も、警備も、外交も。ここに暮らす約48万人のほとんどが、10代の「生徒」だ。大人はほとんどいない。
ほとんど、というのは——センセイがいるからだ。
キヴォトスで唯一の大人。連邦生徒会から招聘された、外部顧問。なぜ自分が選ばれたのか、正直よくわかっていない。連邦生徒会からは「あなただから頼める」と言われたが、具体的な理由は教えてもらえなかった。
生徒たちには命令できない。でも助言と調停ができる。全学園に立ち入れる、ただ一人の存在——それがセンセイという立場だ。
それと、もう一つ。
ここの生徒たちには「ヘイロー」がある。頭の上に浮かぶ光の輪だ。生命力みたいなものと連動していて、元気なときは明るく輝き、弱ってくると暗くなる。そしてそのヘイローのせいか、生徒たちは銃撃を受けても簡単には死なない。キヴォトスで銃は普通に流通している——学校に重火器があるなんて、普通じゃないけど、ここでは普通だ。
センセイにはヘイローがない。それだけで、ここでは異質な存在だとわかる。
(関係ない。今は関係ない)
センセイは視線を落とした。報告書に戻る。
死傷者:12名。
その12という数字を見るたびに、頭の奥でざわざわする何かがある。
数ヶ月前のことだ。センセイはキヴォトス連邦生徒会の緊急事態宣言を受けて、トリニティ総合学園とゲヘナ総合学園——この学園都市を代表する二つの大学園——が同時に攻撃を受けるという事態に直面した。
どちらも助けられなかった。時間がなかった。どちらかを選ぶしかなかった。
センセイはトリニティを選んだ。
ゲヘナは、選ばれなかった。
———
連邦議事堂は、キヴォトスで一番高い建物だ。地上12階。ガラス張りのロビーを抜けて、大議場に向かう廊下を歩く間、センセイはずっと下を向いていた。
会議室に入ると、各学園の代表たちがすでに席に座っていた。
「センセイ」
最初に口を開いたのは、トリニティの代表だった。礼儀正しく、でも目が冷たい。
「[serious]ゲヘナへの対応が遅れたことについて、説明していただけますか」
説明。
センセイは口を開こうとして、閉じた。
何を言えばいい? 時間がなかった。どちらかしか選べなかった。そう言えば、話は終わるだろう。でもそれは——言い訳だ。
「[angry]黙ってたって何も変わりませんよ」
ゲヘナの代表が、低い声で言った。センセイより若い。でも目は、怒りより先に傷ついている色をしていた。
「[angry]うちの子たちが、どれだけ大変な思いをしたか、わかってますか? センセイが来る前から、私たちは自分で生き延びてきた。でも、あなたが来てから——『守る』って言葉を聞いてから、少しだけ信じたんです。なのに」
そこで言葉が途切れた。
センセイはうつむいたまま、何も言えなかった。
会議は重い空気のまま続いた。どの学園も、何かを言いたそうで、でも根本のところには誰も触れなかった。なぜこうなったのか。なぜ二つの学園が同時に、同じタイミングで攻撃を受けたのか。
会議が終わりに近づいた頃。
センセイのすぐ後ろに座っていたミレニアムの代表の一人が、隣の人間にぼそっとつぶやいた。
「[whispers]……両方同時に攻撃なんて、偶然にしては出来すぎてますよね」
センセイは、顔を上げた。
振り返ろうとした、その瞬間——その人はもう別の話をしていた。誰かのメモを見ながら、議題の確認をしている。
聞こえたのか、聞こえなかったのか。
センセイはもう一度、前を向いた。
——偶然にしては、出来すぎている。
その言葉が、耳の奥にひっかかったまま、離れなかった。
———
会議が終わって、センセイは一人でゲヘナ区に向かった。
理由を聞かれたら、うまく答えられなかったと思う。謝りに行くわけでもない。視察という名目もある。でも本当のところは——見ておかなければならない気がした。自分がどんな選択をしたのか。その結果が、どこにあるのかを。
ゲヘナ区は、中央区から北東へ約30km。中央区のきれいなオフィス街とはまったく違う景色が広がっている。工業地帯に隣接した、武骨な街並み。赤煉瓦と黒鉄骨でできた校舎群が、ゲヘナ総合学園の本拠だ。
でも今日見えるそれは——焦げていた。
焼けた煉瓦の臭いが、まだ漂っている。煙の残り香と、何かが燃えた後の、鼻の奥にひっかかる独特の重さ。センセイは立ち止まって、一度だけ深く息を吸い込んだ。
吸い込んで、少し後悔した。
瓦礫が道の端に積み上げられている。崩れた壁の破片、黒く焦げた鉄骨、砕けたコンクリートのかたまり。その間に、生徒たちの私物が混じっていた。
教科書が一冊、落ちていた。
