もしもセンセイが選ばなかったら
キヴォトスには奇妙なルールがある――センセイだけが学園都市のすべての生徒たちを見守ることが許されている。しかし、あの運命の日に、もしもセンセイが別の選択をしていたら?
連邦生徒会の緊急会議の最中、センセイは決断を迫られた。トリニティ総合学園を守るか、ゲヘナ学園を守るか。時間はなかった。両方を救う方法もなかった。センセイはトリニティを選び――ゲヘナは見捨てられた。
そのたった一つの選択が、すべてを変えたのだ。
ゲヘナの風紀委員長、狭山ナギサは激怒した。しかしその怒りの奥には、深く静かな傷があった。センセイがキヴォトスに来る前、ゲヘナの生徒たちは自分たちだけで生き抜いてきた。誰の助けも必要としなかった。だからこそ、センセイが「守る」と言いながら現れなかったことは、ナギサにとって最悪の裏切りだった。
一方、センセイは後悔に溺れ、ゲヘナと向き合うことを恐れていた。毎日シュレーデルの机に座り、ゲヘナのファイルを見つめながら、「もしも」を繰り返していた。そんな時、ミレニアム科学学園の天才発明家、綾瀬ホシノが奇妙な装置を持って現れた。「センセイ、過去の選択をやり直せるかもしれないものを作った
もしもセンセイが選ばなかったら - 選ばなかった未来——装置が見せた地獄と、隠された真実
昨日のゲヘナの傷が、まだ体に残っていた。
頬の絆創膏。脇腹のじんわりした鈍痛。センセイはシャーレのオフィスのソファに座って、ぼんやりとデスクを見ていた。昨夜読み始めた被害報告書は、途中で眠ってしまったらしく、膝の上で開いたまま落ちていた。
カレンが絆創膏を貼ってくれた時の、ぶっきらぼうな手つきを思い出す。
ナギサが投げて寄越した救急キット。
五日。それだけしか残っていない。
1階のコンビニ「トーテム」で買ってきた缶コーヒーが、デスクの端でぬるくなっていた。センセイはそれを一口飲んで、顔をしかめた。ぬるいコーヒーは好きじゃない。でも捨てる気にもなれなかった。
そこへ——
ドン、とドアが開いた。
勢いよすぎる。センセイが顔を上げると、制服姿の少女がずかずかと入ってきた。白銀色のツインテールが弾んでいる。右目が金色、左目が銀色——鮮やかなオッドアイが、好奇心全開でオフィスを見回している。右目の下に、小さな星形のほくろ。
少女はデスクの上に、どん、と機械を置いた。
大きなヘッドセットのようなもの。側面に複雑な回路が露出していて、細かいケーブルが何本も伸びている。どこからどう見ても「完成品」じゃない。
「[excited]センセイ! すっごいの作ったよ!」
センセイは少女を見た。見知らぬ顔だ。ミレニアム科学学園の制服——えんじ色のラインが特徴的な、あの独特のデザイン。
「……誰だ」
「[excited]あ、初めまして! ミレニアムのホシノ! 綾瀬ホシノ! シャーレに協力したくて来ました!」
あっけらかんとしている。センセイの頭の中には「ゲヘナ、五日、どうする」という重い問題がぐるぐるしていたのに、その空気を完全に無視している。
「ミレニアムの生徒が、なんの用だ」
「[excited]だから言ったじゃん! 協力! あとこれの実験台!」
ホシノはためらいなくデスクの上に回路図を広げ始めた。設計メモが重なり、ケーブルが垂れる。センセイのぬるいコーヒーが端に追いやられた。
「[excited]時間干渉装置——過去の分岐点で選ばなかった選択肢の結末を、脳内映像として体験できるやつ! あたし三ヶ月かけて作ったんだけどね、実際に使えるかどうか確かめたくて!」
センセイは回路図を見た。数式が並んでいる。専門的すぎて詳細は読めないが——「時間干渉」という言葉だけははっきり理解できた。
「断る」
「[surprised]えっ、即!?」
「理由を聞く前から断るのは失礼だったかもしれないが、理由を聞いても答えは変わらない」
