俺ガイル、やり直し。〜八幡、なぜか学園の王子様になる〜
ある朝、目覚めると比企谷八幡は学園一の人気者になっていた。皆が彼を「ヒキタニ」と呼び、女子たちはべったりと離れない。隣の席の雪ノ下雪乃は涼しい顔で「お昼、一緒にどう?」と誘い、由比ヶ浜結衣は毎朝トーストをくわえて登校してくる。一色いろはは小悪魔的な笑みで「先輩、一緒に生徒会やりましょうよ」とささやく。
ひとりになりたいだけの八幡は、必死に逃げ回る。だが逃げれば逃げるほどモテるという、拒否が好感度を上げてしまう謎のシステム。文化祭では女装コンテストで優勝し、体育祭ではなぜかクラスの女子全員と二人三脚をする羽目に。唯一、平塚先生だけは「ぼっちは甘えだ!青春しろ!」と普通に接してくるが、それすらもどこかズレていて、八幡だけが気づいている。
最大の危機は「バレンタイン・デスマッチ」。雪ノ下と由比ヶ浜が互いに手作りチョコを賭けたお菓子対決を挑み、八幡はどちらかのチョコを選ばなければならない。一方を選べば、もう一方とは永遠に決別。選べない八幡は第三の道「友チョコ」という伝説の選択肢を編み出すが、それがさらなる誤解を生み、文化祭のステージで公開告白イベントが発生。全校生徒の前で、二人の少女から「
俺ガイル、やり直し。〜八幡、なぜか学園の王子様になる〜 - バレンタインまで残り7日、俺の逃げ場が一個ずつ消えていく件
下駄箱の引き戸が、いつもより重く感じられた。
八幡は誰よりも三十分早く校門をくぐった。教室で一人、あのクソったれな逆モテ・システムの攻略法を練り直すためだ。残り七日。記憶が全部消えるまで、あと七日。
(まずは情報の整理からだ)
そう思って下駄箱を開けた瞬間、彼の計画は脆くも崩れ去った。
ひらりと落ちた白い封筒。今週三枚目の、生徒会からの『招待状』だった。裏には丸っこい字で、こう走り書きされている。
『残り七日ですよぉ♡ 先輩』
「[cold]……いろはの奴、もう勘付いてやがる」
昨夜の生活指導室。あの密室での会話を、一色いろはは既に自分の中で消化し、いつも通りの笑顔の裏に隠している。そう悟った瞬間、背筋に冷たいものが走るのを感じた。策を練るのは無駄だ。あいつは俺の三手先を常に読んでくる。
上履きに履き替え、廊下を曲がる。
その時だった。
パタパタパタ——。
聞き慣れた軽やかな足音が、廊下の向こうから駆けてくる。由比ヶ浜結衣だ。いつもならパンをくわえて、「おはよう!ヒキタニ君!」と元気に叫ぶ、あの朝のルーティンが始まる。
しかし、八幡の目に映った由比ヶ浜は、違った。
彼女は走りながら、ぐっと唇を噛みしめていた。栗色のふわふわした髪が揺れる。大きな茶色の瞳は、今にもこぼれ落ちそうな涙でいっぱいだ。太陽みたいな笑顔は欠片もなく、ただ必死に何かに耐えている顔だった。
由比ヶ浜は、八幡と目が合った瞬間、ハッとしたように立ち止まった。
そして、無理やり笑顔を作る。
「[gentle]……お、おはよう!ヒキタニ君!」
声が、震えている。
普段なら「あっそ」とだけ言ってやり過ごす場面だ。だが今朝の八幡は、うまく視線を逸らせなかった。彼女の目の端に溜まった涙が、蛍光灯の光を反射してチカチカと輝いている。
「[gentle]……おはよ」
自分でも驚くほど、小さな声が出た。
由比ヶ浜はそれだけを聞くと、逃げるように教室へ走っていった。彼女の背中が、廊下の向こうで小さくなる。八幡は自分の胸の奥が、じんわりと重くなるのを感じた。
(クソッ。これだから面倒なんだよ)
