負債スレイヤー
竜王「グランドスケール」を討ち倒した英雄レオン・クロフォードは、都中で称賛されていた。しかし、その栄光の裏には圧倒的な現実があった――巨額の負債である。装備費、遠征費、宿泊費、ポーション代――冒険者の生活は、実質的に終わりなき大規模な資金調達活動だった。
勝利のパレードで紙吹雪が舞う中、レオンは裏路地で「鉄の爪」商人ギルドの取り立て屋ゴードに追い詰められる。伝説の剣が差し押さえられそうになっていた。絶体絶命のその時、謎めいた美貌の「星読みの魔女」セレス・ヴェラが現れる。彼女は負債を帳消しにする代わりに、北の辺境にある「笑わぬ領主」の屋敷に囚われた少女を救出する任務を持ちかける。
こうして、偽りの英雄と謎の魔女によるとんでもない救出作戦が始まる。屋敷の警備は厳重だが、レオンの英雄ブランドとセレスの狡猾な策略、そして彼らの滑稽に噛み合わないチームワークが次々と予期せぬトラブルを巻き起こす。英雄の真の戦いは、竜ではなく、はるかに恐ろしい敵――債権者たちとの戦いだった。果たして彼は負債を返済できるのか、それとも借金はさらに膨れ上がるのか?
負債スレイヤー - 偽装カップル特訓大作戦――あるいは心臓は竜より手強い
昨夜の絶叫は、ファルクレスト下市の民家三軒に伝わっていた。
レオン・クロウフォードはそれを知っていた。旅鴉の巣の隣室から「朝まで騒ぐな」という苦情が滑り込んできたし、廊下ですれ違った宿の女将に「英雄様、昨晩は大変でしたわねえ」と笑顔で言われた。どうやらここ数件の住民に「英雄が借金の書類を前に発狂していた」という情報が共有されたらしい。
それはともかく、今朝は遅刻できない。
セレスの指示書には「金針亭前、朝十時、遅刻厳禁」と書いてあった。「厳禁」の二文字の筆圧が他と比べて明らかに強く、書いた人物の性格が滲み出ていた。レオンは冒険者装備のまま——長剣を腰に下げ、旅慣れた革ジャケットに動きやすいズボンという出で立ちで——大通りを北へ向かった。
中市は下市より一段上、石畳の幅が広くなって両側の建物が小綺麗になる区画だ。仕立て屋や宝飾店、小洒落た茶葉商が並ぶ。レオンがこういう通りを歩くのは竜王討伐の後のパレード以来で、革ブーツの音が妙に場違いに響いた。
金針亭——中市の中ほど、金色の刺繍針を象った看板が目印の仕立て屋——の前に、すでにセレスが立っていた。
銀の長い髪が午前の陽光を弾いて白く輝いている。深い藍色のドレスに、肩から淡いグレーのショールをさらりと羽織った姿は、中市の景色に完璧に溶け込んでいた。紫の瞳がレオンに向いた。上から下まで、一秒かけてゆっくりと。
「……冒険者装備で来たの」
「はい」
「指示書に正装を買う、と書いた」
「買う前に来い、とは書いてなかったので」
セレスが一瞬だけ目を細めた。言い返すつもりはないらしく、「入って」とだけ言って扉を押し開けた。白檀の香りが、ふわり、とレオンの鼻先をかすめた。
店内に入ると、すでに三着の正装がマネキンに飾られていた。紺の二重仕立てのジャケット。深緑のベスト付きスーツ。そして白を基調にした貴族風のシャツとスラックスのセット。
レオンは三着を前にして固まった。
「待って、これ全部俺の?」
「選ぶの。三着の中から」
「全部じゃないのか……よかった」
「全部試着して、一番いいものを選ぶ」
「……全部じゃないか」
店主——小柄で白髪の女性で、分厚い眼鏡をかけた職人らしい雰囲気の人物——が物差しを手に近づいてきた。「では採寸から」と言い、レオンの返事を待たずに両腕を広げさせた。手際がよすぎて、気づいたら三着全部試着させられていた。
最終的に選ばれたのは白シャツと黒のスラックス、銀のカフスボタンという組み合わせだった。セレスが選んだ。レオンの意見は特に求められなかった。
着替えて鏡の前に立った。
(……誰だこれ)
正直、自分でも驚いた。クセのある黒髪も、いつもよりきちんと整えると印象が変わる。白いシャツが肌の色を引き立てて、細い眉と柔和な輪郭が妙に上品に見える。英雄というより——貴族の令息、とでも言うべき出で立ちだった。
