鬼将の花嫁と霧の忍
現代の大学生、木村ひかるは事故で川に落ち、目を覚ますと戦国時代――日本の残酷な戦乱の時代にいた。
彼女はすぐに兵士たちに発見され、「鬼将」と恐れられる戦国大名、稲葉影虎の前に連れて行かれる。冷酷で無慈悲な彼は、ひかるの持つ奇妙な知識に妙な興味を示し、許可もなく彼女を側室として城に留めると宣言する。ひかるは恐怖に震えるが、拒否する力はなかった。
城での生活は厳しい。正室は彼女をにらみつけ、他の女性たちも距離を置く。しかし影虎だけが、ささやかな温もりを見せてくれる。ある夜、何時間も話を聞いた後、彼は静かに言った。「お前は面白い」と。ひかるの心は、ほんの少し動いた。
そんな時、ひかるはユキカゼと出会う。敵対する霞の神一族の忍者で、城外の危険から彼女を救い出した。冷たい影虎とは違い、ユキカゼは優しかった。「お前を傷つけるつもりはない」と言い、霧の中へと消えていく。ひかるの胸は高鳴った。
ユキカゼは何度も現れ、城を密かに監視しながらも彼女を見守り続ける。彼の感情が明らかになるにつれ、ひかるは二人の男の間で揺れ動く。身体を支配する戦国大名と、心を盗んだ影の忍者。
やがて危機が訪れる。霞の
鬼将の花嫁と霧の忍 - 鬼将の眼——側室という名の牢獄
城門をくぐった瞬間、外の喧騒が消えた。
まるで別の世界に入り込んだみたいだった。さっきまで聞こえていた市場の声も、馬の蹄の音も、子供の笑い声も、石垣の向こうに置き去りにされてしまった。代わりにあるのは、砂を踏む足軽たちの足音と、どこか高いところで風を切る旗の音だけだった。
ひかるは連れられながら、イナバ城の内側を初めてちゃんと見た。
石畳が続いている。両側には石垣が積み上がっていて、上の方には見張りの兵が動いているのがわかる。空が、やけに狭かった。四角く切り取られたその空は青くて、でも威圧的で、ひかるは思わず視線を下に落とした。
(城の中ってこんな感じなのか)
大学の授業で「山城の内部構造」を習ったことはある。でも実際に歩くのは全然違う。石の匂いがある。木の匂い、汗の匂い、どこかからかすかに炭の匂いまで漂ってくる。
足軽の一人が立ち止まって、大きな木の扉を開けた。
本丸御殿、とひかるは直感した。
扉の向こうは廊下になっていて、板張りの床が奥へと続いている。足軽たちに促されるまま中へ入ると、廊下の突き当たりにもう一つ扉があった。それが静かに開けられた。
部屋の中心に、一人の男が座っていた。
最初に目に入ったのは「大きさ」だった。
着物を着て正座しているのに、それでも威圧感がある。六尺一寸——現代の言葉で言えば約百八十五センチ。ひかるが立っていれば見上げるくらいの体躯が、畳の上に静かに収まっている。でもその「静かさ」が、かえって恐ろしかった。嵐の前の静けさみたいなものを感じた。
次に目に入ったのは、左頬の刀傷だった。
白く、深い。顎の手前から頬骨にかけて走る一筋の傷跡は、この男がどういう場所で生きてきたのかを、一目で語っていた。本物の傷だ。本物の戦場でついた傷だ、とひかるは思った。
灰色の瞳が、ひかるを見ていた。
感情が、ない。怒っているわけでも、興味があるわけでも、面白がっているわけでもない。ただ、見ている。値踏みしているというより、観察している。虫眼鏡で何かを調べるときのような、そういう目だった。
足軽たちが一斉に膝をついた。
ひかるだけが、立ったまま男を見てしまっていた。
男は怒らなかった。
「名を言え」
低い声だった。静かなのに、部屋の空気を変える声だった。ひかるの膝が、ガクッと折れた。気がついたら、床に膝をついていた。
「き、木村ひかると申します」
敬語を使ったのは反射だった。この人に向かってタメ口を使う気には、どうしてもなれなかった。
男の目が、ひかるの服装を一度だけ上から下まで動いた。ジーンズ、Tシャツ、濡れて半乾きの状態。それから視線が、ひかるの顔に戻ってきた。
「全員、下がれ」
足軽たちが驚いたように顔を上げた。でも男の目を見た瞬間、全員が黙って頭を下げ、部屋から出ていった。扉が閉まる。
ひかると、その男だけが残された。
(どうして一人にするんだ、この人)
怖かった。廊下に足軽たちがいた方が、まだましだった気がする。でも今さら叫んでも無駄だ。
「どこから来た」
ひかるは少しだけ迷った。嘘をついても仕方ない、という気がした。
「……未来の、東京というところから来ました。川に落ちて、気がついたらここにいたんです」
男は表情を変えなかった。嘲笑しなかった。「嘘をつくな」とも言わなかった。ただ静かに、ひかるを見ていた。
