引きこもり配達員の推理録―小さな町の事件簿
雨宮愛子は大学院生でありながら、卓越した推理力を持つ一方で、重度の社交不安障害に悩まされ、自室に引きこもりがちで大学にもほとんど通えない。彼女の唯一のつながりは、匿名性を保てる『フレッシュライン』アプリを使った深夜のフードデリバリーの仕事だった。
そんなある日、配達先で客が謎の死を遂げる事件が起こる。警察も頭を抱える不可解な出来事に、愛子はいやいやながらも巻き込まれていく。明るく前向きな新人配達員・猫田美奈とチームを組むことを余儀なくされ、興味がないと拒みながらも、現場の矛盾を見抜き、不注意なミスを見逃さず、犯人へとつながる糸を紡ぎ出していく。
美奈の好意や警察からの協力要請、そして小さな町を巻き込む不気味な連鎖事件――すべてが、引きこもりの天才がこの町を守りたいと願っている証拠だった。引きこもりの天才と明るい配達員という異色のコンビが力を合わせ、町の謎を解き明かし始める。しかし、その犯罪の真の姿はまだ隠されており、誰も予想しなかった混沌の黒幕の存在をほのめかしていた。
――『引きこもり配達員の推理録―小さな町の事件簿』
引きこもり配達員の推理録―小さな町の事件簿 - シャッター街の夜行灯——あるいは、孤独は二種類ある
推理ボードが、静かに藍子を見下ろしている。
コーポ御影206号室。深夜の0時を十数分過ぎたあたり。六畳の部屋はシンプルを通り越して殺風景で、壁一面に広げた御影町の地図と、そこから伸びる糸のような走り書きのメモだけが、この部屋に住んでいる人間の輪郭を語っていた。
藍子はデスクチェアに座ったまま、あのメモを眺めていた。
「三日間・毎夜22:47・唐揚げ弁当中・特製タレ——誰が受け取ったか」
昨夜、推理ボードに貼り付けた一枚。シルフィードマンション704号室の赤いシールの隣に、まるで申し訳程度に存在しているそのメモが、今夜は妙に重く見えた。
配達ログは確認した。三日分の履歴。受け取り完了の操作は、毎回アプリ上で正常に処理されている。でも実際に「受け取った人間」が誰だったのか、それが今、喉に刺さった小骨みたいに引っかかったまま動かない。
ボールペンのキャップを、指で何度かカチカチと叩く。思考の癖だ。
(在宅を偽装した、という線で考えていた。でも、三日間毎晩同じ時刻に同じメニューを——それは習慣なのか、それとも別の誰かが注文し続けていたのか)
二つのルートが頭の中で分岐したまま、どちらにも確証が持てない。
そこで、インターホンが鳴った。
一回。
藍子は動かなかった。深夜の不意なインターホンへの正解は、たいてい無視だ。宅配ならば置き配設定にしてある。大家の日暮さんが何か用があるとすれば、もう少し常識的な時間帯に来るはずだった。
もう一回。
そして、三回目。
四回目。
五回目……十回目になったあたりで、藍子はスマートフォンを手に取った。フレッシュラインのアプリを開く——その画面には、ちょうど新着メッセージの通知が届いていた。
「ねこたみな☆」のアカウントから。
「雨宮さん!!いますか!?🆘」
「あのすみません!!大変なことになりました!!😭」
「インターホン押してます!開けてください!!🙏🙏🙏」
……絵文字が三個以上ついている。やはりこのアカウントは絵文字の量で焦り具合を表現するらしい。
藍子はしばらく画面を見つめた。返信するか否か、ドアを開けるか否か。理性は「放置が最適解」と静かに告げている。でも、「大変なことになりました」という文面が気になるのも確かで——推理への好奇心と対人への苦手意識が、ちょうど五分五分で拮抗した。
その均衡を崩したのは、続けて届いた一文だった。
「配達先まちがえて別のお客さんに渡しちゃいました……エリア評価下がりますよね……💦」
藍子はため息をついた。口から空気が漏れる、単純な行為。でも気持ちとしては「仕方がない」に近い何かを含んでいた。