セレスが横に並んで鏡を見た。レオンより数センチ低い位置から、じっと。
数秒間、無言だった。
「……悪くないわ」
小声だった。本当に小声で、レオンには届いたが店主には届かなかったかもしれないくらいの声量だった。鏡越しに目が合う。セレスがすぐに視線をずらして「じゃあこれで」と店主に言った。
その一瞬だけ、なんとなく、店内の温度が上がった気がした。
そして店主が合計金額を告げた。
「正装一式、金貨四十二枚になります」
レオンの顔から、全ての表情が消えた。
能面だった。完璧な無だった。瞬きすら止まった。
財布を取り出した。革製の、くたびれた財布を逆さにした。じゃら、と音がした。銅貨が七枚、手のひらに転がった。
レオンは七枚の銅貨を見た。
七枚の銅貨がレオンを見た。
じゃら。
じゃら。
「……」
セレスが財布を出した。「立て替えておくわ」と涼しく言って、金貨を四十二枚、過不足なくカウンターに並べた。「後日、英雄様へ請求書を」。
レオンはその場で静かに膝をついた。衝撃や絶望ではなく、物理的な重力への敗北、という感じの、ゆっくりとした膝つきだった。
店主が心配して「お客様?」と声をかけた。
セレスが答えた。
「いつもこうなので、気にしないでください」
レオンは顔を上げた。
「……俺のことが分かりすぎてて怖い」
──────
金針亭から徒歩五分、大通りに面したテラス席カフェ「琥珀の泡亭」にやってきた。蜂蜜色の日よけが陽光を柔らかく遮る、中市では評判の店らしい。平日の午前とはいえ、テラス席の半分ほどが埋まっていた。
セレスがテーブルを挟んで向かいに座り、手帳を開いた。「訓練を始める」と言った。
「偽装カップル訓練、第一段階」
低く落ち着いた声で、まるで商談の開始を告げるかのように。
「腕を組むこと。どのカップルでもする、自然な行動。これを違和感なくこなせなければ、ヴァッセン伯爵領での任務は最初の五分で終わる」
そう言ってセレスが腕を差し出した。細い腕が、テーブルの端からレオンの方へすっと伸びた。白い手首。袖口から覗く白い肌。甘い香りがかすかに漂う。
レオンの両手が、細かく震えた。
自分でも気づいて、絶句した。震えてる。俺の手が震えてる。グランド・スケイルの前でも、灰燼嶺の稜線で足場が崩れたときも、震えなかったはずの手が。
セレスの視線が、レオンの手に落ちた。そして流し目でゆっくりと戻ってくる。
「竜と戦った腕が、震えてる」
「竜は……竜は怖いだけだ。分かりやすい。こっちは別の種類の——」
言いかけて、止まった。
セレスが少し首を傾けた。紫の瞳がまっすぐレオンを見ている。
「別の種類の、何?」
ゆっくり問い返された。声のトーンが、ほんの少し、柔らかかった。
「あああもういい!!」
叫んで、勢いのまま腕を組んだ。セレスの腕が、レオンの腕に絡む。正装の袖を通して、体温が伝わってきた。
じんわりと、した。
布地一枚分の距離を保ちながら、それでも消えない温もりだった。白いシャツとセレスのショールの間に、確かな熱があった。
レオンは思わず呟いた。
「……温かいな」
言ってから、しまった、と思った。
セレスが無言で首を傾けて、視線を送ってきた。意味深で、でも何も言わない。なんとも言えない紫の瞳がこちらを向いている。
レオンは三倍速で顔を背けた。テラスの向こうの石畳を、めちゃくちゃ真剣に見つめた。
「第二段階」
セレスが手帳に何かを書き込みながら言った。
「見つめ合う。条件は三秒。ヴァッセン伯爵の式典では、カップルとして周囲の観察に耐える必要がある。目を逸らせば疑われる」
レオンは歯を食いしばって向き合った。
セレスの紫の瞳が、正面からまっすぐ向いている。澄んでいて、深くて、複雑な色をしていた。金と紫が混ざったような、夜明けまえの空みたいな瞳だった。
一秒。二秒。
二秒十七で、目が窓の外へ滑り落ちた。
「二秒十七」
セレスが記録するように言った。感情なく、正確に。
「竜の眼光には耐えたのに?」
「竜の目は殺意しかなかった! シンプルだから対処しやすかった! あっちの目には何か別のものが——」