「続けろ」
その一言だけだった。
ひかるは必死に言葉を探した。
頭が真っ白になりかけた。この男に何をどう説明すればいいのか、わからない。タイムスリップとか未来とか言っても、この時代には概念すらない言葉だ。でも嘘をつく余裕もない。
そのとき、城下で見かけたものが頭に浮かんだ。
「あの……城下の水路のことなんですけど」
男の視線が、わずかに鋭くなった気がした。でも遮らなかった。
「東の農地のあたり、水路が一本だけ農地の下を通っていて、上の田んぼまで水が届いていませんでした。高いところへ水を引くなら、分岐点を作って傾斜をつけて……あと、米を甕に入れて保存するとき、素焼きの甕のままだと夏の湿気で蒸れて腐ります。焼き締めの甕にするか、甕の中に藁を敷いて吸湿させると腐りにくくなります」
しゃべりながら、自分でも驚いていた。怖くて、でも止められなかった。
「それと、怪我をした人に布を当てるとき、その布を煮た水で洗ってから使うと、傷口が膿みにくくなります。細菌——ええと、目に見えない小さな……病を引き起こすものが布についていることがあって、それを熱で殺すんです」
言い終わって、ひかるは自分の手を見た。手が震えていた。
男が、ゆっくりと動いた。
視線が変わった。さっきまでの「観察」とは違う。何かを計算しているような、それでいて計算より少し先の場所にある感情が、灰色の瞳の奥にわずかに動いた。ほんのわずかだったが、ひかるは確かにそれを見た。
「面白い女じゃ」
低くつぶやいた声だった。独り言みたいなトーンだったが、次の言葉は独り言じゃなかった。
「側室として置いてやる」
ひかるの頭の中で、何かがカチッと音を立てて止まった。
側室——それが何を意味するか、日本史専攻のひかるには痛いほどわかった。正室より格下の妻。城の奥に閉じ込められて、自由に外へ出られない。拒否権なんて、ない。
「あの……拒否、は」
男の目が、静かにひかるを見た。
その眼差しが、答えだった。言葉はなかった。でも「拒否権などない」ということが、空気でわかった。
ひかるは唇を噛んだ。
奥御殿は、静かだった。
廊下を歩くたびに板が微かに鳴って、その音だけが響く。足軽に連れられて奥御殿の廊下を歩いていると、向こうから着物姿の女たちがやってきた。
女たちがひかるを見た。
全員が、ひかるを見た瞬間に視線を逸らした。意図的に、はっきりと。まるでそこに誰もいないかのように、話を続けながら通り過ぎていった。
(無視……された)
廊下の角を曲がって、六畳一間の部屋に通された。窓が一つ。小さかった。外から差し込む光は細く、部屋の半分しか届かない。畳は古く、壁には染みがある。
足軽が去り、しばらくして、廊下に小さな足音がした。
扉が静かに開いた。
小柄な娘が立っていた。十六歳くらいだろうか。黒い髪をきつく結い、地味な着物を着ている。目がうさぎみたいに丸くて、今その目が、ひかるをじっと見ていた。
目が合うと、娘は小さく頭を下げた。
「タエと申します。こちらでお世話をさせていただきます」
声が小さかった。怯えていた。でも逃げなかった。
侍女——ひかるに付けられた、唯一の。
ひかるは少しだけ安心した。この城の中で、自分に言葉をかけてくれる人間がいることへの、細くて小さな安心だった。
「ひかるって呼んでもらえる?」
タエがびっくりしたように目を丸くした。
「そのような……お名前で呼ぶのは、はばかられます」
そうか、この時代には身分の礼儀があるのか、とひかるは思った。まだわからないことが山ほどある。
昼になって、タエが食事を運んできた。
盆の上にあったのは、冷えた麦飯と、薄い味噌汁だった。それだけだった。
廊下の向こうから、女たちの笑い声が聞こえた。食事の匂いも漂ってくる。もっといい匂いがした。魚を焼く匂い、出汁の匂い。
(あっちは違う食事を食べてる)
聞かなくてもわかった。側室——しかも訳のわからない格好をした、どこの馬の骨ともわからない女——への扱いがどういうものか、食事の質が教えてくれた。
ひかるは黙って麦飯を食べた。固かった。味噌汁は塩辛いのに薄かった。でも腹は減っていたから、全部食べた。
タエが、申し訳なさそうにひかるの横で膝を正していた。
「タエは悪くないから」
そう言うと、タエがぱちぱちと瞬きした。
夕方になっても、部屋の外に誰も来なかった。廊下を歩こうとすると、遠くで女たちの話し声がして、気配に気づいた女たちが一斉に押し黙った。ひかるが部屋に戻ると、また話し声が始まった。
壁が薄いから、全部聞こえていた。
「あの変な衣の女、本当に殿の側室になるの?」
