うちの猫が、イケメンになって帰ってきた件について
中学2年生の田中青衣は、7年間大切に飼ってきた黒猫のクロと一緒に暮らしている。ふわふわでちょっとわがまま、でも彼女にとっては絶対の愛猫だ。
ある朝、青衣が目を覚ますと、クロのベッドに見知らぬイケメンの少年が眠っていた。黒い髪に黄金色の瞳を持つ彼はこう言った。「ついに人間になったよ。ずっと待ってたんだ、青衣。」
クロは今、イケメン男子になっていた。そして過去7年間のすべてを覚えている。
恨みも全部。
「爪を切ったよね。痛かったんだよ」「お風呂に入れられたの、許さない」「わざとブラシを長く使ったでしょ」
そのリストは日付付きで続く。自分を黒崎蓮と名乗るその少年は、“復讐”を開始した――それはまさに猫らしい仕返しだった。お菓子を全部先に食べる。午前3時に起こす。筆箱を机から落とす。青衣はちゃんと怒ることもできない。
でも、あることに気づき始める。蓮は迷惑なイタズラをするのは、いつも青衣のすぐそばにいる時だけ。いつも近くで、いつも見ている。
事態はさらに悪化する。蓮が転校生として学校に現れ、なんと青衣のクラスに入ってきたのだ。クラスの女子はみんな彼に夢中になり、青衣の親友・西村陽
うちの猫が、イケメンになって帰ってきた件について - 透けていく君と、嵐の私(どっちが先にバラバラになるか勝負だ)
昨夜の「どうでもいいし」という声が、まだ頭の中に残っていた。
あの声は震えていた。どうでもいいなら、震えない。それがわかっていても、今日の朝の蓮は、あおいのことを完全に見ていなかった。
通学路のミナセ川沿い。
蓮が前を歩いている。いつもなら横に来て復讐リストを読み上げてくる。「2020年10月、お前が俺のトイレのタイミングで風呂場を掃除し始めた件」とか、そういうどうでもいいやつを。
今日は一言もない。
一歩引いて歩くあおいから見ると、蓮の後ろ姿は普通だ。黒い髪が朝の風に少し揺れて、長身が桜並木の間を通り抜けていく。普通。なのに、なんか違う。
(声かけていい?)
「……れん」
蓮が、止まらなかった。
歩調が変わらない。聞こえていないみたいに、まっすぐ歩いていく。
あおいは口を閉じた。
聞こえた。絶対に聞こえた。蓮の耳は猫並みにいい。ミナセ川のせせらぎが聞こえる距離で、あおいの声が届かないわけがない。
わかってて、無視した。
(……そっか)
足が少し重くなった。
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教室に入って、すぐわかった。
蓮がひなたに何か話しかけられて、ちゃんと答えている。口元が少しゆるんで、ひなたが笑う。えくぼが出る。蓮はまた何か言って、ひなたがまた笑う。
あおいが蓮の横を通っても、視線が来ない。
目が、合わない。
消しゴムを自分の机に出した。わざと蓮の視界に入るところに置いた。心の中で「隠してみなよ」と呟いた。やってみろよ。いつもみたいに素知らぬ顔でポケットに入れてみなよ。それなら話しかける理由ができる。
蓮がちらっと見た。
一瞬だけ、視線が消しゴムに落ちた。
そのまま、顔をそらした。
(……なんで隠さないの!!)
あおいは心の中で叫んだ。泣きそうになりながら。隠してくれる方がまだよかった。なんで今日に限って何もしてこないの。嫌がらせすらしてくれないって、嫌がらせより辛いじゃん。おかしいって、あたしの感覚。おかしいよ絶対に。
「[excited]あおい! ねえねえ!」
ひなたが飛び込んできた。水色の目がキラキラしている。
「[excited]昼休み、黒崎くんに告白しようと思うんだよね!」
あおいの顔が、ぴしっと固まった。
「……マジで?」
「[excited]マジで! ずっと迷ってたけど、やっぱ言わないと後悔するじゃん。ね、応援してくれる?」
ひなたのえくぼが、すごくかわいい。ほんとにかわいい。大好きな親友の顔だ。
「[gentle]……そ、そうだよね! 応援するよ!」
笑った。笑えた、と思う。でも顔が少しこわばっているのは自分でわかった。
ひなたが「ありがとう! 邪魔しないでよね♪」とウィンクして蓮の席へ向かっていく。おかずの入ったタッパーを持って。
あおいは箸を持ったまま、動けなくなった。
蓮がひなたを見て、少し表情がゆるんだ。今朝あおいを素通りしたときとは、別人みたいな顔だった。
お腹の底が、ぐるぐると痛くなった。
(笑え。笑うんだあたし、田中あおい。お弁当食べろ。今日のおかず、かわいいタコさんウインナーじゃないか。笑えよ)
顔が、全然言うことを聞かない。
隣の席のクラスメイトが「あおいちゃん、具合悪い?」と心配そうに覗き込んできた。
「[serious]大丈夫! ちょっと眠くて!」
全然大丈夫じゃなかった。
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放課後、家の玄関を開けると、静かだった。
