引きこもり配達員の推理録―小さな町の事件簿
雨宮愛子は大学院生でありながら、卓越した推理力を持つ一方で、重度の社交不安障害に悩まされ、自室に引きこもりがちで大学にもほとんど通えない。彼女の唯一のつながりは、匿名性を保てる『フレッシュライン』アプリを使った深夜のフードデリバリーの仕事だった。
そんなある日、配達先で客が謎の死を遂げる事件が起こる。警察も頭を抱える不可解な出来事に、愛子はいやいやながらも巻き込まれていく。明るく前向きな新人配達員・猫田美奈とチームを組むことを余儀なくされ、興味がないと拒みながらも、現場の矛盾を見抜き、不注意なミスを見逃さず、犯人へとつながる糸を紡ぎ出していく。
美奈の好意や警察からの協力要請、そして小さな町を巻き込む不気味な連鎖事件――すべてが、引きこもりの天才がこの町を守りたいと願っている証拠だった。引きこもりの天才と明るい配達員という異色のコンビが力を合わせ、町の謎を解き明かし始める。しかし、その犯罪の真の姿はまだ隠されており、誰も予想しなかった混沌の黒幕の存在をほのめかしていた。
――『引きこもり配達員の推理録―小さな町の事件簿』
引きこもり配達員の推理録―小さな町の事件簿 - 迷子のカタログ——あるいは、侵入者は絵文字で語る
昨夜の甘い匂いが、まだどこかにこびりついている気がした。
藍子は自転車のペダルを踏みながら、何度もその感覚を振り払おうとした。でも体はちゃんと覚えている。シルフィードマンションの七階廊下に座って、蛍光灯の明滅を眺めていたあの十五分間のことを。
夕方の五時。御影町の「かげろう通り」は、この時間になると少しだけ人の気配が戻ってくる。帰宅途中の会社員が自転車を押して歩いていたり、コンビニの「デイリーハーツ」から袋を抱えた老人が出てきたりする。シャッターが半分閉まった靴屋の前を通り過ぎるとき、藍子は無意識にペダルを強く踏んだ。
(体を動かせば、上書きできる)
それが今日、二時間早く稼働を始めた理由だった。でも走れば走るほど、記憶は遠くならなかった。御影町三丁目の細い路地に差し掛かるたびに、自転車の速度が勝手に落ちる。シルフィードマンションとは逆方向なのに、体が反応している。
推理メモを開いても、昨夜書いた箇条書きの先に何も続かない。
「・箸未使用(開封済み)→食事前に倒れた」
「・死後硬直初期段階→推定死後4〜6h→PM8〜10時頃」
情報は揃っている。でも「次の一行」が出てこない。頭の中ではなく、胸のあたりに何かが詰まっているような感じがして、それが思考の通り道を塞いでいた。
(推理できているのに、自分の動揺は全然読めない。どういうこと)
スマートフォンが、連続で振動した。
フレッシュラインのアプリ内チャット。送り主の名前を見て、藍子は眉をひそめた。
「ねこたみな☆」
深夜帯の配達員チャットにそのアカウントが現れたのは三週間前。登録したばかりの新米配達員らしく、メッセージの文面には必ず絵文字が三個以上ついている。藍子はそのアカウントと一度もやり取りをしたことがなかった。
通知を開く。
「たすけてください🆘🆘🆘」
「地図アプリ見てるんですけど右に進めって言われて右に行ったら川に落ちそうになりました🌊」
「今どこにいるか全然わかりません🗺️❓」
「配達先まであと何分ですか??って通知きてて焦ってます😭😭」
藍子は自転車を止めた。スタンドを立てて、画面を見つめる。
送信間隔を確認する。十七秒、二十一秒、十四秒。焦り具合が数字に出ている。現在地も書いていない。「川」というのが手がかりだとすれば、御影町で川があるのは碧川沿いだが、配達先の住所がわからないと話にならない。
藍子は短く返信した。
「配達先の住所を送ってください」
三秒で返信が来た。
「御影三丁目5番地のあたりです!!🙏」