エリア評価の低下は、藍子の稼働率にも影響しうる。御影町エリアの深夜帯稼働は、今夜も自分が担っている。そこへ新米配達員の初歩的なミスが波及するのは——理屈として、看過できない。
それだけの理由で、藍子はドアを開けた。5センチだけ。
「……猫田さん」
「わあ!」
ドアの前に立っていた猫田ミナは、5センチの隙間から藍子の顔が見えた瞬間、ぱっと表情を輝かせた。淡いミントグリーンのツインテールが、弾むように揺れる。黄金色の瞳には隠しようのない安堵と、若干の後ろめたさが混在していた。
「[gentle]あの……雨宮さん。夜中にごめんなさい」
「状況を説明してください」
「ぜんぶチャットに書きます!アプリで!」
「今、声が出せます」
「あ、そっか。えっと——」
ミナが説明した内容を整理すると、こうだ。「食事処おかめ」からの注文——唐揚げ弁当、大盛り——を配達した際、番地の読み間違いで隣の部屋に届けてしまった。気づいたのは受け取り完了ボタンを押した後で、間違えて渡した相手からは「うちじゃないですよ」と言われ、本来の注文主からは「まだ来ない」という問い合わせが届いた。アプリのサポートに連絡したが対応が遅く、コーポ御影の近くにいたため「雨宮さんに相談しようと思って」来た——という経緯だった。
藍子は5センチのドア越しに、その話を最後まで聞いた。
「料理はまだ、先方のところにありますか」
「たぶん……まだ渡してくれてると思います」
「正しい配達先は」
「御影町三丁目の……えっと——」
「チャットで住所を送ってください」
藍子はドアを一度閉めた。コートを羽織り、自転車の鍵を持った。そして再びドアを開けた——今度は、全開で。
ミナが少し驚いた顔をした。「……行くんですか?」
「クレーム対応です。評価の問題ですから」
「雨宮さんのミスじゃないのに」
「同じエリアの配達員がやらかせば、エリア全体の評価に響く可能性がある」
「……ありがとうございます」
「お礼は後で」
*
クレーム対応は、思いのほか順調に終わった。
間違えて料理を受け取った住人は気のいい中年の男性で、「冷めちゃったけど食べてないから大丈夫ですよ」と笑いながら戻してくれた。正しい注文主——一人暮らしらしき若い女性——も、「届いてよかったです」と言ってドアを閉めた。それだけだった。
ミナは対応の間、藍子の少し後ろに立って、ずっと頭を下げていた。深々と、しかも二回、三回と繰り返して。「本当にすみませんでした!」を三度は言っていた。
「[serious]猫田さん」
「はい!」
「アプリの番地表示は、漢数字と算用数字が混在していることがあります。次から声に出して確認してください」
「……それ、めちゃくちゃ実用的なアドバイスですね」
「失敗の再現を防ぐのが目的なので」
ミナがにこっと笑った。ほっとした時の、素直な笑顔だった。
「ありがとうございます、雨宮さん。本当に」
「もうアプリの指示通りに進んでください」
「えっ、帰らないんですか?」
藍子は自転車のハンドルを持った手を、少し持て余すように動かした。正直に言えば、部屋に戻ってもあのメモの前で同じ場所をぐるぐる考え続けるだけだ。身体を動かした方が、頭の詰まりがほぐれることもある。
「——もう一件、配達があります」
半分は本当だった。
*
かげろう通りは、深夜になると別の顔をする。
昼間のシャッター街は、どこか「閉じている」感じがする。でも深夜は違う——閉じているというより、「眠っている」のだ。錆びたシャッターの模様も、球切れの街灯が作る光と影の縞も、老朽化したアーケード屋根から覗く夜空も、全部が均等に静かで、均等に正直だった。
藍子は自転車を押しながら歩いた。横にミナがいた。
「[excited]この商店街、好きなんですよね」
「……かげろう通りが?」
「深夜の、特に」
