引きこもり配達員の推理録―小さな町の事件簿
雨宮愛子は大学院生でありながら、卓越した推理力を持つ一方で、重度の社交不安障害に悩まされ、自室に引きこもりがちで大学にもほとんど通えない。彼女の唯一のつながりは、匿名性を保てる『フレッシュライン』アプリを使った深夜のフードデリバリーの仕事だった。
そんなある日、配達先で客が謎の死を遂げる事件が起こる。警察も頭を抱える不可解な出来事に、愛子はいやいやながらも巻き込まれていく。明るく前向きな新人配達員・猫田美奈とチームを組むことを余儀なくされ、興味がないと拒みながらも、現場の矛盾を見抜き、不注意なミスを見逃さず、犯人へとつながる糸を紡ぎ出していく。
美奈の好意や警察からの協力要請、そして小さな町を巻き込む不気味な連鎖事件――すべてが、引きこもりの天才がこの町を守りたいと願っている証拠だった。引きこもりの天才と明るい配達員という異色のコンビが力を合わせ、町の謎を解き明かし始める。しかし、その犯罪の真の姿はまだ隠されており、誰も予想しなかった混沌の黒幕の存在をほのめかしていた。
――『引きこもり配達員の推理録―小さな町の事件簿』
引きこもり配達員の推理録―小さな町の事件簿 - 深夜二時の解剖学——あるいは、孤独が世界を読む方法
死体は、甘い匂いがする。
それを知ったのは、今夜が初めてだった。
*
自転車のタイヤが古いアスファルトの継ぎ目を踏むたびに、かすかな振動が背中のフードボックスに伝わる。雨宮藍子は深夜の「かげろう通り」を、音もなく走っていた。
時刻は午前二時十七分。
翠嶺市の旧市街、御影町。人口約一万四千人のこの街は、昼間でもどこか眠たげな顔をしているが、深夜ともなればその眠りはもっと深く、もっと正直になる。アーケード屋根の一部が崩落したまま放置されている商店街は、街灯が三本に一本の割合で球切れしており、自転車で通り抜けると光と影を交互に潜り抜けるような感覚がある。藍子はその感覚が、嫌いではなかった。
人がいない。
それだけで、この街は藍子にとって安全な場所になる。
彼女の外見は、深夜配達員としては少々目立つかもしれない。黒のストレートショートヘアは耳元でさっぱりと切りそろえられており、深い栗色の瞳は暗がりでもどこか静けさを帯びて見える。身長百六十二センチ、細身で華奢な体型。今夜の服装はシンプルな白いシャツに黒のスラックス、その上からフレッシュラインの黒いジャケットを羽織っている。左耳には小さな銀のピアス。そして長袖のシャツの袖口には、うっすらとテープの跡が残っている——配達の合間に思考を走らせ、腕に直接メモを書きつけては剥がす、という習慣の痕跡だ。
(六号室、今日も明かりついてる)
走りながら、視線が自然に動く。
かげろう通り沿いのアパートの三号室は、今夜も窓が暗い。郵便受けが三日前から溢れているのを藍子は知っている。不在か、それとも体調を崩しているか。どちらにしても、明後日まで様子が変わらなければ——と、そこまで考えたところでスマートフォンが振動した。
フレッシュラインのアプリ通知だ。
新しい配達依頼。
藍子は小さく息を吐いた。安堵に似た、でも安堵とは少し違う感覚。このアプリの中では、藍子は「配達員ID:A-0047」に過ぎない。顔はいらない。声もいらない。ただ正しい場所に正しい時間に荷物を届ければ、評価が積み上がっていく。シンプルで、清潔で、人間関係のノイズがない。
配達評価は星四・九。翠嶺市御影町エリアの深夜帯における稼働率は約三十五パーセントを一人で担っている。遅延ゼロ、非接触配達の徹底。誰とも話さなくていい仕事の、完璧な実績。
今学期の大学出席率が十四パーセントだということは、今夜は忘れることにする。
*
最初の三件は順調だった。
御影町二丁目のワンルームマンション、唐揚げ弁当。ドアノブにかけて写真を撮り、アプリに完了報告。御影町一丁目の古いアパート、ラーメンと餃子。ドアポケットに滑り込ませて写真を撮り、完了報告。かげろう通り沿いのビルの四階、カレー。
それぞれの配達先で、藍子の視線は少しだけ余計なものを観察する。
ワンルームの玄関先に並んだ靴は、同じサイズが二足——最近まで一人暮らしだったはずの部屋に誰かが加わった。ラーメンの配達先の郵便受けには、今日届いたばかりの速達が二通。差出人の欄は遠い市外の住所だ。カレーの部屋のドア横には、子供の絵が一枚セロテープで貼られている——クレヨンで描かれた、不恰好な家と人間。
