俺ガイル、やり直し。〜八幡、なぜか学園の王子様になる〜
ある朝、目覚めると比企谷八幡は学園一の人気者になっていた。皆が彼を「ヒキタニ」と呼び、女子たちはべったりと離れない。隣の席の雪ノ下雪乃は涼しい顔で「お昼、一緒にどう?」と誘い、由比ヶ浜結衣は毎朝トーストをくわえて登校してくる。一色いろはは小悪魔的な笑みで「先輩、一緒に生徒会やりましょうよ」とささやく。
ひとりになりたいだけの八幡は、必死に逃げ回る。だが逃げれば逃げるほどモテるという、拒否が好感度を上げてしまう謎のシステム。文化祭では女装コンテストで優勝し、体育祭ではなぜかクラスの女子全員と二人三脚をする羽目に。唯一、平塚先生だけは「ぼっちは甘えだ!青春しろ!」と普通に接してくるが、それすらもどこかズレていて、八幡だけが気づいている。
最大の危機は「バレンタイン・デスマッチ」。雪ノ下と由比ヶ浜が互いに手作りチョコを賭けたお菓子対決を挑み、八幡はどちらかのチョコを選ばなければならない。一方を選べば、もう一方とは永遠に決別。選べない八幡は第三の道「友チョコ」という伝説の選択肢を編み出すが、それがさらなる誤解を生み、文化祭のステージで公開告白イベントが発生。全校生徒の前で、二人の少女から「
俺ガイル、やり直し。〜八幡、なぜか学園の王子様になる〜 - バレンタイン・デスマッチ、開幕。俺はお前たちの答えになれるのか
二月十四日。
バレンタインデー。
空はどこまでも青く、雲一つない。まるで世界が今日という日を祝っているかのような、皮肉なほどに完璧な晴天だった。
比企谷八幡は、校門をくぐる。
靴の裏がアスファルトを擦る音だけが、やけに大きく響いた。
下駄箱の前に立つ。
いつもなら生徒会からの「招待状」が溢れている引き戸を、彼は無言で開けた。
ひらり。
落ちてきたのは、一枚の、折りたたまれた白い紙。
手に取る。
裏返す。
『今日だけは、逃げないでください。』
几帳面な文字。丸っこい文字。そして、癖のある走り書き。
雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣、一色いろは。三人の筆跡が、一行の文章の中で混ざり合っていた。
(連名、か)
八幡は紙をポケットに押し込んだ。
「[gentle]……めんどくせえ」
声は、自分でも驚くほど静かだった。
いつもの皮肉も、毒舌も、欠片も乗っていない。
廊下を歩く。
教室へ向かう足が、自然と体育館の方へと向かう。
(俺は、何をやってるんだ)
昨日の、いろはの泣き顔が頭から離れない。
計算高い小悪魔が、初めて見せた、ただの少女の顔。
そして、雪乃の「あなたの記憶を奪う権利なんてなかった」という震える声。
結衣の、必死に笑顔を作って「おはよう」と言った、涙ぐんだ瞳。
逆モテ・システムの数値なんて、もうどうでもよかった。
拒絶すれば好感度が上がる? 逃げれば逃げるほどモテる?
そんな計算、今朝の八幡の頭の中には、一度も浮かばなかった。
「[gentle]比企谷」
声がして、八幡は足を止めた。
振り返ると、平塚静が壁にもたれかかっている。
白衣のようなスーツ姿。手にはいつもの『青春しろ』クリアファイル。
だが、その拳は握られていなかった。
「[gentle]お前が自分で歩ける日を、ずっと待っていた」
平塚先生は、それだけ言うと、顎で体育館の方向をしゃくった。
鉄拳制裁もなければ、「青春しろ」の説教もない。
ただ静かに、一人の大人が、一人の生徒の背中を押している。
「[sarcastic]……珍しく優しいっすね。気持ち悪い」
「[gentle]馬鹿者。行け」
八幡は小さく息を吐いて、歩き出した。
体育館の重い扉の前に立つ。
中から、何百人ものざわめきが漏れ聞こえてくる。
手をかける。
冷たい鉄の感触。
(ここが、俺の処刑台か)
ギイィ……。
扉が開いた。
瞬間、体育館中の六百人の視線が、一斉に八幡に突き刺さる。
静寂。
次の瞬間——
ワアアアアアアアアアア!!!
