引きこもり配達員の推理録―小さな町の事件簿
雨宮愛子は大学院生でありながら、卓越した推理力を持つ一方で、重度の社交不安障害に悩まされ、自室に引きこもりがちで大学にもほとんど通えない。彼女の唯一のつながりは、匿名性を保てる『フレッシュライン』アプリを使った深夜のフードデリバリーの仕事だった。
そんなある日、配達先で客が謎の死を遂げる事件が起こる。警察も頭を抱える不可解な出来事に、愛子はいやいやながらも巻き込まれていく。明るく前向きな新人配達員・猫田美奈とチームを組むことを余儀なくされ、興味がないと拒みながらも、現場の矛盾を見抜き、不注意なミスを見逃さず、犯人へとつながる糸を紡ぎ出していく。
美奈の好意や警察からの協力要請、そして小さな町を巻き込む不気味な連鎖事件――すべてが、引きこもりの天才がこの町を守りたいと願っている証拠だった。引きこもりの天才と明るい配達員という異色のコンビが力を合わせ、町の謎を解き明かし始める。しかし、その犯罪の真の姿はまだ隠されており、誰も予想しなかった混沌の黒幕の存在をほのめかしていた。
――『引きこもり配達員の推理録―小さな町の事件簿』
引きこもり配達員の推理録―小さな町の事件簿 - 七件の弁当箱と脅迫状
ポストに鍵を差し込んだのは、朝の八時を少し過ぎた頃だった。
コーポ御影の一階廊下は、冬の朝特有のひんやりとした空気が漂っている。大家の日暮繁が飼っている年老びた猫が、玄関マットの上でまるまっていた。藍子はその猫を一瞥してから、ポストの中に手を突っ込んだ。
茶封筒。
差出人欄が、空白だった。
厚みがある。手に取ると、折り畳まれた紙の束がぱんぱんに詰まっている感触がする。封を開けると、A4用紙がホチキスで束ねられて出てきた。プリントアウトされた表組み。列と行、数字と日時、配達先コード。七件分のフレッシュライン配達記録だった。
(瀬尾さん、几帳面すぎる)
ホチキスの留め方が、定規で測ったように正確だった。用紙の左上隅から五ミリ、ぴったり四十五度。刑事の書類仕事の習慣が染み付いている角度だった。
藍子が封筒を持ったまま廊下を戻りかけたとき、建物の外からインターホンを連打する音が響いた。
ピンポンピンポンピンポン。
間隔が、せわしない。
「[excited]藍子さん!!起きてる!?」
声が廊下に筒抜けだった。猫が迷惑そうに片目を開けた。
藍子は外に出て、門の隙間からミナを見た。ミントグリーンのツインテールが朝の光に溶けている。黄金色の瞳がきらきらしている。手に持っているのはコンビニの袋だった。
「差出人のないやつ、届いてるじゃないですか——」
「え?」
ミナが門を押し開けながら、藍子の手元の茶封筒を見た。
「[surprised]なにそれ、差出人ない……怖いやつじゃん!!廊下で開けたんですか!?」
「[serious]記録を残さないための手段です。怖いものではない」
「でも見知らぬ封筒を一人でポストで——」
「瀬尾さんです」
「……え」
「ホチキスの角度が、あの人の几帳面さと一致しています」
ミナが数秒、その答えを処理するように固まった。それから小声で「ホチキスの角度で人を特定するのか……」とつぶやいた。
*
コーポ御影206号室のドアを開けると、六畳の空気が少し澱んでいた。朝の換気をまだしていない。推理ボードが窓の前に広がっている。メモ用紙と赤いシールと矢印だらけの壁は、朝の斜光を受けて白く光っていた。
ミナが入ってきて、部屋を一周見回した。三度目の訪問だった。
「[gentle]もう少し片付けてもよくない? って言おうとしたけど」
ミナがボードの前で立ち止まった。メモの量が前回より明らかに増えている。付箋、プリントアウト、手書きの数字、赤と青で引かれた矢印。
「……うん、わかった。これが必要なんだね」
黙った。それ以上、片付けの話をしなかった。
藍子は茶封筒から紙束を取り出して、ボードの前の床に座った。昨日の夜から引っ張り出したままのフレッシュラインのアカウントデータが、横に広げてある。ミナも床に腰を下ろして、コンビニ袋から缶コーヒーを二本出した。一本を無言で藍子の方に転がした。