逆モテ・システムの数値を頭で計算しようとしたが、うまくいかない。数字より先に、あの震えた声が頭の中でこだましていた。
一時間目の授業が終わると同時に、八幡は教室を飛び出した。
向かう先は、図書室だ。ボッチの聖地。誰も俺に話しかけるなという無言の圧力を放てる、唯一の避難所。
図書室の重い扉を静かに開ける。紙と埃の混ざった匂いが、むっと鼻をついた。窓から差し込む朝の光が、床に長い影を落としている。
そして——いた。
窓際の席に、雪ノ下雪乃が座っていた。腰まで届く黒髪が、光を受けて艶やかに輝いている。手には文庫本が開かれているが、その切れ長の瑠璃色の瞳は、窓の外の校庭に向けられたまま、ピクリとも動かない。まだ一ページも捲っていない証拠だ。
八幡は音を立てずに、本棚の陰に隠れようとした。その時だった。
「[whispers]……比企谷くん」
八幡の背筋が凍りついた。
(いま、比企谷くん、と呼んだ)
この世界の人間は、みんな俺を『ヒキタニ君』と呼ぶ。八幡の本名を呼ぶのは、元の世界を知っている者だけだ。
振り返ると、雪乃は静かに本を閉じていた。
「[sad]昨夜から、ずっと考えていたの」
その声は、いつもの自信に満ちたお嬢様口調ではなかった。か細く、今にも消え入りそうな、一人の少女の声だった。
「[whispers]私……あなたの記憶を奪う権利なんて、なかったわ」
雪乃はそれだけを言うと、深く俯いた。黒い前髪が顔を隠し、表情は見えない。しかし、白い本の表紙にポタリ、と一滴の水滴が落ちたのを、八幡は見逃さなかった。
八幡は、何も言えなかった。
図書室に、沈黙が落ちる。
窓の外で、体育の授業なのか、誰かの甲高い声とボールの弾む音が遠く聞こえる。その日常の音だけが、二人の間に流れていた。この沈黙は甘いものじゃない。痛みを共有するような、そんな静けさだ。
(こいつ、本当に俺のことを……)
八幡が何か言いかけた時だった。
ガラリ。
図書室の扉が開き、別のクラスの生徒が数人入ってきた。雪乃は慌てて立ち上がり、本を棚に戻すと、八幡に背を向けたまま足早に出て行った。
残された八幡は、彼女の座っていた椅子をじっと見つめる。
昼休み。
八幡はボッチ禁止令の目をかいくぐり、屋上への階段を駆け上がった。
ギイ、と重い鉄製の扉を押し開く。
潮風が、むわっと全身を包み込んだ。フェンス越しに、キラキラと光る東京湾が見える。屋上には誰もいない。
「[gentle]……はあ」
やっと一人だ。八幡はフェンスにもたれかかり、大きく息を吐いた。空は雲一つない晴天で、午後の日差しがじりじりとアスファルトを焼いている。
(そうだ。まだ俺には、逃げるという選択肢が——)
そんな現実逃避に浸ろうとした、まさにその瞬間。
「[excited]先輩!」
「うおっ!」
心臓が口から飛び出るかと思った。
振り返ると、扉の隙間から亜麻色のセミロングの髪を揺らして、一色いろはがひょっこり顔を出している。その大きなアーモンド形の瞳は、獲物を見つけた子猫みたいにキラキラしていた。
「[excited]ここにいると思いましたぁ♡」
彼女はスキップするような足取りで近づいてきて、八幡の目の前に一枚のメモ用紙を突きつけた。手書きの文字だ。
「……何だこれ」
『逆モテ・システム強制停止方法:対象者が自身の本音を誰かに正直に伝えること。条件成立と同時に、世界は元の状態にリセットされる』
頭の中を、真っ白い光が駆け抜けた。
「[serious]これ、どこで」
「[gentle]雪乃先輩が、昨夜のうちに調べて、私に渡してきたんですよぉ」