叫んでから、気づいた。今度こそやってしまった。
セレスがすっと静かになった。テーブルの端でティーカップを持ったまま、少し間を置いて。
「私の目に、何が見えたの?」
静かな問いかけだった。挑発じゃなくて、本当に聞いている声だった。
レオンは答えられなかった。口を開いたが、言葉が出てこなかった。
沈黙が流れた。テラス席の遠くで誰かが笑っている声がする。風が日よけを揺らした。蜂蜜色の光が揺れて、セレスの銀髪を照らした。
そのとき、隣のテーブルから声が届いた。
「……あの人、英雄レオン様じゃない?」
レオンの背中から、すーっと冷たいものが走った。
違う意味で。
「本当だ!! 英雄様だ!!」
立ち上がった市民が叫んだ。テラス席の半分が振り向いた。
「デートしてる!! 英雄様がデートしてる!!」
「婚約者ですか!! 婚約者がいたんですか!!」
ドドドドド、という擬音が聞こえる気がした。人が増えた。気づけばテラス席が満員になっていた。「こっちを向いてください!」「サインを!」「婚約おめでとうございます!」という声が折り重なった。テーブルが揺れた。
「逃げましょう」と言いかけたレオンが見ると、セレスはすでに立ち上がっていた。飲みかけのお茶をカップに残したまま、さっさと歩き出していた。
二人でカフェの裏口から飛び出した。
走りながら一度だけ振り返ると、琥珀の泡亭のテラスが完全に満席になっていた。新たな客がどんどん座っている。店主が満面の笑みで、レオンたちの方向に向かって親指を立てていた。
「……あの店主、完全に喜んでる」
──────
大通りから二本入った路地だった。
幅一メートル半。石畳の細い道。両側に古い石造りの壁が迫っていて、空は細い青い線だった。二人は壁を背にして、息を殺した。
追ってくる群衆の声が、路地の入口から聞こえてくる。「こっちじゃないか?」「英雄様!」「婚約者の方!」。少しずつ近づいてくる。
レオンは壁に背中をつけた。セレスが隣に立った。肩と肩が触れ合う距離だった。セレスの銀の髪が、レオンの顎の高さに来ている。閉じた空間の中で、白檀の香りが濃度を増していた。甘くて、少し重くて、ずっとそこにある香りだった。
追手の声が近づくたびに、自然と壁側へ押し込まれた。石壁の冷たさが背中に当たる。セレスもそれに押される形で、距離が縮まった。
そのとき、セレスの指先がレオンの正装の袖口を、わずかに掴んだ。
位置を固定するように。ただそれだけのために。
レオンはその指先の力の細さと小ささを、間近で感じた。
細い。こんなに細い手だったのか。夜鷹小路で初めて握手した時は気づかなかった。今は袖を通してじゃなくて、正装の薄い布越しだから、その指の形まで伝わってくる。
何も言えなくなった。
「……行ったみたいね」
セレスが小声で言った。群衆の声が遠ざかっていく。足音が別の方向に消えていく。
二人はしばらく動かなかった。
群衆が去っても、なんとなく、その場を離れなかった。レオンも、セレスも。動く理由がなくなって、でも動く気にもなれなくて。
セレスが袖口から手を離した。
そして路地の奥を向いた。薄暗い石壁を、どこか遠くを見るような目で、見つめた。
レオンはその横顔を、見た。
妖艶さも計算高さも、そこにはなかった。遠くに向けられた紫の瞳は、何かをそっと置いてきたような——うまく言えないが、寂しさに近い表情をしていた。普段のセレスが纏っている、あの涼しくて全部分かってる感じの空気が、今だけどこかに行っていた。
一秒。二秒。三秒。四秒。
竜の眼光に二秒十七で負けたレオンが、この横顔を四秒、見続けた。
「……何か、俺には言えない事情があるんだろうな、と」
静かに、ゆっくりと言った。問いかけでも、詰問でもなく。ただ感じたことを口にした、という感じで。
セレスの肩が、一瞬だけ止まった。
細い、ほんの一瞬の停止だった。気づかない人は気づかないくらいの。
ゆっくりと、紫の瞳がレオンの方を向いた。