1階の元客間——蓮の部屋——のドアが開いている。中を見ると、布団が畳んであるだけで、蓮はいない。
縁側に出た。夕方の光が庭に落ちていた。
クロが日向ぼっこしていた場所を見た。長方形の、あたたかい光の溜まり。今はそこに誰もいない。
宿題を広げた。頭に、全然入らなかった。
夜の10時近くになって、玄関の鍵が開く音がした。
あおいは廊下に出た。
蓮が靴を脱いでいた。
「[serious]どこ行ってたの?」
蓮はあおいを見もしなかった。
「[cold]関係ないだろ」
「[serious]関係ある。あんたうちの——」
口が、止まった。
続きが出てこない。「うちの猫」と言いかけた。言いかけて、飲み込んだ。猫だったのはわかってる。でも今は違う。蓮だ。蓮として、ここにいる。
「——なんでもない」
蓮の部屋のドアが、静かに閉まった。
あおいは廊下に立ったまま、しばらく動けなかった。お腹が、静寂の中で情けなくグゥと鳴った。夕飯をちゃんと食べていなかった。感傷的な空気を、自分の胃袋が台無しにした。
(最悪)
とぼとぼと自分の部屋に戻った。
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壁に貼ったクロの写真を、一枚一枚見た。
子猫のときの写真。縁側で丸まってるやつ。カメラを向けたら金色の目でレンズを見つめてきたやつ。あおいの膝の上で寝ているやつ。
「[whispers]クロ」
声が、かすれた。
「[whispers]あんた、どこ行っちゃったの」
涙が出た。
チョコミントアイスのことを思い出した。カバンの底にこっそり入っていた、薄荷色の袋。「知らない」と即答で、歩調を速めた蓮。でも確実に、蓮が入れた。あんな嫌がらせばっかりしてるくせに、あんなことをする。
その人が、今は目を合わせてくれない。
「[crying]クロがいなくなっちゃった。蓮になったのに……蓮も、いなくなっちゃう」
ぽつりと呟いた瞬間、窓の外で影が動いた。
反射的に窓に張り付いた。
暗い道を、蓮が歩いている。街灯の下を通り過ぎた瞬間——右手が、ぼんやりと透けて見えた。手の向こうに、道路のアスファルトが透けて見える。
一瞬。
でも確かに見えた。
あおいは部屋を飛び出していた。
階段を駆け下りて、玄関を出て、走った。走りながら、足元の冷たさで気づいた。スリッパだ。パジャマのまま飛び出した。でも止まれなかった。
カグラ丘の方向へ走る。石段が見えてきた。186段。数えている場合じゃない。
途中で、近所のおじさんが犬の散歩をしていた。
「[surprised]おお、幽霊かと思ったぞ」
「[serious]あたし今ちょっとそっち側の気分なんで!」
叫びながら石段を駆け上がった。
肺が痛い。スリッパが石段の角に当たるたびにガタガタ鳴る。足が、もつれる。転びかけて、手をついて、また走る。
カグラ神社の境内に入った。
月明かりだけが、静かに地面を照らしていた。
御神木——樹齢350年の大楠——の根元に、蓮が座り込んでいた。
月光の中で、右腕から肩にかけてが半透明になっていた。服の繊維の向こうに、地面の土が透けて見える。
「[scared]れん!」
蓮が振り返った。
初めて見る顔だった。冷静で観察力のある、いつもの蓮の顔じゃない。恐怖と悲しみが、全部、表に出ていた。
「[crying]戻りたくないんだ」
声が震えていた。
「[crying]猫に……戻りたくない」
あおいは走ったまま、蓮の前に膝をついた。
「[crying]やっとお前と同じ目の高さで話せるようになったのに。やっと名前で呼んでもらえるようになったのに」
右腕が、月光の中でうっすらと透けている。
あおいは両手を伸ばして、その透けかけた手を、ぎゅっと握った。
体温がある。消えかけているのに、温かい。
「[crying]戻らないで! お願い、戻らないで!」
涙が、ぼたぼたと落ちた。
握った手の温度が、じわりと自分の手のひらに広がってくる。
その温かさの中で、ぐるぐると胸の中にあったものが、一つの言葉にまとまっていった。
ひなたが告白すると言ったとき、どうして笑顔になれなかったか。蓮がひなたに笑いかけるのを見たとき、お腹の底が痛くなったのはなぜか。消しゴムを隠してほしかった理由。チョコミントアイスを見て泣きそうになった理由。廊下で丸まって眠る蓮に毛布をかけながら、手が少しだけ震えていた理由。
全部、同じだった。
あたし、蓮のことが好きなんだ。
猫のクロとしてじゃない。黒崎蓮として。今ここにいる、この人として。
「[serious]……方法が、わからない」
蓮がかすかに言った。
二人は、御神木の根元で、じっとしていた。月が動く。風が吹く。大楠の葉が、さわさわと揺れる。
あおいは透けかけた蓮の手を握ったまま、離さなかった。
カグラ神社の古い石灯籠の灯りが、ぼんやりと境内を照らしていた。
「獣返しの祭」まで、残り2日。
蓮を人間のままにしておく方法は、何もわかっていない。