割れんばかりの歓声と悲鳴と、何が何だか分からない熱狂の坩堝。
「[excited]キターーーー!」
「[excited]ヒキタニ君だ!本当に来た!」
「[scared]ちょっと、押さないで!」
体育館の中心には、簡易ステージが組まれていた。
文化祭で使うような、高さ五十センチほどの、木製の壇。
その上にはマイクスタンドが一本。
そして——三脚のスポットライトが、燦々とステージを照らしている。
「[excited]はいはーい、皆さんお静かにぃ!」
マイクを持った一色いろはが、ステージの中央に立っていた。
亜麻色のセミロング。子猫のような大きな瞳。
今日はいつもの小悪魔スマイルに加えて、司会者らしく少しだけフォーマルなワンピース姿だ。
「[excited]本日は生徒会主催、『第一回ミハマ学園バレンタイン公開告白イベント』にご来場いただき、誠にありがとうございますぅ!」
会場が沸く。
「[excited]早速ですが、参加必須の先輩——ヒキタニ君に、ご登壇いただきます!」
いろはの合図で、スポットライトが八幡を捉える。
眩しい。熱い。
八幡は観客席の間を歩かされた。
まるで処刑台への花道を歩く罪人のように、両側から好奇の視線が降り注ぐ。
(帰りたい。本っ当に、帰りたい)
心の中で呟きながら、一歩、また一歩とステージへ近づく。
ステージに上がる。
ギシリと木が軋んだ。
正面を見る。
そこに——二人の少女が立っていた。
雪ノ下雪乃。腰まで届く艶やかな黒髪。切れ長の深い瑠璃色の瞳。
今日は制服ではなく、深い青色のシンプルなワンピースを着ている。
その顔に、いつものクールな仮面はない。
不安そうで、でも何かを決意したかのように、真っすぐに前を見据えている。
由比ヶ浜結衣。明るい栗色のふわふわショートボブ。大きな茶色の瞳。
彼女はもう、笑顔を作ろうとはしていなかった。
唇をぎゅっと結び、両手を胸の前で握りしめている。
目は潤んでいるのに、それでも泣くまいと必死に堪えているのが分かった。
(二人とも、泣きそうな顔してる)
(なのに、笑おうとしてる)
八幡の胸の奥が、じわりと熱くなる。
逃げたい。
今すぐこの場から、全力で走り去りたい。
でも——足が、動かなかった。
「[excited]それでは——」
いろはが、マイクを掲げた。
「[serious]まずは、雪ノ下雪乃先輩。どうぞ」
雪乃が、一歩前に出る。
体育館が、静まり返った。
六百人の呼吸だけが、ざわざわと聞こえる。
雪乃はマイクを受け取ると、八幡の方を向いた。
瑠璃色の瞳が、まっすぐに八幡を見つめる。
彼女は、口を開いた。
「[whispers]……私は」
声が、震えている。
いつもの凛とした、どんな敵も切り捨てる毒舌も、消えている。
「[whispers]私は、あなたを閉じ込めるために、この世界を作った」
会場中が、息を呑んだ。
「[crying]元の世界では、あなたに伝えられなかった気持ちがあった。
だから、願ったの。
あなたが一人でいられる世界じゃなくて——
あなたが、誰かと一緒にいられる世界を作りたいって」
雪乃の目から、涙が一筋、こぼれ落ちた。
「[crying]でも、これは間違いだった。
あなたの記憶を奪って、私だけのものにしようとした。
それは、私のエゴだった」
彼女は、ぎゅっとマイクを握りしめる。
指が震えている。
「[whispers]昨夜、調べたの。
この世界を壊す方法。
あなたの記憶を守る方法」
雪乃は、泣き顔のまま、ほんの少しだけ笑った。
「[crying]私が選んだのは——あなたを、手放すことよ」
沈黙。
雪乃はマイクを結衣に差し出した。
結衣は、震える手でそれを受け取る。
「[crying]……雪乃ちゃん、ずるいよ」
結衣の声は、もう涙でぐしゃぐしゃだった。
彼女は涙を拭おうともせずに、八幡を見た。
「[crying]あたし、ずっと考えてた。
この世界は偽物かもしれない。
あたしの気持ちだって、誰かに作られたものかもしれないって」
栗色の髪が、スポットライトに照らされて、金色に輝く。
「[crying]でも——!」
彼女は、叫んだ。
「[crying]偽物の世界でも、あたしの気持ちは本物だった!
