負債スレイヤー
竜王「グランドスケール」を討ち倒した英雄レオン・クロフォードは、都中で称賛されていた。しかし、その栄光の裏には圧倒的な現実があった――巨額の負債である。装備費、遠征費、宿泊費、ポーション代――冒険者の生活は、実質的に終わりなき大規模な資金調達活動だった。
勝利のパレードで紙吹雪が舞う中、レオンは裏路地で「鉄の爪」商人ギルドの取り立て屋ゴードに追い詰められる。伝説の剣が差し押さえられそうになっていた。絶体絶命のその時、謎めいた美貌の「星読みの魔女」セレス・ヴェラが現れる。彼女は負債を帳消しにする代わりに、北の辺境にある「笑わぬ領主」の屋敷に囚われた少女を救出する任務を持ちかける。
こうして、偽りの英雄と謎の魔女によるとんでもない救出作戦が始まる。屋敷の警備は厳重だが、レオンの英雄ブランドとセレスの狡猾な策略、そして彼らの滑稽に噛み合わないチームワークが次々と予期せぬトラブルを巻き起こす。英雄の真の戦いは、竜ではなく、はるかに恐ろしい敵――債権者たちとの戦いだった。果たして彼は負債を返済できるのか、それとも借金はさらに膨れ上がるのか?
負債スレイヤー - 英雄、裏路地で泣く――あるいは借金2400枚の哀歌
「英雄万歳——!」
花吹雪が空を染めた。
白と金の紙片が舞い降りる。凱旋大路——ファルクレストの中央を貫く幅二十メートルの石畳の大通り——は、今日ばかりは人の波で溢れかえっていた。三ヶ月前に竜王グランド・スケイルを討伐した英雄を讃えるパレードである。行進する楽隊、高らかに翻る旗、沿道で歓声を上げる市民たち。その昂揚と熱気は、四十年にわたって大陸を苦しめてきた竜禍の時代がついに終わったのだという、実感のこもった喜びだった。
そして、その英雄は今。
裏路地のゴミ箱の陰にしゃがみ込んでいた。
「……待って待って。これと、これと……」
レオン・クロウフォード、二十三歳。黒い短髪は少しクセがあって、今は冷や汗で額に張りつきかけている。深い茶色の瞳が、手元の紙束を必死に追う。細い眉がV字に折れ曲がり、柔和な表情は完全に崩壊していた。身長は百七十センチ、白いシャツに黒のスラックス、革製のブーツというごく普通の格好。左手の甲に薄い刀傷の痕がある。スレンダーで程よく筋肉のついた体型は、確かに剣士のそれだ。が、今この瞬間、彼から英雄らしさの欠片は見当たらない。
手の中にあるのは、督促状の束だった。
封をすでに開けてある。一枚、また一枚と確認するたびに、同じ文字列が目に飛び込んでくる。
〈鉄の爪商会——王都ファルクレストの下市、黒銅館を拠点とする金融業者——より ご請求金額:金貨二千四百枚〉
「……二千四百に……利息が……」
暗算しようとする。失敗する。また試みる。また失敗する。三度目も失敗した。四度目、ようやく正しい合計が弾き出された。
「やっぱり死んでる」
彼は静かに呟いた。表通りからまた歓声が響く。英雄万歳の声が石畳を伝わって、ゴミ箱の陰まで届いてくる。レオンはさらにゴミ箱の奥へと身を沈め、花吹雪が路地の入口に舞い込んでくるのを見つめた。
——鉄の爪商会。年利四十八パーセント——法外な数字だが、融資審査が極めて緩く、他の誰も金を貸してくれない冒険者や零細商人の駆け込み寺として繁盛しているという。竜禍の時代に資金難の商人たちが雪崩れ込んだのが始まりで、今や構成員九十名の立派な……立派かどうかはともかく、合法的な金融組織だ。衛兵にも定期的に「寄付」をしているから、誰も文句を言えない。
そしてレオンは、その商会に金貨二千四百枚の借金があった。遠征前後に積み重ねた諸々の出費が、借金という形で今ここに結実していた。
「英雄万歳!」
歓声。
レオンはゴミ箱にさらに深く頭を突っ込んだ。
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督促状の束には、ご丁寧に内訳の附紙がついていた。
