引きこもり配達員の推理録―小さな町の事件簿
雨宮愛子は大学院生でありながら、卓越した推理力を持つ一方で、重度の社交不安障害に悩まされ、自室に引きこもりがちで大学にもほとんど通えない。彼女の唯一のつながりは、匿名性を保てる『フレッシュライン』アプリを使った深夜のフードデリバリーの仕事だった。
そんなある日、配達先で客が謎の死を遂げる事件が起こる。警察も頭を抱える不可解な出来事に、愛子はいやいやながらも巻き込まれていく。明るく前向きな新人配達員・猫田美奈とチームを組むことを余儀なくされ、興味がないと拒みながらも、現場の矛盾を見抜き、不注意なミスを見逃さず、犯人へとつながる糸を紡ぎ出していく。
美奈の好意や警察からの協力要請、そして小さな町を巻き込む不気味な連鎖事件――すべてが、引きこもりの天才がこの町を守りたいと願っている証拠だった。引きこもりの天才と明るい配達員という異色のコンビが力を合わせ、町の謎を解き明かし始める。しかし、その犯罪の真の姿はまだ隠されており、誰も予想しなかった混沌の黒幕の存在をほのめかしていた。
――『引きこもり配達員の推理録―小さな町の事件簿』
引きこもり配達員の推理録―小さな町の事件簿 - 廃墟の設計図
脅迫状は推理ボードの端に画鋲で留まっている。
「これ以上調べるな」
たった一行。プリントアウトされた黒い文字。差出人欄は空白。
藍子はそれを一瞥してから、視線をノートパソコンの画面に戻した。朝の5時。眠れなかった理由は、恐怖ではなく——怒りでもなく、ただ純粋に「次に必要なものが見えている」から手が止められなかったせいだった。
フレッシュラインのアプリは、配達員用端末のキャッシュデータを一定期間ローカルに保持する。通常の配達員には閲覧権限がない領域だが、藍子はアプリのバージョン更新前の旧APIエンドポイントが生きていることを三ヶ月前に気づいていた。使わずにいたのは、必要がなかったからだ。
今夜、必要になった。
コマンドを叩く。ログが流れる。朽木隆之の端末IDを指定して、過去三ヶ月のGPSキャッシュを引っ張る。データが返ってきた。
藍子はスクロールしながら、ボールペンのキャップを三回叩いた。
御影町北西部。旧御影紡績工場跡地——フレッシュラインの配達エリアのどの飲食店からも、どの顧客住所からも外れた座標。そこに朽木の端末が、第六話で特定した空白期間中に三度、停留していた。最短で22分。最長で1時間04分。
定期的に、誰かが誰かに会いに行くような間隔で。
藍子は赤いペンを取って、推理ボードに座標を書き込んだ。旧御影紡績工場跡地——かげろう通りから徒歩12分、敷地面積約18,000㎡、半壊した建屋が三棟。フェンスで囲われているが侵入は容易、という世界観の記憶が引っかかる。
インターホンが鳴った。
朝の6時ちょうど。
「[excited]藍子さん! 起きてる!?」
声のトーンで、ミナだと分かった。
藍子はドアを開けた。5センチだけ。ドアの隙間からミナが覗いている。ミントグリーンのツインテールが朝の薄明かりに揺れている。手にコンビニのホットコーヒーが二本。
「[surprised]……もしかして一晩中やってたやつ?」
「データの抽出に時間がかかりました」
「それ、寝てないって言いましたよね普通は」
ミナがコーヒーを差し出してきた。藍子は無言で受け取って、代わりにノートパソコンの画面をドア越しに向けた。
「……工場跡地?」
「旧御影紡績工場跡地です。朽木の端末がここに三度停留しています」
「行くの?」
「夜に行きます」
ミナが少し考える顔になった。
「[surprised]……昼じゃダメなの?」
「人目があると困ります」
「でも夜の廃墟の方が普通に怖くない?」
「人間より幽霊の方が対処しやすいです」
