負債スレイヤー
竜王「グランドスケール」を討ち倒した英雄レオン・クロフォードは、都中で称賛されていた。しかし、その栄光の裏には圧倒的な現実があった――巨額の負債である。装備費、遠征費、宿泊費、ポーション代――冒険者の生活は、実質的に終わりなき大規模な資金調達活動だった。
勝利のパレードで紙吹雪が舞う中、レオンは裏路地で「鉄の爪」商人ギルドの取り立て屋ゴードに追い詰められる。伝説の剣が差し押さえられそうになっていた。絶体絶命のその時、謎めいた美貌の「星読みの魔女」セレス・ヴェラが現れる。彼女は負債を帳消しにする代わりに、北の辺境にある「笑わぬ領主」の屋敷に囚われた少女を救出する任務を持ちかける。
こうして、偽りの英雄と謎の魔女によるとんでもない救出作戦が始まる。屋敷の警備は厳重だが、レオンの英雄ブランドとセレスの狡猾な策略、そして彼らの滑稽に噛み合わないチームワークが次々と予期せぬトラブルを巻き起こす。英雄の真の戦いは、竜ではなく、はるかに恐ろしい敵――債権者たちとの戦いだった。果たして彼は負債を返済できるのか、それとも借金はさらに膨れ上がるのか?
負債スレイヤー - 妖艶な魔女、登場――あるいは心臓と借金は雪だるま式に膨らむ
情報屋街「夜鷹小路」——ファルクレストの下市の中でも、さらに一段下に潜った路地の集合体だ。表通りの「灰猫通り」から二本裏に入り、石畳が砂利に変わり、看板が木製から布切れになったあたりが入口の目安、と聞いていた。
レオン・クロウフォードは昨日の疾走の勢いを引きずったまま、その夜鷹小路の薄暗い路地に踏み込んだ。腰の竜殺しがかたりと揺れる。胸ポケットには羊皮紙が一枚。〈借金全額帳消し。条件:北の辺境伯爵領にて少女を救出せよ。詳細は星読みの魔女に問え〉——その文言だけを頼りに、情報屋の扉を片っ端から叩いて回ることにした。
さて、一軒目。
「情報屋さん、すみません。星読みの魔女という人物について——」
バタン。
扉が閉まった。音もなく、感情もなく、ただ物理的に閉まった。レオンは扉の前に立ち尽くした。まだ「人物について」の後ろが言えていない。
(……早い)
気を取り直して二軒目。今度は先に財布を見せてから話そう、と思い立った。革の財布をポケットから引っ張り出す。傾けてみた。銅貨が三枚、じゃらりと底に転がる音がした。
「あの、こちらの情報料は——」
扉が内側からゆっくりと開いた。眼光の鋭い男がレオンの財布を一瞥し、次にレオンの顔を見て、それからまた財布を見た。
「帰れ」
バタン。
一瞬、竜殺しを担保に出しかけた。本当に一瞬だけ、左手が柄に添えかけた。でも思いとどまった。竜殺しなしで白金級の仕事を受けるのは自殺行為に等しい。生存本能が辛うじて勝利した。
三軒目は少し感触が違った。扉を叩くと「どうぞ」という声がして、恰幅のいい中年の女性が書きものをしながら振り向かずに言った。「証明書類はお持ちで」。レオンは慌てて胸ポケットを探った。あるのは督促状の残骸と羊皮紙だけだ。唯一手のひらサイズの紙を取り出したら、それは督促状だった——しかも鉄の爪商会からのご請求書で、表向きに「金貨二千四百枚」という数字が印字されていた。
女性がそれをちらりと見た。
「……大変そうですね」
扉は閉まらなかった。ただ女性は「うちは金払いのいい依頼人しか扱わないので」と続けた。同情はしてくれたが、やることは同じだった。
四軒目。扉が開いた瞬間、初老の男がレオンの顔をじっと見て一言だけ言った。
「金のない顔してるな」
それだけ言って扉を閉めた。
(金のない顔って何だ。俺の顔のどこに金の有無が出るんだ)
五軒目は休業中だった。看板に墨で「本日臨時休業」と書いてあった。休業するなら入口くらい分かりやすくしてほしい、と思ったが誰に言う相手もいない。
六軒目。夜鷹小路の一番奥、石造りの塀がL字に折れた暗がりの中に、看板もない細い扉があった。レオンは右手を持ち上げた。その手が、小刻みに震えていた。
