負債スレイヤー
竜王「グランドスケール」を討ち倒した英雄レオン・クロフォードは、都中で称賛されていた。しかし、その栄光の裏には圧倒的な現実があった――巨額の負債である。装備費、遠征費、宿泊費、ポーション代――冒険者の生活は、実質的に終わりなき大規模な資金調達活動だった。
勝利のパレードで紙吹雪が舞う中、レオンは裏路地で「鉄の爪」商人ギルドの取り立て屋ゴードに追い詰められる。伝説の剣が差し押さえられそうになっていた。絶体絶命のその時、謎めいた美貌の「星読みの魔女」セレス・ヴェラが現れる。彼女は負債を帳消しにする代わりに、北の辺境にある「笑わぬ領主」の屋敷に囚われた少女を救出する任務を持ちかける。
こうして、偽りの英雄と謎の魔女によるとんでもない救出作戦が始まる。屋敷の警備は厳重だが、レオンの英雄ブランドとセレスの狡猾な策略、そして彼らの滑稽に噛み合わないチームワークが次々と予期せぬトラブルを巻き起こす。英雄の真の戦いは、竜ではなく、はるかに恐ろしい敵――債権者たちとの戦いだった。果たして彼は負債を返済できるのか、それとも借金はさらに膨れ上がるのか?
負債スレイヤー - 幽閉の少女と壁の亀裂――あるいは、笑わない者と嘘をつけない者
石畳の上に残した言葉が、まだ空気の中を漂っている気がした。
「俺が聞いてるのはそこじゃない」
そう言いかけたまま、ゴドーの声が降ってきて会話が割れた。あの後、セレスは何も言わなかった。レオンも追わなかった。宿の廊下で互いに無言のまま部屋に戻り、扉が閉まった。それだけだった。
グレーフェルト城館の正門前に三人が揃ったのは、まだ朝靄が地面に貼り付いている時間帯だった。ヴァッセン伯爵領の朝は王都より寒く、吐いた息が白く溶けて消える。城館は灰色の石積みで、四階建ての塔が二本、霧の中から浮き上がっていた。築百八十年という古さが、石の色の暗さに出ていた。
レオン・クロウフォードは正装のまま、鉄格子の正門を見上げた。昨夜の前夜祭で着たのと同じ服だ。腕に残る体温の感触は、もう消えている。
ゴドーが一歩前に出た。両手には例の革表紙の帳簿と算盤。背筋が真っ直ぐで、百八十二センチの長身が朝靄の中でやけに堂々としている。
門番の兵士が二人、槍を持って前に出てきた。ヴァッセン伯爵領の紋章入りの胴鎧。目つきが鋭い。
「何者だ」
ゴドーが帳簿の最初のページをゆっくりと開いた。無言で、兵士の目の前に差し出す。
そのページには、今朝の朝食代から始まり、馬車の乗降にかかった費用、正門前の石畳を歩いた距離、さらには靴底の摩耗による損耗コスト見積もりまで、小さな字でびっしりと数字が並んでいた。
兵士が帳簿を覗き込んだ。一行目、二行目、三行目……顔が固まっていく。
「……えーと」
「英雄レオン・クロウフォード様付き、財務顧問兼執事見習い、ゴドーと申します」
ゴドーが帳簿を閉じ、一礼した。完璧な動作だった。
兵士がもう一人の兵士を見た。もう一人が肩をすくめた。
「……どうぞ」
鉄格子の扉が内側に開いた。
レオンは小声でゴドーに近づいた。
「なんでそれで通ったんだ」
「数字に反論する人間はいません」
「靴底の摩耗コストって何だ!?そんなものを計算する人間がいるから反論できなかっただけだろ!!」
セレスが少し前を歩いていた。振り返りはしなかった。ただ、白い指先が口元に上がって、そのまま止まった。肩が微かに動く。笑いを堪えている——それも、いつもの計算された微笑みではなく、止めようとして止まらなくなったやつだ。
レオンはその一瞬を見た。前夜祭の夜に見た「笑いが目まで届かない横顔」とは違う。もっと速くて、もっと素に近い、ほんの一瞬の表情。
(あ、この人、普通に笑うじゃないか)
そう思った瞬間、セレスが振り返った。もう妖艶な表情に戻っていた。タイミングが合いすぎていて、見られていたことに気づいているのかもしれない。
