負債スレイヤー
竜王「グランドスケール」を討ち倒した英雄レオン・クロフォードは、都中で称賛されていた。しかし、その栄光の裏には圧倒的な現実があった――巨額の負債である。装備費、遠征費、宿泊費、ポーション代――冒険者の生活は、実質的に終わりなき大規模な資金調達活動だった。
勝利のパレードで紙吹雪が舞う中、レオンは裏路地で「鉄の爪」商人ギルドの取り立て屋ゴードに追い詰められる。伝説の剣が差し押さえられそうになっていた。絶体絶命のその時、謎めいた美貌の「星読みの魔女」セレス・ヴェラが現れる。彼女は負債を帳消しにする代わりに、北の辺境にある「笑わぬ領主」の屋敷に囚われた少女を救出する任務を持ちかける。
こうして、偽りの英雄と謎の魔女によるとんでもない救出作戦が始まる。屋敷の警備は厳重だが、レオンの英雄ブランドとセレスの狡猾な策略、そして彼らの滑稽に噛み合わないチームワークが次々と予期せぬトラブルを巻き起こす。英雄の真の戦いは、竜ではなく、はるかに恐ろしい敵――債権者たちとの戦いだった。果たして彼は負債を返済できるのか、それとも借金はさらに膨れ上がるのか?
負債スレイヤー - 追跡者と珍道中――あるいは借金は旅費とともに空へ舞う
「覚悟しておくこと」の二文字が、まだ目の裏に焼き付いていた。
レオン・クロウフォードは宿の窓から夜明け前のファルクレストを眺めながら、セレスの覚書を五回読み返したことを思い出した。「覚悟」「覚悟」「覚悟」「覚悟」「覚悟」——読めば読むほど不吉な予感が育ち、壁を二回叩いて隣室の客に怒鳴られ、そのまま朝まで眠れなかった。
結局、第三段階の訓練は行われなかった。
昨夜届いた新しい覚書には一行だけ追記があった。達筆で、簡潔で、レオンの胃袋をえぐるような一文。「明朝四時、旅鴉の巣の裏口。荷物は最小限。目的地変更につき訓練は道中で実施。——S」
(目的地変更。「道中で」。「訓練」。この三語をくっつけた人間がこの世にいるという事実が怖い)
レオンは革製の旅嚢を肩にかけて裏口の木扉を押した。
夜明け前の空気は冷たく、石畳が薄青い暗がりに沈んでいた。旅鴉の巣の裏手は小さな荷捌き場になっていて、朝市の搬入には早すぎる時間だから誰もいない——はずだった。
セレス・ヴェラが、中古の馬車の荷台にもたれて立っていた。
銀の長い髪が暗がりの中でも仄かに白く光っている。深い紺の旅装に、細いベルトで腰回りを軽く締めた出で立ち。いつもの妖艶なドレスではなく実用的な格好だが、それでも荷捌き場の薄汚れた石壁と並ぶと、別の世界から切り取ってきたような違和感がある。紫の瞳がレオンに向いた。一秒の間もなく。
「遅い」
「四時ちょうどですが」
「三分五十秒」
(そこまで測るのか、この人は)
レオンは馬車を見た。二頭立ての中古馬車で、車体の塗装が所々剥げている。幌の縫い目がほつれかけているのも気になるが、なにより——
「なんか……左に傾いてませんか、これ」
「左車輪が少し歪んでいるから」
「それ、大丈夫なんですか」
「ヴァッセン伯爵領まで持てばいい」
(持てばいい、という言い方が怖い)
セレスが当然のように先に乗り込んだ。レオンも続いて荷台に足をかけた瞬間、馬車が左へぐらりと傾く。座席の感触がすでに右側に偏っている。
「これ、ファルクレストから北へ二百八十キロですよね」
「馬車代は既に帳簿計上済み」
「帳簿に計上すると丈夫になるわけじゃないですよね!?」
セレスは答えなかった。小さな手帳を開いて、何かを書き込み始めた。
馬車が動き出した。ファルクレスト北門を抜け、王都ファルクレストを縁取る外壁の石積みが後ろに遠ざかっていく。凱旋大路——竜王討伐の後、レオンがパレードで歩かされた幅二十メートルの石畳大通り——とは逆方向の、北の農道だった。夜明けの光が丘の稜線から少しずつにじみ出して、野菜畑の露が白く光り始めている。
小一時間、二人は黙って揺れていた。
レオンは第三段階の訓練の内容を聞こうと何度か口を開きかけた。開くたびにセレスの手帳の動きを見て、閉じた。聞いても答えてくれないだろう、という確信があった。前回、路地で横顔を見た時のことが頭をよぎった。あの一瞬だけ見えた、どこか遠くを見るような表情。それがビジネスの顔なのか、それとも別の何かなのか、レオンには分からないままだった。
丘の稜線に、人影が出た。
レオンは反射的に腰の竜殺し——白銀に近い輝きを放つ、かつてグランド・スケイルの鱗を斬り裂いた長剣——の柄に手をかけた。
(野盗か)
影は確かに人型だった。だが馬も武器も持っていない。代わりに、両手に何かを抱えている。それも走りながら。北街道を、時速十何キロかで、こちらに向かって全力疾走してくる。
(……帳簿?)
