負債スレイヤー
竜王「グランドスケール」を討ち倒した英雄レオン・クロフォードは、都中で称賛されていた。しかし、その栄光の裏には圧倒的な現実があった――巨額の負債である。装備費、遠征費、宿泊費、ポーション代――冒険者の生活は、実質的に終わりなき大規模な資金調達活動だった。
勝利のパレードで紙吹雪が舞う中、レオンは裏路地で「鉄の爪」商人ギルドの取り立て屋ゴードに追い詰められる。伝説の剣が差し押さえられそうになっていた。絶体絶命のその時、謎めいた美貌の「星読みの魔女」セレス・ヴェラが現れる。彼女は負債を帳消しにする代わりに、北の辺境にある「笑わぬ領主」の屋敷に囚われた少女を救出する任務を持ちかける。
こうして、偽りの英雄と謎の魔女によるとんでもない救出作戦が始まる。屋敷の警備は厳重だが、レオンの英雄ブランドとセレスの狡猾な策略、そして彼らの滑稽に噛み合わないチームワークが次々と予期せぬトラブルを巻き起こす。英雄の真の戦いは、竜ではなく、はるかに恐ろしい敵――債権者たちとの戦いだった。果たして彼は負債を返済できるのか、それとも借金はさらに膨れ上がるのか?
負債スレイヤー - 脱出大作戦と星読みの涙――あるいは借金は増えても心の負債は返せない
「おやすみなさい、レオン」
その声が、まだ耳の奥に残っていた。
レオン・クロウフォードは宿泊室の天井を見つめながら、浅い眠りから引き戻された。白樺材の板張り天井。ノルトハインの夜明け前の空気が、窓の隙間からひんやりと忍び込んでいる。名前だけを呼ぶ声。計算でも誘惑でもない、それだけの声。
どれくらい眠ったんだろう。一時間か、二時間か。正装のシャツのままだったせいで、腕の辺りが少し皺になっている。
そのとき、廊下から音が届いた。
足音。一つじゃない。複数。しかも、底が厚い——鎧靴の音だ。
レオンは上体を起こした。同時に、部屋の外で別の音が混じる。金属が触れ合うきつい音。鎧の音。そして誰かの低い声が石廊下に反響する。
「全棟封鎖!!搬入口まで部下を回せ!!」
警備隊長の声だった。グレーフェルト城館の、本物の警備隊が動いている。
レオンは反射的に剣へ手を伸ばした。
ドン、と扉が叩かれた。
「英雄様、起きてらっしゃいますか」
鍵を開けると、ゴドーが帳簿を両手に抱えて立っていた。薄茶色のくせ毛がわずかに乱れているが、狐のような金色の瞳は完全に冷静だ。廊下の向こうでは松明の光がゆらゆらと揺れ、鎧音が大きくなっている。セレスがゴドーの隣に立っていた。深紺の旅装。銀の長髪が少し乱れているが、紫の瞳はいつもと同じ——計算をはじいている瞳だ。手帳を胸元に引き寄せ、白い指がきつくそれを握っている。
「発覚したわ」
「いつ」
「今」
「緊急脱出費用、項目別に記録します」
ゴドーが帳簿を開いて鉛筆を走らせた。レオンは口を開きかけた——が、その瞬間、廊下の突き当たりに松明の光の群れが現れた。まずい、声を出したら聞こえる。
セレスの手が、レオンの口を塞いだ。
そのまま、三人が動きを止める。廊下の向こうで靴音が近づく。近づく。レオンの唇の上に、セレスの掌がある。体温がある。白檀の香りが密度を増す。紫の瞳が、ひたとレオンの顔を見ている——「声を出すな」という意思が、言葉を介さずに伝わってくる。
セレスの掌が、ゆっくりと離れた。
指先がレオンの頬をかすめる。何かを確認するように、一瞬だけ止まってから、離れる。松明の光が廊下を曲がって遠ざかっていく。
ゴドーが帳簿から顔を上げた。
「帳簿上の最短脱出ルートはE番搬入口経由、損耗見込み銀貨八枚分」
「なんでそんな即座に分かるんだ!!」
「昨日の見学中に全館出入口と人員配置を数値化しました。取立業の基本です」
セレスがレオンを見た。レオンがセレスを見た。二人、同時に小声で「なぜ」と言いかけて、互いに止まった。言ってる場合じゃない。
「イリスを連れる」
