花と刃の間で
桐嶋莉子はただの普通の大学生だった――しかし、目を覚ますと見知らぬ誰かの身体に縛られ、戦国時代の日本の城の真ん中にいた。
彼女は戦国時代に「転生」してしまったのだ。予告も説明書もなく、戻る方法もない。そして新しい人生は?彼女は戦国の大名、篠塚颯馬の側室として差し出されていた――「鬼颯馬」と恐れられる冷酷無比な男。冷たく、容赦なく、殺さなければならない時に躊躇しない男。
最初は彼はほとんど彼女を見もしなかった。彼女は家具のような存在に過ぎなかった。しかし、ある眠れぬ夜、莉子は見てはいけないものを目撃してしまう。颯馬が一人、蝋燭の灯りの下で、長く亡くなった女性の肖像画をじっと見つめている姿を。
その瞬間、怪物のような彼に亀裂が走る。彼は鬼などではない。誰かを失い、ずっとその痛みを抱え続けている人間だったのだ。
それがすべてを変えた。理性に反して、莉子は彼を気にかけ始める。
だが、この城に彼女は一人ではない。ミズチという忍びが、颯馬に仕える影の部隊の一員として、静かに彼女を見守っていた。あまりにも静かに、あまりにも優しく。彼は命令を超えたささやかな警告や親切をそっと差し出す。その視
花と刃の間で - 鬼の城主——冷たい瞳と燃える太刀
朝の光が、窓の小さな隙間から薄く差し込んでいた。
莉子は盆の前に座って、椀の中を見ていた。麦と雑穀を混ぜただけの粥。香りも薄くて、色も灰色に近い。でも文句を言う相手もいないし、そもそも口を利くなという命令がある。
転生して三日目。
昨夜の横顔が頭から離れない。蝋燭の前で絹絵に触れていた、あの静かな指先。でも今は考える余裕もなくて、莉子はただ粥を口に運んだ。
ぬるい。味がない。
(現代でも朝ごはんサボることはあったけど、こんなのと比べたら天国だった……)
奥向きの薄暗い廊下の向こうで、女中たちが動く気配がする。でも誰も莉子の部屋の前では止まらない。朝から無視。昨日も、一昨日も同じだった。
奥向き——城の本丸北側にある、側室と侍女たちのための区画。部屋が十二あって、今は莉子を含めて五人が住んでいる。でもその五人の中で、莉子に視線を向ける者は誰もいない。話しかけてくる者もいない。
これが側室というものだ、とトキは言った。本人の意志は問われない。衣食住は保証されるが、子を産まなければ使用人同然の扱いを受けることもある。
(タイムリミット、残り十一日……)
前の側室は十四日で追放された。莉子が城に連れてこられた日、兵士がそう言っていた。事実のように、当たり前のように。
十一日。このまま何もしなければ、追放される。最悪の場合は——そこから先は考えたくなかった。
粥を全部食べきって、莉子は静かに椀を置いた。
午前中は、廊下の隅に座って過ごした。
奥向きから出ることは禁じられている。部屋の中にいても壁を見るだけで、やれることが何もない。莉子は膝を抱えて、廊下の端に体を縮めていた。
そのとき、通り過ぎようとした女中の一人が、もう一人に小声で言った。
「[whispers]今日は大広間で軍議らしいよ」
「[whispers]颯馬様が家臣を呼んだって」
二人はそれだけ言い交わして、足早に立ち去った。莉子のことは目に入っていない様子だった。
軍議。大広間。
(……大広間って、二ノ丸の方だったっけ)
昨日、城の構造を少しだけ把握した。本丸の南側が大広間に繋がっていて、その手前に渡り廊下がある。奥向きから出るのは禁止されているが——渡り廊下の始まりは、ぎりぎり奥向きの境界に近い場所にある。
莉子は少しだけ考えた。
(掟ギリギリ、の場所なら……)
好奇心と打算が、同時に動いた。颯馬のことを知らないまま十一日を過ごすのは無策すぎる。あの横顔の意味を知りたいという気持ちも、確かにあった。
莉子は静かに立ち上がった。
渡り廊下の柱の影に、体を潜り込ませた。
大広間との境は、半分開いた障子一枚。ここから中が見える。奥向きの区画からは一歩も出ていない——はずだ。莉子は自分にそう言い聞かせた。
大広間は広かった。畳が六十枚ほど敷き詰められていて、家臣たちが整然と座っている。二十人以上いる。全員が背筋を伸ばして、ほとんど動かない。
その正面に、篠塚颯馬がいた。
莉子は思わず柱をきつく握った。
昨夜、壁の隙間から見た横顔とは、全然違った。黒い直垂に身を包み、腰に野太刀——ヒガネ丸、とトキが言っていた刀——を佩いている。背が高い。百八十五は軽くある。漆黒の長髪を後ろで束ねていて、左頬に浅い刀傷がある。
そして目。
冷たい、赤い目だった。戦場の炎を映したような色だと、莉子は思った。感情が見えない。何も映していない水面みたいな目。
家臣の一人が、報告を始めた。国境の警備について。ミナセ川沿いの見張り台で、先月から怠慢があったということ。当番の兵が持ち場を離れていた日が三日あったということ。