ホシノはむっとした顔をした。でもすぐに、何かを考えるような表情になった。
金色の右目が、まっすぐセンセイを見る。
「[serious]……あの日、ゲヘナを選んでいたら何が起きてたか。知りたくない?」
静かな一言だった。さっきまでの早口の説明とは全然違うトーン。
センセイの手が止まった。
あの日。トリニティとゲヘナが同時に攻撃された日。センセイがトリニティを選んだ日。ナギサに「来るな」と言われて、それでもゲヘナに通い続けている理由。
(知りたくない、というのは嘘だ)
ずっと考えてきた。もしあの時、ゲヘナを選んでいたら——その問いに、答えが出たことは一度もない。出ないまま、ここまで来た。
「……危険はないのか」
「[excited]たぶん大丈夫!」
「たぶん、か」
「[excited]九十パーセントくらいは!」
センセイはホシノを見た。ホシノは笑顔で待っている。悪意はない。むしろキラキラしている。それが逆に怖い気もするが——
センセイはゆっくりと手を伸ばした。装置を手に取る。
「[excited]やった! じゃあ頭に付けてください! こっちのコネクタがこう来て——」
ホシノが素早く説明しながら装置をセンセイの頭部にセットし始めた。
「[excited]基本的には脳の認識系に低出力の電気信号を送って、もう一方の選択肢に対応する神経パターンを——」
「わかった、わかった。起動してくれ」
「[excited]説明が大事なんだよね! でもまあいいか! いきます!」
カチ、とスイッチが入った。
——視界が、白く弾けた。
—————
音がなかった。
ゲヘナの校門前。風紀委員の詰所。赤煉瓦の壁。あの景色が、くっきりと広がっていた。
ナギサが委員たちと立っている。いつもの制服。腰の短剣。詰所は無事だ。
(ゲヘナを守った未来だ)
センセイはそれを「見ていた」——正確には、その映像の中に沈んでいた。体はない。ただ見ている。
そして視点が切り替わった。
トリニティ区。
ティアラ湖が——赤かった。
真っ赤だった。水面が反射する光が赤い。湖畔の並木道が炎に包まれている。あの白い校舎が黒い煙を上げていた。生徒たちが走っている。転んでいる。泣き叫んでいる。一人の女子生徒が、誰かにしがみついて動けなくなっていた。
(どちらを選んでも)
頭の中で何かが崩れていく感覚があった。
ゲヘナを選べばトリニティが燃える。トリニティを選べばゲヘナが傷つく。どこに選ばなかった正解があるんだ。どこにも——
映像が、また切り替わった。
廃墟。
コンクリートの残骸。錆びた鉄骨。荒廃した土地——クレイドル跡地に似た景色。ゲヘナ区の外縁。
一人の人影が立っていた。
黒いロングヘア。赤いメッシュ。制服の衿が詰まっている。
ナギサだった。
廃墟の中に、一人で立っている。
彼女は振り向いた。センセイと目が合う——いや、センセイはここにいない。でも視線が合った気がした。
ナギサは、笑った。
怒っていない。泣いていない。静かな、本当に静かな笑顔だった。確認するような、それだけの表情で——
「[cold]やっぱり、誰も来なかった」
そのつぶやきが、映像の中で無音に近い声で聞こえた。
センセイは——
なんだこれ。
怒りでも絶望でもなかった。ただの確認。「来ると思ってなかった」のと「来なかった」の違いが、あの笑顔にはなかった。それが——どこか、怒りよりも絶望よりも深いところに刺さった。
—————
ガッ、と頭部から装置が引き剥がされた。
煙の匂いがした。
「[scared]ちょちょちょ待って、オーバーヒート——!」
ホシノが装置を床に置いた。ジジジ、と焦げる音がして、装置から白い煙が細く上がった。
「[sad]……あ。焼き切れた」
