引きこもり配達員の推理録―小さな町の事件簿
雨宮愛子は大学院生でありながら、卓越した推理力を持つ一方で、重度の社交不安障害に悩まされ、自室に引きこもりがちで大学にもほとんど通えない。彼女の唯一のつながりは、匿名性を保てる『フレッシュライン』アプリを使った深夜のフードデリバリーの仕事だった。
そんなある日、配達先で客が謎の死を遂げる事件が起こる。警察も頭を抱える不可解な出来事に、愛子はいやいやながらも巻き込まれていく。明るく前向きな新人配達員・猫田美奈とチームを組むことを余儀なくされ、興味がないと拒みながらも、現場の矛盾を見抜き、不注意なミスを見逃さず、犯人へとつながる糸を紡ぎ出していく。
美奈の好意や警察からの協力要請、そして小さな町を巻き込む不気味な連鎖事件――すべてが、引きこもりの天才がこの町を守りたいと願っている証拠だった。引きこもりの天才と明るい配達員という異色のコンビが力を合わせ、町の謎を解き明かし始める。しかし、その犯罪の真の姿はまだ隠されており、誰も予想しなかった混沌の黒幕の存在をほのめかしていた。
――『引きこもり配達員の推理録―小さな町の事件簿』
引きこもり配達員の推理録―小さな町の事件簿 - エリアマネージャーの笑顔——あるいは、空白は嘘をつかない
朝の十時。御影町は眠たそうな顔をしていた。
かげろう通りのアーケードを自転車で抜けながら、藍子は昨夜の推理ボードの前の時間を引きずっていた。三日間の配達ログ。唐揚げ弁当。三船トシ子の証言。積み上げたメモがぐるぐると頭の中で回転している。
(次に確認すべきは、フレッシュラインの詳細な配達履歴——が、権限がない)
その思考の回転を断ち切ったのは、スマートフォンの通知音だった。フレッシュラインのアプリ内チャット。送り主は「ねこたみな☆」。
「雨宮さん!!今月の定例ミーティング、出席登録しておきましたー!!」
藍子はペダルを踏む足を止めた。自転車がフラついて、路肩に寄せる。
(……出席、登録)
「今日の夜八時、ステーションのモニター使ってオンラインです!雨宮さん評価一番高いから配達員代表で絶対来てほしかったんです!!」
「無断登録はやめてください」
返信は三秒で来た。
「もうしました!!」
「……」
「あとステーションにもう席セットしてあります!!雨宮さんの席です!って書いた紙コップ置いてきました」
藍子は画面を見た。三秒間、画面を見続けた。
(紙コップ)
それが実在するというだけで、妙にリアルな重みがある。今頃ステーションのカウンターに「雨宮さんの席です!」と書かれた紙コップが放置されているのかと思うと、それを見た配達員が「誰だ」と思うのかと考えると——
「その紙コップを、消してきます」
夜八時、藍子はフレッシュライン御影町ステーション——商店街北端の元パチンコ店を改装した配達員の待機拠点——の扉を開けた。
三十平米ほどの空間に、配達バッグが並んでいる。充電ステーション。自販機。奥に朽木専用のデスクがある。
カウンターの隅に、件の紙コップがあった。「雨宮さんの席です!」とマジックで書かれている。しかも絵文字付きだ。
(これを見た人間は何人いたのか)
藍子は紙コップをそっと端に追いやって、カウンターの死角——モニターからわずかに外れる位置——に椅子を引いた。ここなら画面には映らない。声だけ聞こえる。これが藍子の計算した「参加の最小単位」だった。
ミナが横に滑り込んできた。ミントグリーンのツインテールが揺れる。黄金色の瞳がきらきらしている。
「[gentle]来てくれた!!」
「紙コップを回収に来ました」
「でも椅子引いてる!!」
「……」
モニター前には他の配達員が五、六人集まっている。みんな普通に椅子に座って画面を向いている。藍子だけカウンターの死角に半身を引いた姿勢で座っている。
「[whispers]隠れてる意味ある?」
「[serious]あります」
そのやり取りが他の配達員に聞こえたらしく、数人がくすりと笑った。藍子は表情を動かさなかった。
画面が繋がった。
モニターに映ったのは、三十代半ばの男だった。
銀髪に近い薄い白金色の髪が、きっちり短く整えられている。青い瞳。穏やかに、自然に笑っている。黒いシャツに薄いグレーのジャケット。無駄のない、落ち着いた佇まいだ。
「[gentle]みなさん、お疲れ様です。朽木です」
声は低く、温かみがある。包み込むような質感の声だ、と藍子は思った。
