もしもセンセイが選ばなかったら
キヴォトスには奇妙なルールがある――センセイだけが学園都市のすべての生徒たちを見守ることが許されている。しかし、あの運命の日に、もしもセンセイが別の選択をしていたら?
連邦生徒会の緊急会議の最中、センセイは決断を迫られた。トリニティ総合学園を守るか、ゲヘナ学園を守るか。時間はなかった。両方を救う方法もなかった。センセイはトリニティを選び――ゲヘナは見捨てられた。
そのたった一つの選択が、すべてを変えたのだ。
ゲヘナの風紀委員長、狭山ナギサは激怒した。しかしその怒りの奥には、深く静かな傷があった。センセイがキヴォトスに来る前、ゲヘナの生徒たちは自分たちだけで生き抜いてきた。誰の助けも必要としなかった。だからこそ、センセイが「守る」と言いながら現れなかったことは、ナギサにとって最悪の裏切りだった。
一方、センセイは後悔に溺れ、ゲヘナと向き合うことを恐れていた。毎日シュレーデルの机に座り、ゲヘナのファイルを見つめながら、「もしも」を繰り返していた。そんな時、ミレニアム科学学園の天才発明家、綾瀬ホシノが奇妙な装置を持って現れた。「センセイ、過去の選択をやり直せるかもしれないものを作った
もしもセンセイが選ばなかったら - 校門の前で叫ぶ大人——証拠と覚悟、ナギサへの啖呵
リュウト・ケイズが帰った後、オフィスはひどく静かだった。
さっきまでそこにあった礼儀正しい声と、冷たい銀色の目と、182cmの存在感が消えて——残ったのは、机の上に置かれたままのホシノのタブレットと、センセイの中で静かに燃えているものだけだった。
ホシノがタブレットを拾い上げた。白銀色のツインテールが、動作のたびに揺れる。
「[serious]……あたし、間違ってないよね」
確認ではなかった。自分に言い聞かせるような声だった。
センセイは答えなかった。窓の外を見ていた。フェデラルコモンズの雑居ビルから見える中央区の空は、午前の光の中で白っぽく曇っている。
三時間前——ホシノが徹夜で解析したデータをシャーレに持ち込んできた時のことを、頭の中で反芻していた。
装置の残骸チップ。あの燃え尽きた時間干渉装置が最後に記録していたログ。ホシノはそれをミレニアム科学学園のエンジニア棟、自分の研究室のある地下ラボに持ち帰り、一晩かけて復元した。
「[excited]見て、これ!」
朝の八時に飛び込んできた時、ホシノの目の下には青いクマがあった。徹夜の証拠。でも目の光は消えていなかった。タブレットを机に叩きつけるように置いて、センセイの前に画面を向ける。
暗号化ファイルの展開ログ。通信記録のIPアドレス。数字の羅列。
「[excited]あの日——トリニティへの攻撃命令とゲヘナへの攻撃命令、両方の通信記録に使われてた暗号キーの発信元、同じIDから出てるんだよね! 連邦議事堂の内部端末——」
ホシノが画面をスワイプした。次のページ。アクセス権限の割り当て記録。
「[serious]リュウト・ケイズ。連邦生徒会のアクセスID、RK-0044——この端末から、両方の命令が出てる」
センセイはその数字を、黙って三十秒見た。
RK-0044。リュウト・ケイズ。連邦生徒会副長、十八歳。白髪に青いグラデーション、冷たい銀色の目。
その後ろで——ホシノが椅子ごと傾いて落ちそうになった。徹夜明けの反動か、興奮が一気に抜けたらしい。センセイは何も言わず、手だけ伸ばして椅子の背もたれを押さえた。
「[surprised]あ……ありがとう」
「気をつけろ」
それだけだった。二人はしばらく、画面を見ていた。
証拠は存在する。でも。
ホシノが自分で言った——「ただの発信元端末の一致だから、リュウトが直接操作したとは断言できないんだよね。誰かがIDを使って端末を操作した可能性も、ゼロじゃない」。
有力な証拠。でも決め手には一歩足りない。
そこへ——リュウト・ケイズ本人が、シャーレに来た。
——
「失礼します」
