負債スレイヤー
竜王「グランドスケール」を討ち倒した英雄レオン・クロフォードは、都中で称賛されていた。しかし、その栄光の裏には圧倒的な現実があった――巨額の負債である。装備費、遠征費、宿泊費、ポーション代――冒険者の生活は、実質的に終わりなき大規模な資金調達活動だった。
勝利のパレードで紙吹雪が舞う中、レオンは裏路地で「鉄の爪」商人ギルドの取り立て屋ゴードに追い詰められる。伝説の剣が差し押さえられそうになっていた。絶体絶命のその時、謎めいた美貌の「星読みの魔女」セレス・ヴェラが現れる。彼女は負債を帳消しにする代わりに、北の辺境にある「笑わぬ領主」の屋敷に囚われた少女を救出する任務を持ちかける。
こうして、偽りの英雄と謎の魔女によるとんでもない救出作戦が始まる。屋敷の警備は厳重だが、レオンの英雄ブランドとセレスの狡猾な策略、そして彼らの滑稽に噛み合わないチームワークが次々と予期せぬトラブルを巻き起こす。英雄の真の戦いは、竜ではなく、はるかに恐ろしい敵――債権者たちとの戦いだった。果たして彼は負債を返済できるのか、それとも借金はさらに膨れ上がるのか?
負債スレイヤー - 偽装カップル前夜祭大作戦――あるいはダンスより先に心臓が踊り出す
ノルトハイン領都の石畳は、王都ファルクレストのそれより幅が狭く、ところどころ苔で滑りやすかった。
馬車が最後の坂を下り切ったとき、レオン・クロウフォードは窓の外に広がる小さな街並みを眺めながら、焚き火の橙色の残像がまだ目の裏に残っているのを感じた。セレスが星の話をした夜のことが、ぼんやりと、でも確かな温度で胸の奥に引っかかっている。
(あの声、また聞きたいな)
そんなことを考えかけて、首を振った。馬鹿か俺は。借金が二千四百五十二枚あって何を考えてるんだ。
「ノルトハイン到着です。宿代の事前試算、完了しています」
ゴドーが帳簿から顔も上げずに言った。薄茶色のくせ毛が旅の埃で少し白くなっている。狐のような金色の瞳が数字の列を追う。
「聞いてない」
「聞こえていなくても計上は済んでいます」
セレスが先に馬車を降りた。深い紺の旅装のまま、ノルトハインの石畳に足を着ける。銀の長い髪が夕刻の光を吸って白く揺れた。宿の看板を一瞥し、すぐに手持ちの封筒を開いた。
白樺亭——ノルトハインで唯一まともな宿、と世界観設定にあるとおりの、白樺材の外壁を持つ二階建ての建物だった。煙突から白い煙が細く上がっている。中から薪の焦げる匂いと、根菜を煮込んだような温かい香りが漏れてきた。
セレスが封筒を広げた瞬間、その目が一枚の紙の上で止まった。
「……前夜祭のプログラムが届いていたわ」
声の温度が、占いの館で最初に会った時のそれに戻っていた。計算された、静かな囁き。レオンは自分の首筋がわずかに緊張するのを感じた。
セレスが紙を広げる。レオンも横から覗き込んだ。ゴドーが無言でその後ろに立ち、帳簿を胸に抱えたまま上から見下ろした。
演目一覧。受付。着席晩餐。そして最初の演目欄に、丁寧な筆文字で書かれた四文字。
「婚約披露舞踏」
レオンの視線がその四文字に吸い込まれた。
「……踊れる?」
「踊れますよ」
間髪入れずに答えた。
その後、三秒間の沈黙があった。
セレスが紙から視線を上げ、レオンを見た。ゴドーが帳簿を開いた。計算機を取り出した。何も言わず、カチカチと弾いた。
「追加計上:緊急ダンス特訓費用——試算中」
「まだ何も始まってない!!」
セレスがレオンの袖を掴んだ。
ぐい、と引き寄せられる。気づいたら顔の距離が十センチを切っていた。紫の瞳が、まっすぐ、何も見逃さないようにレオンを見据えてくる。白檀の香りが鼻腔を満たした。夜の焚き火の橙とは違う、昼間の白い光の中で間近に見る紫の瞳は、もっと深くて、もっと冷静な色をしていた。
レオンは嘘がつけなかった。
「……踊れません」
セレスが一度だけ瞬いた。
「知ってた」
「最初から分かってて聞いたんですか!!」