ヒキタニ君のことが大好きで、一緒にいたくて、
それだけで十分だった!」
彼女の声が、体育館に響き渡る。
「[crying]……それだけ、言えればよかった」
結衣はマイクを胸に抱きしめて、うつむいた。
肩が、小さく震えている。
六百人の観客は、誰一人として、声を発さなかった。
ただ、じっと、ステージを見つめている。
「[gentle]……ありがとうございます、お二人とも」
いろはが、結衣からマイクを受け取った。
彼女は、小さく深呼吸をしてから、顔を上げる。
いつもの小悪魔スマイルは、もうない。
でも、泣き顔でもない。
ただ、とても真剣な、初めて見せる素顔だった。
「[gentle]私は——先輩のことを、ずっとからかってきました」
いろはは、八幡を見つめながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「[gentle]生徒会に勧誘して、逃げられると追いかけて、修羅場を面白がって。
私、そういうのが好きなんだなーって思ってました」
彼女は、ふっと小さく笑った。
「[whispers]——でも、違ったんです」
声が、少しだけ震える。
「[crying]本当は、一番逃げてほしくなかった。
私の計算に引っかかって、ずっと側にいてほしかった。
先輩がいなくなるのが——怖かった」
いろはは、マイクを胸に押し付けるように抱え込んだ。
顔を上げたその目は、涙で揺れている。
「[crying]こんな小悪魔のワガママですけど——
それでも、伝えたかったんです」
そう言うと、いろはは八幡の胸に、マイクを押しつけた。
そして、司会席を離れて——
雪乃と結衣の隣に、並んで立った。
三人の少女が、横一列に並ぶ。
黒。栗色。亜麻色。
三人の髪が、スポットライトに照らされて、それぞれに違う色に輝いている。
全員、泣いているのに。
全員、笑おうとしている。
六百人の視線が、八幡一人に集中する。
八幡は、マイクを持った。
ずっしりと重い。
(……俺は)
逃げ続けてきた。
この世界でも、元の世界でも。
誰かと本気で向き合うのが怖くて、傷つけるくらいなら一人でいいと思ってた。
でも。
(お前たちの気持ちを——)
八幡は、顔を上げた。
死んだ魚のような目が、三人を順番に見つめる。
雪乃。
結衣。
いろは。
俺は。
「[gentle]……俺は、逃げ続けてきた」
声が、マイクを通して体育館に響く。
「[gentle]ひねくれて、斜に構えて、本気になんかならないふりしてた。
お前たちの気持ちを面倒だって、そうやって——全部、逃げてた」
観客席が、ざわつく。
「[gentle]でも——」
八幡は、息を吸った。
「[serious]お前たちの気持ちを、嘘だと思ったことは、一度もなかった」
その瞬間——
体育館の窓から、白い光が差し込んだ。
いや、窓だけじゃない。
壁の隙間から、床の下から、天井から。
あらゆる場所から、柔らかな白い光が溢れ出してくる。
「[surprised]……え?」
「[scared]何、この光……!」
観客たちがざわめく。
雪乃が、目を見張った。
「[whispers]……条件が、満たされたの?」
結衣が、口を手で塞いで泣き出す。
「[crying]……ヒキタニ君……!」
いろはは、涙を流しながら笑っていた。
「[laughing]あはは……やっと言ってくれた……」
世界が、音を立てて崩れていく。
光が強くなり、体育館の壁が、観客が、すべてが白く溶け始める。
(逆モテ・システムの停止条件)
(俺が本音を、誰かに正直に伝えること)
八幡は、マイクを握りしめたまま、三人を見つめていた。
雪乃が、光の中で手を伸ばす。
結衣が、泣きながら笑っている。
いろはが、いつもの小悪魔スマイルを初めて心から浮かべている。
(まだだ)
(まだ、言いたいことがある)
八幡は、マイクを口元に近づける。
「[serious]最後に——一個だけ、聞いてくれ」
光が、三人を包み込もうとしている。
世界が、完全にリセットされる——その寸前。
八幡は、逃げなかった。
初めて、自分の足でここに立った。
そして、自分の言葉で、伝えようとしている。
「[serious]……」
光が、すべてを飲み込んだ。
——まだ、声は途切れていない。