「[gentle]飲んで。考える時はカフェインがいる」
藍子は缶を拾って、開けた。苦い。でも温かかった。
照合作業が始まった。
藍子がペンを動かす。ミナが指で表を追う。ほとんど言葉を交わさない。でも作業は進んでいた。
最初の共通点が確定したのは、十分後だった。
七件の被害者、全員がフレッシュラインの登録ユーザーだった。
「[serious]次。居住地」
ペンが表の上を走る。七件の住所が、御影町内に集中している。全員、単身世帯。
ミナが静かに「……全員、一人暮らし」とつぶやいた。声のトーンが、いつもより低い。
藍子はうなずかずにペンを動かし続けた。三つ目の照合へ。
最後の注文時刻。
ボールペンの先が、七件分の数字を順番に追っていく。二十二時四十七分。二十二時四十七分。二十二時四十七分。二十二時四十七分。二十二時四十七分。二十二時四十七分——
藍子のペンが、止まった。
「[serious]全て同じです」
ミナが表に顔を近づけた。
「[surprised]え……本当に? 秒単位まで?」
「分単位です。全件二十二時四十七分。発注元はかげろう通りの食事処おかめ」
ミナが顔を上げた。黄金色の瞳が少し大きくなっている。
「おかめって……三船さんのところ?」
「そうです」
藍子は推理ボードの中央に、大きく書いた。
「22:47」
七件を繋ぐ一本の軸が、ボードの上に立った。
ミナがしばらくその数字を見ていた。それからゆっくり、視線を表に戻した。
「[sad]……この中に、二件あります。配達で行ったことがある人の名前」
声が、少し硬くなっていた。
藍子は何も言わなかった。ミナが指している二つの名前を、目で確認した。御影町三丁目の住所。深夜帯の注文記録。ミナが配達した記録がフレッシュラインのログに残っているはずだった。
「[sad]普通の人でした。インターホン越しに、ありがとうって言ってくれた人」
沈黙が、部屋に満ちた。缶コーヒーの温もりが手のひらから伝わってくる。推理ボードの「22:47」が、静かにこちらを見返している。
(七人が、この同じ時刻に最後の注文をした。あるいは、させられた)
藍子はボードを見た。ペンのキャップを、三回叩いた。
「[serious]三船さんに、話を聞きに行きましょう」
*
かげろう通りのアーケードは昼過ぎの光を受けて、老朽化した屋根の隙間から縞模様の影を落としていた。閉まったシャッターが並ぶ商店街の中で、食事処おかめの引き戸だけが開いていた。醤油と揚げ油のにおいが、入り口からもれ出ている。
ミナが先に引き戸を開けた。
「[excited]こんにちは! 唐揚げ弁当一つと、聞き込みをください!」
大きい声だった。店内にいた二人の客が振り返った。
カウンターの向こうで、三船トシ子が顔を上げた。七十二歳。白髪をひっつめにまとめて、割烹着を着ている。目尻にたっぷりとしわが刻まれていて、その分だけ笑顔が深い。翠嶺市の変化を全部見てきたような、どっしりとした佇まいだった。
「[laughing]聞き込みって、刑事ドラマみたいねえ。なんだい?」
三船が弁当を包み始めながら、こちらを眺めた。藍子はカウンター前に立って、少しだけ視線を下げた。知らない人間の視線が正面から来るとき、首が少しだけ固くなる。
「[serious]半年前に、フレッシュラインのアプリの仕組みが変わったと感じたことはありましたか」
三船の手が、一瞬止まった。
「……変わった、ねえ」
三船が弁当の蓋を閉じながら、少し考える顔になった。記憶を引っ張り出しているような間だった。
「[serious]そうだよ。前は常連さんが直接電話してくるか、アプリから注文してきてたんだ。あの人からいつものやつって来てたよ。でもね」
三船が弁当袋を藍子の方に押し出して、続けた。
「[serious]半年くらい前から、聞いたことない名前で注文が来るようになってね。同じ時間帯に、いつも似たような頼み方で。お金はちゃんと振り込まれるから、変だとは思わなかったんだけど——なんかね、違和感はあったんだ。名前が、常連さんじゃないから」