セレスが言った。迷いのない声だった。
「俺が行く」
即座に言い返した。理由を考える前に言っていた。セレスの紫の瞳がレオンを一瞬見て——何も言わなかった。肯定でも否定でもなく、ただ一秒間だけ見た。それから視線を中庭の窓に向けた。
レオンが窓枠を越えて、先に降りていった。
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中庭の石畳は夜露で濡れていた。ヴァッセン伯爵領の朝の冷気が肺の底まで入り込んでくる。レオンが塔へ向かう間、セレスとゴドーは搬入口へ向けて走り始めた。
中庭の外壁沿いに走りながら、ゴドーがセレスの横顔を無言で見た。セレスが胸元の手帳を握る白い指先が、わずかに震えている。走っているからじゃない。
「あの書庫の研究記録は、あなたのものでしたか」
走りながら、平坦に問うた。感情がない問い方だった。しかしセレスは足を緩めなかった。石畳を踏む靴音が規則正しく続く。石壁沿いに身を低くして、追手の動線を確認しながら。
やがて、セレスが答えた。
「ルミナス・アカデーメ——ファルクレストから東へ百五十キロ、学術都市エストレアにある魔法の研究機関——で三年かけて構築した理論。星読みの技術を体系化したもの。七年前に奪われた」
声が、いつもと違った。囁くような計算された低さではなく、剥き出しに近い、固い質感の声だった。ゴドーが帳簿に短く何か書き込んだ。走りながら。
「英雄様に話す予定は」
「任務が終われば」
「終わる前に英雄様は察していると思いますよ」
セレスが一拍、沈黙した。走り続けながら。前を向いたまま、何も返さなかった。
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塔の四階。レオンが石段を二段飛ばしで上り、扉を叩いた。
「イリス、俺だ。来てくれ、脱出する」
沈黙があった。それから、扉の向こうで衣擦れの音がした。
「昨日断った」
低く落ち着いたイリスの声。感情がほとんど乗っていない。
「でも今は警備隊が来てる」
また沈黙。レオンは正直に言った。飾りがなかった。それ以上の説明を持っていなかったから。扉の向こうでイリスが何かを考えているのが分かった。長い三秒間。
「……説得の言葉がないのね」
「ない。ただ行くぞ」
扉が内側から開いた。イリスが立っていた。白銀のストレートヘア、左右で色の違うオッドアイ——左が金、右が銀。ほとんど表情を変えない面持ちで、レオンを三秒間見た。それから視線を下げて、レオンが差し出した手を見た。
三秒間、見た。
それから、冷たく細い指先がレオンの掌に触れた。
すっと、体温が抜けていくような冷たさだった。しかしイリスの指はレオンの手を握っていた。ただそれだけ。言葉はなかった。
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四人が搬入口の手前で合流した瞬間、角から警備兵二名が現れた。槍を持ち、松明を掲げている。レオンが剣を抜く構えをとった。戦えないことはない。しかし音が立つ。追手を引き寄せる。
ゴドーが前に出た。
帳簿を開いて、二人の兵士の前に差し出した。
「今回の宿泊における消費物品の完全な精算書、確認をお願いします」
動じた様子は皆無だった。背筋が真っ直ぐで、百八十二センチの長身がやけに堂々としている。兵士二名が帳簿を覗き込んだ。一行目から数字が始まる。二行目、三行目、朝食代から靴底摩耗費まで、小さな字でびっしり。
兵士の顔が固まっていく。一人が目で追い続ける。もう一人が隣の一人を見る。
十秒間、動きが止まった。
四人が搬入口を抜けた。走った。石壁の外、夜明け前の冷たい空気の中へ。
「なんであれで止まった!!」
「数字は人を止めます」