玄関ホールに踏み込んだ三人の前で、無表情な家令が一礼した。その背後に、人影が立っていた。
フリードリッヒ・ヴァッセン伯爵。
五十代半ば、白髪混じりの短い髪、鋭い灰色の目。「笑わない貴族」という異名の通り、口元も目元も動かない。立っているだけで空気の温度が下がるような人間だった。視線がレオンを測り、セレスを測り、ゴドーの帳簿を一瞥して、また前に戻った。
「……英雄が、辺境に何の用だ」
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広間での茶会は、杯を傾けながら刃を向け合うような時間だった。
窓から差し込む朝の光が石の床に細長い影を落としている。テーブルには茶と焼き菓子が並んでいるが、伯爵は一口も手をつけていない。背もたれに軽く背を預け、腕を組んで、レオンをじっと見ている。
レオンが口を開こうとした瞬間だった。
セレスの両手が、レオンの腕にそっとしがみついた。
指先が細い。布越しでも分かる体温。白檀の香りが一気に密度を増した。セレスが顎をレオンの肩の近くまで傾けて、ちょうど寄りかかるような角度で側に寄り添う。その動作があまりにも自然で、あまりにも速くて、レオンは何も言えなかった。
(あっ、これ、偽装だ。分かってる。分かってるんだけど)
思考の速度が落ちた。砂が湯に溶けるみたいに、ゆっくりと。
「星が、引き合わせてくれたんです」
セレスが伯爵に微笑んだ。声は低く、落ち着いていて、甘みだけが薄くかかっている。婚約者としての演技。完璧だった。
レオンは何とか相槌を打った。
その瞬間、膝に置いていたレオンの手の上に、セレスの手がふわりと重なった。
冷たくて、細い指先。訓練の時に散々触れた感触のはずなのに、今は重さが違う気がした。伯爵の前だから、という緊張が余計に体温を際立たせているのかもしれない。
(やばい、心拍数がおかしい)
「現在の接触面積、金貨四枚分相当」
壁際でゴドーが帳簿に何かを書き込む音がした。
レオンが目を剥いた。ゴドーを見た。ゴドーは表情を変えずに算盤を弾いていた。
「何してるんだあいつ!?」
声に出す寸前だった。セレスの指先がレオンの手の甲をそっと押さえた。そのまま、唇だけが動く。
「伯爵を見て」
吐息が耳の近くをかすめた。囁きというより、音になる手前の声。それが耳に入ってきた瞬間、レオンの視線が反射的に伯爵に戻った。自分の意志ではなく、体が先に動いた。
伯爵が、わずかに表情を変えた。目元の筋肉が一ミリだけ緩む。「笑わない貴族」が、ほんの少しだけ、警戒を解いた瞬間だった。
面会の最後に、伯爵が静かに言った。
「……館の見学を許可しよう」
ゴドーが帳簿を一行書き足した。「依頼目的の前進、評価:予定通り」。
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見学の途中で、セレスが「書庫を拝見したい」と申し出た。
そこで初めて、旅が始まってから三人がバラバラになった。レオンは家令に連れられて一階から順に歩く。ゴドーはセレスの側について廊下に残る。
書庫は三階の奥、窓のない石造りの部屋だった。棚がぎっしりと並んでいて、羊皮紙の綴じ本が隙間なく詰まっている。セレスが蔵書を流れるように確認していく。指先が棚の端を滑る。その動きに迷いがない。探しているものが分かっている人間の動き方だ。
ゴドーが廊下から書庫の扉の隙間を観察していた。帳簿を胸に抱えたまま、壁に背を預けて、特に何もしていないように見せている。
セレスの手が止まった。
一冊の羊皮紙綴じの研究記録。背表紙の刻印に、小さな意匠が入っている。星と三日月。
セレスが記録を棚から引き出した。表紙を確認し、頁を捲る。その動作が、途中で止まった。
末尾のページ。書き込みがある。日付が入っている。三週間前の日付。
セレスの顔から、表情が剥落した。