颯馬は動かなかった。ただ聞いていた。
報告が終わった後も、少しの間、沈黙があった。家臣たちは誰も声を出さない。息を殺しているのが、廊下からでもわかった。
颯馬が口を開いた。
「[cold]次はない」
たった四文字だった。
でもその瞬間、大広間の空気が変わった。莉子には見えた——家臣たちの肩が、一斉にわずかに落ちた。体がこわばる、あの感じ。怒鳴り声より、よっぽど怖い。
(怒鳴らない代わりに……本当に実行する)
莉子の手が、柱を握りしめたまま動かなくなった。あの声は、脅しじゃない。ただ事実を告げている。次に同じことが起きたら、本当に何かが起きる。その確信が、言葉の重さに乗っていた。
軍議はその後も続いたが、莉子の耳には入ってこなかった。颯馬の横顔だけを、無意識に目で追っていた。
軍議が終わって、家臣たちが散っていく音がした。
莉子は急いで踵を返した。奥向きに戻らないと。廊下の角を曲がろうとした——その瞬間。
正面から、黒い影が来た。
足が止まった。相手も止まった。
篠塚颯馬が、莉子を見下ろしていた。
距離が近すぎる。一メートルもない。莉子は咄嗟に一歩下がったが、壁がすぐ後ろにあった。逃げ場がない。
颯馬の目が、莉子を一瞬だけ見た。感情がない。値踏みするでも、怒るでもない。ただ、見た。
「[cold]奥から出るな」
低い声だった。感情が乗っていない分、余計に冷たく聞こえた。
「[cold]次に見かけたら追放する」
それだけ言い捨てて、颯馬は歩いていった。
振り返らなかった。莉子のことなど、もう視界から消えている。廊下の向こうに、その背中が消えていく。黒い直垂が、遠ざかっていく。
莉子は壁に手をついた。膝が、笑っていた。
(……追放される、言われた)
恐怖が、一気に押し寄せてきた。後悔も一緒に来た。なんで廊下に出てしまったのか。掟ギリギリとか思っていたけど、結局こうなった。もし次に見かけたら本当に実行する——あの目は、そういう目だった。
でも。
莉子はゆっくりと壁に背中を預けながら、颯馬が消えた廊下の先を見た。
(あの顔……全部、殺してる)
感情がないというより、全部を意図的に消しているような顔だった。昨夜、蝋燭の前で絹絵を見ていた横顔と——同じ人間とは思えない。
それがなぜか、恐怖とは別の形で莉子の胸にひっかかっていた。
その夜も、眠れなかった。
布団の中で膝を抱えて、莉子は天井を見ていた。残り十一日のカウントが頭の隅でずっと動いている。昼間に追放すると言われた声が、また聞こえてくる気がする。
——蝋燭の灯りが、壁に滲んだ。
隣の部屋から、また光が漏れていた。
莉子は体を起こした。動くつもりはなかった。でも気づいたら、壁の隙間に近づいていた。昨夜と同じ隙間。板と板のわずかな間から、莉子は目を細めた。
颯馬がいた。
昨夜と同じように、正座して、背中をまっすぐにして。手の中に、絹絵がある。
さっき廊下で見た顔じゃない。鎧も直垂もなくて、白い寝間着姿で、蝋燭の火を前に座っている。その横顔が、蝋燭の揺れに合わせてゆっくりと動いた。
指先が、絵に触れた。
絵の中の誰かの頬を——とても丁寧に、壊れ物に触れるみたいに、指の腹でなぞった。
莉子は呼吸を止めた。
(……あの手が)
ヒガネ丸を佩いていた手。次はないと言い切った手。今日だけで何人もの家臣を黙らせた手が——あんな風に、絵に触れている。
昼と夜で、まるで別人みたいだった。いや、別人ではないのかもしれない。昼のあの男が本当で、夜のこの男が嘘なのか。それとも逆なのか。莉子にはわからなかった。
(この人の、正体を知りたい)
気づいたら、そう思っていた。純粋な好奇心だった。恐怖もまだある。追放すると言った声も覚えている。でも、それとは別の感情が、じわりと胸の内で動いていた。
すぐに現実的な思考も来た。颯馬を知ることが、生き延びることに繋がるかもしれない。あの横顔に何かヒントがある気がする。どうすれば追放を免れるか——それを考えるためにも、颯馬という人間を理解する必要がある。
打算と好奇心が、ごちゃ混ぜになったまま、莉子はそっと壁から離れた。
翌日の昼。
莉子が廊下の隅に座っていると、近くで掃除をしている女が一人いた。年は莉子と同じくらいか、少し下。手拭いを頭に巻いて、黙々と廊下を拭いている。
三日間の奥向き生活で、この娘だけが莉子の目を一度だけ見たことがあった。無視はしていない。ただ、話しかけてくる余裕がない様子だった。
娘が莉子の傍まで来て、拭き掃除を続けながら、ちらりと周囲を確認した。誰もいない。
「[whispers]……具合は、よろしいですか」
声が小さかった。聞こえるか聞こえないかくらいの声。莉子は少し驚いたが、同じくらい小さく答えた。
「[whispers]大丈夫。ありがとう」