ノックは一回だけ。礼儀正しかった。冷たい銀色の目が、オフィスの狭さとぬるいコーヒーの匂いを一瞬で値踏みして、何も言わなかった。白髪に青いグラデーションのショートヘア。左耳に二つのピアス。眉間の皺は、最初から最後まで消えなかった。
「[cold]センセイの顧問権限停止については、俺も遺憾に思っている。連邦内で働きかけられる立場にある」
穏やかな声だった。丁寧だった。
センセイは立ったまま話を聞いた。表情は変えなかった。
リュウトは続けた。シャーレの予算問題についても、連邦内で再審議できる可能性がある、と。ただし、と。
「[cold]ゲヘナの件に関して——連邦の立場から言わせてもらうと、シャーレの介入そのものが今回の混乱を長引かせているという見方が強い。センセイが手を引けば、ナギサへの圧力も自然に収まるだろうな」
「[cold]無駄は許さない。センセイも、そう思うか?」
センセイは一瞬、何かを確かめるようにリュウトを見た。
RK-0044。この男の端末から、命令が出た。
でも証拠は不完全だ。今ここで動けば、リュウトに先手を打つ口実を与える。
「……考える」
それだけ言った。リュウトは一礼して、出ていった。
ドアが閉まって。オフィスが静かになって。
ホシノがセンセイの顔を見た。センセイはリュウトが座っていた椅子を見ていた。
二人は何も言わなかった。でも、同じことを思っていた。
——あいつだ。
「[serious]……行くのか」
「ああ」
「[serious]権限、ゼロだよ。ゲヘナに入れない」
「わかってる」
センセイはタブレットをホシノから受け取った。データを開く。RK-0044のアクセスログ。通信タイムスタンプ。暗号キーの一致。
「[serious]それ持ってくの?」
「ナギサに見せる」
ホシノが少し間を置いた。
「[gentle]……気をつけて」
センセイはタブレットをコートのポケットに入れた。
——
ゲヘナ区は、午後の光の中でいつも通り武骨だった。
赤煉瓦と黒鉄骨の校舎群。高さ6mの鋳鉄門。門の前に立つ風紀委員が二人、センセイの姿を見た瞬間に動いた。早い。訓練された動きだった。
「[serious]顧問権限の失効を確認しています。立入はできません」
「わかってる」
センセイは言い争わなかった。二人の委員の前で立ち止まって、ただ、校舎の方を向いた。
「ナギサ委員長に伝えてほしい」
「それはできません。センセイは——」
センセイは声を上げた。
門の向こう、校舎に届くように。
「[serious]狭山ナギサ! あなたを政治的に追い詰めているのが誰か——その証拠を、俺が持っている!!」
広場に声が響いた。
周囲にいた生徒たちが、一斉に振り向いた。風紀委員が困惑した顔で互いを見た。門の外で大声を出す大人なんて、キヴォトスには——というかどこにも——そうそういない。
三十秒。
校舎の扉が開いた。
漆黒のロングヘアに赤いメッシュ。鋭い赤眼。腰の短剣。165cmの体が、まっすぐこちらに向かって歩いてくる。足音が速い。怒っている。
狭山ナギサが、門の内側で立ち止まった。
その目は、確かに怒っていた。静かで、冷たい、抑えた怒り——でも確実に燃えている。
「[cold]……来るなと言ったはずです」
低い声だった。断定的だった。
センセイは謝らなかった。
ポケットからタブレットを取り出した。データを開いて、門越しに差し出した。
「見てくれ」
ナギサは動かなかった。
「[cold]……何を持ってきた」
「あの日の同時多発攻撃——両方の命令を出した端末のログだ。リュウト・ケイズのアクセスIDと一致している」
ナギサの目が、わずかに動いた。
一歩。二歩。門の柵越しに、タブレットの画面を見る距離まで近づいてきた。
センセイは画面をナギサの目の高さに向けた。
RK-0044。通信タイムスタンプ。暗号キーの発信元。数字が並んでいる。
ナギサは無言だった。
周囲の生徒がざわついている。風紀委員の二人が、ナギサの判断を待って固まっている。
五秒。十秒。
ナギサの目の中で、何かがせめぎ合っていた。センセイにはそれが見えた。「来るな」と言った言葉を破られた怒り。データの意味を理解している冷静さ。どちらが先に出るか——