「どこの生まれかもわからないのに」
声は小さかったが、聞こえよがしだった。聞かせるために、あの声量で話していた。
ひかるは部屋の真ん中に座った。膝を揃えて、手を重ねた。
帰れない。東京も、大学も、父の声も、友達の顔も、何もかもがここには存在しない。スマートフォンは水没して死んでいる。自分が何者かを証明するものが、何一つない。
逃げられない。城の構造はわからないし、足軽がいる。言葉は通じるが、文化が違いすぎる。
居場所がない。城の女たちはひかるを無視するか、壁越しに嘲笑する。唯一話しかけてくれるのは、怯えた十六歳の娘だけ。
三重の壁が、静かにひかるを囲んでいた。
泣かなかった。泣けなかった、というより、泣いても何も変わらないと頭のどこかが冷静に言っていた。でも膝の上に置いた手が、少し震えていた。
夜が更けた。
タエはもう自分の部屋に下がっていた。廊下の向こうも静かで、女たちの話し声も消えていた。城全体が、寝ているみたいに静かだった。
ひかるは布団の中で天井を見ていた。眠れなかった。目を閉じると、東京の夜の橋が浮かんだ。トラックのヘッドライト。水の冷たさ。でもそれは遠い夢みたいで、自分が本当にそこにいたのか、すでに曖昧になりかけていた。
廊下に、足音がした。
軽くない。重くもない。でも静かで、確かな足音だった。
ひかるは布団の中で体を固くした。命令か、何か叱られることがあったか——頭の中でいろいろな可能性が駆け抜けた。
足音が、ひかるの部屋の前で止まった。
扉は開かなかった。
障子の向こうに、人の気配がある。立っている。ただ、立っている。
「この時代は怖いか」
低い声だった。政務の声じゃない。命令の声でもない。ただ、聞いている声だった。
ひかるはしばらく黙っていた。
なんでそんなことを聞くんだろう、と思った。怖いと答えたら笑われるのか。弱い女だと思われるのか。でも嘘をつく気にもなれなかった。
「怖いです」
正直に答えた。声が少し震えた。
障子の向こうが、沈黙した。
何も言わなかった。慰めも、叱咤も、何も。ただ、少しの間、そこに立っていた。それから、足音が遠ざかっていった。廊下を歩く音が、だんだん小さくなって、消えた。
ひかるは天井を見たまま、その足音の消えた方向を考えていた。
なぜ来たんだろう。なぜそれだけ聞いて、去ったんだろう。怖いと答えたら、何かが変わったのか。何も変わらなかったのか。
わからなかった。
でも、なぜか泣きたい気持ちが少しだけ薄れていた。理由もわからないまま、ひかるはゆっくりと目を閉じた。
朝の光が、小さな窓から差し込んでいた。
タエが盆を持ってきた。昨日の食事より、一品多かった。出汁のきいた汁物が加わっていた。ちゃんと、出汁の匂いがした。
「これ……昨日と違う」
タエがわずかに目を伏せた。何かを知っていて、でも言わないような、そういう顔だった。
影虎が命じたのか。それとも偶然か。確かめる方法はなかった。
ひかるは汁物を一口飲んだ。温かくて、ちゃんとした味がした。昨日の薄い味噌汁とは違う、丁寧に作られた味だった。
(ありがとう、って言えばよかった)
昨夜の障子越しの声を思い出しながら、ひかるはそう思った。でも言えなかった。あの足音が遠ざかる前に、言えなかった。
胸の中に、消えそうなほど小さな温もりがあった。
恐怖も不安もまだある。側室という立場も、城の女たちの敵意も、帰れないという現実も、何も変わっていない。でもその温もりだけが、朝の光の中でかすかに揺れていた。
その日の夕方、タエが夕食を運んできた。
廊下に足音がして、タエが立ち止まった。
ひかるは気づいた。タエの顔が、さっと青くなったのを。
廊下の向こうに、人影があった。一瞬だけ——ほんの一瞬だけ、その人影の視線がひかるの部屋に向いた。何かを確認するような、値踏みするような視線だった。そしてすぐに、静かに去っていった。
タエが盆を置いて、小さな声で言った。
「おもと様でございます」
ひかるはその名前を知っていた。
正室——稲葉影虎の正妻。隣国タカサゴ家から政略結婚で嫁いできた、この城の奥向きを仕切る女性。ひかるより格上で、それどころか、城の女たちの頂点に立つ人物。
タエの怯え方が、普段の城の女たちへの恐れとは質が違った。廊下を歩く女たちへの恐れは「嫌だな」という感じだった。でも今のタエの顔は、もっと深いところにある怯えだった。
廊下の気配はもうなかった。静かだった。
でもひかるは、自分が今誰かに値踏みされたのだ、ということを感じていた。それがどんな意味を持つのかは、まだわからなかった。