クロノワール 〜黒に染まらない2人〜
叶と葛葉は『クロノワール』と呼ばれる人気のデュオユニットで、ゲームスキルと軽妙な掛け合いで知られている。ファンは二人をカップリングとして応援しているが、本人たちはただのパートナーだ。叶はクールを装っているが実は孤独で、葛葉は強がっているがドジな吸血鬼。ある日、新メンバー『ルミナ』が現れ、デビュー配信で葛葉に大胆に告白する。「先輩、あなたの闇に惹かれました。私をあなたの色に染めてください」。配信は大炎上。葛葉は顔を赤らめて叫ぶ。「血は吸わねえよ!」。叶はなぜか落ち着かない気持ちになる。
一方、叶の幼馴染『シオン』が突然「叶くんのことが好きです」と宣言し、勝手に家に上がり込んで夕食を作り始める。ルミナは葛葉をストーキングし、風呂を覗こうとし、シオンは叶の配信に乱入する。クロノワールの配信は恋の戦場と化す。「おい叶、なんか言えよ!」「そっちこそルミナと仲良くしてるじゃねえか!」「してねえよ!」「シオンさんにデレデレしてるのはそっちだろ!」——しかし口論の裏で、二人とも相手が取られることを望んでいない。
事態はルミナの真の目的が明らかになるとさらにエスカレートする。彼女は二人を引き離そうと
クロノワール 〜黒に染まらない2人〜 - 喪失の予感と、感情の暴走 ―幼なじみの告白、相棒の秘密―
配信の余韻が、まだ体の奥に残っていた。
叶は自宅マンションのソファに座り、天井を見上げていた。昨日の四人同時コラボ配信。あの混乱。ルミナの囁き。シオンの意味深な言葉。そして、配信後に交わした葛葉との言い争い。
「お前にとって、俺は何なんだよ」
葛葉のあの声が、耳から離れない。
叶は目を閉じた。答えられなかった。いや、答えようとしなかった。答えを知るのが怖かった。
スマホが震えた。
シオンからのメッセージだった。
『叶くん、今日、家にいる? 夕飯作りに行ってもいい?』
叶は画面を見つめた。指が動かない。
(シオン……)
昨日の配信で、シオンが言った言葉を思い出す。『叶くん、昨日の夜ごはん、美味しかった?』あれは、カメラの前で、わざとだったのか。それとも、ただの幼なじみとしての言葉だったのか。
叶は、ゆっくりと返信を打った。
『いるよ。好きにしていい』
送信。
それから、叶は部屋の中を見回した。ゲーム機材が散らばっている。空のペットボトル。配信の資料。いつもの光景。でも、今日はやけに静かに感じる。
(一人だと、ダメだな)
叶は小さく息を吐いた。
寂しがり屋の自分を、いつも誤魔化してきた。ゲームで、配信で、葛葉との時間で。でも、夜になると、この部屋の静けさが、どうしても体に染み込んでくる。
インターホンが鳴った。
叶は立ち上がり、ドアを開けた。
「こんばんは、叶くん」
そこには、黒髪ストレートのロングヘアを丁寧に編み込んだ、深い紫色の瞳の少女が立っていた。聖リリエンヌ学園の制服ではなく、白いブラウスに薄いピンクのカーディガン。手には、スーパーの袋を提げている。左手首には、いつもの白いハンカチ。
「今日は、叶くんの好きなハンバーグにしようと思って。お肉、いいのがあったの」
シオンは、にこりと笑った。目が三日月型になる。幼い頃から変わらない、叶の前でだけ見せる笑顔。
「ああ、ありがとう。上がって」
シオンは、慣れた様子で叶の部屋に入ると、キッチンに立った。エプロンを付け、手を洗い、食材を並べる。その一連の動作は、何年も繰り返してきたものだ。
叶はソファに座り、シオンの背中を見ていた。
(こういう時間が、当たり前だった)
シオンが勝手に夕飯を作りに来る。叶はそれを、ただ受け入れる。幼なじみという関係が、ずっと続くものだと、どこかで思っていた。
でも、昨日の配信で、何かが変わった気がする。
いや、もっと前から、変わっていたのかもしれない。
「叶くん」
シオンが、背中を向けたまま言った。
「昨日の配信、見てたよ。……叶くん、葛葉さんと、何かあった?」