ミナが「常連さんじゃない名前」と小声で繰り返した。
藍子はその証言を頭の中で配達記録と重ねた。被害者のアカウントを使って注文を発注する。生存を偽装するために。おかめからの深夜注文という記録を作ることで、その時間帯に被害者が生きていたように見せる。三船の証言が、それを外側から裏付けていた。
「あのひとたち」
三船が、少し声を落とした。
「みんな、亡くなったの?」
ミナが、藍子より先に頷いた。小さく、でも確かに。
三船の目が、わずかに潤んだ。割烹着の裾を両手でぎゅっと握って、それから「そうかい……」とだけ言った。店内に、揚げ油の音だけが残った。
コメディ的な空気が、そこで完全に消えた。
かげろう通りの昼が、少しだけ静かになった。
*
コーポ御影に戻ったのは、三時を少し過ぎた頃だった。
藍子は外を履いたまま推理ボードの前に立って、七件の注文時刻データを広げ直した。ペンを持つ。七つの数字を上から順番に書き写す。
二十二時四十七分。二十二時四十七分。二十二時四十七分。二十二時四十七分。二十二時四十七分。二十二時四十七分——
七番目を書いたとき、ペンが止まった。
「[surprised]……」
ミナが背後から覗き込んだ。
「[serious]この七番目。704号室の最終注文時刻」
「うん」
「[serious]二十二時五十一分です」
沈黙。
「[surprised]……あれ? 他の六件は全部二十二時四十七分なのに」
「四分、ズレています。秒単位のデータで確認しました。他の六件は二十二時四十七分ちょうどから一秒も違わない。それがプログラムによる自動注文の証拠です——手動で操作すれば、誤差が生まれる」
ミナが表を手に取った。確認する。数字が揃っている六件と、ずれている一件。
藍子はボードに書いた。
「四分間に何かが起きた」
その横に、もう一行。
「犯人は焦っていた」
「[surprised]焦ったって、なんで?」
「[serious]被害者がまだ生きていたか。誰かに見られていたか。予定が狂ったか——いずれにしても、通常の手順を踏めなかった。自動化されていたはずのプロセスを、その夜だけ手動でやり直した」
ミナが表を床に置いた。考えている顔だった。
藍子は次のデータに移った。先週の夜、第四話の流れでフレッシュラインのCSVに付随していたタイムスタンプから手動で抽出した朽木のシフト管理ログ。藍子のアカウントでは本来見えないデータを、接続のタイミングを突いてキャッシュから引っ張り出したものだった。
ログの一行を指でなぞる。
二十二時四十七分から二十二時五十四分。
朽木のアクセスログに、空白がある。七分間。
「[serious]ここです」
ミナが近づいた。藍子の指が示している行を読む。
「[serious]朽木さんのアクセスログが、ちょうどこの七分間だけ空白になっています。704号室の注文時刻のズレが、二十二時四十七分から二十二時五十一分の四分間——空白の七分間が、そのズレを完全に内包している」
ミナが、言葉に詰まった。
藍子はボードに二重線を引いた。「22:47-22:54 朽木アクセス空白」「22:47-22:51 704号室注文ズレ」。二本の線が、重なる。
「[scared]藍子さん、それって朽木さんが……」
ミナが言いかけて、止まった。
「[serious]状況証拠として、一致しています」
「[angry]でも!」
ミナの声が、上がった。
「[angry]朽木さんは絶対そんな人じゃないと思う。いい人だったじゃないですか。ミーティングの時だって、丁寧で、配達員のこと考えてて——」
「[serious]ログの一致は事実です」
「[angry]事実だけじゃ人のことはわからないでしょ!」
ミナが正面から言い切った。初めてだった。笑っていない。黄金色の瞳が、まっすぐこちらを向いている。
藍子は、言葉が出てこなかった。
論理は正しいと確信していた。ログの一致は数字で示せる。証拠として弱くても、方向性は明確だ。でも「違う」と返す言葉が、喉から出てこない。
