もしもセンセイが選ばなかったら
キヴォトスには奇妙なルールがある――センセイだけが学園都市のすべての生徒たちを見守ることが許されている。しかし、あの運命の日に、もしもセンセイが別の選択をしていたら?
連邦生徒会の緊急会議の最中、センセイは決断を迫られた。トリニティ総合学園を守るか、ゲヘナ学園を守るか。時間はなかった。両方を救う方法もなかった。センセイはトリニティを選び――ゲヘナは見捨てられた。
そのたった一つの選択が、すべてを変えたのだ。
ゲヘナの風紀委員長、狭山ナギサは激怒した。しかしその怒りの奥には、深く静かな傷があった。センセイがキヴォトスに来る前、ゲヘナの生徒たちは自分たちだけで生き抜いてきた。誰の助けも必要としなかった。だからこそ、センセイが「守る」と言いながら現れなかったことは、ナギサにとって最悪の裏切りだった。
一方、センセイは後悔に溺れ、ゲヘナと向き合うことを恐れていた。毎日シュレーデルの机に座り、ゲヘナのファイルを見つめながら、「もしも」を繰り返していた。そんな時、ミレニアム科学学園の天才発明家、綾瀬ホシノが奇妙な装置を持って現れた。「センセイ、過去の選択をやり直せるかもしれないものを作った
もしもセンセイが選ばなかったら - 盾になる理由——折れない大人と、一人で立つ委員長
ゲヘナ区の朝は、いつも煙の匂いから始まる。
もう三日連続で来ていた。センセイは瓦礫の山の前にしゃがみ込んで、両手でコンクリートのかけらを抱え上げた。重い。腰にくる。でも、それでいい。
「[sarcastic]……またいますよ、あの人」
隣にいた若い委員——カレンというらしい、ショートカットの女子生徒——がぼそっとつぶやいた。ゲヘナ風紀委員会の腕章をつけた同僚が、肩をすくめて返す。
「[sarcastic]罰ゲームなんじゃないですかね」
「[sarcastic]罰ゲームで毎朝来ます?」
「さあ」
センセイには聞こえていた。でも何も言わなかった。コンクリートを運んで、積んで、また取りに行く。それだけを繰り返した。
三日前は罵声が飛んできた。二日前は無言で睨まれた。今日は、こういう感じだ。前よりはマシだと思う。たぶん。
少し離れた場所では、ナギサが部下に指示を出していた。黒いロングヘアに赤いメッシュ。腰の短剣。制服の衿が詰まっていて、きっちりしている。声は届かないが、部下たちが素早く動いているのを見れば、その指示が的確だとわかる。
ナギサはセンセイを見ない。存在として処理していないのか、意図的に無視しているのか、センセイにはわからない。でも一瞬——仮設倉庫の物資リストをめくった手が止まって、こちらをちらっと見た。
本当に一瞬だった。
すぐ視線は戻って、ナギサはまた指示を続けた。
センセイは瓦礫を持ち上げながら、(まあ、そういうもんだろ)と思った。
—————
昼過ぎのことだった。
カレンが空を見上げて「お腹空いたな」とつぶやいた直後、外縁部の方角から銃声が鳴り響いた。
乾いた、連続した音。一発や二発じゃない。複数の武器が同時に鳴っている。
風紀委員たちの動きが変わった。のんびりした昼時の空気が、一瞬で張り詰める。ナギサがすでに短剣に手をかけながら、無線に向かって話している。
「[serious]報告を——外縁部の不法集団、何名だ」
返ってきた声がノイズ混じりで割れていた。センセイには内容まで聞き取れなかったが、ナギサの顔が一瞬だけ硬くなった。
「[cold]三十名。武装あり。仮設倉庫を狙っている」
ゲヘナ区の外縁、海沿いに近いあのあたりは、連邦生徒会の管轄が及ばない無法地帯だ。そこに潜む不法占拠集団が、今、ゲヘナの物資を狙って動いている——と、センセイはそこまで理解した。