レオンはそれを一枚ずつ読んでいった。走馬灯というのは死ぬ前に見るものらしいが、彼は生きたままそれを見せられた。
附紙の一枚目。〈竜の息吹防御ポーション(特製)×一本。金貨五十枚〉。
「あ……ああ、これは」
遠征の前日だった。市場の露店に立っていた売り子の女性が、にっこりと微笑んだのだ。『英雄様にはこれがお似合いです』と。そう言われた瞬間、手が勝手に財布を開いていた。
竜の息吹防御ポーション。竜のブレス攻撃に対する耐熱・耐衝撃効果を付与する薬品で、通常品なら金貨五枚。「特製」と称される高級品は金貨五十枚。効果は通常品の……一・三倍。
「差額で通常品が……三十八本……」
計算した瞬間、膝を抱えた。ゴミ箱の陰で、英雄が膝を抱えた。
附紙の二枚目。〈宿屋最上級スイート連泊費。金貨三百四十枚〉。
遠征の各地で、宿に泊まるたびに女将や受付の女性が涙目でこう言うのだ。「英雄様がこのお部屋を使ってくださらないと、うちは廃業ですよ」と。そのたびに最上級スイートを即決してきた。後から調べたら、そのうちの何人かは毎年同じ台詞で旅人を釣る常習犯だったことが判明した。
レオンはゆっくりと、石壁に頭を打ち付けた。ゴン。ゴン。ゴン。
附紙の三枚目。〈パーティー解散慰労会。金貨二百枚〉。
パーティーの女性メンバーが微笑みながら言ったのだ。「最後くらい、贅沢したいよね?」と。その微笑みを見た瞬間、料理長を呼んでいた。
「女性の笑顔の前では……思考が止まる……」
レオンは自分の体質を言語化した。静かな諦念だった。「これは病気だ。病気なんだ。俺は悪くない」と呟いてみたが、自分でも全く説得力がないのは分かっていた。
「英雄万歳——!」
また歓声。レオンはゴミ箱の蓋を少し開けて、中を覗いた。入れるかどうか本気で考えた。やめた。さすがに英雄がゴミ箱に入ったら洒落にならない。
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しばらくして、レオンは腰に提げた剣に手を伸ばした。
竜殺し——グランド・スケイル討伐に使った長剣。鞘から数センチだけ引き抜くと、刀身が白銀に近い輝きを放った。全大陸にその名が知れたこの剣を、紅旗冒険者連盟——大陸最大の冒険者管理組織で、登録冒険者八千名を抱える——では、最上位の白金級を証明するものとしても扱っている。
「お前を質に入れれば……六百枚くらいには……いや、でも」
剣を手放したら白金級冒険者としての仕事が受けられなくなる。仕事がなければ返済できない。返済できなければ年利四十八パーセントで利息が膨らむ。膨らんだ利息を返すために仕事が必要で——。
「紙に書き出そう」
呟いて、ポケットを探った。紙がない。財布は空だ。そういえば羊皮紙は全部使い果たした。
督促状の裏が白紙なのに気づいた。ペンを取り出す。さあ計算しようと書き始めたところで、督促状の表に印刷された請求金額の数字と視線が合った。
ペンが滑り落ちた。
「竜王は倒せたのに……」
レオンは呟いた。石壁にもたれて、空を見上げた。「なんで請求書一枚に負けてるんだ、俺は」と。
その声には、笑えない何かがあった。ギャグと悲哀がちょうど半分ずつ。どちらとも言えない、宙ぶらりんの情緒だった。
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「あ!英雄様だ!本物だ!」
途方に暮れて、裏路地から大通りへ恐る恐る顔を出した瞬間だった。
一声。それだけで十分だった。
たちまち三十人の市民が群がった。
「えっ、あ、でも俺今ちょっと——」
逃げようとしたが、すでに両腕を複数人に掴まれている。花吹雪の中、英雄の顔が露わになって、歓声がさらに大きくなる。
「サインをください!」
「剣を見せてください!」
「英雄様はどこから来たんですか!」
「紙!紙をください!」
「あ……」
咄嗟に、手にしていた紙を差し出してしまった。督促状だった。
市民がサインを書いてもらおうと紙を見た。そしてそこに印刷された数字に目を止めた。