センセイはしゃがんで、それを拾い上げた。表紙は焦げて、角が黒くなっている。でも中のページは——開いてみると、文字が読めた。誰かが鉛筆で引いた、下線の跡がある。丁寧な線だ。几帳面な人が引いたんだな、とわかる。
そのページが、読みかけのまま残っている。
センセイは教科書を元の場所にそっと置いた。
少し先に、割れたスマートフォンがあった。画面にひびが入って、土に半分埋まっている。でも、かろうじて画面に何かが映っていた。
仲間との写真だ。
何人かで並んで笑っている。たぶん食堂かどこか。腕を組んで、楽しそうにしている。画面のひびがちょうど真ん中を横切っていて、笑顔が二つに割れていた。
センセイはしばらく、そこから目が離せなかった。
もう少し奥へ歩いた。風紀委員会の詰所があった——正確には、あった場所だ。今は黒焦げの壁の枠だけが残っていて、中はがらんどうだ。入口の近くに、腕章が落ちていた。
風紀委員の腕章だ。紺色の布に、刺繍がある。
血のついた腕章に、名前が刺繍されていた。
センセイはその名前を読んだ。知らない名前だ。でもこれは、誰かの名前だ。ここで戦っていた、誰かの。
膝が、自然と折れた。
地面に膝をついた。立ち上がれないというより、立ち上がる気力が見つからなかった。泣くわけでも、叫ぶわけでもない。ただ、動けない。
空が白っぽい。曇りじゃないのに、なんか白く見える。
(俺が、選ばなかった場所が、ここだ)
それだけのことが、頭の中でぐるぐるしていた。数字じゃない。報告書じゃない。これが、選択の重さだ。五感から、じわじわと押し寄せてくる。
どのくらいそうしていたか、わからない。
センセイはゆっくり立ち上がり、来た道を戻った。
ゲヘナ区を出る前に、道のわきに錆びた自動販売機があるのに気づいた。半分くらいのボタンは売り切れ表示だったが、なぜかまだ動いている。センセイは無意識にポケットを探って、コインを入れた。出てきた缶コーヒーは、ぬるかった。
それでもプルタブを開けて、一口飲んだ。
甘すぎる。でも——今はそれでよかった。
———
夜、シャーレに戻った。
1階のトーテムから揚げ物の匂いがしていた。センセイは無視して階段を上がる。3階のドアを開けると、オフィスに電気はついていない。手探りでスイッチを入れる。蛍光灯が一回点滅してから、白く照らし出す。
自分のデスクに、一枚の紙が置かれていた。
センセイは近づいて、それを取り上げた。
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シャーレの介入を、今後一切拒否する。
ゲヘナの問題はゲヘナが解決する。
二度と来るな。
ゲヘナ風紀委員会委員長 狭山ナギサ
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筆跡が、きれいだった。
几帳面で、迷いがない。一文字一文字、丁寧に書かれている。怒りで乱れているわけじゃない。それが——逆に、じわじわと刺さった。
怒っているなら、まだ期待の裏返しだと思える。
でもこれは違う。もう期待すらしていない。そういう冷たさが、この文字から滲み出ていた。
センセイは紙を机に置いた。もう一度読んだ。もう一度。
——二度と来るな。
椅子に座って、天井を見上げた。蛍光灯が、静かに照らしている。窓の外で、どこかの学園の照明が遠く光っているのが見える。キヴォトスの夜は、思ったより明るい。
センセイは低くつぶやいた。
「[serious]……それでも、行かなきゃいけない」
誰もいない部屋に、その声が小さく落ちた。
言い訳はしない。謝って許してもらおうとも思っていない。ただ、向き合わないといけない。自分がしたことに。自分が選ばなかったことに。
センセイは紙を折って、引き出しにしまった。
それから、ゲヘナの被害報告書をもう一度広げた。数字を見ていると、さっき会議でつぶやかれた言葉が、また頭の中で響く。
——両方同時に攻撃なんて、偶然にしては出来すぎてますよね。
(偶然じゃない、とすると——)
センセイは顔をしかめた。まだわからない。でも、それが気になった理由だけははっきりしている。
あの日、センセイがああいう選択をせざるを得なかった状況は——誰かが意図的に作り出したのかもしれない。
でも今、それを証明する方法はない。
今できることは一つだ。明日、ゲヘナに行く。
センセイはデスクの上でひじをついて、額に手を当てた。窓の外の光が、遠くでゆっくり揺れている。たぶん風が出てきた。
どんな顔で行けばいい。
それだけが、まだわからなかった。