なぜか。
(わたしも——)
考えが、一瞬止まった。
朽木が悪人だと断定したくない、という感情が自分の中にあることに、藍子は初めて気づいた。ミーティングの夜の声の質感。包み込むような、温かみのある声。あれが演技だったとしたら——その可能性を確認するまでは断言できない、という感情が、推理の端に混じり込んでいた。
(これは、推理の欠陥だ)
感情が混入している。藍子は数秒、ボードの前で固まった。
「[angry]藍子さんも本当は、朽木さんが怪しくないって思いたいんじゃないの?」
藍子は答えなかった。三秒、沈黙した。
「[whispers]……わかりません」
短い一言だった。断言できなかった初めての瞬間として、その言葉は部屋に落ちた。
ミナが少し、勢いを失った。怒った顔が、少しだけ緩む。数秒の沈黙。
「[whispers]ごめん」
「……私の推理に感情が入っているかもしれない」
「[gentle]それは、悪いことじゃないと思う」
「推理の精度を下げます」
「でも、感情がない推理が全部正しいとも限らないじゃないですか」
藍子は返事をしなかった。ミナも押さなかった。
部屋に、普段と違う種類の静けさが来た。怒りが通り過ぎた後の、互いを少しだけ深く知った沈黙だった。
*
夕方、藍子はフレッシュラインのアプリ外のチャット経由で瀬尾に連絡を入れた。二十二時四十七分から二十二時五十一分の四分間のズレ。朽木のアクセスログ空白との一致。数字を箇条書きで送った。
瀬尾からの返信は、七分後に来た。
「アクセスログは令状なしでは証拠として使えない。ただしこのズレのパターンを元に令状申請の根拠書類が作れる可能性がある。その根拠をもう一本欲しい」
藍子は画面を見て、次の返信を打った。
「朽木のGPSログを確認しようとしました。エリアマネージャーの位置データは配達員ログとは別サーバーで、閲覧権限がありません」
「こちらも非公式アクセスの限界に達している。物理的な位置確認を別の経路で取るしかない」
「アプリのキャッシュデータに端末の痕跡が残っているか検討します」
返信が来た。
「気をつけてください。——以上」
短かった。でも「以上」という一文が、瀬尾らしかった。
藍子はスマートフォンを置いて、ボードに向き直った。朽木。おかめ。空白。赤いペンで三点を繋ぐ線を引いた。
線が、一本の形になった。
*
夜になって、ミナからチャットが来た。
「今日は怒ってごめん。でも藍子さんが感情あるって知って、なんか安心した」
藍子は画面を見て、しばらく考えた。返信の文章を三種類打って、二種類消した。
「私もあなたの感情がなければ今日は朽木を切り捨てていました」
送信した。
数秒後、返信が来た。
絵文字だけが、五つ並んでいた。
藍子は通知を閉じなかった。その画面を手のひらに乗せたまま、ボードを見ていた。
(あなたの感情が必要だった)
それは藍子が初めて、他者の感情を推理に不可欠な要素として認めた言葉だった。論理だけでは見えないものがある、という不快な発見。でも不思議と、それほど不快でもなかった。
夜の十一時を過ぎた頃、藍子は郵便の確認に一階へ下りた。
ポストに鍵を差し込む。朝と同じ動作。でも取り出したものが、違った。
茶封筒。また、差出人欄が空白だった。
今朝届いたものより薄い。中に一枚だけ紙が入っている。白地に、黒い文字。プリントアウトされた一行。
「これ以上調べるな」
それだけだった。
差出人欄は、空欄。
藍子は封筒を手に持ったまま、廊下の窓から外を見た。かげろう通りの深夜の街灯が、橙色に点々と光っている。フレッシュラインの配達バッグが一つ、遠くの路地を曲がっていくのが見えた。
同じ風景だった。でも今夜は、違う意味を帯びていた。
(誰かが、今夜の動きを知っている)
藍子は206号室に戻って、ボードに二枚の新しいメモを貼った。
「朽木GPSキャッシュデータ取得」
「旧御影紡績工場跡地」
脅迫状の一行が、第一アークの終わりを静かに告げていた。