ミナが数秒、その答えを処理するような表情になった。それから「……藍子さんの怖いの基準、どこかズレてるよね」と小声でつぶやいて、ドアを押し開けようとした。
藍子は3センチだけドアを広げた。
ミナが「え、まだ入れてくれないの?」という顔をしたが、藍子はコーヒーを飲みながら画面を向け直した。
「三分で説明します。GPSキャッシュのアクセスログと座標の相関を——」
「[gentle]入りながらで大丈夫だよ」
「ドア越しの方が集中できます」
「……そっか」
ミナは引かなかった。ドア前の廊下に立ったまま、コーヒーを飲みながら藍子の説明を聞いた。GPSの停留点。建物の構造。空白期間との一致。三分で終わった。
「[serious]半分くらいしか分からなかったけど」
「どのあたりが」
「APIとキャッシュのとこ全部。でも行くよ、夜に」
即答だった。
(判断が速い)
藍子はそれを推理の変数として処理しようとして——うまくいかなかった。ミナの「行く」という一言が、推理ボードのどのカテゴリにも収まらなかった。
コーヒーが温かかった。
*
深夜23時。
旧御影紡績工場跡地のフェンスは、北側の角が土台ごと朽ちて、人一人が通れる隙間が開いていた。藍子は先週の時点でGoogleの衛星写真と過去の不法侵入報告から侵入経路を三つ割り出していた。
一番目立たない北角から入る。
「[scared]……ここ、普通に入れるんだ」
「フェンスの老朽化で。月に二、三件の不法侵入が報告されています」
「なんかそれ聞いて余計こわい」
内部は思ったより暗かった。建屋の鉄骨が空を遮って、街灯の光が届かない。ミナがスマートフォンのライトを最大輝度にしようとした瞬間、藍子が手を伸ばして輝度スライダーを下げた。
「[serious]光が目立ちます。これくらいで」
「……藍子さんの指示、細かすぎてかえって怖い」
「怖い方が慎重になれます」
ミナが小声で「それはそう」とつぶやいて、藍子の一歩後ろについてきた。
第二棟。GPSログの停留点に最も近い建物。入口の鉄扉には内側から南京錠がかかっている。藍子は建物の外を一周した。東側、かつて外壁だった部分が崩落して、コンクリートの瓦礫が積み重なっている。その隙間から中に入れる。
「[surprised]廃墟ナビ始まった……」
「始めていません」
「えっ始まってるでしょ今絶対」
瓦礫を越えて、事務所跡に入った。
デスクの残骸。倒れた棚。床に散らばった紙の欠片——全部、18年前のものだ。旧御影紡績株式会社が倒産したときに置き去りにされた時間。その中に、一箇所だけ、時間から切り離されたような場所があった。
段ボール箱が三つ。デスクの残骸の奥、壁際に積まれている。
南京錠。新しい。ほかの全てが錆びて腐食している中、この錠前だけが鈍く光っている。
(定期的に来ていた。管理していた。間違いない)
「[serious]錠前、どうするの」
「壊しません」
「壊さないで開けるの?」
「開けません。底から入ります」
ミナが「え?」という顔をした。藍子はしゃがんで、段ボールの底面を懐中電灯で照らした。床に擦れた跡がある。引きずった方向——箱を動かした向きが分かる。そこから逆算して、箱の底が手前側に来るよう引き出すと、ガムテープが貼られた底面が見えた。
「ガムテープを剥がして底から開けます。蓋の南京錠は意味をなしません」
ミナが数秒、絶句した。
「[laughing]……天才すぎて悔しい」
「手伝ってください」
二人で箱を慎重に引き出して、底のガムテープを剥がした。
中身が見えた。
*
A4の書類の束。インデックスがつけられたファイル。手書きの相関図。
藍子はライトで照らしながら、高速で読み進めた。
「翠嶺市都市計画課・内部稟議書」「御影紡績株式会社・追加融資申請に関する審査経緯」「融資関係者一覧(非公開)」——
