うちの猫が、イケメンになって帰ってきた件について
中学2年生の田中青衣は、7年間大切に飼ってきた黒猫のクロと一緒に暮らしている。ふわふわでちょっとわがまま、でも彼女にとっては絶対の愛猫だ。
ある朝、青衣が目を覚ますと、クロのベッドに見知らぬイケメンの少年が眠っていた。黒い髪に黄金色の瞳を持つ彼はこう言った。「ついに人間になったよ。ずっと待ってたんだ、青衣。」
クロは今、イケメン男子になっていた。そして過去7年間のすべてを覚えている。
恨みも全部。
「爪を切ったよね。痛かったんだよ」「お風呂に入れられたの、許さない」「わざとブラシを長く使ったでしょ」
そのリストは日付付きで続く。自分を黒崎蓮と名乗るその少年は、“復讐”を開始した――それはまさに猫らしい仕返しだった。お菓子を全部先に食べる。午前3時に起こす。筆箱を机から落とす。青衣はちゃんと怒ることもできない。
でも、あることに気づき始める。蓮は迷惑なイタズラをするのは、いつも青衣のすぐそばにいる時だけ。いつも近くで、いつも見ている。
事態はさらに悪化する。蓮が転校生として学校に現れ、なんと青衣のクラスに入ってきたのだ。クラスの女子はみんな彼に夢中になり、青衣の親友・西村陽
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「クロ〜、おはよう」
寝ぼけた声が、まだ薄暗い廊下に漏れた。
田中あおいは目覚まし時計を三回止めて、四回目でようやく起きた。肩までの黒髪がぐしゃぐしゃで、右耳のイヤリングが枕の下から出てきた。
身長155cmの体を引きずるようにして、あおいは階段を降りる。白いブラウスに紺のスカート、カーディガンを片肩にかけたまま。
ミナセ市の9月最後の月曜日。窓の外には朝日がうっすらと見えていた。
「ご飯のにおいする……」
ふわっと鼻先をくすぐる、味噌汁のにおい。あおいの目がちょっとだけ覚めた。
リビングの隅、縁側のそばにあるふかふかのベッド。7年間、クロが毎朝そこにいた。冬は丸まって、夏は伸びきって、ずっとそこにいた。
「クロ、今日も寝てんの?」
あおいはベッドをのぞいた。
——そこにいたのは、知らない男の子だった。
黒髪。長め。肩から少しはみ出るストレートの黒髪が、顔にかかっている。すらっとした手が、猫みたいに胸の前で折りたたまれている。体が大きくて、クロ用のベッドからはみ出していた。
あおいは3秒間、固まった。
それから、全力で叫んだ。
「「「「ぎゃあああああああああ!!!」」」」」
2階でどすん、と大きな音がした。続いてもう一回どすん。
「浩介さん!? 大丈夫!?」
「俺は大丈夫——て、なんの音だ今の!?」
二階が騒がしくなった。あおいはそれどころじゃない。
——少し前のこと。
夜明けの3分前。
リビングに、1匹の黒猫がいた。
名前はクロ。7歳。田中あおいが6歳のときに拾ってきた猫。
クロは窓から外を見ていた。空が白くなりかけている。ミナセ川のほうから、鳥の声がひとつ聞こえた。
窓から差し込む光が、少し変わった。
満月だった。最後の光が、クロの黒い毛並みにあたった。
そのとき。
体が、熱くなった。
(な、なんだこれ)
骨がきしんだ。肉球が伸びた。指になった。しっぽが消えた。
視界が、ぐんと高くなった。いつも見上げてた天井が、急に近くなった。
(でか……天井、こんな近かったっけ……)
初めて見る自分の手。5本の指。長い。変な形。
(これが……人間の手?)
