もしもセンセイが選ばなかったら
キヴォトスには奇妙なルールがある――センセイだけが学園都市のすべての生徒たちを見守ることが許されている。しかし、あの運命の日に、もしもセンセイが別の選択をしていたら?
連邦生徒会の緊急会議の最中、センセイは決断を迫られた。トリニティ総合学園を守るか、ゲヘナ学園を守るか。時間はなかった。両方を救う方法もなかった。センセイはトリニティを選び――ゲヘナは見捨てられた。
そのたった一つの選択が、すべてを変えたのだ。
ゲヘナの風紀委員長、狭山ナギサは激怒した。しかしその怒りの奥には、深く静かな傷があった。センセイがキヴォトスに来る前、ゲヘナの生徒たちは自分たちだけで生き抜いてきた。誰の助けも必要としなかった。だからこそ、センセイが「守る」と言いながら現れなかったことは、ナギサにとって最悪の裏切りだった。
一方、センセイは後悔に溺れ、ゲヘナと向き合うことを恐れていた。毎日シュレーデルの机に座り、ゲヘナのファイルを見つめながら、「もしも」を繰り返していた。そんな時、ミレニアム科学学園の天才発明家、綾瀬ホシノが奇妙な装置を持って現れた。「センセイ、過去の選択をやり直せるかもしれないものを作った
もしもセンセイが選ばなかったら - 三人で動かす——会長の鍵と、はじまりの一歩
事件から十二日目の朝。
シャーレのオフィスには、昨夜からの淀んだ空気がまだ残っていた。古いソファの端でホシノがタブレットを膝に乗せたまま、画面を凝視していた。白銀色のツインテールが、前のめりになるたびにずり落ちそうになっている。右目の下の星形のほくろのあたりに、うっすら疲れが浮いている。でも金と銀のオッドアイは、ぎらぎらと光っていた。
ナギサはデスクの隣に立ったまま、腕を組んでいた。漆黒のロングヘアに赤いメッシュ。鋭い赤眼がホシノの画面をじっと追っている。口は開かない。
センセイはコーヒーも飲まず、窓際で二人を見ていた。
ホシノが連邦議事堂の公開目録データベースを漁り始めたのは、今朝の六時前だった。昨夜、センセイが「会長権限で発行された過去の文書が使えるかもしれない」と言ったことを受けて、すぐに動いた。眠れなかったのか、眠らなかったのかは聞いていない。
「[serious]あった」
ホシノが画面を凝視したまま、低い声で言った。
センセイとナギサが同時に近づく。
タブレットの画面に、公文書目録のエントリが表示されていた。文書番号、署名者名、登録日。
——シャーレ顧問権限恒久保証に関する特例規定。署名者:連邦生徒会第十二代会長。登録日:三年前の十一月。
「[excited]連邦生徒会の過半数決議なしにセンセイの権限停止を無効化できる例外規定に該当するかもしれない文書だよね! デジタル化されてないから実物はアーカイブの物理書庫にあるんだけど——あ、ちょっと待って条文確認する——」
ホシノがまくしたてながら画面をスワイプした。
そしてガッツポーズをした。
勢いがよすぎて、手に持っていたスタイラスペンが床に弾け飛んだ。カチン、という乾いた音。ホシノが「あ」と言いながらソファから腰を浮かせて拾おうとして——机の角に頭をぶつけた。
ゴン。
「[sad]いたっ……」
ナギサの目が、ほんの一瞬だけ、細くなった。呆れているのか、笑いをこらえているのか、どちらともとれる表情だった。
センセイはペンを拾って、無言でホシノに渡した。
「[gentle]ありがとう……はい、条文確認完了。ナギサさんの風紀委員長権限で閲覧申請を出して、現物を持ってきたら、センセイの権限停止を無効化するための根拠として使える可能性が高い」
ナギサが一歩前に出た。
「[serious]行くしかないですね」
センセイはナギサを見た。ナギサは画面を見たまま、顔を上げなかった。でも言葉は迷いなかった。
センセイはうなずいた。言葉はなかった。でもナギサもセンセイを見ていなかったのに、何かを察したように少し肩の力を抜いた。
読者がそれを見たら、二人の間にある変化を感じ取れただろう。怒りや距離ではなく、同じ方向を向いていること。
——
連邦議事堂は、キヴォトス中央区のシンボルだった。地上十二階建て、キヴォトスで一番高い建物。白とグレーの外壁、磨かれた石畳の正面玄関。平日の午前中ということもあり、入口には数人の生徒が出入りしていた。