呼吸も乱れていない。レオンが走りながら頭を抱えた。セレスが走りながら口元に手を当てた。肩が揺れた。声は出していない。しかし肩まで揺れていた——笑っている。目まで届かない笑いじゃない。肩まで、確かに届いている笑いだった。
レオンは走りながらそれを確認した。
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森の縁まで走り抜けたところで、セレスが足を止めた。
松明の光も鎧音も、今は遠い。朝の木立が四人を囲んでいる。ヴァッセン伯爵領の針葉樹が、夜明けの空気の中で青黒く立っている。セレスが振り返った。計算された囁きでも、焚き火の夜の柔らかい声でもない——別の声だった。
「本当の目的を話す」
イリスを見た。レオンを見た。ゴドーは帳簿を閉じたまま、黙っている。
「七年前に奪われた研究記録を取り戻すこと。そしてイリス——あなたが七年間ここに置かれていたのは、その研究の被験者として」
森の空気が、音を失った。
イリスがセレスを見た。白銀の髪が朝の風に少し揺れる。オッドアイが、静かにセレスを見ている。三秒間、何も言わなかった。
「知っていた」
低く、落ち着いた声だった。
「だから信じるか試した」
レオンが呟いた。
「俺、試されてたのか」
イリスがレオンを見た。一拍あって。
「……通過した」
レオンが何か言おうとした。その瞬間——
「感動的ですが後方三十メートルに弓持ちが二名」
全員が走り出した。
木立の合間を抜ける。足元が湿った落ち葉で滑る。枝が顔をかすめる。ゴドーが先頭で方向を示す。馬車まであと少し——その時。
弓弦の音がした。
矢が走った。レオンへの軌跡。レオン自身が気づくより先に、銀色の影が一歩横へ踏み込んだ。
セレスが、矢を肩口で受けた。
白い正装の袖が、一筋の赤に染まる。
セレスの足がよろめく。レオンが振り返った瞬間——頭より体が動いた。考えていなかった。言葉も間も関係なく、レオンはセレスの両肩を引き寄せ、そのまま胸に抱きしめた。
銀髪がレオンの顎に触れた。
白檀の香りが一気に密着する。セレスの体温が——思ったより、低かった。ずっと低かった。これまで腕が触れるたびに感じてきた体温と、こんなに近距離で抱きしめた時の体温が、これほど違うとは思っていなかった。マーナを使うたびに少しずつ奪われていく体温——魔法の代償。それをレオンは今、初めて正確に感じ取った。
セレスの全身が、一瞬強張った。
それから、静かに力が抜けた。
レオンの胸元に、額が触れる。銀髪がレオンの首筋に掛かる。セレスが小さく、胸元に向かって言った。
「私が動かなくてもあなたは避けられた」
レオンが低く返した。
「うるさい」
訓練中と同じ質感の声だった。それだけだった。
「接触時間と接触面積、帳簿に計上します」
イリスがゴドーの方を見た。白銀の瞳と金の瞳が、ゴドーに向く。
「……今は黙って」
感情が乗っていない声だったが、それは命令だった。ゴドーが一拍の間を置いた。帳簿を閉じた。カチン、と小さな音がした。旅が始まってから二度目の「閉じる」だった。
セレスがレオンの胸からゆっくりと離れた。その離れる動作が、ゆっくりだった。どちらも、そのことを指摘しなかった。
追手を振り切って、四人は馬車へ辿り着いた。
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白樺亭の暖炉の前。四人が落ち着いたのは、夜明けの光がノルトハインの石畳に差し込み始めた頃だった。
ゴドーが帳簿を開いた。開口一番だった。
「脱出費用・搬入口損壊弁償・正装修繕費・矢の回収費用、合計、旅費総額新たに金貨十七枚追加」
「矢の回収費用てなんだ!!」
「証拠物件です」
「回収できてないのに損失計上って言ってたじゃないか!!証拠物件なら最初から証拠物件って言え!!どっちなんだ!!」
「両方です」
「なんで両方になるんだよ!!」
セレスが暖炉の前の椅子に腰を下ろしながら、静かに言った。