藍子はちらりと横を見た。ミナは商店街のアーケードを見上げながら歩いている。穴の開いた屋根の隙間から、星のかけらみたいな空が見えていた。
「なんで好きなんですか」
「——寂しい感じが、正直だから」
「……」
「飾ってないじゃないですか。昼間の商店街って、人がいたり声があったりして、なんとなく『にぎやかな場所のフリ』してる感じがする。でも深夜は全部脱いでる。正直に寂しい顔してる。それが——なんか、好きで」
ミナが悪気なく言った言葉は、藍子の思考の中に落ちて、予想外の深さで沈んでいった。
正直に寂しい顔、か。
藍子はシャッターの錆模様を眺めながら、その言葉を反芻した。咀嚼するのに少し時間がかかった。
「……猫田さんは」
「はい」
「御影町には、いつから」
「半年前です。親の転勤で。突然だったんで、友だちに全然ちゃんと挨拶できなくて」
「大学では」
「……声かけてくれる人、いないんですよね。あたしも、なんか、うまくなじめてなくて」
「……」
「フレッシュライン始めたのも、一人でできる仕事だから、って理由が一番で」
ミナは明るいトーンのまま言った。悲壮感が、ない。そこが藍子には奇妙に思えた——孤独の話をしているのに、声が沈まない。笑顔のまま喋っている。泣いているわけでも、訴えているわけでもない。ただ事実として、さらりと話している。
藍子の孤独は、内側を向いている。部屋の中に引きこもって、人と距離を置いて、自分の観察と推理の世界に閉じこもる——それが藍子の「孤独の形」だった。でもミナのそれは、違う。外に向かって開いている。大学に行って、フレッシュラインに登録して、知らない街で一人でやっている——それでも孤独なのだ。
同じ空洞でも、向きが違う。
藍子はその違いをうまく言語化できないまま、商店街の先を見た。「食事処おかめ」の看板明かりが、遠くにぼんやりと光っていた。
配達の途中、フードボックスを背負い直すミナの横顔に、街灯のオレンジ色が落ちた。
0.5秒、視線が止まった。
——自分でも気づかないくらいの、短い時間。でも確かに止まった。藍子は即座に視線を前方へ戻した。「観察の習慣だ」と処理しようとした。いつもなら、それで終わりにできる。
でも今夜は、胸の中で何かが計算より少し速く動いていた。ほんの少しだけ。それを確認しようとした瞬間に処理を放棄した——正確な値が出なかったから、ではなく。なんとなく、確認したくなかったから。
ミナは気づいていない。
「[gentle]雨宮さんって、ずっとここで配達してるんですか」
「二年ほど」
「好きですか、この街」
「……読みやすいです」
「読みやすい?」
「深夜は人が少なくて、動いているものが少ない。観察しやすい」
ミナがくすっと笑った。「なんか雨宮さんっぽい理由ですね」
「……そうですか」
*
「食事処おかめ」への配達を終えたのは、深夜1時少し前だった。
店主の三船トシ子は七十二歳で、このかげろう通りの生き字引と呼ばれているような人物だ。小柄で、白髪を後ろで丸くまとめていて、笑うと目の端に深いしわが寄る。深夜の弁当配達にもかかわらず、藍子が来るたびに「ご苦労さん」と声をかけてくる数少ない人間の一人だった。
今夜も、厨房の片付けをしながら三船さんは言った。
「[serious]そういえばねぇ、雨宮ちゃん。近くのマンションで人が亡くなったって聞いたけど、知ってた?」
ミナが横でぴくっと動いた。「え……どこのマンションですか?」
「シルフィードだよ。あそこ、フレッシュラインよく使ってた人がいたじゃないの。毎晩みたいに唐揚げ弁当ばかり頼んでくれてたって、うちの娘が言ってたから——」
藍子の中で、何かが静かに接続された。
「——毎晩、唐揚げ弁当」
「[serious]そうそう。ひとり暮らしの方だったみたいで、可哀想にねぇ」