「あ」
レオンは小声でつぶやいた。
「来ると思っていたわ」
セレスが手帳から目を上げずに、さらりと言った。
「なんで分かるんだ!!」
その間にも人影は近づいてくる。痩せた長身、百八十センチを超える体躯、狐のような鋭い目つきと、ニヤリとした口元。薄茶色のくせ毛が走る勢いで揺れている。両手には革表紙の帳簿と木製の算盤。息一つ、乱れていない。
ゴドーは馬車の後部ステップに飛び乗り、帽子の端を二本指でつまんで直した。
「お邪魔します」
レオンの口が開いた。開いたまま、三秒間、音が出なかった。
「走ってきたのか!?」
「ファルクレストからここまで、約十二キロです。所要時間は五十八分十七秒でした」
「なんで走ってきたんだ!! しかも息一つ乱れてない!!!!」
「元冒険者ですので」
ゴドーが帳簿を開いた。さらさら、と算盤の珠を弾く音がした。
「英雄様の現在の担保資産を計算しますと——」
「聞きたくない!!」
「竜殺しの推定売却価格が金貨約九百枚、英雄称号の換金見込みが実質ゼロ、その他の装備で計約五十枚。合計九百五十枚。借金総額が金貨二千四百枚ですので——」
「聞きたくないと言った!!」
「担保価値は借金総額の約十九パーセントです」
馬車の中に沈黙が落ちた。
「……つまり?」
「英雄様が道中で死亡した場合、回収できる資産が著しく不足します。死なれては困る。以上です」
レオンは荷台の床に向かって静かに頭を下げた。
(俺への気遣いが一ミリもない。計算の結果として「死ぬな」と言われた。俺の命の重みが全部数字で説明された)
「仕方ない、座れ」
「すでに座っています」
すでに座っていた。帳簿を膝に開いて、算盤を隣に置いて、完全に定住していた。
---
ゴドーの旅費帳簿は馬が最初の水飲み場で止まった瞬間から始まった。
「馬の飲水、銅貨〇・四枚」
「え、北街道の水場って……無料じゃないんですか」
「馬一頭あたり一日の飲水コストを距離で割り、一回分に換算すると銅貨〇・四枚になります」
「それ、換算で出した数字じゃないですか!!」
「累積コストの透明性を確保するためです」
レオンは帳簿を取り上げようとした。ゴドーの手が、すっと避けた。
「証拠物件です」
「証拠物件って何の!!」
「借金返済交渉時の根拠資料です」
レオンはもう一度取り上げようとした。ゴドーがもう一度避けた。
「証拠物件です」
「さっきと全く同じ抑揚で言うな!!!」
三往復目。ゴドーが帳簿を胸元に収めた。取り上げられない。
セレスはずっと窓の外を見ていた。ゴドーの計算が続く中、ちらりと横目で帳簿の動きを見た。暗算の速さを確認するように。算盤の弾き方を確認するように。一度、ゴドーと目が合った。ゴドーが一瞬だけ、金色の鋭い瞳でセレスを見返した。
情報屋が取立て屋を値踏みする。取立て屋が情報屋を値踏みする。
その無言の攻防は一秒も経たないうちに終わり、二人とも何事もなかったように視線をそらした。
レオンはその空気に全く気づかなかった。
「二人とも、仲良くしてくれ」
セレスとゴドーが、同時にレオンを見た。何も言わずに。
レオンは二人の視線を受けて、静かに肩をすぼめた。
---
夕刻、北街道沿いの小さな宿屋に馬車が止まった。
街道宿——ファルクレストとノルトハインの中間地点に近い、農道沿いの木造一軒宿だ。「黄昏の回廊」——深さ八十メートル、全長十五キロの峡谷地帯で、山賊の出没で悪名高い難所——の手前最後の宿として細々と営業している。
宿の主人に部屋数を聞くと、二部屋、という答えが返ってきた。
セレスが一瞬の間もなく一部屋分の宿代を支払った。
「英雄様とお連れの方で、もう一部屋をどうぞ」
「待て、「お連れの方」って」
「相部屋で」
セレスが自分の部屋に消えた。扉が閉まった。
レオンとゴドーは廊下に二人で立った。