叶は、一瞬だけ息を止めた。
「別に。いつものことだ」
「いつものこと、なんだ」
シオンの声が、少しだけ低くなった。
「叶くん、私には、そうやって誤魔化すんだね」
叶は、何も言えなかった。
シオンは、玉ねぎを刻み始めた。包丁の音だけが、部屋に響く。トントン、トントン。規則正しい音。でも、その手は、少しだけ震えていた。
「……シオン、何か言いたいことがあるなら、言ってくれ」
叶は、ソファから立ち上がった。
シオンの手が、止まった。
「……うん。私ね、今日、叶くんに話したいことがあるの」
シオンは、ゆっくりと振り返った。
深い紫色の瞳が、まっすぐに叶を見つめる。その瞳は、今まで見たことがないほど真剣で、少しだけ潤んでいた。
「だから、ごはんを食べながら、聞いてほしいの」
叶は、頷いた。
胸の奥が、ざわつく。
(なんだろう。嫌な予感がする)
叶は、その予感を振り払うように、テーブルの準備を始めた。
——
夕食の時間。
テーブルには、シオンの手作りハンバーグと、温かい味噌汁、サラダが並んでいた。湯気が立ち上り、部屋中に美味しそうな匂いが広がる。
「いただきます」
「いただきます」
二人は、向かい合って食べ始めた。
ハンバーグは、叶の好みに合わせて、少し甘めのソースがかかっている。シオンは、叶の好きな味を、全部知っている。
「美味しい?」
「ああ、美味いよ。いつもありがとう」
「よかった。叶くん、最近、ちゃんと食べてないでしょ。冷蔵庫、空っぽだったもの」
シオンは、嬉しそうに笑った。
でも、その笑顔は、いつもより少しだけ、ぎこちなかった。
叶は、箸を置いた。
「シオン、話って」
シオンは、ゆっくりと箸を置いた。
それから、膝の上に手を重ねて、深く息を吸った。
「叶くん」
シオンの声が、震えている。
「私、叶くんのことが好きなの」
叶は、動けなくなった。
「中学の時から、ずっと。叶くんの隣にいるのが、当たり前すぎて、言えなかった。でも、最近、叶くんの周りに、ルミナさんとか、葛葉さんとか、たくさん人が増えて。私、このまま何も言わなかったら、叶くんの隣にいられなくなるって、思ったの」
シオンの言葉が、一つ一つ、叶の胸に落ちていく。
「だから、今日、言おうって決めたの。私、叶くんのことが、好き。……叶くんは、私のこと、どう思ってる?」
シオンの深い紫色の瞳が、叶を見つめている。
叶は、その瞳を見つめ返した。
そして、その瞬間、叶の脳裏に浮かんだのは——
シオンの顔ではなかった。
夕焼けのような赤い瞳。黒いニット帽。鋭い犬歯。いつも隣にいる、あいつの顔。
葛葉の顔が、浮かんでいた。
叶は、自分の心臓が、嫌な音を立てるのを感じた。
(なんで、今、葛葉の顔が——)
叶は、唇を噛んだ。
そして、言った。
「ごめん、シオン。俺、お前のことは大切だけど、そういうのじゃない」
即答だった。
考える間もなく、言葉が出ていた。
シオンの表情が、固まった。
それから、ゆっくりと、微笑んだ。
「……うん。わかってた」
シオンは、そう言って、食器を片付け始めた。
「わかってたよ。叶くんは、私のこと、妹みたいにしか見てないって。……でも、言わないと、前に進めない気がしたの」
シオンは、キッチンで食器を洗い始めた。
その手が、震えている。
叶は、見ていた。
見ていることしか、できなかった。
「シオン、俺——」
「いいの。謝らないで。私が勝手に、好きになっただけだから」
シオンの声は、明るかった。
でも、食器を洗う手の震えは、止まらなかった。
叶は、胸が締め付けられる思いで、その背中を見つめていた。
——
片付けが終わると、シオンは、玄関に向かった。
「ごちそうさま。今日は、ありがとう。叶くんの顔が見られて、よかった」
シオンは、靴を履きながら、振り返って微笑んだ。
「送ってくよ」
「大丈夫。駅まで近いから」
シオンは、ドアノブに手をかけた。
そして、その手が、止まった。
「……叶くん」