ここには誰かが住んでいる。
生活がある。体温がある。
藍子は直接それに触れることができないから、代わりに痕跡だけを読む。人と向き合えない分、人の残したものだけを見る。それが彼女にとっての「社会との接続方法」だった——自分でそう意識していたわけではないが、後から振り返ればそういうことだったと思う。
三件完了後、一度アパートに戻った。
コーポ御影の206号室。築三十八年の木造二階建て、家賃月三万二千円。六畳一Kの部屋の壁には、御影町の地図が画鋲で止められており、その周囲を走り書きのメモが取り囲んでいる。「水曜深夜、8Fのゴミ袋増量——同居人か?」「302、最近置き配拒否→引っ越し準備中の可能性」。観察記録というより、もはや住民の解析ノートだった。
冷蔵庫を開ける。食事処おかめ——かげろう通りの大衆食堂で、フレッシュラインの提携店だ——の賄い弁当が二個。今日届いたばかりのもの。藍子はそのうちの一個を取り出し、テーブルに置いた。
スマートフォンを裏返しにした後で、なんとなく戻してしまう。
画面には通知が溜まっていた。翠嶺公立大学からのメール——件名「出席状況に関する重要なお知らせ(三度目)」。母親からのメッセージ、三件。全部既読がついていない。
藍子はしばらくそれを見つめてから、また裏返しにした。
代わりに推理小説を開く。
それは小学三年生の頃から変わらない習慣だ。本の中では、全ての謎には答えがある。人の行動には必ず動機がある。混沌に見えるものも、分解すれば整然としたロジックが顔を出す。現実の人間関係とは、まるで違う。藍子が最初に「人よりも謎の方が付き合いやすい」と気づいたのは、たぶんその頃だった。
(不満を持てるほど、外を知らない)
ふとそう思って、本から目を上げた。
壁の地図。無数の配達先を示す小さなシール。この部屋から出ることなく、この窓を通じて御影町の夜を眺める自分。
それが不幸なのかどうか、藍子にはよくわからなかった。ただ、わからないこと自体が、胸の奥の方で微かに——
スマートフォンが鳴った。
新しい配達依頼。御影町三丁目、シルフィードマンション704号室。深夜配達割増込みで報酬は五百七十円。
藍子は本を閉じ、ジャケットを羽織った。
*
シルフィードマンションは十二階建ての、この街では比較的新しい部類のマンションだ。エントランスのオートロックは、フレッシュラインの専用コードで解除できる。藍子はそれをほぼ無意識に操作しながら、エレベーターに乗り込んだ。
七階。
ドアが開いた瞬間に、何かが違った。
藍子は廊下に足を踏み出しながら、その「違い」を言語化しようとした。うまくいかない。音は静かだ。廊下の蛍光灯は正常に点いている。温度も、外との差を考えれば普通の範囲だ。
なのに、空気が違う。
密度が、違う。
704号室はエレベーターを出て右、廊下を突き当たった角の部屋だ。藍子はフードボックスを抱えながら廊下を歩いた。靴底がリノリウムの床を踏む音が、今夜は妙に大きく聞こえる。
五歩。十歩。
ドアが見えた。
——半開きだった。
藍子は立ち止まった。フレッシュラインの配達規約では、在宅の場合は手渡し、不在の場合は置き配。ドアが開いているということは在宅のはずだが、インターホンを押しても反応がなかった。もう一度押す。応答なし。
「あの、フレッシュラインです」
声は自分でも意外なほど小さかった。対人恐怖症の声というよりは、この空間に似合った声量だった、とでも言うべきか。
返事はない。
その代わりに、藍子の鼻腔に何かが届いた。
甘い。それなのに酸っぱい。有機的で、少しだけ鉄の気配を帯びた——その匂いは藍子が今まで嗅いだことのないものだったが、何かを思い出させた。夏の終わりに台所で腐りかけたままにしていた果物の匂い。でも、もっと重い。もっと人間に近い。
(入るべきではない)
論理的にはそうだった。
不審なドア、異臭、深夜。配達員がすべきことは一つ——フレッシュラインのアプリから「配達不能」を報告して、撤退する。それだけだ。
(でも)
足が前に出た。
ドアをゆっくりと押す。蝶番が低く鳴いた。
玄関から続く廊下、その先のリビング。
電気はついている。