全部が混乱だった。でも頭の中にあるのは、一番に、あおいに会いたいという気持ち。それは7年分、ちゃんとあった。
そしてその次に——。
(復讐リスト……準備完了)
口の端が、にやりと上がった。
人間になって最初の表情が「悪い笑顔」というのは、どうかと思ったが、まあいい。
——そして現在。
「誰!? なんで!? え!?」
あおいはベッドから3歩後退して、壁に背中をぶつけた。明るい茶色の目が限界まで見開かれている。
ゆっくりと、男の子が目を開けた。
金色の目だった。
光の加減で茶色にも見えるが、今この瞬間は、はっきりと金色だった。178cmはあるだろう体をゆっくりと起こして、黒髪を軽く払う。
「[excited]やっと人間になれたぞ」
声が低かった。でも、どこかのんびりしてる。
「[serious]待ってたんだ。あおい」
「え、あ、は!?」
あおいのパニックは5段階中5だった。
「「[angry]誰! あんたは誰!? なんでクロのベッドで寝てるの!?」
蓮は少し首をかしげた。まるで猫が、わかりきったことを聞かれたときみたいに。
「[sarcastic]分かんないか。7年も一緒にいたのに」
あおいの全身がぞわっとした。
「[serious]7年前の9月」
蓮は静かに続けた。
「[serious]ミナセ川の河川敷。石橋の下だ。お前は傘も持たずにずぶ濡れで——俺を拾った」
足が、震えた。
「[serious]泣きながら言ったんだぞ。『うちの子になって』って。ランドセルが泥だらけになってたのも覚えてる」
あおいの明るい茶色の目が、みるみるうちに潤んだ。
「そんなの……」
声が震えた。
「[whispers]……誰にも言ったことない」
蓮の金色の目が、真っすぐあおいを見ていた。
その色を、あおいは知っていた。夜中に窓から外を見ていたクロの目と、まったく同じ色だった。
(クロ……?)
信じたくなかった。でも、信じるしかなかった。
朝ごはんの匂いがリビングに広がってきた。
田中真紀——あおいのお母さん——がエプロンをつけてキッチンから顔を出した。茶色のショートヘアに、ちょっと眠そうな目。
「[gentle]あら、蓮くん、もう起きてたの? 昨日遠いところ来てくれてありがとうね」
……え。
あおいは固まった。
田中浩介——お父さん——も階段から降りてきた。会社員で45歳、毎朝スーツで出かける人。額をさすりながら歩いてくる。昨日転げ落ちたらしい。
「[gentle]蓮くん、学校の制服はもう用意できてるからな。今日からよろしく」
あおいは左右を見た。
お父さんは普通。お母さんも普通。二人とも、この知らない男の子を「蓮くん」と呼んでいる。まるでずっと前から知ってたみたいに。
「ちょ、ちょっと待って!」
あおいは手をあげた。
「[angry]お父さん、お母さん! この人、うちの猫のクロなんだけど!?」
両親は顔を見合わせた。
「[laughing]あおいったら。蓮くんが猫みたいに可愛いってこと?」
「[serious]……まあ、猫は好きだけどな」
蓮がさらっと言った。あおいは崩れ落ちそうになった。
(なんでみんな普通なの……)
これが、この街に昔から伝わる「ヒトガエリ」というやつなのか——なんてことを、あおいはまだ知らない。ミナセ市の西側に立つカグラ神社に、その記録が残っていることも。
ただ一つ分かるのは、自分だけがおかしいと感じているということ。
それが、すごく孤独だった。
「じゃあ、復讐リスト開始するか」
朝ごはんの前に、蓮がポケットから小さなノートを取り出した。ちゃんとした、罫線入りのノート。
「[serious]その1。2018年5月3日——俺のご飯をチープなやつに変えやがった件」
蓮はさらっとトーストに伸ばし——あおいのイチゴジャムトーストを、まるごとひとくちで食べた。