風紀委員たちが集まってくる。でも人数が少ない。事件の後遺症で、まだ多くの委員が離脱中だ。
ナギサが素早く頭数を確認して、眉をわずかに寄せた。それだけで、状況の厳しさがわかった。
「[serious]私が前に出る。カレン、お前は東の搬入口を——」
「[serious]北の入口が手薄です」
ナギサが地図を広げた。指が走る。計算している。でも——数が足りない。それはセンセイの目にも明らかだった。
仮設倉庫の北の入口。事件の損傷でまだ補強が済んでいない、一番古い木製の扉。そこを守れる人員が、いない。
センセイは瓦礫を置いた。そのまま歩いた。
「[serious]センセイ! どこへ——」
振り返らなかった。
—————
北の入口の扉の前に立った。
古い木の扉だ。風で揺れている。ここを守れる委員はいない。じゃあ、ここに立てばいい。それだけの話だった。
センセイには武器がない。ヘイローもない。生徒たちが持っているあの光の輪——体を守るあの力——は、センセイにはない。ここで殴られたら、普通に痛い。
(仕方ない)
不法集団の先頭が見えた。武装している。本気だ。
最初の一人がセンセイを見て、少し戸惑った顔をした。大人がいる、とは思っていなかったのかもしれない。でもその戸惑いは一秒で終わった。
ドン、と脇腹に蹴りが入った。
内臓が揺れる感覚。センセイは前のめりになったが、両腕を扉の枠に引っかけて、動かなかった。
次は肩を掴まれて、地面に叩きつけられた。
ゴン、と音がした。自分の頭からだ。土の味と血の味が混ざった。口の中が切れている。
それでも立ち上がって、扉の前に戻った。
「[angry]なんで立つんだよ!」
わからない。センセイ自身もよくわからなかった。謝罪でも正義感でもない。ただ——ここで退いたら終わる、という感覚だけがある。それだけだ。
拳が頬に当たった。視界が歪む。でも足は、ここから動かない。
顔が腫れ始めているのはわかった。頬から耳にかけて熱い。口の中に血が溜まる。
(痛いな)
とそれだけ思った。
—————
ナギサが気づいたのは、センセイが三度目に地面に叩きつけられた直後だった。
目の端に映ったその光景——大人が泥まみれで立ち上がり、また扉の前に戻る——を見て、ナギサは一瞬、動きを止めた。
強さじゃない。策略でも、特別な力でもない。
ただ意地だけで立っている。それだけで動かない。
ナギサは0.5秒だけそれを見た。
「[cold]……退いてください」
センセイが振り向いた。腫れ始めた顔。口の端に血の跡。
ナギサは続けた。声は静かだった。命令じゃない。
「[cold]あなたが死んだら、さすがに寝覚めが悪い」
センセイは一秒だけ考えた。
「[serious]やだ」
ナギサは何も言わなかった。
代わりに、無線を取り出した。
「[serious]全員集合。北の入口から正面突破する」
それだけだった。
風紀委員たちが集結した。ナギサが先頭に立った。その動きに迷いはない。不法集団が圧された。三十名いても、統率が取れたナギサたちの前には数の優位が薄れていく。
戦闘は短かった。
ナギサの指揮は的確で、風紀委員一人一人の動きが無駄なく連動していた。追い詰められた不法集団は十分もしないうちに撤退を始め、ゲヘナ区の外縁へと逃げていった。
銃声が止んだ。
センセイは倉庫の入口の近くで、ずるずると壁に寄りかかるように座り込んでいた。足に力が入らない。立っていた反動が一気に来た感じだ。
顔が腫れている。頬の内側が切れている。脇腹が痛い。肩も痛い。何かをする気力がない。
カレンが遠くから見ていた。心配そうな顔と、どう接すればいいかわからない顔が混ざっている。