(震えてる。俺の手が震えてる)
レオンは自分の右手を見た。剣だこのある、戦い慣れた手だ。竜王の前に立ったときも、この手は震えなかったはずなのに。今は情報屋の扉一枚を前にして、がくがくと情けなく揺れている。
「なあ、頼む」
手に向かって、小声で言った。
「もう六軒目だぞ。諦めてくれるなよ。まだいける。俺たちはまだいける」
その瞬間だった。
ふわり、と。
甘い香りが、路地の空気を塗り替えた。白檀の奥に夜の花が溶け込んだような、鼻腔の奥まで届く複雑な甘さ。それはどこか非日常的で、この砂利と石造りの路地にはまったく似つかわしくなかった。
レオンは右手への語りかけを途中で止めた。
ゆっくりと、振り返った。
---
月明かりが、路地の入口から差し込んでいた。
その光の中に、女性が立っていた。
銀髪が肩から流れて、ゆるいウェーブを描きながら腰のあたりまで落ちている。色は白銀というより、月光そのものを糸にしたような色だった。瞳は紫——落ち着いた深い紫で、そこにほんのりと光が揺れている。身長は165センチほどで、深い緑のヴェルベットのマントをゆったりと羽織り、その下に暗い色の衣を纏っていた。控えめに、それでいて確実に香る甘い香水の匂い。
唇の端が、わずかに上がっていた。
「手と話していたの?」
低く、落ち着いた声だった。囁くような、でも確実に届く声。
「っ、違います! ちょっと、その、激励を」
「手に激励」
「…………それだけ聞くとやばいな俺」
女性がゆっくりとレオンに向かって歩いてきた。
「あなたを探していたの」
一歩、近づいてきた。
レオンは反射的に一歩下がった。
また一歩、近づいてきた。
また一歩、下がった。
また一歩、近づいてきた。
また一歩、下がった。
また一歩。下がった。また一歩。下がった。また一歩。下がった——
背中が、石造りの塀に当たった。
どん。
レオンは完全に壁に張り付いた。目の前に、銀髪の女性がいる。距離にして三十センチもない。白檀と夜の花の甘い香りが、もはや逃げ場のない濃度で漂っている。
「……なんで下がるの」
女性が小首をかしげた。銀髪がさらりと揺れた。
「い、いや、後退と逃走は違いますから! これは戦術的な後退というか、陣形を整えるというか」
「どちらでもいいわ」
一刀両断だった。
女性はそこで胸元から小さな手帳を取り出した。表紙には見覚えのある封蝋の紋章——星と三日月が組み合わさった意匠が型押しされている。羊皮紙の封蝋とまったく同じものだった。
手帳を開く。
「……えっ」
レオンは固まった。手帳のページに、びっしりと書き込まれた文字が見えた。内訳のリスト。数字と日付と品目名。
装備費、八百枚。遠征食糧費、六百枚。宿泊費、三百四十枚。ポーション類、三百五十枚。慰労会費、二百枚——
「これ、俺の借金の……」
「内訳ね。合計二千四百枚。年利四十八パーセントで現在進行中」
「なんで知ってるんですか!!」
女性は答えなかった。代わりにページをめくった。次のページにも文字がある。レオンは目を細めてそれを読んだ。
——竜の息吹防御ポーション購入時の売り子の笑顔の持続時間:推定三秒。
「……はあああっ!?!?」
「正確には二・八秒よ。あなたの反応時間から逆算したの」
「笑顔の持続時間まで記録されてる!! なんで!? 何のために!? 俺は何の記録を残してたんだ!!」
女性はもう一度ページをめくった。今度は何も書かれていないページが出てきた。そのかわり、さらっと取り出したものがある——昨日レオンの顔面に貼りついた羊皮紙と、まったく同じ封蝋の紙片だった。
「わたしが、あの依頼書を送ったの」
レオンは三秒間、沈黙した。
「……星読みの、魔女さん?」
「セレス・ヴェラ。よろしく、英雄様」
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セレス・ヴェラが案内したのは、夜鷹小路をさらに奥に進んだ先にある小さな占いの館だった。