(「あたり」は住所じゃない)
もう一度。
「アプリに表示されている住所をそのままコピーしてください」
今度は少し間があった。それから。
「すみません間違えました!3丁目5の14です!シルフィードマンション403号室🏢」
藍子の指が止まった。
シルフィードマンション。
同じ建物だ。昨夜の七階と同じマンション。全く同じ。
胸の詰まりが、別の形に変わった気がした。推理への衝動が、蓋を押し上げようとしている感覚。
「今いる場所から説明します。川に向かって歩いた方向が南です」
「南ってどっちですか🧭」
(どっちって……)
「川を背中にして立ってください。今、あなたが向いている方向が北です」
「わかりました!向きました!🙆」
「その状態から右手側が東、左手側が西です」
「右ってどっちの右ですか?」
「……右は右です」
「あっ!ちょっと待ってください!今コンビニの前にいます!📍」
「御影町にコンビニは二軒あります。デイリーハーツかファミーチョか、どちらですか」
「看板の字が小さくて読めません🔍」
藍子はスマートフォンを持ったまま、額に手を当てた。自転車のサドルに腰かけたまま、その姿勢で三秒ほど動かなかった。
(論理的に案内しているのに、なぜ全ての情報が嚙み合わないのか)
「コンビニのドアを開けて、店員さんに『ここはどのコンビニですか』と聞いてください」
三十秒後。
「デイリーハーツでした!あと店員さんがすごく優しくて道教えてくれました!!🎉」
「ならもう私は必要ないですね」
「えっ待ってください!!店員さんに教えてもらったんですけどその道の名前の漢字が読めなくて😅」
「写真を送ってください」
一分後、やけに手ブレした看板の写真が届いた。
「樽前坂通りです。そこを北に進めばシルフィードマンションに着きます」
「北ってどっちですか?」
藍子は返信する手を止めた。画面を見たまま、しばらく何も動かなかった。
それから、ゆっくりと打った。
「デイリーハーツを出たら左です。まっすぐ三分歩いたら大きなマンションが見えます」
「わかりました!!直接教えてもらえませんか!住所送ります!!」
「不要です。今教えた通りに進めば——」
打ちかけて、止まった。
アプリのGPS表示を開いていた藍子は、そこに表示された二つの位置情報が、ほぼ同じ座標に重なりかけているのを見た。
(なぜ)
ミナの現在地と、藍子が今止まっている場所。デイリーハーツの前と、コーポ御影の前。
距離にして、約四十メートル。
数秒後、コーポ御影のインターホンが鳴った。
*
藍子は自室のモニターを見た。
画面に映っていたのは、ヘルメットを斜めにかぶった女の子だった。
ミントグリーンのツインテールが左右でふわりと揺れている。身長は百五十五センチくらい。フレッシュラインのオレンジのジャケットを着ていて、背中の配達バッグがわずかに傾いている。黄金色の瞳がカメラを真っすぐに見ていて、その目は今にも溢れそうなくらい明るかった。
カメラに向かって、ぶんぶんと手を振っている。
(なぜここにいるのか)
藍子には全くわからなかった。住所を送ると言っていたが、なぜコーポ御影の住所を知っているのか。フレッシュラインのシステムに配達員の自宅住所は表示されないはずだ。
「あのー!!さっき助けてもらった猫田ミナっていいます!!チャットで!!」
インターホン越しの声は、想像していたよりずっと元気が良かった。
「なぜここの住所を知っているんですか」
「えっと、GPS見てたら同じとこにいる人がいて!先輩配達員の方かなって思って来ちゃいました!!」
(GPSを逆引きした、ということか)
実はフレッシュラインのアプリには、同じエリアにいる配達員同士がお互いの位置を確認できる機能がある——配達員のチャット機能に付属した「エリア内メンバー表示」というやつで、藍子はオフにするのを忘れていた。
