うちの猫が、イケメンになって帰ってきた件について
中学2年生の田中青衣は、7年間大切に飼ってきた黒猫のクロと一緒に暮らしている。ふわふわでちょっとわがまま、でも彼女にとっては絶対の愛猫だ。
ある朝、青衣が目を覚ますと、クロのベッドに見知らぬイケメンの少年が眠っていた。黒い髪に黄金色の瞳を持つ彼はこう言った。「ついに人間になったよ。ずっと待ってたんだ、青衣。」
クロは今、イケメン男子になっていた。そして過去7年間のすべてを覚えている。
恨みも全部。
「爪を切ったよね。痛かったんだよ」「お風呂に入れられたの、許さない」「わざとブラシを長く使ったでしょ」
そのリストは日付付きで続く。自分を黒崎蓮と名乗るその少年は、“復讐”を開始した――それはまさに猫らしい仕返しだった。お菓子を全部先に食べる。午前3時に起こす。筆箱を机から落とす。青衣はちゃんと怒ることもできない。
でも、あることに気づき始める。蓮は迷惑なイタズラをするのは、いつも青衣のすぐそばにいる時だけ。いつも近くで、いつも見ている。
事態はさらに悪化する。蓮が転校生として学校に現れ、なんと青衣のクラスに入ってきたのだ。クラスの女子はみんな彼に夢中になり、青衣の親友・西村陽
うちの猫が、イケメンになって帰ってきた件について - ファンクラブ結成と、カバンのチョコミント問題
あの夜のことを、あおいはまだ考えていた。
図書室の窓際で丸まって眠っていた蓮の横顔。プリントを手に持ったまま、なぜか足が動かなかった自分。廊下に出てから、壁に背中をつけて、顔が熱かった、あの感覚。
(あれは……なんだったんだろ)
月曜日の朝、教室の窓から外を見ながら、あおいはそんなことを考えていた。転入から一週間が経つ。ミナセ第二中学校の2年3組にも、蓮という存在はすっかり馴染んでしまっていた。いや、馴染むというより——目立っていた。黒髪、金色の目、178cmの長身。廊下を歩くたびに女子の視線が集まる。そのくせ蓮は涼しい顔で、ポケットに手を突っ込んで、いつもどこか遠くを見ている。
そしてあおいにだけは、容赦がない。
「[sarcastic]今日の宿題、期限守れたか? 覚えてるか、2022年6月——お前が俺のご飯の時間を3日連続で忘れた月だ」
朝のホームルーム前、さりげなく隣に来てそれだけ言って、また自分の席に戻っていった。
「[angry]おはようのひとつも言えないの!?」
蓮は窓の外を向いたまま、何も答えなかった。
あおいはため息をついた。ほんとにもうやだなあ、と心の中で呟きながら。
そこへ廊下から明るい声が飛び込んできた。
「[excited]あおい! ねえねえ、聞いて!」
金色のハーフアップが揺れて、水色の目がキラキラしている。西村ひなた——あおいの親友で、2年3組のムードメーカー。笑うとえくぼができて、声が澄んでいて、誰とでも5分で友達になれるタイプ。その子が、今日も元気よくあおいの席に突撃してきた。
「修学旅行の班、決めるじゃん。ね、黒崎くんと同じ班にしてよ!」
「[surprised]え?」
「あんた、黒崎くんと家近いんでしょ? 毎朝一緒に来てるじゃん。仲いいの?」
「[angry]ち、違う! たまたま通学路が同じなだけで、全然仲よくないし!」
「そう? でもほら——」
ひなたが黒板の班分け表を指さした。蓮の名前は確かに別の班に書かれている。あおいはほっとした。よかった、離れてる、と思ったその瞬間。
「[cold]あおい。昨日の英語のプリント、どこに置いた」
教室の後ろから、蓮の声がした。当たり前のように、下の名前で。
ひなたの目が、まんまるになった。
「[excited]え! あおいって下の名前で呼んでる!? やっぱり仲いいじゃん!!」
「[angry]仲よくない!!」
「[excited]マジで!? ほんとに!? 黒崎くんが女子を下の名前で——」