看板には「夢星堂(むせいどう)」と書かれている——星読みの占術師が依頼人に星の告げを伝える場所として、ファルクレストの下市界隈に点在する施設だ。扉を開けると、焚かれた香の煙が漂い、天井から下がるランタンが揺れていた。壁には星座早見盤や天球図が貼られている。
奥の部屋へ通される。円卓が一つ、椅子が二脚。
(狭い)
レオンは思った。円卓の直径が、普通の半分しかない。向かい合って座ると、腕を伸ばせば相手の肩に手が届く距離だ。ランタンの明かりが揺れるたびに、向かいに座ったセレスの銀髪が光を拾って輝いた。
「詳しく説明するわ」
セレスが口を開いた。低く落ち着いた声が、狭い部屋の空気を静かに震わせる。
「北の辺境伯爵フリードリッヒ・ヴァッセン——ファルクレストから北へ馬車で六日ほどのヴァッセン伯爵領の当主よ。『笑わない貴族』と呼ばれ、外部との接触を極端に避けている。そのグレーフェルト城館に、幽閉された少女がいる。わたしはその子を救出する必要があるの」
「……救出する、って。どうやって入るんですか、そんな場所に」
「それも説明する」
セレスが少し間を置いた。
「ヴァッセン伯爵は毎年秋に晩餐会を開いているわ。招待客は限られた貴族と、伯爵が認めた名士のみ。でも今年は例外がある——竜王を討伐した英雄なら、伯爵も無下にはできないはずよ」
「なるほど。それで俺が必要なわけか」
「半分正解。もう半分は——」
セレスがそこで円卓を立ち、レオンの横に回り込んできた。
なんの前触れもなく。するりと、まるで水が流れるみたいに。
レオンが反応する間もなく、セレスの肩がレオンの肩に、そっと触れた。体温が、布越しに伝わってくる。甘い香りが、鼻の奥でぐっと濃くなる。
「こんな風に寄り添う相手が必要なの。英雄とその婚約者に扮して晩餐会に臨む、というわけ」
レオンの耳が、気づいたら赤くなっていた。
「……偽装、カップル?」
「そう。それが問題かしら」
「問題……は……その……」
言葉がまとまらない。肩が触れている。触れている。白檀と夜の花の香りが、思考の邪魔をする。
セレスが今度はレオンの顔の向きを、細い指でそっと正面へ向けた。顎のあたりに、冷たい指先が当たった。
ぐるりと向かされた先に、紫色の瞳があった。
距離、十五センチ。
「——息をしてください」
「あっ! してます! 竜の前でも息してました!!」
セレスが、わずかに目を細めた。
「竜の前のほうが落ち着いていたのね」
「そうだ、あっちは殺意だけだったから分かりやすかった!! こっちは殺意がないから逆に対処できなくて……って、俺いま自分でとんでもないことを自白しませんでしたか」
「したわね」
レオンは額に手を当てて一回うつむいた。セレスが元の位置に戻ってきて向かい合いに座る。レオンはそっと深呼吸した。
(落ち着け。これはただのビジネスだ。向こうも仕事でやってる。竜の前で落ち着けた俺が、このくらいで——)
「訓練の第三段階だけ、先に体験させてあげる」
セレスがさらりと言った。
「え? 第三段階って——」
制止する間もなかった。
セレスが椅子から立ち上がり、円卓をぐるりと迂回して、レオンの右隣に回り込んできた。
銀色の長い髪が、揺れながらレオンの頬をかすめた。
それだけで。それだけで、ぞわりと皮膚が粟立つような感覚が走った。柔らかくて、少しだけ冷たい。髪が肌に触れた一瞬の感触が、頭の中に焼き付く。
セレスが屈んで、レオンの耳のすぐそばに口元を近づけてきた。
唇が、耳の縁から五センチ。四センチ。三センチ。
白檀の香りが、もう考える余地もないほどの密度で満ちる。低く柔らかく、落ち着いた声が——ほとんど振動に近い感じで耳に届いた。
「英雄様の借金、私が全部帳消しにしてあげる」
体の中の血液が、一斉に上半身に集まった。
耳が熱い。顔が熱い。全身が熱い——のに、背中のあたりだけ妙に涼しい。
何かがおかしい。思考がうまく回らない。ぐるぐると「帳消し」と「耳元」と「白檀」と「紫の瞳」が混ざり合って
どすん!!!