妖艶な微笑みも、計算された落ち着きも、全部消えて、ただ石のような無表情になった。手帳を取り出して、自分の手帳の紋章と記録の刻印を見比べる。その手が、かすかに震えていた。
廊下からゴドーがその震えを目撃した。
ゴドーが珍しく帳簿を胸に引き寄せて、立ち止まった。算盤を弾く動作を止めた。壁にもたれたまま、少しだけ考える顔をした。
それから帳簿を開いて、短く書き込んだ。
「依頼人の真の目的、開示まで時間コスト換算不能」
書き込みを眺めて、ゴドーは帳簿をゆっくりと閉じた。
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深夜。
館の灯りがほとんど落ちた頃、レオンは昼間の見学で覚えたルートを辿って廊下を歩いていた。
石の床が足音を立てる。なるべく壁側を歩く。四階に上がる石段は古く、三段目が鳴るから踏まないようにする。昼間に確認済みだ。
塔の四階。突き当たりの扉。錆びた南京錠がかかっている。
(セレスなら一分で開けるだろうが、俺には無理だ)
レオンは竜殺しの柄を握った。白銀に近い輝きを放つ長剣——グランド・スケイルの鱗を斬り裂いたことで全大陸に名が知れた剣——の柄尻を、慎重に、南京錠の金具に当てて、力を入れた。一点突破だ。
がちん、と鈍い音がして、錠が外れた。
月光だけが差し込む狭い石室だった。
窓は小さく、格子がはまっている。石の壁、石の床、石の天井。家具はベッドと小さな机だけ。
ベッドの端に、少女が腰かけていた。
白銀色の髪。透けるように白い肌。月の光を受けて、まるで石か彫刻のように静止している。顔を上げた。オッドアイ——左が金色、右が銀色。感情を映さない、石と同じ温度を持つ目。
イリス・ヴァルダ。
レオンは一秒かけて、正面からその目を見た。
「助けに来た」
イリスの視線がレオンに向いた。
「誰に頼まれて」
低く、落ち着いたトーン。感情がない、というより、感情を表に出す習慣がない、という感じの声だった。
「セレス・ヴェラという人物に。俺の借金を全額帳消しにしてもらう条件で」
英雄らしい台詞は一切なかった。ただの事実だった。
イリスが数秒間、黙った。
(これ、まずかったかな。もうちょっとそれっぽいことを言うべきだったか)
レオンが内心でちょっとだけ焦った。でも取り消せなかった。嘘をついても仕方がなかった。
「……少なくとも、嘘はつかないのね」
イリスが立ち上がった。ゆっくりと、しかし迷いなく。そのまま窓の格子に手を触れ、外の暗がりを見た。
「ここを出る理由が、私にはない。帰って」
「理由がない、とはどういう意味か教えてほしい」
イリスが振り返った。
予想していなかった問いかけだ、とその目が言っていた。命令でも懇願でもない、ただの質問。その質問に、イリスの視線が止まった。
レオンは床に座り込んだ。正装のまま、石の冷たい床に。特に深い考えがあってのことではなかった。ただ、立ち続けているより、そこにいる方が自然な気がした。
「話を聞くから。急がなくていい」
イリスがしばらくレオンを見ていた。それからまた窓の外を見た。
レオンは話し始めた。セレスに声をかけられた日のことから、前夜祭でのダンスのことまで。ゴドーが帳簿を持って全力疾走してきた朝のことも。偽装婚約者の訓練で何度も足を踏んだことも。今日の面会で「接触面積、金貨四枚分相当」と帳簿に書き込まれたことも。
イリスは窓の外を向いたまま聞いていた。
その口角が、一瞬だけ——針の先ほど——動いた。
レオンが見ていた。竜と2秒17で向き合った目で。前夜祭の夜にセレスの横顔を4秒見続けた目で。その一瞬をしっかりと捉えた。
「今、笑いかけたか」
「笑っていない」
即答だった。一秒もかからなかった。でも、その一秒の間に、視線がほんの少しだけ逸れた。