三秒ほど沈黙した後、藍子はインターホンのマイクに向かって言った。
「ドアは開けません。シルフィードマンション四百三号室への行き方を教えます」
「えっ、でも——」
「コーポ御影を出て左、かげろう通りを北に進んでください。突き当たりを右に曲がって七分です」
画面の中のミナが、一瞬困ったような顔をした。でもすぐに、また笑顔に戻った。
「……わかりました。ありがとうございます」
その声のトーンが、少しだけ、柔らかかった。
藍子は画面を閉じた。しばらくそのまま立っていた。
(シルフィードマンションに行く理由が、できた)
自分でそう気づいて、少し変な感じがした。行くべきでないと思っていた場所に、外側から理由が与えられた。配達履歴の異常を確かめなければという衝動は、昨夜から消えていなかった。でも一人で行くことには、うまく名前のつけられない抵抗があった。
今は違う。案内した相手が向かう場所と同じ場所に、自分も向かえる。
ジャケットを羽織り、自転車のカギを持った。
*
シルフィードマンションのエントランスに着いたのは、ミナよりわずかに早かった。
自動ドアが開く前に、藍子は立ち止まった。エントランスのガラス越しに、内側の掲示板が見える。「管理組合からのお知らせ」という紙が一枚貼られているが、内容は読めない。七階の廊下は見えない。当たり前だ。
アプリを開いて、配達履歴の確認を試みた。本来は自分の配達記録しか見られないが、同じエリアの案件として「近接建物配達履歴」という通知が届いていることがある——これはシステムの仕様で、エリア内の配達密度を最適化するために配達員全員に共有される集計データだ。
そこに、一行あった。
「シルフィードマンション 704 / 22:47 / 食事処おかめ / 唐揚げ弁当・中・特製タレ / 完了」
昨日の日付。
藍子は画面をスクロールした。前の日。同じ時刻。同じメニュー。さらに前の日。同じ。
三日間、毎晩二十二時四十七分。唐揚げ弁当・中・特製タレ。配達完了。
藍子の思考が、急速に動き始めた。
昨夜の七百四号室。死後硬直の状態から推測した死亡推定時刻は午後八時から十時の間。つまり二十二時四十七分の配達完了が記録された時点では、あの人は既に死んでいた可能性が高い。
では、誰が「受け取り完了」を操作したのか。
フレッシュラインの配達完了は通常、受け取った側がアプリで承認するか、置き配写真が送信されることで記録される。七百四号室は「手渡し設定」だった——昨夜の自分が現場で確認している。手渡し設定で「完了」が記録されるためには、誰かがドアを開けて受け取ったか、もしくは内側から受け取り操作が行われたことになる。
死んでいる人間が、スマートフォンを操作できるわけがない。
(誰かが、生存を偽装していた)
確信だった。根拠のある確信だ。三日間、毎晩同じ時刻、同じメニュー。それ自体も不自然だ。習慣的な注文と見せかけて、実際には誰かが外側から操作していたとすれば——
「あれ、もしかして雨宮さんですか!!」
声が飛んできた。
振り返ると、ミントグリーンのツインテールが走ってくるのが見えた。ヘルメットはさっきと同じく少し斜め。配達バッグが背中でぱたぱたと揺れている。
藍子は答えなかった。画面から目が離せない。思考が加速している途中で、外部の音が遠くなっている。
「えっ、あの、チャットの人ですよね?」
返事がない。
ミナはしばらく藍子の横顔を見ていた。黒のストレートショートヘア。深い栗色の瞳がスマートフォンの画面に固定されている。表情は——怖い顔じゃなかった。睨んでいるわけでも、怒っているわけでもない。なんというか。
「なんか……燃えてるみたいな顔してますね」
ぽつりと、言ってしまった。