驚きと、何かを試すような気持ちが、ないまぜになった表情が数秒間浮かんだ。セレスがレオンをこういう目で見るのを、レオンは初めて見た気がした。
「……甘言に弱くて表情に鋭い。不思議な組み合わせね」
声のトーンが、違った。
夜鷹小路の占いの館で聞いた声とも、金針亭の前で聞いた声とも、少し違う質感を持っていた。計算の気配が薄くて、代わりに何か別のものが混じっていた。レオンにはそれが何なのか分からなかったが、確かに違うと感じた。
二人の間の空気が、はじめてビジネスの外側に踏み出した——そんな気がした。その瞬間、
「あなたの金銭管理能力の方が、よっぽど謎だけど」
ぴしゃり、と言われた。いつもの涼しい口調に戻っていた。
「銅貨七枚って何なの。英雄様の財布が銅貨七枚って」
「いや待って今いい感じだったのに!!」
路地の奥から、猫が三匹、驚いて飛び出してきた。
──────
猫を踏みそうになりながら路地を抜けた。人気の少ない裏通りにベンチが一つあって、二人はそこに腰を下ろした。
遠くでファルクレストの市場の賑わいが聞こえる。セイル河岸市の方から、商人の呼び声が風に乗ってくる。午後の陽光が石畳に斜めに落ちて、少し長くなった影を作っていた。
セレスが手帳を開いた。小さな文字で、何かを書き込んでいく。
レオンは覗き込んだ。
訓練結果表、と上に書いてある。
第一段階・腕を組む:△(震えが軽減されるまで要反復)。
第二段階・見つめ合う:✕(二秒十七。目標十秒)。
第三段階・耳元で囁く:未実施(群衆発生により中断)。
「未実施のほうが多くないか」
「明日も来なさい」
セレスが手帳を閉じた。それだけ言って、それだけ。
レオンは少し間を置いてから、
「……第三段階は、いつやるんですか」
と聞いた。聞かない方がいい気もしたが、聞かないのも不自然な気がして。
セレスは答えなかった。
代わりに、手帳をレオンの顔の近くにかざした。手帳の陰から、紫の瞳だけがこちらを向いてくる。間近で見る紫は、さっきより少し濃い色をしていた。
レオンの口が、頭より先に動いた。
「分かった、明日来る」
セレスが手帳を下ろした。そして少し——本当に少しだけ、唇の端が上がった。
「素直なのはいいことよ」
それだけ言って立ち上がった。
別れ際、セレスが歩き始めた。裏通りの石畳を、音もなく歩いていく。午後の光が横から当たって、銀の髪が一瞬だけ白く輝いた。本当に一瞬、周囲の全部が色を落として、その銀だけが残るような輝き方だった。
レオンはその後ろ姿を見送った。
今日は失敗続きだった。財布は死んだ。訓練は二段階中断した。耳元で囁く、は実施されなかった。群衆には囲まれた。猫に三匹驚かれた。どう考えても散々な一日だった。
なのになぜか、何か大事なものを掴んだような気がする、という漠然とした感覚が胸の中にあった。何なのかは上手く言えないが、確かにそこにある感覚だった。
——ガサリ。
上着のポケットに、紙が触れた。
鉄の爪商会からの督促状だった。「金貨二千四百枚、早急にご返済を」。
現実が、丁寧に戻ってきた。
──────
翌朝。旅鴉の巣の個室に、一通の覚書が差し込まれていた。
セレスの達筆で、本日の訓練費が記載されていた。正装代金貨四十二枚。琥珀の泡亭未会計分、銀貨三枚。合計。そして残訓練工程:出発まで残り四日。
レオンは最下部まで読んだ。
小さな文字で、こう書いてあった。
「第三段階は屋内で行います。覚悟しておくこと。——S」
「覚悟」。
レオンはその二文字を読んだ。もう一回読んだ。三回目。四回目。五回目。
覚悟。覚悟。覚悟。覚悟。覚悟。
「……」
宿の壁に向かって、両手をゆっくりと当てた。額もつけた。ゆっくりと、感情を押し込めるように、壁を叩いた。一回。もう一回。
ドン。ドン。
隣室の壁から、すぐに返事が来た。
「うるさい!!」
レオンは壁から顔を離した。
「人生と戦っています」
壁越しに、静かに答えた。
隣室は黙った。
レオン・クロウフォードは覚書を折り畳んで、督促状の隣にしまった。出発まであと四日。第三段階は屋内。「覚悟しておくこと」。
窓の外に、ファルクレストの朝の青空が広がっていた。