18年前。御影紡績の倒産。不正融資の疑惑は「捜査途中で打ち切られた」と世界観の情報には書いてある。でもここに、その打ち切られた先の話が全部ある。稟議書の写し。承認印。決裁ルートに並ぶ名前たち。
手書きの相関図に目が止まった。
図の中に七つのマークがある。それぞれに名前と住所。藍子は脳内で七件の被害者リストと照合した。
一致。
四件——いや、五件。七件のうち五件の被害者の名前が、この相関図の中にある。全員が、18年前の不正融資に関わった「融資関係者」として記録されている。
(口封じだ。融資の不正を知っていた人間を、順番に消していった)
思考が一本の線で繋がった瞬間、廃墟の入口から足音が聞こえた。
ミナの肩が跳ねた。藍子は動かなかった。
足音は一人分。迷いがない歩き方。この建物の構造を知っている人間の歩き方。
懐中電灯の光が、瓦礫の隙間から差し込んだ。
「……来ると思っていました」
朽木隆之が立っていた。
いつもフレッシュライン御影町ステーションの奥のデスクで見る顔——温厚な笑顔、銀髪に近い薄い白金色の髪——でも今夜は笑っていなかった。ただ静かに、二人を見ている冷静な青い目があった。
ミナが小さく肩を縮めた。怒鳴られると思っているのが分かった。
「[serious]キャッシュデータを抜かれたことは、管理者として検知できます。あなたが動いたことは分かっていました」
藍子は段ボールの前に立ったまま、朽木を見た。
「[serious]読み終わりましたか」
「……五件、一致しています」
朽木は懐中電灯を床に置いて、段ボールの前の床に腰を下ろした。背中を壁に預けて、静かに息をついた。
「[serious]三年前に、市役所を辞めた理由から話します」
*
朽木の話は長くなかった。必要なことだけを、順番に話した。
都市計画課で不正融資の疑惑に気づいたのは、書類整理の中でルートの矛盾を見つけたのがきっかけだった。上司に報告した。報告した翌月、逆に自分が調査対象になった。退職を促された。「一身上の都合」という書き方で処理された。
証拠文書を破棄される前に、全部コピーした。それを、ここに隠した。
御影町を離れなかったのは、証拠を守り続けるためだった。フレッシュラインへの転職は、それ以外に理由がなかった。告発できる窓口を探し続けているうちに、半年前から被害者が出始めた。
「[serious]口封じだと気づいたのは、三件目が出た時です。配達記録を見て、被害者が全員フレッシュラインのユーザーだと分かった。でも、それをあなたたちに全部話せなかった」
「なぜ」
「[serious]あなたたちを危険にさらしたくなかった。脅迫状が来ていることも、知っていました」
ミナが「……知ってたんですか」と小さな声で言った。
「[serious]差出人側が動いた痕跡がデータに出ていました。でも止める手段がなかった」
藍子は朽木の話を聞きながら、脅迫状の差出人について考えていた。
(朽木は証拠を守ろうとしていた。脅迫状は藍子たちの接近を恐れた側から来たものだ。朽木が出す理由がない。朽木が出したなら、こうして自分から廃墟に来て話す必要がない)
推理が、一箇所に収束した。
「真犯人は704号室の被害者の関係者ですか」
朽木が少し目を細めた。
「[serious]……よく分かりましたね」
「相関図の中で、704号室の被害者だけが融資実行者として記載されています。他の被害者は知っていた側。実行者を消せば、不正の全体像が分からなくなる。でも実行者本人には共犯者がいた」
「[serious]その共犯者の氏名と現住所が、いちばん下のファイルにあります」
藍子はファイルを引き出した。名前と住所。翠嶺市内。御影町から2キロほど離れた場所。
「[serious]三年間、これを出せる場所を探していました」
藍子はスマートフォンを取り出した。
*
瀬尾への連絡は短かった。