センセイはソファに座ったまま、動けなかった。頭の中で映像と現実の区別がまだついていない。ティアラ湖の赤い水面。炎に包まれた白い校舎。ナギサの笑顔。どれが今で、どれが映像だったのか。
頭を抱えた。
「[serious]……センセイ? 大丈夫?」
返事ができなかった。
ホシノがドタドタと部屋を出ていく音がした。しばらくして戻ってくる音。膝に、ペットボトルが押しつけられた。
「[gentle]1階のトーテムで買ってきた。水、飲んで」
センセイは顔を上げた。ホシノが、さっきのキラキラした表情から少し変わった顔をしている。心配しているのか、罪悪感があるのか——たぶん両方だろう。
ペットボトルを受け取った。ひんやりしている。飲んだ。冷たかった。
ナギサがゲヘナの倉庫で投げて寄越した救急キットのことを、なぜか思い出した。あれも「黙って渡す」形だった。
「[sad]……俺に、選択する資格なんてなかったんだ」
ぽつりと言葉が出た。声が掠れている。
「[surprised]ちょ——」
ホシノが焦った顔をした。
「[serious]落ち着いて。ちゃんと聞いて」
センセイはホシノを見た。
「[serious]あの映像、本当に起きた未来じゃないかもしれない。装置はまだ未完成だったし——脳が見たいと思ったものを、増幅して見せる可能性がある。センセイが一番恐れてた結末を、センセイ自身が作り出した映像かもしれないんだよね」
「……証明できるか」
「[sad]できない。でも、否定もできない」
正直な答えだった。
センセイはしばらく黙っていた。証明できない。でも完全に正しいとも言えない——その引っかかりが、頭の中に静かに残った。あの映像が本当の未来だったのか、それとも自分が怖れていたものを見ただけなのか。わからない。わからないまま、抱えていくしかない。
「[sad]あたし……ごめん。壊れるとは思ってなかったし、センセイがああなるとも思ってなかった」
「……仕方ない」
ホシノが少し驚いた顔をした。怒らないのか、と思ったのかもしれない。
センセイは窓の外を見た。夕方になっている。オフィスの蛍光灯がいつものぼんやりした白さで点いている。
そこへ——
センセイの端末が鳴った。
緊急通報の表示。送信元は連邦議事堂。
開いた。テキスト形式のデータが流れ込んでくる。センセイは読んだ。読みながら、立ち上がった。
「[serious]……なんだこれ」
ホシノが覗き込んだ。
内容は短かった。——連邦議事堂の内部調査により、あの日の両学園同時攻撃における通信記録を解析した結果、トリニティへの攻撃命令とゲヘナへの攻撃命令が同一の暗号キーで発信されていたことが確認された。
つまり。
偶然の同時発生ではない。誰かが意図的に、同じタイミングで両方に仕掛けた。センセイはトリニティかゲヘナかを「選んだ」のではなく——誰かに「選ばされた」可能性がある。
「[surprised]……え」
ホシノの声がわずかに低くなった。
センセイはデータの末尾を読んだ。
——なお、この情報は連邦生徒会内部での審議が完了するまで外部に開示しないこと。違反した場合、シャーレの活動権限を即時停止する。
しばらく、二人とも黙っていた。
オフィスの蛍光灯が静かに光っている。外からかすかに風の音が聞こえる。
「[whispers]……これ、やばくない?」
ホシノが低い声で言った。さっきまでの明るいトーンが完全に消えている。
センセイはその通達を机の上に置いた。証拠が存在する。でも触れるなと言われている。隠蔽されようとしている。自分とホシノが知ってしまった、ということは——この情報が「都合が悪い誰か」にとって、二人の存在も都合が悪くなる可能性がある。
それでも。
センセイは窓の外のゲヘナ区方向を見た。
残り四日。陰謀の証拠。隠蔽命令。精神はまだ揺れている。体は痛い。ぬるいコーヒーは捨てた。
諦める理由が並んでいる。
でも目には、諦めの色がなかった。