朽木隆之——フレッシュライン御影町エリアマネージャー。配達員の横の繋がりでよく出てくる名前は知っていたが、画面で見るのは初めてだった。
ミーティングは淡々と進んだ。今月の配達件数の集計。新しいエリアへの展開予告。深夜帯の配達報酬の割増率について。
朽木の進行は滑らかだ。淡々としているようで、配達員の不安を先回りして潰す言い回しがある。「報酬の振り込みが二日遅れる可能性があります、ご確認ください」を「少し遅れることもありますが、必ずお届けします」に変換する、そういう種類の言葉の選び方。
藍子はカウンターの死角から、その言葉の選び方を追いかけていた。
配達ミスの件数報告になった。
「[gentle]猫田さん、今月七件ですね」
ミナがびくっとする。
「[scared]……すみません!!」
「まあ、道を覚えるのに時間かかりますよね」
画面の向こうで、朽木が苦笑いした。嫌みのない笑い方だ。「僕も最初そうでしたよ」と、それだけ付け加えた。
場の空気が和らいだ。ミナの隣の配達員が「分かる」という顔をしている。
(上手い)
思ったよりも、と藍子は続けようとして、止めた。「上手い」という評価は正確ではない。上手いというのは技術への評価で、これは——
「それから業務連絡ですが」
朽木の声のトーンが少しだけ変わった。変わった、というより——整った、という方が近い。
「704号室の件、警察から配達データの提出要請がありましたが、すでに対応済みです」
藍子の思考が、一点に集中した。
(言い方が、精密すぎる)
シルフィードマンション704号室。先週、藍子が配達先で遺体を発見した部屋。警察が動いていることは知っていた。でも朽木のその一文は——警察対応という繊細な話題を、配達員が不安にならない温度で、かつ最小限の情報だけを含んで処理した一文だった。
「問題ありません」でも「詳細は控えますが」でもなく、「すでに対応済みです」。
事前に準備していた人間の言い方だ。
藍子はカウンターの縁に指先を当てた。無意識の動作だった。そのまま、椅子を数センチだけ前に動かした。モニターが視界に入る位置まで。
ミナがそれに気づいた。黄金色の瞳が、丸くなった。
何も言わなかった。ただ黙って前を向いた。
その沈黙が、藍子には伝わった。
——これ、怪しいかも。
それが二人の間でだけ成立する、言葉のない合図だった。
*
ミーティングが終わった。
配達員たちがぞろぞろと出ていく。充電ステーションで充電を確認している人間が二人。自販機に向かう人間が一人。
藍子はすぐにアプリを開いた。フレッシュラインの配達履歴。704号室周辺のユーザー、過去三十日分。データを展開しようとして——壁にぶつかった。
(アクセス権がない)
詳細な履歴ページは、エリアマネージャー権限でのみアクセスできるレイヤーに保護されている。配達員として登録している藍子のアカウントでは、自分の配達記録しか見られない。
(当然の設計だ。でも、今は邪魔)
隣でミナがスマートフォンを操作していた。アプリのチャット画面。朽木に個別メッセージを送っている。
「何を送っているんですか」
「[excited]ちょっと待って!!いい感じに送れた!!」
ミナがスマートフォンを見せた。朽木へのメッセージには、こう書かれていた。
「藍子さんが配達最適化の研究をしていて、うちのエリアのデータを参考にしたいらしいんですが……データとか見せてもらえたりしますか?」
「……」
「だめでした?」
「研究」
「言いやすかったから!」
「わたしが大学に籍だけあることを、知って言ってますか」
「え、知らなかったですそれ!!でも説得力上がるじゃないですか!!」
返信が来た。三分かかっていない。
「もちろんです。研究に使っていただけるなら嬉しいです。今すぐ送りますね」
(速い)
藍子はその返信の速度を、静かに頭の隅に置いた。考える素振りもなく、確認する間もなく、即座にOKだった。
CSVファイルが添付されていた。
藍子はステーションの外に出た。少し人が減ったタイミング。アーケードの軒下に自転車を止めて、ファイルを展開した。
列が並んでいる。日時。注文番号。配達員ID。顧客ID。ステータス。受け取り確認時刻——
藍子は縦方向にスクロールしながら、704号室の顧客IDに紐づく行を追いかけた。
見つけた。
十月二十三日。十月二十四日。十月二十五日——
空白だった。
(空白?)