三人が議事堂地下への入口を目指して廊下を歩いていると、ホシノが小声で言った。
「[serious]会長室、最上階なんだよね。鍵かかったままって聞いてるけど……」
「今は関係ない」
「[serious]そうだね。まずアーカイブ」
地下への階段を下りると、空気が変わった。湿気と古い紙の匂い。廊下は薄暗く、蛍光灯がハムノイズを出しながら点いている。
公文書保管庫——連邦アーカイブの入口には、木製のカウンターがあった。その奥に、中年の女性が座っていた。細い眼鏡をかけた、ぴしりとした姿勢の担当者。胸元の名札には「サクライ」と書いてある。
ナギサが申請書をカウンターに置いた。
「[serious]連邦規則第十四条に基づく、ゲヘナ総合学園風紀委員長による閲覧申請です。書類は整っています」
サクライは申請書を手に取り、一度目を通した。それからゆっくり顔を上げた。
「[cold]申し訳ありませんが、本日は閲覧受付を停止しております」
ナギサの目が、わずかに細くなった。
センセイは隣で聞きながら、すぐに理解した。リュウトだ。閲覧申請が出ることに気づいていた。事前に手を回してある。
「[cold]受付停止の法的根拠を文書で示してください」
声は低く、静かだった。でも一歩も引いていない。
サクライが少し動揺した顔をした。
「[serious]そ、それは……上の確認が必要で」
「[cold]では確認してください。私たちはここで待ちます」
サクライが立ち上がり、奥の廊下に消えた。
その隙に、センセイは静かにカウンターの脇——書庫への扉のところに、体を移動させた。ナギサとホシノが気づいた。センセイは何も言わなかった。ただ立っている。扉のところに。
ホシノが小声で言った。
「[whispers]……また盾になってる」
センセイは答えなかった。
ナギサがちらりとセンセイを見た。あの倉庫の入口で武器も持たずに立ちふさがっていた姿が、一瞬、重なったかもしれない。ナギサはすぐに目を逸らしたが、その口元が、ほんの少しだけきつく結ばれた。
二分後、サクライが戻ってきた。顔色が、さっきより悪い。
「[serious]あの……確認が取れるまで、少しお時間を——」
「[cold]連邦規則第十四条第三項。風紀委員長権限による正式申請は、閲覧停止措置の例外対象に該当します」
ホシノがタブレットを取り出して、条文をその場で表示した。
「[serious]条文です。どうぞ」
サクライが画面を見た。否定できない顔をした。
ナギサが言った。
「[serious]手続きは正式に踏んでいます。停止の根拠が文書で示せないなら、閲覧は認められなければなりません」
サクライは数秒、沈黙した。それから小さく息をついて、扉の鍵を開けた。
——
書庫の中は広かった。
天井まで届く金属棚が何列も並び、段ボール箱と綴じたファイルが山積みになっている。埃の匂い。空気が止まっている感じ。棚には番号と年代のラベルが貼ってある。
ホシノが索引ファイルを引っ張り出して、ページを繰った。
「[serious]三年前の十一月、会長署名、シャーレ顧問権限関係……棚番号、A-七、下段」
センセイとナギサが棚を探す。ホシノが索引と棚番号を照合しながら小走りで後をついてくる。
A列、七番。下段の段ボール箱。センセイが箱を引き出した。埃が舞った。中には綴じたファイルが十数冊、ぎっしり入っている。
ホシノが手前から順番に背表紙を確認していく。
「[serious]これ、これ……ない……あった!」
一冊のファイルを引き抜いた。背表紙に、手書きの番号と「シャーレ顧問権限恒久保証」という文字が見えた。
ホシノが表紙を開いた。
三人が画面ではなく、紙の文書を見た。
——連邦生徒会会長として、シャーレ顧問の権限は連邦生徒会の単独決議によっては停止できない。以下の特例規定に従い、永続的に保証する——
末尾に、サインと連邦の丸い印鑑が押してある。インクは古びて少し褐色になっているが、読める。確かに、会長の署名だった。
センセイはファイルを手に取った。紙の重さと、三年分の埃の感触がある。
「本物だ」
その瞬間、書庫の扉が開いた。
