もしもセンセイが選ばなかったら
キヴォトスには奇妙なルールがある――センセイだけが学園都市のすべての生徒たちを見守ることが許されている。しかし、あの運命の日に、もしもセンセイが別の選択をしていたら?
連邦生徒会の緊急会議の最中、センセイは決断を迫られた。トリニティ総合学園を守るか、ゲヘナ学園を守るか。時間はなかった。両方を救う方法もなかった。センセイはトリニティを選び――ゲヘナは見捨てられた。
そのたった一つの選択が、すべてを変えたのだ。
ゲヘナの風紀委員長、狭山ナギサは激怒した。しかしその怒りの奥には、深く静かな傷があった。センセイがキヴォトスに来る前、ゲヘナの生徒たちは自分たちだけで生き抜いてきた。誰の助けも必要としなかった。だからこそ、センセイが「守る」と言いながら現れなかったことは、ナギサにとって最悪の裏切りだった。
一方、センセイは後悔に溺れ、ゲヘナと向き合うことを恐れていた。毎日シュレーデルの机に座り、ゲヘナのファイルを見つめながら、「もしも」を繰り返していた。そんな時、ミレニアム科学学園の天才発明家、綾瀬ホシノが奇妙な装置を持って現れた。「センセイ、過去の選択をやり直せるかもしれないものを作った
もしもセンセイが選ばなかったら - 全部失った夜、かすかな光
連邦議事堂からの通達が届いたのは、朝の七時十四分だった。
センセイはシャーレ本部のオフィスで、前の晩にトーテムで買ったパンを半分も食べないまま、大型モニターを眺めていた。眠れなかった。三時間か、せいぜい四時間。ゲヘナのことを考えながら何度も寝返りを打って、結局諦めてソファから起き上がった。
ホシノの装置が焼き切れてから、頭の中にある種の靄がかかったままだ。あの映像——廃墟に一人で立つナギサの、静かすぎる笑顔——が、不意にフラッシュバックしてくる。思い出そうとしなくても、向こうから来る。
画面が点滅した。連邦議事堂の公式紋章。センセイはパンを置いて、立ち上がった。
読んだ。
読み返した。
もう一度、読んだ。
内容は三点だった。
①緊急事態宣言の即時前倒し解除。
②シャーレ活動予算の六十パーセント削減。
③特定学園への偏重判断に基づく顧問権限の一部停止——ゲヘナ総合学園への立入権限の即時失効。
つまり、今この瞬間から、センセイはゲヘナ区に足を踏み入れることができなくなった。シャーレの機能も大幅に縮小された。八日間通い続けて、昨日ようやく少しだけ近づいた気がしていた、それが全部——一枚の通達で消えた。
センセイはしばらく、画面の前で動かなかった。机を叩きたい気持ちも、怒鳴りたい気持ちも、なかった。ただ手が、ゆっくりと膝の上に落ちた。
さらっと目を動かすと、通達の最後の一行が目に入った。
——なお、本通達の発令後も、一階コンビニエンスストア「トーテム」への経費申請は引き続き受け付けます。
「……」
センセイは一秒、それを読んだ。それから、力が抜けたように小さく笑った。連邦の官僚が書いたのか、それとも自動生成文書の末尾にたまたま残ったのか。どちらにしても間抜けすぎる。
でもその笑いは、すぐに消えた。
窓の外を見る。ゲヘナ区方向の空は、今日も曇っている。
——————
午前中、センセイは権限回復の申請方法を調べようとした。連邦生徒会のポータルにアクセスして、異議申し立てのフォームを開いて、一行打って、止まった。
根拠が薄い。感情論では動かない。陰謀の証拠——ホシノの装置が拾い損ねたあのデータ——が手元にあれば話は違うが、装置は焼け落ちた。
手詰まりだ。
ぬるくなったコーヒーを飲んで、また画面を見て、また手が止まる。そのループを何度か繰り返したころ——
シャーレのドアが、勢いよく開いた。
「[angry]センセイ! いますよね!」
入ってきたのは、見覚えのある腕章をつけたゲヘナ風紀委員だった。クロトという、ナギサの直属の部下だ。短い黒髪。肩幅がある。普段から表情が険しいが、今日はその倍くらい怒っている。後ろに数名が続いて入ってくる。
センセイは立ち上がろうとしたが、クロトはそれより先に話し始めた。
「[angry]あんたが中途半端に通い続けたせいで、連邦がゲヘナの自治原則を侵害されたって言い始めました。わかってますか? ナギサ委員長の立場が今どうなってるか」
「……聞かせてくれ」
「[angry]連邦は、シャーレがゲヘナに繰り返し訪問したことを、圧力と解釈した。学園自治原則——他学園や連邦がゲヘナの内部問題に介入できないって原則——を、あんたの行動が侵害したって口実に使ってる。委員長は今、その弁明に追われてます。あんたのせいで」
センセイは何も言えなかった。
あの通い続けた八日間が、ナギサの政治的立場を削っていた。謝罪のつもりで動いた行動が、相手を傷つける道具として使われた。自分がいい方向に動こうとするたびに、誰かが余計に傷つく。
「[cold]最初から来なければよかったんです」
静かな声だった。クロトより低く、だからこそ刺さった。
カレンが、センセイをまっすぐ見ていた。先週、ぶっきらぼうに絆創膏を貼ってくれた、あのカレンだ。冷たい目をしている。怒りじゃない——どこか、もう関係を切り替えたような目だった。
「[cold]私たちには関係ない大人の都合で、委員長が傷ついてる」
センセイは口を開いた。何かを言おうとした。でも言葉が、出てこなかった。
反論の言葉が見つからないのではない。正しい反論が、存在しない。
クロトたちは一通りまくしたてて、それから黙って出ていった。ドアが閉まる。オフィスがまた静かになる。