シオンの声が、震えた。
「ずっと我慢してた。叶くんが小学校の頃から、ずっと隣にいたのに。私、叶くんの一番近くにいるのは、私だって思ってた。なのに、なんで……なんで叶くんは、葛葉さんばかり見てるのよ!」
シオンの叫びが、部屋に響いた。
叶は、言葉を失った。
「私、叶くんの全部を知ってる。好きな食べ物も、苦手なものも、ゲームの癖も。でも、叶くんが一番見てるのは、いつも葛葉さんで。私、ずっと、それを見てた。見てるしかなかった!」
シオンの目から、涙が溢れた。
「叶くんの隣にいたい。それだけでよかったのに。なんで、私じゃダメなの? なんで、葛葉さんなの?」
叶は、一歩、踏み出そうとした。
でも、足が動かない。
床に、根が生えたみたいに、動けない。
「……ごめん。変なこと言って。私、帰るね」
シオンは、ドアを乱暴に開けた。
バタン、という音が、部屋に響いた。
叶は、一人、部屋に残された。
(葛葉さんばかり見てる)
シオンの言葉が、心臓に突き刺さる。
(俺は、無意識に、葛葉を特別扱いしていたのか)
叶は、その場にしゃがみ込んだ。
(そうだ。俺は、葛葉の隣にいる時だけ、安心する。葛葉の声を聞くと、落ち着く。葛葉が他の誰かと笑っていると、胸がざわつく)
(これは、なんだ)
叶は、自分の胸を、ぎゅっと掴んだ。
(認めたくない。でも、これは——)
叶は、深く息を吐いた。
幼なじみという、安全な関係を失った。
シオンの涙が、叶の心に、深い傷を残した。
そして、その傷は、叶に、自分自身の感情と向き合うことを、強制していた。
——
翌朝。
叶は、ほとんど眠れないまま、朝を迎えた。
スマホには、シオンからの連絡はなかった。当然だ。あんな別れ方をして、すぐに連絡が来るはずがない。
叶は、ベッドから起き上がり、洗面所で顔を洗った。鏡に映る自分の顔は、ひどく疲れていた。
(今日、葛葉と会う)
今日は、クロノワール・スタジオで、緊急コラボ配信が予定されていた。神楽坂玲の指示で、クロノワール+準備配信と題された、四人同時の配信だ。
叶は、葛葉の顔を思い浮かべた。
(俺は、葛葉に、どんな顔をして会えばいいんだ)
答えは、出なかった。
——
インターホンが鳴った。
叶は、ドアを開けた。
「……葛葉?」
そこには、黒いニット帽を被り、黒いパーカーを着た葛葉が立っていた。夕焼けのような赤い瞳が、叶を見つめている。
「おう。迎えに来た。ほら、行くぞ」
葛葉は、そう言って、スタジオに向かおうとした。
その時、叶の部屋の奥から、声がした。
「叶くん、朝ごはん、作っておいたよ。……あら」
叶は、振り返った。
キッチンから、エプロンを付けたシオンが出てきた。昨日の涙の痕は、もう消えている。完璧な微笑みを浮かべて、シオンは葛葉を見た。
「あなたが葛葉さん……叶くんがいつも話してる」
シオンの声は、上品で、柔らかかった。
でも、その目は、笑っていなかった。
葛葉も、シオンを見た。
「ああ、どうも。葛葉です」
葛葉の声も、低く、短かった。
二人の間に、張り詰めた空気が流れた。
叶は、慌てて間に入った。
「シオン、今日は大丈夫だから。朝ごはん、ありがとう」
シオンは、叶を見て、にこりと笑った。
「そう。じゃあ、また夜に来るね」
シオンは、葛葉の前で、わざとそう宣言した。
それから、シオンは、葛葉に一礼して、部屋を出ていった。
葛葉は、シオンの後ろ姿を、じっと見ていた。
「……なあ、叶」
葛葉の声が、低く、冷たかった。
「なんだよ」
「あいつ、毎日来てんの?」
叶は、葛葉の顔を見た。
葛葉の赤い瞳が、わずかに細くなっている。
「まあ、幼なじみだからな。昔から、よく来てる」
叶がそう答えると、葛葉は、黙り込んだ。
何かを言いたそうに、唇を噛んでいる。
でも、葛葉は、それ以上、何も言わなかった。
「……行くぞ」
葛葉は、そう言って、先に歩き出した。
叶は、その後ろ姿を追いかけた。
(葛葉、怒ってる?)