テーブルの上には、フレッシュラインの容器が一つ。開封されていた。
そしてフローリングの床に、一人の男が倒れていた。
中年の男性。スーツのジャケットを脱いだ状態で、仰向けに近い姿勢で。目は閉じていた。
動かない。
最初の三秒間、藍子の思考は完全に止まった。
三秒というのは体感の話で、実際には一・五秒から二秒程度だったかもしれない。ともかく、そこには絶対的な停止があった。恐怖というより空白。認識が追いついていない状態。
そして四秒目、奇妙なことが起きた。
視界が、研ぎ澄まされた。
パニックが極限まで高まった瞬間に、逆に何かが反転する感覚。感情が飽和して逆説的に冷える、そういう現象を藍子は初めて経験した。自分の中の何かが「観察モード」に切り替わっていく。止めようとしても止まらない。
テーブルの上のフレッシュライン容器——唐揚げ定食だ、食事処おかめの。開封されているが、箸が使われていない。いや、箸が容器の横に置かれているが、食べた形跡がない。割り箸の先端が汚れていない。
窓。内側から施錠されている。でもサムターン——ロックのつまみ部分——に微細な傷がある。新しい傷だ。金属光沢がまだ鈍く光っている。
男性の死後硬直。顎と首にだけ、ごく初期の強直が見られる。顎関節と頸部から始まる硬直は、死後四時間から六時間程度で発現する。つまり、この男性が死亡したのは——
(午後八時から十時の間、ということになる)
藍子は自分が震えていることに、ようやく気がついた。
両手がわずかに揺れている。フードボックスがかすかに音を立てている。でも視線は動いていた。空間を読み続けていた。恐怖と推理への衝動が身体の中で絡み合って、どちらがどちらなのか、もはや区別がつかない。
(これは自然死じゃない)
根拠は三つ。施錠された窓の傷。手をつけていない食事。死後硬直のタイミングと、配達依頼の注文時刻の乖離。
でも今、それより先に考えるべきことがある。
藍子はポケットからスマートフォンを取り出した。指が震えていて、ロック解除に二回失敗した。三回目で成功する。電話アプリを開く。
1-1-0。
「はい、警察です」
オペレーターの声は落ち着いていた。それが藍子の助けになった。
「翠嶺市御影町三丁目、シルフィードマンション、七階の704号室です」
自分の声が思ったより平坦だった。感情を排除しているわけではなく、感情が大きすぎて代わりに事実だけが出てきている感じだ。対人恐怖症の人間が、逆説的に最も正確に通報できる瞬間というものがあるとしたら、これがそれなのかもしれない。
「居住者と思われる方が倒れています。反応がなく、死後硬直が始まっています」
「わかりました。今すぐ向かいます。そのまま現場から離れないでください」
オペレーターが言った。
「……はい」
藍子はそれだけ答えて、電話を切った。
*
警察が到着するまでの十五分間は、奇妙に静かだった。
藍子はドアの外の廊下に座った。壁に背中をつけ、膝を立てて、フードボックスを脇に置いた。ここからは部屋の中が見えない。見えなくていい。もう十分すぎるほど見た。
廊下の蛍光灯がわずかに明滅している。
かすかな虫の声が、どこかから聞こえる。七階なのに、どこから入ってくるのかわからない。
(落ち着け)
自分に言い聞かせても、震えはなかなか止まらなかった。でも、思考は動いていた。勝手に動き続けていた。あの部屋の間取り、窓の位置、テーブルの配置、フレッシュラインの容器がテーブルの左端に置かれていたこと。なぜ左端なのか。右利きの人間が食事をするなら普通は正面か右寄りに置く。左端に置かれているということは——
(今じゃない)
藍子は目を閉じた。
今は待つ時間だ。考える時間じゃない。
でも脳はそれを聞いてくれなかった。
警察が到着したのは、通報から十四分後だった。制服の警察官が二人と、少し遅れて私服の刑事らしき人間。藍子は立ち上がって、壁際で待った。警察官の顔を直視できない。視線が自然に床と壁の間を彷徨う。
「通報した方ですか?」
若い警察官の声だった。
「はい」
「フードデリバリーの配達員で、今夜のシフトで?」
「そうです。フレッシュラインの」
事情聴取は廊下の壁を見たまま答えた。目線を合わせない。対人恐怖症の人間の作法として、それは相手に失礼かもしれないが、しかたがなかった。
