鬼将の花嫁と霧の忍
現代の大学生、木村ひかるは事故で川に落ち、目を覚ますと戦国時代――日本の残酷な戦乱の時代にいた。
彼女はすぐに兵士たちに発見され、「鬼将」と恐れられる戦国大名、稲葉影虎の前に連れて行かれる。冷酷で無慈悲な彼は、ひかるの持つ奇妙な知識に妙な興味を示し、許可もなく彼女を側室として城に留めると宣言する。ひかるは恐怖に震えるが、拒否する力はなかった。
城での生活は厳しい。正室は彼女をにらみつけ、他の女性たちも距離を置く。しかし影虎だけが、ささやかな温もりを見せてくれる。ある夜、何時間も話を聞いた後、彼は静かに言った。「お前は面白い」と。ひかるの心は、ほんの少し動いた。
そんな時、ひかるはユキカゼと出会う。敵対する霞の神一族の忍者で、城外の危険から彼女を救い出した。冷たい影虎とは違い、ユキカゼは優しかった。「お前を傷つけるつもりはない」と言い、霧の中へと消えていく。ひかるの胸は高鳴った。
ユキカゼは何度も現れ、城を密かに監視しながらも彼女を見守り続ける。彼の感情が明らかになるにつれ、ひかるは二人の男の間で揺れ動く。身体を支配する戦国大名と、心を盗んだ影の忍者。
やがて危機が訪れる。霞の
鬼将の花嫁と霧の忍 - 守られた夜——返り血と、胸の奥の火
障子の向こうに、おもとの人影が止まった夜から、いくつかの日が過ぎていた。
ひかるはあの気配をまだ覚えていた。音もなく、言葉もなく、ただそこに立って——それから何事もなかったように消えていった。布団の中で天井を見つめたまま朝まで眠れなかった。タエはそれを知っていて、翌朝の茶をいつもより濃く入れてくれた。それだけで、少し楽になった。
城の暮らしに体が慣れてきたのは、悔しいけれど本当のことだった。畳の固さも、早朝から聞こえる兵の稽古の声も、廊下に漂う味噌の匂いも、もう驚かない。着物の帯の結び方もタエに教わって、一人でできるようになった。ただ——影虎に呼ばれる日だけが、まだ慣れなかった。
*
本丸御殿の廊下は、いつも磨かれている。
ひかるが廊下を歩くたびに、板の艶が窓から差し込む光を返してくる。その光の中に自分の足が映って、それが着物姿なのを見るたびに、まだ少し変な感じがした。
ひかるが部屋の前まで来ると、中からすでに声がした。低い、落ち着いた声と——もう少し太い、やや荒っぽい声だった。
案内の家臣が軽く扉を開ける。ひかるは膝をついて中に入った。
影虎が上座に座っていた。漆黒の髪を後ろで束ね、灰色の瞳が書類から上がってひかるを見る。左頬の刀傷が、窓から差す光に白く光っていた。
その隣に、見慣れない男がいた。
五十代半ばだろうか。頭に白いものが混じった髪を短く結い、顎に無精髭がある。太い眉と、肉のついた顔つき。肩幅があって、着物の上からでもがっしりした体格がわかる。だが目は鋭く、どこか品定めするような光がある。
影虎が短く言った。
「[serious]堂嶋じゃ」
堂嶋半兵衛——筆頭家老、と城の女たちがたまに噂する名前。影虎の隣に立つ、この城で最も力のある家臣だ。
半兵衛はひかるをじろりと見た。値踏みする視線だった。悪意ではなく、純粋な「これは信用できるのか」という目だった。
ひかるは少しだけ姿勢を正した。
「ひかると申します」
半兵衛は鼻から息を出した。返事はなかった。
影虎が口を開いた。
「[serious]城下で夏になると腹を下す者が続く。昨年の夏も三十人近くが倒れた。そなたに知恵があると聞いた」
ひかるは少し考えてから、膝の上に手を置いた。
そうだ。これは自分が知っていることだ。大学の授業で、何度も出てきた話だ。
「[serious]飲み水です」
半兵衛の眉が動いた。
「[serious]夏に腹を下すのは、井戸や川の水に、目に見えない小さな——病を引き起こすものが増えるからです。その水をそのまま飲むと、体の中でそれが暴れて、腹が痛くなる。だから一度、水を火にかけて沸かしてから飲む。熱にかければ、そのものは死にます」