サクライが担当者を一人連れて戻ってきた。今度は顔に、決意のようなものが混じっていた。
「[cold]その文書は……管理上の理由から、一時的に返却をお願いする必要があります」
センセイはファイルを持ったまま、動かなかった。
ナギサが一歩前に出た。
「[serious]閲覧は完了しました」
静かな声だった。でもその一言が、部屋の空気を変えた。
サクライが「ですが——」と言いかけた。
「[cold]連邦規則第十四条に基づく正式閲覧の完了後、書類の取り上げは別途の法的手続きが必要です。それを経ずに強制的に取り上げることは規則違反になります」
ホシノが素早くタブレットで撮影した。ページを開いたまま、会長の署名と連邦印を含む部分を。
サクライは黙った。
ナギサはそのまま振り向かずに言った。
「[serious]行きましょう」
三人が書庫を出た。
——
議事堂の廊下は、地下から上がってくると急に明るくなる。外の光が窓から差し込んでいた。
三人が並んで歩いていた。ナギサ、センセイ、ホシノの順。
ホシノが後ろで「[excited]やった! 本当にあった! センセイ、権限戻るよね、戻るよね?」 とはしゃいでいた。センセイは答えなかった。ファイルを抱えたまま歩いていた。
ナギサが少し歩みを緩めて、センセイの隣に並んだ。
しばらく、言葉がなかった。廊下を歩く足音だけが響く。
「[gentle]……来てくれて、よかったです」
低く、静かな声だった。怒りでもなく、感謝を強調しているわけでもない。ただ、素直な言葉だった。
センセイは何と返せばいいか、一瞬わからなかった。
ナギサが少しだけ顔を前に向けたまま、続けた。
「[serious]でも、次は先に言ってください」
センセイはそれを聞いて、短く考えた。次も来ることを前提にしている言葉だ、と気づいた。
「[serious]わかった」
それだけ答えた。
後ろでホシノが「[laughing]えっ、今なんか良い雰囲気じゃなかった!? ちょっとそれあたし聞いてた——」 と言いかけたところで、センセイが振り返らずに目線だけで制した。
ホシノは口を閉じた。
でも口元をちょっと押さえて、笑いをこらえているのがわかった。
——
シャーレに戻ったのは昼過ぎだった。
オフィスにファイルを広げ、三人がデスクを囲んだ。センセイの権限を一時的に回復させるための手続き、その後にリュウト・ケイズへの告発をどう進めるか。材料は揃いつつある。
「[serious]ホシノが復元した暗号キーの証拠と、この文書を合わせれば、連邦の他の代表に訴えるだけの根拠はある」
「[serious]リュウトは当然妨害してくる。でも手続きが正式なら、止められない」
「[serious]そうそう、で——あ、ちょっと待って」
ホシノが急にタブレットを取り出した。何かを開いている。
「[serious]今日、書庫で探してた時にさ……隣の棚に別のファイルがあって。ちらって見えたんだけど——会長の失踪記録のやつ」
センセイとナギサが、ホシノの顔を見た。
「[serious]三年前の失踪直前、数日分だけページが空白になってたんだよね。記録が消されたのか、最初から書かれてなかったのかも分かんなくて」
ホシノが少し首を傾けた。
「[serious]これ、気になるんだよね」
オフィスが静かになった。
センセイはファイルの表紙を見ていた。会長の署名。三年前。リュウトが手を回した事前妨害。失踪直前の空白。
ナギサがセンセイをちらりと見た。センセイも、ナギサを見た。
二人の間に言葉はなかった。でも同じことが頭にあった——今はリュウトへの告発が先だ。でもこの空白は、引っかかる。
1階のコンビニ「トーテム」から、昼の配達トラックが出ていく音が聞こえた。
センセイは窓の方に少しだけ目を向けた。
事件からずっと、ひとりで考えてきた。ひとりで動こうとしてきた。でも今日、書庫の中に三人で立っていた。ナギサの粘りと、ホシノの索引作業と、センセイが扉のところで時間を稼いだこと。どれが欠けても、文書は手に入らなかった。
手の震えは、ない。
リュウトへの告発という次の山が、まだある。そして失踪の記録の空白という、別の何かも。
センセイはファイルに手を置いたまま、静かに言った。
「[serious]続きを考えよう」