「[cold]これで連邦を動かせるか」
静かな問いだった。感情を抑えた、事務的な声。
「証拠としては有力だ。でもリュウトに有利な解釈もできる。端末操作者が別にいた可能性を否定できない」
ナギサが少し間を置いた。
「[serious]……正直に言った」
「嘘ついても意味がない」
「[serious]馬鹿なことは言わないで」
「何が」
「[serious]権限もない状態で門の前で叫ぶのが、馬鹿じゃなかったら何だ」
それは叱責だった。でも声のトーンが、ほんのわずかだけ——最初より柔らかかった。
ナギサは視線をタブレットに戻した。
「[serious]連邦アーカイブ——公文書保管庫に、端末ログと照合できる記録が残っているかもしれない。私の風紀委員長権限なら、閲覧申請は出せる」
センセイは聞いた。
「それには俺の顧問権限も申請者として必要だ」
「[cold]分かってる。停止中の権限では申請に加えられない」
沈黙。
二人が同時に、問題の輪郭をはっきり見ていた。
ナギサは門の鍵に手をかけた。
鉄の音がして、門が開いた。
「[serious]……入れ」
命令でもなかった。お願いでもなかった。ただ、当然の次の一手として——そう言った。
センセイは一歩、ゲヘナの敷地内に踏み込んだ。
後ろで、風紀委員の一人が小声で言った。
「[surprised]……ナギサ委員長、いいんですか」
ナギサは前を向いたまま、歩き出しながら答えた。
「[cold]状況が変わった」
それだけだった。委員は口を閉じた。
——
シャーレに戻ったのは夕方だった。
ホシノがソファで丸まって待っていた。センセイの顔を見て起き上がる。目にはまだクマがある。
「[surprised]……入れた?」
「ああ」
「[excited]マジで!?」
センセイはデスクに座って、タブレットでアーカイブへのアクセス手続きを調べ始めた。ホシノが隣に滑り込んできて一緒に画面を覗く。
連邦アーカイブ——連邦議事堂の地下にある公文書保管庫——への閲覧申請には、申請者の権限証明が必要だ。ナギサの風紀委員長権限、そしてシャーレ顧問権限。
問題は後者だった。
「[serious]停止中の権限を申請者として認めてもらうには、連邦生徒会の過半数決議か——会長権限による特別承認が必要」
ホシノが画面をスクロールしながら読み上げた。低い声だった。
「過半数決議の場は、リュウトが有利だ」
「[serious]だよね。あいつ連邦で影響力あるから……」
「会長権限は」
「[sad]……三年前から空席のままじゃん、会長。どうするの」
ホシノがセンセイの顔を見た。諦めたか、と確認するような目だった。
センセイはページをスクロールした。例外規定のセクション。細かい文字が並んでいる。
「会長権限で発行された過去の文書——これが同等の効力を持つ例外規定がある」
「[surprised]……え」
「アーカイブの中に、失踪前の会長が発行した公文書が眠っているはずだ。それを使えば」
ホシノがしばらく無言だった。それから、ゆっくりうなずいた。
「[serious]……つまりアーカイブに入るために、アーカイブの中のものが必要ってこと?」
「ナギサの権限で申請の足がかりを作る。そこに会長の過去文書が使えれば、俺の権限も一時的に通る可能性がある」
「[serious]……詰んでな」
ホシノがセンセイの顔を見て、途中で口を閉じた。
センセイの目に、諦めがなかった。
ホシノはため息をついた。でも、小さく笑った。
「[serious]……わかった。あたし、アーカイブの申請ルート調べる。ナギサさんの権限でどこまでできるか」
センセイはうなずいた。
オフィスの蛍光灯が静かに点いている。1階のトーテムから、夕方の配達トラックの音が微かに上がってくる。
事件から十一日。権限ゼロ。証拠は不完全。黒幕は連邦の中枢にいる。
でもセンセイはひとりじゃなかった。
ナギサの風紀委員長権限。ホシノの技術と徹夜の意地。そしてセンセイの、諦めない何か。
三つが揃えば——アーカイブへの道が、開くかもしれない。