「[angry]え!? それ私の!!」
「うまい」
あおいが叫んだ。蓮はもぐもぐしながらノートをめくる。
「[serious]その2。2019年7月——俺の寝床に洗濯物を積み上げた件」
「そ、それはしょうがないじゃん部屋狭いんだもん!!」
蓮はするっとあおいの通学カバンを手に取った。中をがさごそとやって、何かをこっそり抜き出す。代わりに空のカバンを置く。
あおいは全然気づかなかった。朝から叫びすぎて、目に涙が浮かんでいたから。
玄関まで歩いて、蓮がドアを開けた。
「[cold]その3。2020年3月——強制的に病院に連れて行きやがった件」
バタン。
ドアが閉まった。あおいは家の外に締め出された。
「[angry]ちょっとーーー!!!」
ドアの向こうから、くすくすという笑い声が聞こえた。低くて静かな、でもどこか楽しそうな笑い声。
「[angry]クロのくせに!!」
叫んでから、あおいはちょっと止まった。
その笑い声が——7年間、夜中に縁側でクロが喉をゴロゴロ鳴らしていた音に、なんとなく似ていた。
(……なんで今、そんなこと思うんだろ)
胸がざわざわした。怒りとは別の何かが、そこにいた。あおいはそれを見ないふりして、はやく学校に行くことにした。
ミナセ第二中学校——通称「ニチュウ」は、田中家から徒歩10分の場所にある。ミナセ川沿いの遊歩道を歩いて、住宅街の坂を登った先だ。
川沿いの桜の木は、今は葉っぱだけになっていた。春には200本の桜が咲く場所。去年もクロと窓から眺めた。
あおいは歩きながら、カバンを確かめた。
(……あれ)
なんか軽い。
(……え)
ファスナーを開けた。中に入っていたのは——教科書でも筆箱でもなく、空のジップロックが三枚と、折りたたんだスーパーのチラシだった。
「[angry]……このやろーーーー」
声が裏返った。ミナセ川のカルガモが驚いて羽をばたつかせた。
あおいは涙目で学校に着いた。ボサボサ頭のまま、カバンの中が空のまま。
2年3組の教室。2階の廊下突き当たり、窓からミナセ川の桜並木が見える教室。あおいは自分の席に座って、机に突っ伏した。
担任の森川先生——国語担当で34歳、普段は穏やかだけどテスト前は別人になる先生——が黒板の前に立った。
「[serious]はい、注目。今日から転入生が来ます」
あおいは机から顔を上げた。
教室のドアが、ゆっくり開いた。
——黒髪。金色の目。178cm。
「[cold]黒崎蓮です。よろしく」
一言だけ言った。それだけ。
一瞬、教室が静かになった。
次の瞬間——
「[surprised]かっこいい……」
「やばくない!? 目の色、なんか特別じゃない!?」
「声も低いし……てか背高くない!?」
教室がざわついた。
あおいは固まったまま、蓮を見ていた。
(うそでしょ)
(なんで学校まで……)
蓮が視線をゆっくり動かして——あおいを見つけた。
口の端が上がった。
それはまるで、クロが気に入った場所で日向ぼっこするときの顔だった。窓際のあったかいところで、目をほそーく細めながら伸びるときの、あの顔。
あおいの胸の奥で、何かがドキンと跳ねた。
(……なにこれ)
(怒り、だよ。絶対怒りだよ)
でも、その「ドキン」がなんなのか、あおい自身にはよく分からなかった。
こうして。
9月最後の月曜日、田中あおいの日常は——盛大に、ぐちゃぐちゃになった。
カバンの中身は空だし、朝ごはんは取られたし、知らない男の子は自分のクラスに転入してきた。その男の子の正体が、7年間一緒に暮らしてきた猫だということは、自分以外の誰も知らない。
(あいつは猫だ。私の猫だ)
(でも……そんなこと言えるわけない)
窓の外、ミナセ川の水面がきらっと光った。
あおいは小さくため息をついて、空っぽのカバンを机の上に置いた。