「約束通り借金は帳消しにする。ただし旅費分の新規借金は別勘定」
「やっぱりそうなる!!」
暖炉の火がぱちぱちと爆ぜた。オレンジ色の光が四人の顔を照らしている。白樺材の壁が温かい色を吸って、白樺亭の居間が少し明るく見えた。
イリスが暖炉の炎を見ていた。白銀の髪が炎の色を映して、かすかにオレンジに染まっている。騒ぎの中でも、イリスはほとんど動じていなかった。ただ炎を見ていた。
それから、口角が動いた。
一ミリではなく——確かに形になった表情の変化だった。
レオンが気づいた。
「今笑ったか」
「笑っていない」
即座に返ってきた。しかしイリスはそのまま、炎を見続けながら続けた。
「……笑い方を忘れていた」
暖炉の火がその言葉を受け取った。誰も何も言わなかった。言えなかった、というより、言わないことが正しかった。七年間という時間の重さを、軽くする言葉がなかった。
セレスが、イリスの隣に腰を下ろした。椅子を寄せて。隣に座った。
「一緒に思い出しましょう。時間はある」
七年分の謝罪が、その一文に入っていた。
イリスがセレスを見た。三秒間。それから炎に視線を戻した。何も言わなかった。しかしその沈黙は、拒絶ではなかった。
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夜明けの光が白樺亭の石段に差し込んでいた。
レオンが外に出た。冷たい朝の空気が頬に当たる。石段に腰を下ろした。空が、灰から白へ、白から薄い青へと変わっていくのが見えた。ノルトハインの夜明けは、王都より静かだった。
後から扉の音がした。
セレスが出てきた。肩の傷に布を当てたまま、石段に並んで腰を下ろした。二人の肩の間は、拳一個分くらいの距離だった。夜明けの光の中で、セレスの白い肌と銀の髪が柔らかく照らされている。傷を押さえる細い手が、光の中にある。
朝の空気の中に、かすかに白檀の香りが混じっていた。
レオンが、前を向いたまま言った。
「さっき抱きしめた。怒ってるか」
セレスが答えた。
「怒っていない」
間があった。
それから、セレスが夜明けの空に向かって言った。計算でも誘惑でもない、漏れた言葉だった。
「……もう少し長くてもよかった」
レオンが何も言えなかった。言葉が来なかった。代わりに、耳が熱くなった。前を向いたまま、空を見上げた。薄い青が広がっている。朝の光がゆっくりと、石畳を温め始めている。
セレスがそれを横目で見た。
そして、笑った。
これまでのどれとも違う笑いだった。前夜祭の夜に見た「笑いが目まで届かない笑い」でも、計算された妖艶な微笑みでも、堪えきれずに肩が揺れた笑いでも、なかった。もっと静かで、もっと全部に届いている笑いだった。
レオンには、それが分かった。
「朝食の費用も帳簿に計上しましたのでご確認を」
白樺亭の窓から、ゴドーが顔を出した。帳簿を片手に持って、特に表情もなく言っていた。
レオンが天を仰いだ。セレスが天を仰いだ。完全に同時だった。
屋内から、低く落ち着いた声が届いた。
「……黙って食べさせてやれ」
ゴドーが窓の外に顔を向けた。その口元が、わずかに緩んだ。笑いに近い表情だった。それから何も言わずに窓から引っ込んだ。
レオンは石段に座ったまま、夜明けの空を見ていた。
ふと、竜殺し——グランド・スケイル討伐に使った白銀の長剣——の柄に触れた。昨夜の混乱で手放さなかった剣。セレスがそれを一瞬だけ見た。目を落として、すぐに空に戻した。その沈黙の理由を、レオンは聞かなかった。
イリスが七年間に見たものの一部を、まだ話していない。セレスが笑った理由の全部を、まだ知らない。ゴドーの帳簿の最終ページに、誰にも見せていない一行があることも——レオンはまだ、知らない。
夜明けの光の中で、暖かくなっていく石段の上で、レオンはもう少しだけ、ここに座っていようと思った。