半兵衛が口の端を少し曲げた。馬鹿にしているのか、あるいは呆れているのか、どちらとも取れる表情だった。
「[sarcastic]目に見えぬものが水の中に?」
「はい」
ひかるはひるまなかった。
「[serious]五年前の夏、城下でいちばん腹下しが出たのはどこですか」
半兵衛が少し黙った。
「[serious]……河原町じゃ。川沿いの」
「川の水をそのまま使っていませんか。市場で食べ物を洗うのにも、料理にも」
半兵衛の口が閉じた。
ひかるは続けた。声が少し落ち着いてきていた。自分でも気づかないうちに、怖さより伝えたい気持ちが勝っていた。
「[serious]それから、腹を下した人を他の人と同じ部屋に置かないでください。病は人から人にも移ります。具合の悪い人を隔離して、世話をする人も他の仕事をしないようにする。洗い物は煮沸した水で。それだけで、死者はずいぶん減るはずです」
沈黙だった。
半兵衛は腕を組んで、ひかるをじっと見ていた。
影虎は何も言わなかった。ただ静かに、ひかるの顔を見ていた。灰色の瞳は読めない。怒っているわけでも、笑っているわけでもない。ただ、見ていた。
しばらくして、影虎が口を開いた。
「[serious]試せ」
半兵衛への一言だった。それだけだった。
半兵衛は少しの間、視線をひかるに置いてから、深くお辞儀をした。
ひかるは廊下に出て、少しだけ足が震えているのを感じた。でもそれは怖さの震えじゃなかった。
(ちゃんと、聞いてくれた)
なんだかわからないけど、泣きたいような感じがあった。こらえた。廊下の窓から外を見ると、城の石垣の向こうに青い空があった。
*
夜になった。
タエが夕食の膳を下げに来て、「今夜は風が涼しいですね」と言った。ひかるは窓の外を見た。確かに、日中の蒸し暑さが引いて、草の匂いが混じった風が入ってきていた。
廊下に足音がした。
重くも軽くもない、確かな足音。ひかるは反射的に姿勢を正した。
「そなたに見せたいものがある」
扉越しに声がした。命令でも質問でもなかった。ただ、そう言った。
ひかるは立ち上がり、着物の裾を整えてから扉を開けた。
影虎が廊下に立っていた。刀だけを腰に差して、家臣は一人もいない。そういうことが、この人にはあるのだ、とひかるは思った。一人で夜の廊下に立てる人。それで誰も不思議に思わない人。
「[serious]来い」
短く言って、歩き出した。ひかるは後をついた。
廊下を抜けて、石段を上る。灯籠の光が足元を照らしていた。夜風が上から吹き下りてきて、ひかるは思わず着物の胸元を片手で押さえた。
石段を上りきると、広い場所に出た。
天守物見台。城の一番上だ。
ひかるは息を呑んだ——いや、呼吸が一瞬だけ止まった。
眼下に、城下町タテガワが広がっていた。
家々の灯りが、点々と夜の中に浮かんでいる。オモテスジの商家も、河原町の長屋も、遠くの寺町も、全部灯りを持っていた。そしてその全部の向こうを、ハヤセ川が流れていた。川面が月の光を受けて、白く、静かに光っていた。
きれいだった。
シンプルに、そう思った。現代の夜景とは違う。ネオンもない、高いビルもない。でも、一つ一つの灯りの向こうに人の生活があると思うと、むしろその小ささが胸に刺さった。
影虎は欄干の近くに立って、同じ景色を見下ろしていた。
しばらく、二人は何も言わなかった。風だけが吹いていた。
影虎の横顔を、ひかるはちらりと見た。
普段と違った。政務の部屋で見る顔でも、城下を見渡す武将の顔でもなかった。目が、どこか遠くを見ている。焦点が合っているようで、合っていない。この広い夜景のどこかを見ているようで、実際は別のものを見ているような——そういう目だった。
「[gentle]お前は面白いな」
ぽつりと言った。独り言みたいに。