名前。住所。朽木の証言と資料の内容。箇条書きで送った。
瀬尾からの返信は四分後に来た。
「令状申請する。資料の原本を確保できるか」
「朽木さんが持参します」
「……了解」
それだけだった。瀬尾らしかった。
一時間後、朽木のスマートフォンに連絡が入った。翠嶺警察署刑事課から。令状が発行された。
「[excited]やった!!」
ミナの声が廃墟の天井に響いた。錆びた鉄骨が、遠く反響する。
藍子は壁に背を預けたまま、動かなかった。
(五件、一致した。でも七件だ)
解決した。でも七件全員は救えなかった。その事実が、達成感と同じ重さで、胸の真ん中あたりにある。処理できない、とも違う——ただ、そこにある。
「[gentle]あなたが来なければ、私は告発できないまま終わっていたと思います」
藍子は少し考えてから、答えた。
「私は七件には間に合いませんでした」
「[gentle]……間に合った部分があります」
藍子は答えなかった。朽木も押さなかった。
ミナが二人の間の空気を読んで、静かになった。
廃墟の天井に穴が開いている。崩落した鉄板の隙間から、夜空が見えた。星が出ている。御影町のかげろう通りからはほとんど見えない星が、ここからは見える。18年間、誰にも見られずにいた天井の穴から。
三人が順番に、その穴を見上げた。
誰も何も言わなかった。でも沈黙が重くなかった。廃墟の底で、三人分の呼吸が静かに混ざっていた。
*
翌夜、かげろう通りに出た。
藍子は自転車を押しながら歩いていた。配達バッグを背負って、フレッシュラインのアプリを開いた状態で。ミナが隣を徒歩で歩いている。いつもの配達の始まり方と同じだった。でも昨夜の廃墟を通り過ぎてきた二人というのが、同じ風景を少し違って見せている。
かげろう通りのアーケードが頭上を覆う。老朽化した屋根の隙間から、夜の空気が降りてくる。三船トシ子の食事処おかめの看板に灯りがついている。
ミナが藍子の自転車の速度に合わせて歩いている。
(速度が落ちている)
藍子は気づいていた。自分の自転車のペースが、いつもより遅いことを。特に意識していないのに、そうなっている。
「[gentle]また一緒に配達しようね」
何気ない口調だった。でも何気ないふりをしていることくらい、観察力があれば分かった。
藍子は一拍置いた。
「はい」
声に出た。
ミナの足が数歩分、止まった。
「……今、はいって言った?」
「[serious]言いました」
「……」
ミナがまた歩き出した。でもその数歩の沈黙は、驚きとも嬉しさとも取れる種類の沈黙だった。
(言葉で肯定したのは初めてだったかもしれない)
藍子はそれを認識して、少し速度を戻した。ミナが合わせてくる。二人のリズムが、かげろう通りの石畳の上で揃った。
*
コーポ御影に戻ったのは日付が変わる前だった。
藍子は自転車を駐輪して、一階のポストに鍵を差し込んだ。昨日も今日も、同じ動作。同じ廊下。同じポスト。
封筒が入っていた。
白い封筒。薄い。差出人欄、空白。
(また)
封を開けた。A4用紙が一枚。プリントアウトされた文字列——七件の被害者の名前が全員分、縦に並んでいる。そしてその下に、一行だけ。
「これで全部だと思うな——」
藍子は封筒を持ったまま、廊下の窓から外を見た。かげろう通りの街灯が橙色に点っている。フレッシュラインの配達バッグが遠くの路地を曲がっていく。さっきまで自分がいた通りだ。
部屋に戻った。推理ボードの前に立った。七件の被害者の名前が並んでいる。真犯人は逮捕された。でも七件全員の動機の全容は——不正融資ネットワークの規模は——まだ誰も把握していない。
藍子は封筒を推理ボードの中央に貼った。画鋲を一本、確実に。
これまでの赤い線を、全部見渡した。
「これで全部だと思うな」
新しいペンを手に取った。窓の外に、かげろう通りの注文灯が点る。