ドサッ、と何かが膝に落ちてきた。
救急キットだった。緑のポーチ。
顔を上げると、ナギサが立っていた。センセイを見下ろしている。表情は読めない。いつも通り冷たい顔だ。でも——どこか違う気がした。
「[cold]治療くらいは自分でやりなさい」
短い沈黙。
「[cold]……不器用な人」
そう言って、背を向けた。
センセイはその言葉の温度を測ろうとして、うまくできなかった。怒りじゃない。皮肉でもない。呆れ——でも、それだけでもないような気がする。
ポーチを開けた。消毒液と絆創膏が入っていた。センセイは腫れた手で消毒液を取り出して、頬に当てようとした。
「[sarcastic]……貸してください。邪魔くさい」
カレンが横に来て、無言でポーチを奪った。消毒液を出して、少し乱暴にセンセイの頬に当てた。
「いっ」
「[sarcastic]我慢してください」
ぶっきらぼうだった。優しさを感じさせない手つきだった。でも——手伝ってくれている。それだけは確かだった。
カレンは絆創膏を貼りながら、視線をセンセイではなく虚空に向けていた。
「[serious]……なんで退かなかったんですか」
センセイは少し考えた。
「[serious]退いたら終わりだと思ったから」
カレンは何も言わなかった。絆創膏を押さえる指が、少し丁寧になった気がした。
—————
後処理の指示を出しながら、ナギサの背中が視界に入った。
制服の衿がずれていた。首筋から左肩にかけて、うっすらと見える——古い、広い傷跡。火傷の痕だ。
一か所じゃない。範囲が広い。何かの爆発か、あるいは——センセイには詳しいことはわからない。でも、あれは抗争の中で負った傷だ、とわかった。長い戦いの中で、誰も助けに来なかった時間があって、それでも一人で立ち続けてきた、その痕だ。
センセイは手が止まった。
何も言わなかった。聞きもしなかった。
ナギサはすでに衿を整えていた。気づいていないか、気づいて無視しているか、どちらかはわからない。それでいいと思った。
ただ——謝ることで終わりにしようとしていた何かが、センセイの中でそっと形を変えた。謝罪じゃない。赦しでもない。ここに、一緒に立つ。それが今、センセイに残っている理由だ、という気がした。
言葉にしたら嘘になりそうだったから、センセイは何も言わなかった。ただ絆創膏を貼り終えたカレンに「ありがとう」とつぶやいて、腫れた顔のまま立ち上がった。
—————
シャーレに帰り着いたのは、ゲヘナ区の外灯が点き始めた頃だった。
フェデラルコモンズの階段が、いつもよりきつかった。脇腹が痛いせいで、一段上がるたびに息が漏れる。三階のドアを開けて、電気をつけた。蛍光灯がいつも通りの間抜けな明るさで点灯する。
デスクの上に、一枚の紙があった。
センセイは近づいて、それを取り上げた。連邦議事堂の封筒だ。内容証明風の、かたい書式。
読んだ。
読み返した。
現在発令中の緊急事態宣言は、五日後に解除予定。以降、シャーレのゲヘナ区への立入権限は失効する。
——五日。
センセイはソファに倒れ込んだ。腫れた顔が枕に当たって痛かったが、起き上がる気力がなかった。天井を見上げる。蛍光灯が静かに白い光を放っている。
今日、ナギサが初めてお願いという形で声をかけてきた。カレンが絆創膏を貼ってくれた。確かに——昨日より、少し近づいた。
でも五日だ。
それだけしかない。
机の端に積んでいたゲヘナの被害報告書が、冷房の風で一枚落ちた。ばさっ、と小さな音。センセイは伸ばした手でそれを拾い上げて、また読み始めた。
数字の羅列。でも一つ一つに、誰かの時間が詰まっている。
五日で何ができるか、答えはまだない。でも、手は止まらなかった。