周りの女子が一斉に振り返った。あおいは穴があったら今すぐ入りたかった。蓮はというと、その騒ぎに気づいているはずなのに、知らん顔で窓の外を眺めている。ポーカーフェイスのまま。
ムカッとした。でもそれだけじゃない何かが、胸の奥にちょっとだけいた。
(……なにこれ)
あおいはその感覚を、とりあえず無視することにした。
昼休み、ひなたが蓮の席にタッパーを持って現れた。
「[gentle]はい、唐揚げ多めに作ったから。食べて!」
笑顔で差し出す。えくぼができている。蓮はタッパーを見て、少しだけ首をかしげた。それから箸を取った。
……持ち方が、おかしかった。
人差し指と中指の間に挟んで、縦にカリカリと動かす。猫が爪で引っかくときの動きに、そっくりだった。7年間見てきたから、あおいにはわかる。
(絶対猫の動きじゃん……)
「[surprised]もう、違うよ。こうだよ」
ひなたが蓮の手に触れて、箸を直してあげた。
その瞬間、あおいのお腹の底が、ギュッとなった。
(……え)
教室の隅から見ていたあおいは、自分の手元のパンを見下ろした。
(なんで今、こんな気持ちに)
あいつは猫だ。箸の持ち方も知らない、猫だ。ひなたが手を触れても、それは普通のことで、友達が親切にしてあげてるだけで、なんでもない。なんでもないのに。
蓮がひなたの唐揚げをひとつ食べた。少し間があって。
「おいしい」
ぽつり、と言った。ひなたが嬉しそうに笑った。えくぼが深くなった。
あおいはパンを一口も食べられなかった。
(……なんで目が離せないんだろ、あたし)
その感情に名前をつけようとして、うまくいかなかった。
放課後。
「[excited]みんな聞いて! 黒崎くんファンクラブ、今日から正式に結成します!!」
ひなたが廊下で宣言した。集まったのは女子4人——ひなた、さき、みほ、ゆい。全員が目をキラキラさせている。
あおいは一歩後ろにいた。
「[surprised]え、あたしは別に……」
「[excited]あんたが一番仲いいんだから副会長ね!」
「仲よくないって言ってるじゃん!!」
「マジで? ほんとに?」
「ほんとに!」
そこへ、廊下の向こうから蓮が歩いてきた。女子5人の視線が一斉に集まる。
「[excited]黒崎くん!」
蓮が足を止めた。女子たちを見回して、ふっと表情をゆるめた。
「[gentle]なに?」
愛想がよかった。あおいは思わず固まった。
(……この人、他の人にはちゃんと普通に喋れるじゃん)
ひなたたちがきゃあきゃあ声をあげた。蓮はそれに対して「そうか」「知ってた」と短く返しながら、不思議と話を合わせている。猫が人間の言葉を聞き流しながらも、そこにいてあげるときの顔に似ていた。
そして。
「[cold]お前、俺の毛をブラシでやりすぎたろ」
あおいにだけ、低い声でそう言った。
「[surprised]は?」
「[serious]2019年3月14日。1時間47分やり続けた。痛かったんだぞ」
「[angry]覚えすぎでしょ!! あれはただのブラッシングで——」
「[cold]タイマーで測った」
「なんで測ってんの!?」
ひなたたちが首をかしげた。
「[surprised]え、何の話?」
「[angry]な、なんでもない!!」
あおいが誤魔化すと、ひなたが「黒崎くん謎でかっこいい~!」と言って笑い、さきが「意味わかんないのが逆にいい」とうなずいた。
蓮は何も言わなかった。ただ少しだけ——本当に一瞬だけ——視線が柔らかくなった気がした。怒っているような、でも何か別のものが混じっているような、そういう顔。すぐに元の無表情に戻って、あおいにはよくわからなかった。
あおいだけが、笑えなかった。
帰り道。
ひなたたちと蓮が前を歩いていた。ひなたは蓮の隣でよくしゃべる。蓮はほとんど答えないけれど、ちゃんとそこにいる。
あおいは少し遅れて、一人でついていった。
ナカミセ通りに入ったところで、蓮が立ち止まった。
「[cold]ちょっと待って」