叶は、葛葉の背中を見ながら、そう思った。
理由は、わからない。でも、葛葉が、シオンに対して、明確な敵意を持っていることだけは、伝わってきた。
——
クロノワール・スタジオ。
叶と葛葉が到着すると、すでにルミナがいた。
「先輩方、おはようございます! 今日も、よろしくお願いしますね」
ルミナは、銀色のロングヘアを揺らしながら、笑顔で駆け寄ってきた。毛先の赤が、照明に照らされて、血のように見える。大きな赤い瞳は、今日も、まっすぐに葛葉だけを見ていた。
「お前、また早いな。何時から来てんだよ」
「先輩に会いたくて、始発で来ましたわ」
「はあ!? 始発!? お前、何考えてんだよ!」
葛葉が、顔を赤くして叫んだ。
叶は、その様子を、少し離れた場所から見ていた。
(ルミナは、相変わらず、葛葉にベタベタしてるな)
叶の胸の奥が、また、ざわついた。
「叶さんも、おはようございます。今日は、どんな配信になるんでしょうね。楽しみですわ」
ルミナは、叶にも笑顔を向けた。
「ああ、おはよう。……ほどほどに頼むよ」
「ほどほど、ですか。それは、私の行動次第ですわ」
ルミナは、首をかしげて笑った。
その笑顔の裏に、何か冷たいものを感じて、叶は背筋が寒くなった。
——
シオンも、時間通りにスタジオに到着した。
「おはようございます。今日は、よろしくお願いします」
シオンは、完璧な笑顔で、叶と葛葉に挨拶した。
葛葉は、シオンを見ると、わずかに顔をしかめた。
「……おう」
「叶くん、朝ごはん、食べた? ちゃんと食べないと、配信に集中できないわよ」
シオンは、叶にだけ、優しく声をかけた。
「ああ、食べたよ。ありがとう」
「よかった。今日の夜は、何が食べたい? リクエストがあったら、作ってくるわ」
シオンは、叶の袖を、そっと引いた。
「え、夜も来るのか? 今日は、配信で疲れてるし、大丈夫だよ」
「疲れてる時こそ、美味しいごはんが必要でしょ。私、負けないから」
シオンは、叶の耳元で、そう囁いた。
叶は、笑顔を保ったまま、背中に冷や汗をかいた。
葛葉が、その様子を、じっと見ていた。
赤い瞳が、怒りで、少しだけ縦に細くなっている。
「おい、そろそろ配信始めるぞ。準備しろ」
葛葉の声は、いつもより低かった。
——
配信が始まった。
『クロノワール+準備配信』と題された、四人同時の緊急コラボ配信。
配信開始直後から、視聴者数は、うなぎ登りに伸びていった。
一万、五万、十万、二十万——。
コメント欄は、凄まじい速度で流れていく。
『キターーーー!』
『四人そろった!』
『これは事件だろ』
『叶さん、どっち選ぶの?』
『葛葉さん、ルミナちゃんに取られるな!』
視聴者数は、ついに三十万を超えた。
過去最高の同時接続数だった。
「みなさん、こんばんは! クロノワール+準備配信、始まりますよ! 今日は、四人でゲームをします! ルールは簡単! チーム戦です! 私と葛葉先輩チームと、叶さんとシオンさんチームに分かれて、対決します!」
ルミナが、配信の司会を務めた。
「おい、なんでお前が仕切ってんだよ! てか、チーム分け、聞いてねえぞ!」
「私が、勝手に決めました。文句ありますか? 先輩」
ルミナは、葛葉に、にこりと笑った。