外部証言。それも、藍子が把握していなかった方向からの補強。フードデリバリーの配達記録が示していた「三日間・毎夜22:47・唐揚げ弁当」という習慣パターンが、今、店の側から確認された。
表情は変わらない。でも左手がフードボックスを握る力が、わずかに増した。
「……その方が最後に注文されたのは、いつ頃ですか」
「さあ、うちの娘に聞かないと分からないけどね。でも最近パタッと来なくなったって——」
「[scared]なんか……怖いですね」
「世の中、そういうことも多いよ。ひとり暮らしはね」
店を出て、かげろう通りの残り半分を歩き始めた。
藍子の思考は、すでに走り始めていた。最後の注文日時。死亡推定時刻との一致。配達記録と外部証言の照合。在宅偽装の可能性——それとも、注文者本人が注文し、その後に——
ミナが隣を歩きながら、藍子の横顔をちらりと見た。
「[gentle]……眠いですか? 目が半分閉まってる」
「開いています」
「あ、それが雨宮さんの全開なんだ」
真顔で言い直した。悪意ゼロの、ただの観察。
藍子は数秒、返す言葉を探した。反論しようとした。でも——
「……そうかもしれない」
静かに、認めた。
笑ったわけじゃない。謝ったわけでもない。ただ事実として、そうかもしれない、と思った。そう言った。
ミナがふっと笑った。小さな笑い声。空気に溶けていくくらいの、短い笑い。
藍子は前を向いた。
そのあとの数秒間、自分の思考の速度が——今夜ずっと——普段より落ちていないことに、藍子は初めて気がついた。推理に没入しているときの速度ではない。でも遅くもない。ただ、どこかが違う。
隣の足音が、邪魔ではなかった。
それが奇妙な事実として、胸のどこかに引っかかった。
*
コーポ御影の前に着いたのは、深夜一時を少し回ったころだった。
「[excited]明日また一緒に回ろ! 今度は絶対迷わない!」
ミナが宣言した。力強く、悪びれなく。「絶対」の部分に謎の自信があった。
「……今日も迷いましたよね」
「成長してます! 前よりましです!」
「今夜は私が誘導しました」
「それが成長の証です! 一人じゃできないことをお願いできた!」
何か言おうとした。「それは成長ではない」と言うつもりだった。でも言葉を探しているうちに、ミナがもう「じゃあおやすみなさい!」と言って走り去っていた。ミントグリーンのツインテールが暗がりに消えていく。
藍子は自転車のスタンドを立てた。
——明確に、断らなかった。
それに気づいたのは、ミナの背中が見えなくなってからだった。
*
部屋に戻った藍子は、コートを脱いで推理ボードの前に立った。
ボールペンを持つ。新しいメモ用紙を取り出す。
「三船証言→毎晩唐揚げ弁当→同一注文の外部補強」
シールの隣に貼った。配達記録という「内部データ」に、店の側からの「外部証言」が重なった。これで、あの習慣パターンは単なる偶然ではないことがほぼ確認できた。次に確認すべきは最終注文日時と、死亡推定時刻の照合——
ペンを止めた。
窓の外に、かげろう通りが広がっている。
フレッシュラインの注文灯が、点々と光っていた。あちらのアパートの一室、こちらのマンションの三階、商店街の向こうの建物の最上部——深夜のこの街で、誰かが誰かに食べ物を頼んでいる。それぞれに孤食の理由があって、孤食の温度がある。藍子はその灯りを、ずっと一人で眺めてきた。
今夜は、その灯りの数え方が少しだけ変わった気がした。
何がどう変わったのか、分析しようとした。いつもなら、それができる。でも今夜は——あえて特定しないままにしておく感覚が、分析への衝動と同じくらいの重さで、藍子の中に存在していた。
奇妙な均衡だった。
推理ボードのあのメモが、薄明かりの中でまだこちらを見ている。三日間・毎夜・唐揚げ弁当——その向こうに、まだ見えていない何かがある。藍子はそれを確実に感じていた。
孤食の灯りが、御影町の夜にまた一つ、ともった。