一瞬、藍子の視線が画面から外れた。
ミナの顔が、正面にある。黄金色の瞳が、不思議そうにこちらを見ていた。驚いたわけでも、呆れたわけでもない。ただ、まっすぐに。
藍子は即座に視線を逸らした。スマートフォンをジャケットのポケットに入れた。
「……配達、済ませてきてください」
「は、はい!!すぐ戻ります!!」
ミナがエントランスのオートロックを開けて中に駆け込んでいくのを、藍子は見届けた。
エントランスの自動ドアが閉まる。
藍子は一人になった。御影町の夕方の空気が、頬に当たっている。西の空がオレンジに染まりかけていて、マンションの影が地面に長く伸びていた。
(「燃えてるみたいな顔」)
その言葉が、胸の中でもう一度鳴った。不快ではなかった。ただ、奇妙だった。他人にそういうふうに見られたことが、なかったから。推理に没入しているときの自分が「怖い」でも「変」でもなく「燃えている」と見えた、という事実が。
(それは、どういう意味なのか)
考え始めて、すぐにやめた。今は関係ない。
*
「待たせてすみません!!無事届けられました!!」
ミナが戻ってきたのは十分後だった。ヘルメットが今度は右に傾いている。一体どういう動きをすればそうなるのか。
「では」
藍子は歩き始めた。コーポ御影への帰り道。ミナが隣についてきた。止めても無駄だと判断して、止めなかった。
往路とは違う沈黙だった。
さっきはGPSを眺めながらチャットを打っていた。今は何もしていない。ただ並んで歩いている。御影町の夕方の空気に、揚げ物のにおいが混じっている。「食事処おかめ」の厨房から流れてくるやつだ。三船トシ子さんが今夜の仕込みをしているのだろう。唐揚げ弁当・中・特製タレ。
藍子の歩調が、一瞬だけ揺れた。
(三日間、毎晩。同じ店から。同じメニュー)
「あの——」
ミナが口を開いた。でも続かなかった。
二人の足音だけが、商店街の石畳に響いた。シャッターの閉まった靴屋、郵便受けが溢れかけた床屋、傾いた看板の雑貨屋。かげろう通りの夜は、もうすぐそこに来ている。
コーポ御影の前で、藍子は立ち止まった。
「ここで」
「はい」
別れようとして、藍子は一瞬だけ振り返った。ミナの黄金色の瞳が、ちょうどこちらを見ていた。
「あのマンションの周辺には、しばらく近づかないほうがいいです」
「えっ、なんで——」
既に自転車を走らせ始めた後だった。
ミナが何か言っているのが聞こえたが、聞き取れなかった。振り返らなかった。
*
部屋に戻った藍子は、ジャケットを椅子に掛けて、推理ボードの前に立った。
昨夜貼った赤いシール。シルフィードマンション704号室。
新しいメモ用紙を取り出して、ボールペンで書いた。
「3日間・毎夜22:47・唐揚げ弁当中・特製タレ——誰が受け取ったか」
シールの隣に貼った。
窓の外に、御影町の夜が広がっている。かげろう通りの街灯が一本ずつ点灯し始めて、光と影の縞模様が商店街の石畳に落ちている。人通りはもうほとんどない。この街の深夜は、今夜もまた藍子のものだ。
そのはずだった。
でも今夜は、少しだけ違う重さがあった。
この謎を「一人で読む」ことへの、微かな何か。うまく名前のつけられない、ほんの少しの——不安、というより、手持ち無沙汰に似た何か。
その輪郭が、今夜並んで歩いた誰かの気配と、妙に似た形をしていることに、藍子はまだ気づいていなかった。
ボールペンをメモ帳に挿して、藍子は椅子に座った。
画面を開く。フレッシュラインのアプリ。三日間分の配達履歴のログ。
誰が受け取り完了を操作したのか。そこを辿れば、何かが見える。
御影町の夜が深くなるほど、この街の闇は読みやすくなる。それは今夜も変わらない——変わったのは、推理ボードの前に立つ藍子の胸の中に、以前はなかった小さな「?」が生まれたことだけだった。