「……仕方ないですね」
「仕方ないけど何か言ってくれ」
部屋は狭かった。二段ベッドが一つ、小さな卓があるだけだ。ゴドーが下段を使うと言ったので、レオンが上段に転がった。
蝋燭の灯りが揺れている。ゴドーが帳簿を卓に広げ、本日の支出を清書し始めた。羽根ペンが走る音が、静かな部屋に規則正しく響く。
レオンは枕を顔に乗せた。
「ゴドーさん」
「何でしょう」
「今日の帳簿、何項目ありますか」
「現時点で二十三項目です。向かい風の影響で馬の歩速が時速〇・三キロ低下したことによる時間損失コストも換算しましたので」
枕の下でレオンが何かを言った。聞き取れなかった。
「え?」
「……なんでもない」
「今日の累積借金の現在総額を読み上げましょうか。利子込みで」
「やめてください」
「金貨二千四百五十一枚と銀貨三枚です。旅費加算分を含むと」
枕がレオンの顔に押し付けられる力が強くなった。
---
壁を隔てた隣室で、セレスは窓辺に立っていた。
ファルクレストから北へ百キロ以上。空が、都の明かりから解放されて黒く深い。星の数が違う。密度が違う。
セレスは細い手帳を開いて、何かを書き込んだ。星の位置、傾き、光の色。手帳の端に小さな記号が並んでいく。星読み——天体の運行から未来の「傾向」を読み取る占術——の技術がこういう形で動いているのを、レオンは見たことがないだろう、とセレスは思った。計算されたパフォーマンスでも、依頼主向けの演出でもない、ただの作業だった。
廊下で足音がした。ゴドーが厠に向かう音だ。
朝、出発前の廊下でゴドーがセレスに声をかけてきた時のことを思い返した。「星読みの技術で、依頼主の情報も読めるものでしょうか」——探りを入れるにしては直球すぎる質問だった。だからこそ、何かを測っていると分かった。
セレスは一秒の間を置いた。「読めることと話すことは別の問題よ」と答えた。
ゴドーが帳簿に何かを書き込んだ。それだけだった。
(何を書いた)
手帳の背表紙に視線を落とした。細い金の刺繍で入った紋章。ゴドーが昨朝の廊下で、一瞬だけそれを目にして眉をわずかに動かした。あの反応を、セレスは逃さなかった。鉄の爪商会の取立て屋が、なぜあの紋章に反応したのか。
(興味深い)
セレスは手帳を閉じた。星空に目を戻した。明日のヴァッセン伯爵領付近の天気を読んでいた。晴れ。乾いた風。峡谷越えには悪くない。
---
翌昼、黄昏の回廊に入った。
深さ八十メートル、全長十五キロ——峡谷の壁が両側から迫り、空が細い帯になって頭上を流れていく。石の壁が影を作って、昼でも半分は暗がりの街道だった。北街道のこの区間は護衛なしには危険とされており、商隊はたいてい護衛を雇うか、二日余計にかかる迂回路を選ぶ。
セレスが山賊への対処を手短に整理した。
「黄昏の回廊で動く山賊集団は主に二種類。知っているところは挑まない。知らないところは返り討ち。問題なし」
「合理的ですね」
ゴドーが初めてセレスへの評価の言葉を出した。皮肉でもなく、当たり障りなくもなく、ただ純粋に合理的だと思ったから言った、という口調だった。
セレスが少しだけ眉を上げた。その変化に気づいたのは、車内でレオン一人だった。
(あ、なんか、ちょっと変わった)
レオンは何も言わなかった。二人が互いを認め始めた、その微妙な空気の変化を、うまく言葉にできなかった。
ドンッ!!!!
馬車全体が左に大きく傾いた。
「うわっ」
馬が止まった。御者——旅装の年配の行商人で、道連れになった好意で手綱を引いてくれていた——が外から声を上げた。
「車輪が轍に嵌まった!!」
全員が外に出た。左前の車輪が、雨水で深くなった轍にめり込んで、ほぼ横を向いている。最初から歪んでいた車輪が、峡谷の石畳の細かい振動でついに限界を迎えたらしかった。
(山賊じゃなくて馬車が壊れた!!)