「帳簿計上完了。緊急特訓費用、金貨八枚」
「なんで即座に計上できるの!?金額まで出てる!?」
三人は白樺亭の扉を押し開けた。
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白樺亭の奥の空き部屋——本来は物置として使われているらしい、箒と麻袋が隅に追いやられた四畳ほどの空間——が、即席ダンスフロアに改造された。「改造」と言っても荷物を壁際に寄せただけだが、ゴドーが窓際の椅子に帳簿を広げて陣取ったことで、妙な威厳が生まれた。
「右手を私の腰に。左手で私の手を取って」
セレスが平然と言った。
レオンは言われた通りにした。右手を腰に添えた瞬間、指の平にじかに伝わってくるものがあった。一枚の布越しの体温。息づかいの振動。普段のドレスより実用的な旅装の布地が、思ったより薄かった。白檀の香りが密度を増す。
レオンの思考が、静かに、砂糖が湯に溶けるみたいに、消えていった。
「どっちの足から出せばいいですか」
「右足から」
レオンは右足を踏み出した。
セレスの右足も踏んだ。
「痛い」
「すみません!!」
「接触一回目。足踏み被害、記録開始」
「記録するな!!」
二歩目を踏み出した。左足。またセレスの足だった。
「……お前、竜と戦ったんだよな?」
「戦いました!」
「竜は踏んでこなかったの?」
「竜は踏んでくる側でした!!こっちが踏まれる側でした!!なんで今俺が踏む側になってるんですか!!」
「足踏み二回目。累計被害、銀貨二枚相当」
「足踏みに金銭的価値をつけないでください!!」
三セット目に入ったあたりで、レオンはゴドーの帳簿を奪いに行った。廊下に逃がしさえすれば計上できまい、という戦略だった。
「奪取行為、記録——」
「記録さすかーーーっ!!」
腕を伸ばした瞬間、セレスに腕を掴まれた。引き戻される。その勢いのまま、レオンの顔がセレスの肩口にほとんど埋まりかける距離になった。
二人が、止まった。
物置部屋の空気が、数秒間、完全に静止した。セレスの銀の髪がレオンの首元を掠めていた。白檀の香りが濃い。レオンはセレスの肩越しに、白樺の木壁の木目を見ていた。何かを言おうとして、言葉が出なかった。
セレスが、視線をわずかに逸らした。
ほんの一瞬だった。でも確かに、逸らした。
ゴドーが窓の外を見ていた。帳簿を閉じて。
「……続けるわ」
声が少しだけ低かった。計算された囁きとも、指示口調とも違う、別の何かが混じった声だった。
四セット目の前、セレスがレオンの左手に目を落とした。レオンの手が、わずかに震えていた。竜と戦った時にはなかった種類の震えだということは、レオン自身が一番よく分かっていた。
セレスの指先が、無言でレオンの手の甲に乗った。
押さえるわけでもなく、握るわけでもなく、ただそっと乗っている。細くて、驚くほど冷たい指先だった。
「震えてる」
小声だった。部屋中に聞こえる音量ではなかった。
「うるさい」
レオンも小声で返した。
ゴドーが聞こえないふりをしていた。帳簿を見ていたが、ページをめくる音がしなかった。
その交換の後、なぜかステップが少しだけ整い始めた。
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前夜祭の会場——ノルトハインの集会広間、普段は町民の寄り合いに使われているらしい石造りのホールで、暖炉の火と燭台の明かりが壁面を赤く染めていた——に三人が入場したのは夜七時過ぎだった。
受付の卓に立った女性係員が招待状を確認し、顔を上げた。
「セレス・ヴェラ様とご婚約者……それとこちら様は?」
「財務顧問です」
即答だった。帽子の端を二本指で直し、帳簿を小脇に抱え直す。一切動じていない。
「招待状の名義に財務顧問の記載が——」
「英雄様の財務は繁雑を極めておりまして。私抜きでは一歩も前に進めない構造になっています」