センセイはデスクの縁を両手で掴んで、少しの間、そのままでいた。
——————
夕方になった。
西の光がオフィスのブラインド越しに斜めに差し込んで、床に細い影を作っている。センセイはソファに座って、壁を見ていた。
ドアが、今度は静かにノックされた。
「[serious]……開いてます」
開いたドアのところに、ナギサが立っていた。
制服に乱れはない。腰の短剣も、いつも通りの位置にある。でも目の下に——薄い影がある。ここ数日ちゃんと眠れていないのが、一目でわかった。
ナギサはドアのところから動かなかった。中に入らない。その距離のまま、センセイを見た。
「[cold]あなたが来るたびに、私の立場は悪くなります」
声は静かだった。怒っていない。怒りを抑えているわけでもない——ただ、疲れている。
「[cold]連邦は、あなたが通い続けたことを武器として使っています。介入の証拠として。だからお願いです。もう二度と来ないでください」
お願い、という言葉が、センセイの胸の真ん中に落ちた。命令じゃない。お願い。
第三話で、ナギサが無言で救急キットを投げて寄越した時のことを思い出す。あれとは全然違う。今のナギサは——怒りも、諦めも、もっと深いところまで行ってしまっている。
センセイは立ち上がって、何か言おうとした。
「[serious]ナギサが一人になるのが、嫌なんだ。あの廃墟に——」
「[cold]あなたの気持ちはわかります」
ナギサが先に言った。
「[cold]でも、それが今の私には重い」
それだけ言って、踵を返した。出ていこうとする。
「[serious]ナギサ」
名前を呼んだ。自分でも驚くくらい、自然に出た。
ナギサの足が、止まった。一瞬だけ。肩がわずかに動いた。
センセイには、続きの言葉がなかった。呼び止めた理由はある。でもその理由を言葉にする方法が、見つからない。
ナギサはそのまま出ていった。
ドアが閉まる音が、やけに大きくオフィスに響いた。
センセイはしばらく、閉まったドアを見ていた。
——————
夜になった。
センセイはオフィスの電気をつけなかった。
ブラインドから入る街灯の光だけで、部屋の輪郭がうっすら見える。デスクの上には、ゲヘナの被害報告書。焼け落ちたホシノの装置の残骸。権限停止の通達のプリントアウト。削減後の予算書。全部そこにある。全部、意味をなさなくなったものだ。
センセイは床に座り込んだ。壁に背をつけて、膝を抱える。
行けない。動けない。近づくほど傷つける。
装置が見せた映像が、また来た。廃墟に一人で立つナギサ。「やっぱり、誰も来なかった」と静かに笑う顔。あの笑顔の何が嫌かって——怒っていないことだ。期待していなかった人間が、期待通りに来なかった、それだけを確認した顔だ。
センセイは頭を両手で抱えた。
「[sad]……なんで」
ほとんど声にならない。呟きというより、息が形を持ったようなもの。泣くわけでも、叫ぶわけでもない。ただ暗闘の中で、膝を抱えている。
読者が「もう終わりだ」と思う、そういう静けさだった。
どのくらいそうしていたか、わからない。
そのとき——
デスクの上で、何かが光った。
ほんの一瞬だと思った。目の錯覚かもしれない。でも光った。
センセイは顔を上げた。
もう一度、光った。小さく、点滅するように。
デスクに近づいた。残骸の中に、焼け焦げた基板がある。ホシノの装置だ。バッテリーはとっくに切れているはずなのに——その基板の一角が、ほんの少しだけ生きていた。アクセスランプが、細く点滅している。
センセイは残骸を手で慎重によけた。奥に、小さなデータチップがある。装置本体は完全に終わっているが、このチップだけが、かろうじて生きている。
チップを引き抜いた。手のひらに乗せる。爪の先ほどの大きさ。指先で少し触れると、またアクセスランプが反応した。
「……」
センセイはそれをオフィスのデスクの端末に繋いだ。読み込みに数秒かかった。それから画面に表示された文字を読んだ。
——最終データログ・残存ファイル確認。暗号化済み。解析不能(専用キー必要)。
ファイルが一つだけ、残っていた。ホシノの装置が焼け落ちる直前、何かを拾ったのだ。暗号化されていて、センセイには中身が読めない。でも——ファイルのタイムスタンプを見た。
あの日の時刻だ。トリニティとゲヘナが同時に攻撃された、あの夜。
センセイは画面を見つめた。
第四話でホシノが言っていたことを思い出す。装置のデータに何かが残っていないか調べる、と。装置は焼けた。でもチップは生きていた。そしてそこに——暗号化されたファイルが、一つだけある。
あの同時多発攻撃の通信記録かもしれない。陰謀の証拠になるかもしれない。
センセイはチップを手のひらに包んだ。
権限はない。ゲヘナにも入れない。シャーレの予算は六十パーセント削られた。ナギサには来るなと言われた。カレンには最初から来なければよかったと言われた。
でも、このチップには何かがある。
暗闇の中で、センセイの目に、初めて今夜の光が戻った。小さな光だが、確かにある。
センセイはホシノの連絡先を開いた。時刻は夜の十時を回っている。それでも、迷わずメッセージを送った。
——「起きてるか。話がある。チップが一枚生き残った」
返信は三秒で来た。
——「起きてる!!! 今すぐ行っていい??」
センセイは少し笑った。ほんの少し。でも確かに笑った。
立ち上がった。電気をつけた。蛍光灯がいつもの間抜けな白さで点灯する。
権限はない。でも、手の中に次の一手がある。それで、今夜は十分だ。