石の室内に沈黙が戻った。月光が格子の影を床に描いている。イリスの白い肌がその光の中で、彫刻のような静けさを持っていた。石と同じ温度で、石と同じ静止で——でも、さっき確かに、何かが動いた。
「英雄様、残業代は別途請求になりますよ」
廊下から、石壁を抜けてゴドーの囁き声が入ってきた。明瞭で、歯切れよく、感情がなかった。
イリスが今度こそ、一秒間、はっきりと表情を動かした。口元が動いた。目元が柔らかくなった。それはすぐに消えたが、一秒間、確かにそこにあった。
レオンは廊下の壁に向かって指を一本立てた。「後にしてくれ」という合図だった。
石の静止の中に走った一秒間の亀裂が、狭い石室の中でまだ残響している気がした。
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夜明け近く、中庭の石畳にゴドーが待っていた。
帳簿を開いて何か書こうとしていたが、レオンの顔を見て、開く動作を止めた。
「後にしてくれ」
静かな声だった。頼むでも怒るでもなく、ただ、そう言った。旅が始まってから初めての言い方だった。
ゴドーが帳簿を閉じた。
黙って、レオンの話を聞いた。イリスが拒否したこと。理由を言わなかったこと。でも一秒間だけ、確かに表情が動いたこと。
「イリス・ヴァルダ嬢がここに留まる理由は、恐れからではなく義務感からだと思います」
一言だけ言った。それ以上は何も言わなかった。また帳簿を開いて、数字を書き始めた。
「観察は取立業の基本です」
レオンは何も返さなかった。ゴドーの言葉を、静かに受け取っておいた。
二人が宿泊室に戻る廊下で、セレスの部屋の灯りがまだ消えていなかった。
レオンが扉を軽く叩いた。一拍の間があって、返事が来た。
扉を開けると、セレスが窓辺に立っていた。夜明けの空に向かって。振り返った顔には、いつもの妖艶な表情が戻っている。でも、どこかが薄い。前夜祭の夜に見た「笑いが目まで届かない」状態が、まだかすかに残っていた。
「リストで見たのは誰だ」
昨夜の石畳で言いかけた問いを、そのまま投げた。飾りも前置きもなかった。
セレスが答えなかった。代わりに問い返した。
「イリスに会えた?」
「会えた。拒否された。でも明日もう一度話す」
セレスが窓の方に向き直した。夜明けの光が少しずつ空を白くしていく。その中で、セレスの銀髪が白から金の境界を揺れていた。後ろ姿の肩の曲線が、光の中でゆっくりと形を変える。
「あなたらしい」
小さな声だった。焚き火の夜に星の話をしていた時の声と同じ温度を持っていた。計算ではない声。
レオンが一歩部屋の中に入った。
「それだけじゃないだろ」
低く返した。問いでも責めでもなく、ただ確認した。
セレスの肩が止まった。
五秒間、沈黙が続いた。夜明けの光が窓から伸びて、二人の間の床を白く照らしていた。セレスが振り返らない。レオンが近づかない。扉一枚分の距離で、向かい合わないまま。
「おやすみなさい、明日の作戦費試算は朝食時にお伝えします」
廊下からゴドーの声が扉越しに届いた。
空気が、音を立てずに割れた。
セレスが前を向いたまま、小さく笑った。その笑いが肩まで届いていた。震えるように、でも確かに、肩まで。
レオンにはそれが分かった。
「おやすみなさい、レオン」
占いの館でも、訓練の時でも、前夜祭でもない声だった。ただ名前を呼ぶ声。それだけだった。
レオンが扉を閉めた。
廊下に出て、石の壁に背を預けた。夜明けの冷たい空気が顔に当たる。閉まった扉の向こうで、セレスが一人になる。それだけのことなのに、胸の真ん中に何かが引っかかって、なかなか動けなかった。
(明日、もう一度イリスと話す)
それだけは決まっていた。理由が分からなくても留まっている人間の、義務感の正体を知るために。そしてセレスが書庫で石になった理由を、いつかちゃんと聞くために。
借金の帳消しのために始めた旅だったはずが、いつの間にか、知りたいことがずいぶんと増えていた。