レオンが横で「そうなんです」と言った。嘘ではなかった。ゴドー抜きでは確かに一歩も前に進めない構造になっていた——借金という意味で。
「……どうぞお入りください」
合法化完了。
着席では、婚約者席の間隔が想定より密着していた。テーブルを挟んで向かいに辺境貴族らしき夫婦が座っており、両隣にも正装の人物が並んでいる。
セレスがさらりとレオンの腕に腕を組んできた。
特訓で何度も密着した。慣れたはずだった。
だが宴席の暖炉の光の中で、正装のシャツ越しに伝わってくるセレスの体温は、物置部屋とは全く別の重さをしていた。甘くて、柔らかくて、燭台の光が銀の髪を金色に染める中で、レオンの腕に静かにもたれかかってくるその感触が、なんとも言えない種類のものだった。
レオンは水を飲んだ。
向かいの貴族夫人が微笑んだ。
「まあ、仲のよろしいこと」
レオンが詰まった。何か返すべき言葉を探したが、「実は偽装です」以外の言葉が出てこなかった。
セレスが涼しい顔で口を開いた。
「こういう方なんです。無口なところが、かえって誠実で」
夫人が「まあ」と柔らかく笑った。レオンは水をもう一杯飲んだ。
ゴドーが斜め後ろの壁際の椅子で帳簿を開いていた。
婚約披露ダンスの時刻になった。
フロアに出た瞬間、レオンの背中が石板になった。全員の視線がここに来ている。辺境貴族、その関係者、従者、受付係員まで——全員がこちらを見ていた。竜と対峙した時の方がまだ気が楽だった。竜は一匹だったし、他に観客はいなかった。
足が前に出なかった。重心が後退した。特訓の成果が、視線のプレッシャーで蒸発した。
セレスが低く言った。
「私を見て」
命令の口調だった。レオンは反射的に視線を向けた。
紫の瞳が、まっすぐレオンだけを見ていた。
暖炉の赤と燭台の橙が混ざった光の中で、セレスの銀の髪が静かに揺れていた。白檀の香りが鼻を掠める。距離が近い。腰に添えた右手に体温が伝わる。紫の瞳の中に、ホールの灯りが小さく映っていた。
一歩、踏み出した。
ステップが——噛み合った。
本当に一瞬だった。音楽の一拍分だけ、全部が正確に動いた。足の位置、重心、手の力加減。セレスの体温と白檀の香りと紫の瞳だけが世界になった、完璧な一瞬。レオンの胸の奥で、借金とも偽装とも関係のない何かが、激しく脈を打った。
ガシャン。
壁際からゴドーの帳簿が落ちた。
レオンが反射的に振り返った。
セレスの足を踏んだ。
「帳簿の落下費用を計上します」
ゴドーが床から帳簿を拾い上げながら、一人完結させた。
「なんで帳簿に落下費用がある!!!!」
ホール全員が振り返った。
広間が、静止した。
セレスが振り返った。顔中の怒りを飲み込むような一秒があった。そして口を開いた。
「このような愛嬌のある方なのです」
完璧な貴族の微笑みで。
広間から、笑い声と拍手が起きた。どこかほっとした笑いと、温かい拍手が混ざっていた。「英雄様ならではですね」という声がどこかから聞こえた。
レオンは顔を染めたまま、動けなかった。
ゴドーが帳簿に何かを書いていた。「拍手喝采費用」と書いているのかもしれなかった。確認したくなかった。
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宴も半ばを過ぎた頃、セレスが席に戻り、手元の紙に目を落とした。
招待客リストの写しだった。レオンはちらりと横目で見た。细い指がゆっくりと名前の列を追っていく。白い指先が、一点で、止まった。
セレスの表情から、全てが消えた。
妖艶な微笑みも、計算高い目の動きも、含みのある口元の緩みも——何もなくなった。白い石のような、平坦な無表情だけが残った。
レオンはその横顔を見た。
今まで見たどのセレスとも、違う顔だった。占いの館の囁きでも、特訓中の指示口調でも、焚き火の夜の静かな声でも、ない。何かを、必死に抑えているような——あるいは、何かに気づいて固まっているような。