ひかるの胸の奥で、何かがどくんと脈打った。頬に、じわりと熱が集まってくるのがわかった。
(面白い、って)
言葉の意味を、ゆっくり確かめた。馬鹿にしているわけじゃない。この人がそういう言い方をする時は、もっと違う意味だ。今日の疫病の話もそうだったけど——この人はひかるの知識を、ちゃんと受け取っている。
ひかるは川を見たまま、声を出した。
「[whispers]……あたしには、普通のことなんですけど」
影虎が少し動いた気がした。視線が動いたのかもしれない。
「[serious]普通ではない。それがわからぬお前が、普通ではない」
言葉が静かだった。批判じゃない。感心でも、呆れでもない。ただ、そう言った。
ひかるはその横顔を、もう一度見た。
鋭い目が、夜の城下に向いている。でもその目の奥に——孤独がある、とひかるは思った。
こんなに多くの家臣がいて、正室がいて、城全体がこの人のために動いているのに。それでもこの人は、夜、一人で物見台に上がってくる。家臣も連れずに。
何かが、この人の中で重いんだ。
ひかるはそれ以上、何も言えなかった。言葉が見つからなかった。でも不思議と、黙っていることが苦じゃなかった。二人でただ夜風を受けて、城下の灯りを見ていた。
胸の奥で何かが静かに、でも確かに燃え始めていた。それが何なのか、ひかるにはまだわからなかった。
*
翌日は薄曇りだった。
朝から薬草のことが頭にあった。疫病の話をした後、半兵衛が城の薬師に指示を出したという話をタエから聞いた。それで薬草について詳しく知りたくて、城下の薬種屋に行けないかとタエに相談した。
タエは少し心配そうだったが、影虎の家臣が二人同行してくれることになった。それで城下に出ることが認められた。
城下町に出るのは久しぶりだった。
オモテスジの喧騒を抜けて、少し細い路地に入ると、空気が変わった。人通りが減り、地面の石畳が途切れて、土の道になる。その先が城下町の外れになる。薬種屋は寺町の手前、少し奥まった場所にある、とタエに聞いていた。
家臣の二人は少し後ろを歩いていた。ひかるが急ぎ足になると距離が縮まり、ゆっくり歩くと少し開く。ちゃんと見ていてくれている。
ひかるは路地の角を曲がった。
次の瞬間、前に人が立っていた。
一人じゃない。三人——いや、四人か。薄汚れた着物に、腰に刀を差している者もいる。目が赤く充血していた。昼間から酒を飲んでいる匂いがした。
男たちがひかるを見た。ニヤリとした笑いが走った。
後ろに逃げようとした。でも路地が狭くて、振り返ると後ろにも男が一人いた。どこからか回り込んでいた。
「随分といい着物じゃないか」
低い声だった。
声を出そうとした。でも、出なかった。喉が固まって、音が出てこない。
男の一人がひかるの袖を掴んだ。
引っ張られた。体が傾く。ひかるは腕をばたつかせた。でも男の力は桁が違った。そのまま地面に引き倒されかける——。
その瞬間。
ザシュッ、という音がした。
ひかるの袖を掴んでいた男が、突然前に倒れた。ひかるの腕が解放されて、ひかるは石畳に膝をついた。
同行していた家臣の一人が刀を抜いていた。もう一人も抜刀して、残りの男たちに向かっていた。
数秒だった。それだけで、全部が終わった。
男たちが倒れている。何人かは逃げた。路地に、うめき声が残った。
ひかるは膝をついたまま、動けなかった。
頬に何かがかかった。生温かいものだった。手で触れると、赤かった。
血飛沫だ、とわかるまで少し時間がかかった。
(血だ)
体が、細かく震え始めた。止められなかった。家臣が「お怪我は」と声をかけてきた。ひかるは首を横に振った。怪我はない。でも体の震えが止まらなかった。
戦国時代の暴力は、教科書の中の話じゃなかった。
今、頬に血がついている。血の温度が、まだ皮膚に残っている。
*
城に戻ってから、タエに頬を拭いてもらった。
タエの手が震えていた。ひかるより、タエの方が顔が青かった。