列そのものがない。日付が飛んでいる。二十二日の行の次に、二十六日の行が来ている。三日間、データが存在しない。いや、正確には——
藍子はフォーマットを確認した。他の顧客IDでの空白日を探す。注文がなかった日は「注文なし」を意味するフラグが入っている。でも二十三日から二十五日の該当行には、フラグどころか行そのものがない。
(削除されたか、最初から書き出されなかったか)
死亡推定日から逆算すると——その三日間は、704号室の住人が最後に生きていた可能性が最も高い期間に重なる。
指先が、スマートフォンの画面の端に触れたままになった。
(これは選別されたデータだ)
このCSVは「藍子が見てもいいように」整えられてから送られてきた——その可能性が、ぬるりと頭の中に入ってきた。
元データを確認しなければ、空白が「注文がなかったから」なのか「消されたから」なのか、判断できない。そして元データは——朽木の管理サーバーにある。
ステーションの扉が開いて、ミナが出てきた。
「[excited]どうでした!? データ、役に立ちそうですか!」
「……空白があります」
「空白?」
「特定の三日間のデータが、ない」
ミナが画面を覗き込んだ。
「……これ、おかしいんですか」
「おかしいかどうかは、元データと照合しないとわからない。でも」
言葉が一度止まった。
「元データは、朽木さんの手元にしかない」
ミナが少し黙った。
「……朽木さんのスマートフォン、チャットまだ開いてたから、もう少し話しかけてみます!!」
止める間もなかった。ミナはもうスマートフォンを操作している。
数分後、ミナが「あ!」と声を上げた。
藍子はミナの画面を見た。朽木との雑談チャットが続いていた。ミナの無邪気な「朽木さんって前は何してたんですか?」という質問に、朽木がこう返している。
「市役所にいたんですよ。都市計画課って部署で。でもちょっとあって辞めて、こっちに来ました」
藍子はミナの手からスマートフォンをひったくるように確認した。
(都市計画課)
翠嶺市役所の都市計画課——御影紡績工場跡地の再開発計画、つまりあの十八年前から放置されている廃墟の処理を担当していた部署だ。不正融資の疑惑があって捜査が打ち切られた、あの倒産案件に関わる土地の。
「ちょっとあって」の部分に、目が止まる。
「返してください」
「はい」
スマートフォンを返した。アーケードの天井から、夜の外気が流れ込んでいる。
かげろう通りの街灯が、橙色に光っている。シャッターが下りた店の前を、猫が一匹横切っていった。
「[gentle]朽木さん、いい人だよね」
藍子は少し間を置いた。
「いい人かどうかと、関係がある人かどうかは、別のことです」
ミナが返事をしなかった。
数秒の沈黙があった。
「……もしかして」
ミナが、一拍置いてから続けた。
「それって、藍子さんが朽木さんを信じたいってこと?」
藍子の思考が、止まった。
ほんの一瞬だった。でも確かに止まった。
(わたしが、信じたいかどうか——)
推理は感情から切り離された場所で行われるべきだ。藍子はずっとそう思ってきた。でも今、ミナの言葉を受けて反射的に「違う」と返せなかった自分がいた。それが何を意味するのか、すぐには名前がつけられなかった。
「……今はそういう段階じゃない」
答えとしては不完全だと、言いながら気づいた。
ミナはそれ以上追わなかった。
*
コーポ御影に戻った藍子は、ジャケットを椅子に掛けて、推理ボードの前に立った。
空白データのスクリーンショットをプリントアウトして、ボードに貼った。赤いシールの隣。三船トシ子の証言メモの下。
「朽木隆之→翠嶺市役所都市計画課→退職理由不明→フレッシュライン転職」
新しいメモ用紙にボールペンで書いて、貼った。
データの空白と、経歴の空白。二つの「ない」が、並んだ。
次のステップは——空白の三日間の元データを入手すること。でも元データは朽木の管理サーバーにある。つまり再度、朽木に接触するか、別の経路を探すか。
藍子はその二択を書いた。横に小さく「?」を書き加えた。
スマートフォンが振動した。ミナからのチャットだった。
「今日の藍子さん、最初は紙コップのためにステーション来たくせにちゃんとミーティング見てたじゃん。ちょっとだけ普通の人みたいだったよ」
藍子はその文面を読んだ。「普通の人」の定義を問い返そうとした。下書きを打って、消した。
代わりに、こう送った。
「今日のデータの件、ありがとう」
スマートフォンを机に置こうとして——置かなかった。手のひらの上に、持ったままにした。
三秒後、返信が来た。
「!!!!!」
感嘆符だけが五つ並んでいた。
藍子は表情を動かさなかった。でも通知を閉じないまま、推理ボードを見ていた。スマートフォンを手のひらに乗せたまま。
ボードの中央に、今夜追加した二つのメモが並んでいる。
空白データ。都市計画課。
(調べる側が、調べられているかもしれない)
その可能性が、今夜初めてリアルな重さを持った。今まで藍子が調べてきたものは、数字だった。配達ログ、時刻、習慣のパターン。でも情報源そのものが操作されうるなら——推理の足場が、揺れている。
それは藍子にとって、不快な感覚だった。不快というより、新しい種類の緊張感。ルールが変わった、という感覚。
御影町の夜が深くなっていく。かげろう通りの街灯が、窓から遠く見える。フレッシュラインの配達通知が、街のどこかで今夜も鳴っているはずだった。
元データへの迂回路を、探さなければならない。