レオンが口を開こうとした。「どうかしたか」と言おうとした。セレスの横顔が気になってしかたなかった。借金の計算より先に、隣の人間のことを知りたいという、そういう感情が胸の奥から押し上げてきていた。
「本日の前夜祭費用総計、銀貨二十七枚。追加借金に計上後——」
ゴドーが帳簿を差し出した。数字の列がそこにあった。
セレスが一秒で表情を戻した。計算された微笑みが貼り付いた。リストをさりげなく封筒にしまい、ゴドーの帳簿を一瞥して「ご苦労ね」と言った。
レオンが帳簿の数字を見た。
顔が蒼白になった。
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前夜祭が終わったのは深夜に近かった。
ゴドーが先に歩き始め、「明日の潜入費用の事前試算がある」という理由で足を速めた。白樺亭まで三分もかからない距離だったが、それでも計算があると言い張って先に帰った。
レオンとセレスが石畳の裏通りを歩いた。
松明が等間隔に立てられていて、橙色の光が足元の石畳に丸い影を作っていた。ノルトハインの夜は静かで、遠くで犬が一声鳴いた。正装の靴が石畳を打つ音が、二人分、ゆっくりと響いていた。
レオンは宴席でのことを考えていた。ダンスの一瞬のことも、腕に伝わってきた体温のことも、でもそれより——あのリストの上で凍りついたセレスの横顔のことを。
「さっき見てたリスト」
切り出した。
セレスが一歩先を歩いていた。振り返らなかった。
「気のせいよ」
声の質が違った。囁きでも、指示でも、焚き火の夜の星の話をしていた声でもなく、平坦で、遠い、どこか別の場所から来ているような音だった。
「気のせいじゃないだろ」
セレスの足が止まった。
振り返らなかった。ただ、横顔だけをわずかにレオンの方に向けた。松明の橙が銀の髪の端を照らしていた。その横顔は、路地で初めてセレスの違う表情を見た時とも、焚き火の夜の柔らかさとも、また違う何かだった。何かを押し込んでいるような、あるいは押し込み慣れているような、そういう静かさだった。
「明日の潜入に支障はない」
「俺が聞いてるのはそこじゃない」
沈黙が来た。
松明の火が風もないのに揺れた。セレスの唇が、わずかに開いた。何かを言おうとしている——そう分かった瞬間。
「英雄様——帰還遅延、一時間につき宿費を追加計上ですよ」
白樺亭の二階窓から、ゴドーの明瞭な声が降ってきた。帳簿を片手に外を覗いて、特に表情もなく言っていた。
レオンが天を仰いだ。
セレスが無言で歩き出した。
レオンはその横顔を見た。松明の光の中で、セレスの唇の端がわずかに上がっていた。笑っていた。でもその笑いは、目まで届いていなかった。
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白樺亭の個室に戻ったレオンは、天井の白樺材を見つめながら仰向けに横たわった。
正装のシャツのままだった。腕に残る体温の感触が、まだうっすらとそこにある気がした。
ダンスが一瞬だけ完璧に噛み合った瞬間のことを考えた。紫の瞳に引き込まれた感覚を考えた。それから、リストの上で凍りついたセレスの表情を考えた。あの無表情の下に、何があるのか。魔導学院ルミナス・アカデーメ——ファルクレストから東へ百五十キロ、学術都市エストレアにある、魔法使いを育てる機関——と関わりのある何かが、ヴァッセン伯爵領に先回りしているのかもしれない。セレスの過去の何かが。
(俺が聞いてるのはそこじゃない、か)
自分で言った言葉を反芻した。
借金の帳消しのために来た旅だった。偽装カップルの任務のために来た旅だった。それは今も変わらない。変わらないはずなのに、隣を歩く人間のことを知りたいという感情が、どんどん確かな重さを持ち始めていた。
明日、グレーフェルト城館への潜入が始まる。セレスが抱えているものの輪郭が、その先にあるのかもしれなかった。