「[crying]申し訳……本当に、申し訳ございません」
「タエが悪いんじゃない」
自分でもびっくりするくらい、落ち着いた声が出た。中身は全然落ち着いていなかったけれど。
タエが盥に水を汲んで来て、濡らした布でひかるの頬を拭く。水の冷たさが、少しだけ体の震えを落ち着かせた。
日が傾き始めた頃、廊下に足音がした。
重い足音だった。いつもと同じ足音なのに、今日はその重さが違って聞こえた。タエが顔を上げた。表情が変わった。
障子が開いた。
影虎が立っていた。
着物に、暗い染みがあった。
ひかるは一瞬、それが何かわからなかった。次の瞬間、理解した。
血だ。返り血だ。
影虎の顔は「鬼将」の顔だった。政務の部屋で見る顔でも、物見台で夜景を見ていた顔でもない。何かを終わらせてきた男の顔だった。
タエが小さく息を飲んで、部屋の隅に下がった。
ひかるは体が固まった。立てなかった。座ったまま、影虎を見上げていた。
影虎はひかるの前まで歩いてきて、止まった。
しばらく、何も言わなかった。
それから、絞り出すように言った。
「[serious]もう誰にも手は出させない」
命令じゃなかった。約束でも、宣誓でもなかった。
もっと、静かな言葉だった。
ひかるの胸の中で、恐怖と安堵がぐるぐると混ざり合った。この人は今、返り血を浴びて戻ってきた。一人で。ひかるのために。
そのことが、じわじわと体の内側に染みてくる。
(あたしのために、この人は刀を持って出ていったんだ)
恐ろしかった。でも——それ以上に、別の感情が確かにあった。胸の奥の、もっと深いところで、熱いものが灯っている。それが何なのか、ひかるには言葉にできなかった。でも確かにある。消えない。
ひかるは口を開こうとした。
何を言えばいいのかわからなかった。ありがとうでも、なんでそんなことをしてくれたんですか、でも、どれも違う気がした。
影虎は、ひかるの答えを待たずに部屋を出ていった。足音が廊下を遠ざかる。やがて消えた。
ひかるは、しばらく開いたままの障子を見ていた。
自分が影虎に守られることを、望んでいる。
その事実が、静かにひかるの中に降りてきた。言葉にすると照れくさいとか怖いとか、そういう感情が出てくる前に——ただ、そこにあった。
タエが、小さな声を出した。
「[whispers]……ひかる様」
ひかるは顔を上げた。
タエの目が、廊下の方を向いていた。
廊下の角に、人影があった。複数の侍女が立っていて、こちらを見ていた。蔑みとは違う視線だった。驚きと、動揺と——嫉妬が混じったような、複雑な目だった。
殿が、たった一人の側室のために刀を持って出ていった。その事実が、城の奥御殿にもう広まっているのだ、とひかるは理解した。
タエが声をひそめた。
「[whispers]奥の女たちの間で、今夜の話が……」
ひかるは小さくうなずいた。
侍女たちの視線が引いて、廊下が静かになった。
夕暮れの光が、部屋の端まで伸びてきていた。
ひかるはもう一度、影虎が立っていた場所を見た。石畳に薄く、砂埃が残っていた。それだけだった。でも確かに、そこにいた。
(あたし、守ってもらった)
もう一度、その言葉を心の中でなぞった。
胸の奥の火は、消えなかった。
夕刻になって、廊下の人の気配がほとんど消えた頃。
ひかるの部屋の障子の外に、人影が止まった。
タエが、息を飲んだ。
「[whispers]……おもと様で、ございます」
タエの声が、かすかに震えていた。
人影は動かなかった。何も言わなかった。ただそこに立って——それから、音もなく去っていった。
ひかるは布団の上で膝を揃えたまま、障子を見ていた。
胸の中に灯った火と、廊下に残った静けさ。その二つが、ひかるの中でゆっくりと混ざり合っていく。
今夜から、この城の何かが変わった。自分でも気づかないうちに、ひかるはその渦の中に踏み込んでいた。