いろはは言いながら、八幡の隣に並んでフェンスにもたれかかった。八幡よりずっと小さな体が、すぐ隣にある。
「『先輩に届けてほしい』って。直接渡さないあたりが、雪乃先輩らしいですよね」
八幡の中で、パズルのピースがかちりとハマる音がした。
雪乃は昨夜、自分が世界の創造者だと告白した。そして、記憶の消滅を知った後——自分で解除条件を調べ上げた。それなのに、八幡に直接渡さず、いろはを使った。
自分で強制するんじゃない。八幡に、自分で選ばせる道を残したんだ。
(あいつ、変わりやがったな)
八幡は心の中で呟いた。
「[serious]……で、いろは。お前はこれを渡して、俺にどうしろってんだ」
八幡の問いに、いろはは一瞬だけ動きを止めた。
そして、いつもの小悪魔スマイルをスッと消した。
「[whispers]……先輩がいなくなったら、私も消えちゃうじゃないですか」
風が、彼女の亜麻色の髪をふわりと揺らす。
「[crying]せっかく、こんなに楽しくなったのに。先輩と生徒会できたら、もっと笑えると思ったのに」
彼女の大きな瞳が、みるみるうちに赤く染まっていく。
「[crying]私の気持ちなんて、計算高い小悪魔のただのワガママですよ。でも……やっぱり、嫌なんです」
笑顔の仮面が、崩れかけている。
八幡は、何も言えなかった。
雪乃に、結衣に、そしていろはに——自分が逃げ続けることで、誰かが傷つく。理論じゃない。理屈じゃない。今この瞬間、心の底からその事実が重くのしかかってきた。
(逃げるんじゃねえ、俺)
自分の心臓が、ドクンと重く脈打つ。
——ピンポンパンポーン。
屋上のスピーカーから、校内放送のチャイムが鳴り響いた。
『全校生徒の皆さんに、緊急のお知らせでぇす♡』
八幡はギョッとして、隣のいろはを見た。
彼女は、泣きかけた顔のまま、ポケットからスマホを取り出して何かを操作している。
『二月十四日——バレンタインデー。この記念すべき日に、生徒会主催の「全校参加型・第1回ミハマ学園バレンタイン告白イベント」を開催します! 参加必須対象は、生徒会副会長候補の——ヒキタニ君です!』
放送が終わると、校庭のあちこちからワアアアッという歓声が湧き上がってきた。
八幡は、ゆっくりと隣の少女を見下ろした。
いろははスマホをポケットにしまい、さっきまで泣きそうだった顔をクルリと八幡に向ける。その顔にはもう、完璧な小悪魔スマイルが戻っていた。
「[excited]さっき流しました♡」
「[cold]お前が一番タチが悪い」
呻くような声が出た。
「[laughing]泣きながらスマホを操作する練習、昨夜ちゃんとしましたから」
彼女は、してやったりの顔で笑った。でも、その目の端は、まだほんの少しだけ、赤いままだった。
八幡はフェンス越しに校庭を見下ろした。
全校生徒が、まるで祭りの前みたいにざわついている。その群衆の中に、二人の女子の姿が見えた。
雪ノ下雪乃が、校庭の桜の木の下で、スピーカーをじっと見上げている。
由比ヶ浜結衣が、教室棟の入り口で、友達に声をかけられながらも力なく俯いている。
逃げ場は、もう完全に塞がれた。
二月十四日。全校生徒を巻き込んだ公開告白イベント。
八幡はあと六日で、全員の前で自分の本音を誰かに伝えるしかない。これはもう、一色いろはが仕掛けた、逃げ場ゼロの完全包囲網だ。
「[sarcastic]……めんどくせえ。本っ当に、めんどくせえ」
ため息交じりの八幡の声を、東京湾からの湿った潮風が、屋上からさらっていった。
雲が流れ始める。晴天だった空の端に、次の嵐の気配がじわりと滲み始めていた。