それだけ言って、デイリーポップ——商店街入口のコンビニ——に一人で入っていった。ひなたたちは外で待った。あおいも入らなかった。ガラス越しに蓮の背中が見えて、冷蔵コーナーの前で少し立ち止まっている。何を見ているかは、よくわからなかった。
すぐに出てきた。ポケットに何かを入れていた。でも何も言わなかった。
(……なにを買ったんだろ)
あおいは気になったけど、聞けなかった。
家に帰って、カバンを開けた。
教科書の下に、細長い何かがあった。
取り出すと——チョコミントアイスだった。ガリガリくん的な棒アイスで、薄荷色の袋。まだ溶けていない。
「[surprised]……なにこれ」
声が出た。一人で部屋にいるのに。
あおいはアイスを持ったまま、コンビニの前で蓮が一人で入っていった場面を思い出した。ポケットに何かを入れていた、あの場面。
でも蓮は何も言っていない。確認しようにも、1階の元客間——蓮の部屋——のドアはもう閉まっている。
あおいは自分の部屋のベッドに座って、アイスを膝に置いた。
壁には、クロの写真が貼ってある。猫のクロ。小さくて黒くて、縁側でいつも丸まっていたクロ。あおいがカメラを向けると、よく金色の目でレンズを見つめていた。
「ねえ、クロ」
あおいは写真に話しかけた。
「[whispers]あんた今どこにいるの。……いるんだよね、あの子の中に」
答えは、ない。当たり前だ。
アイスはまだ溶けていなかった。
廊下から、かすかな気配がした。
音じゃない。気配、という感じ。猫が近くにいるときのような、やわらかいやつ。
あおいはそっとドアを開けた。
蓮が廊下で体を丸めて眠っていた。
黒い髪が床に広がって、両腕を胸の前で折りたたんで、膝を引き寄せて、小さく丸まっている。あおいの部屋のドアの前に、ぴったりくっつくようにして。
(……猫の寝方だ)
クロがここに来ていた。毎晩、あおいが部屋の明かりを消すまで、ドアの前で待っていた。あの丸まり方と、まったく同じだった。
あおいは泣きそうになった。
(バカ。ちゃんと部屋で寝なよ)
押し入れから毛布を出して、蓮の上に、そっとかけた。蓮は目を覚まさなかった。静かに寝息を立てている。
あおいはその背中を、しばらく見つめた。
チョコミントアイスのことも、昼休みのことも、お腹がギュッとなったことも、全部ぐるぐると頭の中にある。
そっとドアを閉めた。
翌朝。
スマホにLINEが届いた。ひなたからだった。
『放課後、ファンクラブで黒崎くんを屋上に呼び出す計画考えた! あおいも来てね!』
グループLINEへの招待通知も一緒に来ている。「黒崎くん応援団🐾」という名前のグループ。
あおいは返信できなかった。
「[cold]なにぼーっとしてんの」
隣を歩く蓮が、声をかけてきた。通学路のミナセ川沿い。朝の光が水面に反射している。
「[sad]……なんでもない」
そのとき思い出した。昨日のアイスのことを。
「チョコミントアイス、美味しかった」
「[cold]知らない」
即答だった。歩調が少し速くなった。
あおいはその背中を見た。
(知らないって言うんだ、やっぱり)
胸の奥で、また何かがギュッとなった。昨日ひなたが蓮の手に触れたときも。アイスを見つけたときも。廊下で丸まった蓮に毛布をかけたときも。
全部、同じ感覚だった。
(この感覚、ずっと続いてる)
名前がわからない。怒りじゃない。悲しいわけでもない。でも胸の中に、ちゃんとある。
学校の門が見えてきたところで、ひなたが駆けてきた。
「[excited]あおい! 黒崎くん呼び出し作戦、放課後ね!!」
目がキラキラしている。えくぼが出ている。
蓮は何も言わず、先に門をくぐった。
あおいはひなたの顔を見て、それから蓮の背中を見た。
(ひなたが、蓮に近づくたびに)
(この感覚、もっと大きくなってる気がする)
その感情の名前を、あおいはまだ知らなかった。でも——そろそろ、知らないふりができなくなってきていた。