「[whispers]ハナと申します。下働きをしております」
ハナは手を動かしたまま、目は廊下の先を向けていた。話しかけているように見えない体勢を作っている。賢い娘だ、と莉子は思った。
「[whispers]……颯馬様のことを、少しだけ聞いてもいいですか」
ハナの手が、一瞬だけ止まった。またすぐに動き始める。
「[whispers]三年前のことは……ご存知ですか」
「[whispers]知らない」
ハナは小さく頷いた。それから声をさらに低くして、話し始めた。
三年前。北方のソウガ山脈の麓に、山賊の集団が拠点を作った。数は二百を超えていた。山岳地帯の村を次々に荒らして、藩境を脅かしていた。颯馬は自ら兵を率いて討伐に出た。
戦の末、山賊の頭領が降伏を申し出た。
「[whispers]颯馬様は……斬ったそうです」
「[whispers]降伏した頭領を?」
「[whispers]頭領だけじゃなくて……全員を、らしいです」
莉子は口を閉じた。
「[whispers]それから鬼の颯馬って呼ばれるようになりました。城下でも、みんな怖がってます。でも……」
ハナは少し間を置いた。
「[whispers]その戦の後から、颯馬様は何か変わったって、古い女中さんたちが言ってます。何かを、失われたのかもしれないって。詳しくは……私にはわかりません」
それだけ言うと、ハナは拭き掃除を終えて、足早に廊下の先へ行ってしまった。
莉子は一人残されて、しばらくその場から動けなかった。
(降伏した人間を、全員……)
背中に冷たいものが走る感覚があった。本物の恐怖だった。そういうことが、できる人間なのだ。次はないと言った声の重さが、改めてリアルに思い返された。
でも。
頭の奥で、昨夜の光景が消えない。蝋燭の前で、指先でそっと絵を撫でていた横顔。三年前に何かを失った——ハナの言葉が、その横顔と重なった。
(絹絵の女は……その何かと関係があるのかもしれない)
証拠はない。ただの直感だった。でも莉子の直感は、わりと外れない。少なくとも人の表情を読むことに関しては。
降伏した全員を斬れる人間が、夜に一人で絵に触れて悲しそうにしている。その二つが同じ人間の中に存在している——その事実が、莉子の中でどうにも引っかかり続けた。
夕方になって、莉子はトキを探した。
トキは台所の近くで、夕食の段取りを指示していた。灰色の白髪を後ろでまとめて、穏やかな緑の目で女中たちを見渡している。落ち着いた立ち姿。この城でトキだけが、莉子を「人間として」見てくれている気がした。
「[serious]トキさん、少し相談があるのですが」
トキは振り返って、莉子をしばらく見た。急かすでもなく、断るでもなく、ただ見ている。
「[gentle]何でしょうか」
「[serious]颯馬様の夕食を……少し手伝わせていただけないでしょうか。側室として、城主様のお役に立ちたいのです」
本心でもあった。嘘でもなかった。でも全部の本音ではなかった。
トキは何も言わなかった。ただ莉子の目を見ていた。その穏やかな緑の瞳が、「全部わかっている」と言っているように見えた。何年もの経験が積み重なった目だ。
「[serious]勝手なことをすれば、処罰は免れませんよ」
「[serious]……わかっています」
「[gentle]……よいでしょう。ただし台所の隅で、余計なことはせぬように」
莉子は頭を下げた。深く、ゆっくりと。
台所は夕方になると慌ただしくなる。米を炊く音、出汁を取る煙、鉄鍋が火にかけられる音。莉子は隅の方で、食材を前に座っていた。
この時代の食事は、素材そのものの味に頼っている。出汁の取り方も、素材の下処理も、現代の知識からすると惜しいところがたくさんある。莉子は大学時代、一人暮らしで料理を毎日していた。節約のために、出汁は昆布と鰹節から自分でとっていた。山菜の下ごしらえも、祖母から教わっていた。
この時代でもできることは、ある。
山菜を使った汁物の一品。今夜のそれは、山菜をそのまま煮込んでいた。莉子は灰汁の抜き方を少し変えた。下ごしらえに時間をかけて、苦みを丁寧に抜く。出汁を引く順番を変えて、素材の香りを残す。
(颯馬が食べてくれるかどうかもわからない)
そう思いながら、手は止まらなかった。何もしないよりましだ。十一日で何もできないまま追放されるくらいなら、できることを全部やる。
颯馬への恐怖はまだあった。次はないと言われた言葉も、全員を斬ったという話も、頭から消えていない。
でも昨夜の指先の記憶が——あの静かな、壊れ物に触れるような仕草が——莉子の足を前に向かせた。
震える手で、膳を整えた。
これで颯馬の目が動くかどうか。無視されるかもしれない。最悪、また追放すると言われるかもしれない。
それでも莉子は、膳の前に座って、深く一度だけ息をついた。