「なんて書いてあるんですか、この上の数字」
「気にしないでください!見ないでください!見ないでください!!」
レオンは必死に懇願しながら、督促状の裏にサインを書き続けた。英雄の威厳はゼロだった。筆跡も微妙に震えていた。二枚目。三枚目。全額の請求書の裏に、次々と「Léon Crawford」の文字が増えていく。
「英雄様」
ふと、七歳くらいの子どもが声をかけてきた。
「顔が泣いてるみたいだよ」
レオンはサインを書く手を止めた。その子どもの目をまっすぐ見つめた。
「大人は時々こういう顔になるんだ」
それは紛れもない真実だった。子どもが「ふうん」と言って親の元へ戻っていく。その背中を見送りながら、レオンは四枚目のサインを書いた。
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どうにか市民たちを振り切って、また裏路地に転がり込んだ。
しばらく石壁にもたれたまま動けなかった。遠くで楽隊の演奏が続いている。パレードはまだ続いているのだ。英雄のいないパレードが、英雄万歳の声とともに。
深呼吸をひとつ。
どこからか、一枚の紙が風に乗って飛んできた。
レオンの顔面に、ペタリと貼りついた。
「……また督促状か」
絶望しかけながら、とりあえず剥がした。手触りが違った。妙に質のいい羊皮紙だ。督促状とは明らかに異なる。首を傾げながら、文字を読んだ。
達筆な文字で、一文だけ記されていた。
〈借金全額帳消し。条件:北の辺境伯爵領——王都から馬で十日ほどを要する、大陸最北端の山岳地帯に広がる僻遠の地——にて少女を救出せよ。詳細は星読みの魔女——天体と運命を読む術を持つとされる、その地に伝わる特殊な占術師——に問え〉
差出人の名前はない。封蝋に押された紋章は、見たことのない意匠だった——星と三日月を組み合わせた、複雑な模様。
レオンはその文を読んだ。もう一度読んだ。三度目に読んだ。
四度目に、頭の中で数字がカウントされた。
金貨、二千四百枚。
レオンは立ち上がった。
「怪しい。絶対怪しい」
独り言を言いながら、右手で督促状の束を胸ポケットにねじ込んだ。くしゃくしゃのまま。そして左手で羊皮紙を、慎重に、丁寧に、大切そうに握りしめた。
そのまま路地を出た。
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凱旋大路の石畳に踏み出すと、花吹雪が降り注いだ。
白と金の紙片が頬に当たる。楽隊の音楽が鼓膜を震わせる。英雄万歳の声が四方から降ってくる。レオンはそれを全部無視して、下市の方向へ向かって走り出した。
星読みの魔女、という言葉だけが頭にある。
走りながら羊皮紙を広げて読む。また走る。また読む。封蝋の星と三日月の紋章を親指でなぞる。また走る。
ちょうど十字路で、山車が目の前を通過した。でかい。通れない。行列が邪魔で完全に足止めを食らった。
山車の上から、鎧姿の使者が大声で呼びかけてきた。
「英雄レオン・クロウフォード卿!本日は何故パレードに御参加なさらないのですか!」
レオンは立ち止まらざるを得ず、山車を見上げた。
「ちょっと急ぎの用件がありまして!」
「なんと!英雄様は既に次の冒険へ!なんと志の高い!」
使者が感涙しながら叫んだ。それを聞いた沿道の市民が、一斉に動揺した。感動の声が上がる。泣き崩れる老人。拳を振り上げる若者。「英雄様は休む間もない!」「さすが竜王を倒した男だ!」
レオンは何も言わなかった。ただその隙に、人混みの薄くなった隙間を見つけて、すり抜けた。
走りながら、振り返らなかった。
背後で英雄称賛の歓声が高まっていく。その声の大きさと反比例するように、胸ポケットの督促状がぐしゃりと音を立てた。
羊皮紙を、また少し強く握りしめた。
「北の辺境伯爵領……星読みの魔女……」
足は止まらない。花吹雪が背中に降り積もっていく。
こうして、借金二千四百枚を抱えた英雄の、新しい戦いが始まった。