発見時の状況を説明しながら、藍子はほとんど無意識に付け加えた。
「箸が使われていませんでした。容器は開封されていましたが」
「……それは?」
「食事をする前に亡くなったということです。でも注文の時刻を確認すれば、注文してからどれくらいで死亡したかが推測できる。フレッシュラインの配達記録に時刻がすべて残っているので」
若い警察官がメモを取る手を止めた。
「それと、サムターンに傷があります。窓の内鍵のつまみ部分です。新しい傷なので、今日か昨日のものかと」
沈黙があった。
藍子はその沈黙に気づかなかった。壁を見ていたから、警察官の表情も見えなかった。
「……確認します。他に気になったことは?」
「今のところはそれだけです」
簡潔な答えだった。「今のところは」という言葉の含みに、相手が気づいたかどうかも、藍子には分からなかった。
*
アパートに戻ったのは午前三時四十分頃だった。
藍子は部屋に入るなりジャケットを椅子に投げ、机の引き出しからメモ帳を取り出した。震えはほぼ止まっていたが、それを確認する余裕はなかった。
ボールペンを持つ。白いページを開く。
書き始める。
「・箸未使用(開封済み)→食事前に倒れた」
「・サムターンに新しい傷→内側から施錠されているが操作痕あり」
「・死後硬直初期段階→推定死後4〜6h→PM8〜10時頃」
「・注文時刻と死亡推定時刻の関係性を要確認」
「・フードボックスは手渡し設定→在宅を偽装した可能性?」
書きながら、少しずつ落ち着いてくる。不思議と、書くことで自分が戻ってくる感覚があった。書くことで落ち着こうとしているのか、推理を整理したいのか、自分でも判然としなかった。たぶん両方だ。
五分ほど書き続けて、ふと手が止まった。
メモ帳の表紙に、自分の文字があった。
「推理メモ(見ないこと)」
——ああ、これ。
藍子は思わず力が抜けた。中学二年の時に自分で書いたラベルだ。推理小説を読みすぎて「日常の謎を解こうとする癖」がついてしまい、自分でそれを戒めるために書いた。見ないこと、使わないこと、という決意の表明。
乾いた笑いが漏れた。
「見ないこと、ね」
ひとりごとは、すぐに沈んだ。
今書いているのはフィクションじゃない。本の中の密室じゃない。あの七階の廊下に座って、蛍光灯の明滅を見ながら待っていた十五分間は、小説にはなかった匂いと温度があった。あの甘酸っぱい重い空気は、まだどこかに残っている気がした。
藍子はもう一度、書いたものを読み返した。
五つの観察事項。それぞれが「自然死ではない」という方向を向いている。
(これは、誰かがやったことだ)
確信がある。根拠のある確信だ。
同時に、別の疑問が浮かんだ。
なぜ自分はあの部屋で、躊躇いなく空間を読めたのか。恐怖はあった。震えもあった。でも観察はやめられなかった。推理への衝動は恐怖を上回り続けた。それは一体、何なのか。
メモ帳を持ったまま、壁の地図を見る。
御影町の地図。配達先を示す無数のシール——青いシールが配達完了した場所、赤いシールが何らかの違和感を覚えた場所。この二年間で、藍子は御影町のほぼ全域をカバーしていた。
今夜初めて、その一点が「誰かが死んだ場所」という意味を持った。
シルフィードマンション704号室。
藍子の指が、その場所に赤いシールを貼った。地図の上の小さな点。でも今夜からは、違う重さを持つ点だ。
この街で、何かが起きている。
その「何か」に——自分が最も近い場所にいるかもしれない。深夜の配達員という立場で、誰も見ていない時間帯に、誰も気にしない場所を走り続けてきた自分が。
(関わるべきじゃない)
それは正しい判断だと思う。対人恐怖症で引きこもりで、大学にまともに行けていない自分が、警察でも探偵でもなく、ただのデリバリー配達員が、他人の死に首を突っ込む理由はない。
(でも)
メモ帳を閉じる。ボールペンを置く。
電気を消す。布団に入る。
目は、開いたままだった。
天井の暗がりを見ながら、藍子は考え続けていた。考えるのをやめる方法が、わからなかった。脳はすでにあの部屋の情報を組み替え続けている。パズルのピースを並べ、欠けた部分を探している。止まらない。推理小説の登場人物みたいに、もう動き出してしまっている。
窓の外で、御影町の深夜が続いている。
かげろう通りの街灯が一本、また揺れた。