峡谷の壁が両側から迫る中、馬車は完全に動けなくなった。
レオンとゴドーが後部を押した。セレスが手綱を引いた。
力仕事をするには場所が悪い。峡谷の中ほどで、片側は石壁、もう片側は断崖だ。押す足場も取れない。十分、二十分が過ぎた。馬車は動かない。
レオンの肩にセレスの肩が当たった。
狭い峡谷の中で手綱を引くセレスと馬車を押すレオンの距離は、肩が触れる程度しか離れていない。石畳を踏む靴底の感触、押し返してくる馬車の重量、それに並走するようにあるセレスの体温。白檀の香水が、峡谷の石の匂いの中でも確かに届く。
レオンは前を向いたまま、それを意識しないようにした。今は馬車を押す、それだけだ。
三十分後、ゴドーが帳簿を取り出した。
「車輪修理費の見積もりを——」
レオンが帳簿を取り上げた。
「証拠物件です」
レオンが奪い返された。
「証拠物件です」
四往復目。同じ抑揚。まったく同じ。
「またその言葉かーーーっ!!!!」
峡谷に声が反響した。崖の壁を跳ね回り、こだまが三回、同じ怒声を繰り返した。
「またその言葉か」「またその言葉か」「またその言葉か」
レオン本人が呆然とこだまを聞いた。
ゴドーが帳簿を開いた。
「峡谷における不要な音響損失コスト——」
レオンが天を仰いだ。峡谷の細い空が、遠く頭上にあった。
行商人が笑いをこらえながら石を車輪の下に噛ませた。全員で力を合わせて三度目の試みで馬車が轍から抜けた。ガコンッ、という鈍い音とともに車体が水平に戻る。
「よしっ!」
峡谷を抜けたのは夕暮れ時だった。
---
行商人が野営地として使っている開けた場所に焚き火が灯った。
ゴドーが即座に食料在庫の確認と一人当たりの配分計算を始めた。レオンが薪集めに行った。行商人が鍋を取り出した。
セレスは馬車の脇の岩に腰かけて、夜空を見上げていた。
薪を抱えて戻ったレオンが焚き火に数本くべた。炎が橙色に大きくなった。それから特に理由もなく、セレスの隣の岩に腰を下ろした。
しばらく、二人とも黙っていた。
セレスが、指で天頂の一点を示した。
「あの星の列が、明日の天気を示している。乾いた西風が入る。ヴァッセン伯爵領は晴れるはずよ」
小声だった。
レオンは、その声の種類が、これまで聞いたどのセレスの声とも違うことに気づいた。占いの館でのたっぷりとした囁きでも、訓練中に使っていた甘く計算された低音でも、ない。もっと静かで、もっと速度が遅い。自分のために話しているような声だった。
「星読みって、こういうふうにやるんですか」
「星の位置と光の色で、大気の状態が分かる。正確には「傾向」だけど」
「傾向」
「確率よ。六割程度の精度。残りは現場で判断する」
セレスが淡々と答えた。セールストークではなかった。自分の技術を正確に説明している声だった。
焚き火の橙色の光が、セレスの横顔を照らしていた。銀の髪が炎の色を吸って、金と白の境界を揺れている。目元の影が柔らかく動いた。
レオンは星を見ていた。
しばらくして、星から横顔へ視線が移った。
二秒。三秒。
前回、細い路地でセレスの横顔を見た時、視線が二秒十七で逸れた。今は逸れない。
セレスが気づいた。頭をわずかに動かして、レオンを見た。
焚き火の橙の中で、目が合った。
互いの吐息が夜気に白く溶けた。それほどの距離だった。石の上に並んで腰かけた二人の間に、峡谷三十分分の疲労と汗ばんだ体温が残っていた。セレスの唇が少し開いた。何か言いかけた。
「本日の支出総計、銀貨十四枚と銅貨三枚。累積借金に加算後の現在総額は金貨二千四百五十二枚と銀貨七枚です」
焚き火の向こうから、ゴドーの明瞭な声が響いた。
二人の間の空気が、完全に、跡形もなく霧散した。
レオンが天を仰いだ。
セレスが視線を星空に戻した。そして小さく笑った。
それは、いつもの計算された微笑みではなかった。止めようとして止まらなかったような、漏れた笑い。レオンはそれに気づいた。気づいて、何も言わなかった。胸の真ん中に、じわりと温かいものが広がった。
翌朝、出発前の焚き火跡でゴドーがセレスに近づいた。行商人が馬の鞍を確認しているすきに、低い声で言った。
「昨夜の手帳の紋章について、一つ聞いてもよいですか」
セレスが一秒の間を置いた。
「読めることと話すことは別の問題よ」
ゴドーが帳簿を開いた。何かを短く書き込んだ。誰にも見せなかった。
レオンが馬車に荷物を積み直しながら、二人の短いやりとりを見た。何を話しているかは聞こえなかった。ただ、ゴドーの表情がいつもの取立て屋のそれとは微妙に違うことだけは分かった。
(あの帳簿に、何が書いてあるんだろう)
三人が馬車に乗り込んだ。傾いた車体が、今日も左に揺れた。
ノルトハインまであと、約八十キロ。