レオン・クロウフォードは椅子ごと後ろに倒れた。
床に大の字になった。天井のランタンが揺れているのが見えた。
しばらく、何も言えなかった。
静寂。
セレスがのぞき込んできた。涼しい顔だった。
「まず椅子から落ちない訓練からね」
「っ……! 言わないでください……!!」
---
セレスに手を貸してもらい、レオンはどうにか立ち上がった。
セレスの手は細く、白く、そしてほんのりと冷たかった。思っていたより体温が低い。握った瞬間に気づいて、思わず彼女の顔を見た。
セレスが、一瞬だけ——本当に一瞬だけ——驚いたような表情を見せた。眉がわずかに上がり、唇の端がほんのすこし開いた。それはさっきまでの計算されたような余裕とは違う、無防備な表情の破片だった。
すぐに戻った。いつもの涼しい顔に。
レオンは何も言わなかった。でもその一瞬が、記憶の隅に静かに刺さった。
「依頼を受けてくれるのかしら」
セレスが、いつもの落ち着いた声で言った。
レオンは倒れた椅子を起こしながら、少し間を置いた。
(怪しい。ものすごく怪しい。差出人が特定できるまで依頼書に名前もなかったし、幽閉された少女の素性も目的も何も聞いていない。ヴァッセン伯爵との関係も不明だ。普通に考えたら、断るのが正解だ)
(でも、金貨二千四百枚だ)
(年利四十八パーセントで膨らみ続けている、金貨二千四百枚だ)
「……受けます」
レオンは言った。
セレスが手を差し出した。握手のために、細い白い手が差し出された。レオンはそれを握った。やはり冷たかった。
「指示書を渡すわ。明日の朝に読んで」
セレスが手帳から一枚だけページを切り取り、折り畳んでレオンに手渡した。封はしていない。でも「明日の朝に」とはっきり言った。
「……はい」
「よろしく、英雄様」
最後にもう一度、唇の端が上がった。今度のそれは、さっきの無防備な表情とは全然違う。計算された、美しい笑みだった。
レオンは夜鷹小路に一人残された。夜風が通り抜けていく。白檀の香りが、少しだけまだ残っていた。
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翌朝。旅鴉の巣の個室——天井が低く、窓が小さく、でも扉に鍵のかかる個室——の薄い光の中で、レオンは指示書を開封した。
さらりと広がる紙の表面に、達筆な字が並んでいる。最初の数行を読み始めた。
朝の訓練についての項目だった——と思いきや。
リストだった。
最高級羊毛のダブレット。銀細工のカフスボタン。磨き抜かれた革靴。正装用絹マント。整髪用香油。
レオンは読むスピードを落とした。ゆっくりと、一行ずつ確認するように読んだ。
最終行にたどりついた。
——正装費用は英雄様のご負担で。明日朝十時、中市の仕立て屋「金針亭」前。遅刻厳禁。セレス。
レオンは三回読んだ。四回目を読もうとして、止まった。
昨夜、耳元で「借金を全部帳消しにしてあげる」と囁かれた瞬間に溶けかけた何かが、今度は別の理由で石になっていくのを感じた。胸の中で、何かが固まっていく。硬く、冷たく、ずっしりと重く。
(また借金が増える)
レオンは窓を開けた。朝のファルクレストの空気が流れ込んでくる。市場のほうから遠く、商人の呼び声が聞こえる。
そしてレオン・クロウフォードは、裏路地に向かって叫んだ。
「また借金が増えるぅぅぅぅぅぅぅっ!!!!!!!!!」
バタン。バタン、バタン。
近隣の民家の窓が、次々と開いた。「何事だ」「朝から騒がしい」「英雄? また英雄か」という声が上から降ってくる。
レオンは窓を閉め、指示書をもう一度見た。「金針亭」の名前と、「遅刻厳禁」の四文字と、最後の「セレス」という署名。
(偽装カップルの訓練の前に、まず財布が枯死する訓練が始まってる)
ため息をついた。長い、深い、竜王の前でも吐いたことのないようなため息だった。
でも立ち上がって、帽子を取って、鞄を持った。
「金針亭」まで遅刻するわけにはいかない。依頼を受けたのは自分だ。
レオン・クロウフォードは扉を開けた。今日もファルクレストの朝は、正直すぎる青い空だった。