「あるに決まってんだろ! 俺は叶と組みたいんだよ!」
葛葉が、大声で言った。
コメント欄が、さらに盛り上がった。
『葛葉さん、叶さんと組みたい宣言!』
『夫婦は別チーム!』
『これは、夫婦喧嘩の予感』
「葛葉、落ち着け。配信中だぞ」
叶が、葛葉をなだめた。
「うるせえ! お前は、シオンさんと組んで、嬉しいのかよ!」
葛葉が、叶に噛みついた。
「別に、チーム分けなんて、どうでもいいだろ。ゲームで勝てばいいんだよ」
「どうでもよくねえよ! 俺は、お前と——」
葛葉は、そこまで言って、言葉を切った。
顔が、真っ赤になっている。
「葛葉先輩、私と組むの、嫌ですか? 私、先輩のことを、すごく尊敬してるんですよ。ゲームの腕も、トークも、全部。だから、一緒に戦いたいんです」
ルミナが、葛葉の腕に、ぎゅっと抱きついた。
「離れろ! くっつくな! 配信中だぞ!」
葛葉が、慌てて振りほどこうとする。
「先輩、私、あなたを独り占めしたいんです。叶さんのこと、いなければいいのにって、思っちゃいました」
ルミナが、葛葉の耳元で、そう囁いた。
葛葉の手が、震えた。
ゲームのコントローラーを握る手が、小刻みに震えている。
キャラクターが、画面の中で、あらぬ方向に動き出した。
「おい、葛葉、大丈夫か? 操作、おかしいぞ」
叶が、葛葉の異変に気づいた。
「……大丈夫だ。なんでもねえ」
葛葉は、そう言って、コントローラーを握り直した。
でも、その手は、まだ震えていた。
コメント欄は、さらに加速する。
『ルミナちゃん、葛葉さんに何て囁いたの!?』
『葛葉さん、動揺してる!』
『これは、完全に修羅場』
「叶くん」
今度は、シオンが、叶の袖を引いた。
「私、諦めないから。叶くんの隣は、私の場所だから」
シオンが、叶の耳元で、そう小声で告げた。
叶は、笑顔を保ったまま、背中に冷や汗をかいた。
(やばい。これは、完全に、配信事故だ)
叶は、心の中で、そう叫んでいた。
——
配信は、大混乱のまま、なんとか終了した。
視聴者数は、最終的に、三十五万を超えた。
しかし、コメント欄は、大荒れだった。
『クロノワール終わった』
『叶さん、シオンさんと何があったの?』
『葛葉さん、ルミナちゃんに絆されてる?』
『これは、夫婦崩壊の危機』
叶と葛葉は、配信を終えると、スタジオに残った。
ルミナとシオンは、先に帰っていた。
二人きりのスタジオ。
沈黙が、重くのしかかる。
「……おい、叶」
葛葉が、低い声で言った。
「なんだよ」
「お前、シオンさんと、何があったんだよ。『昨日の夜、ありがとう』って、何だよ。あいつ、毎日、お前の家に来てんだろ。それで、何してんだよ」
葛葉が、叶に詰め寄った。
「別に。幼なじみが、飯作ってくれただけだよ」
叶は、平静を装って答えた。
「ふざけんな! あの女、お前のこと、好きなんだろ! 分かってて、庇ってんじゃねえよ!」
葛葉が、怒鳴った。
「じゃあ、お前はどうなんだよ! ルミナちゃんに、『いなければいいのに』って言われて、どう思ったんだよ! まんざらでもなかっただろ!」
叶も、声を張り上げた。
「はあ!? まんざらでもないわけねえだろ! 俺は、あんなこと言われて、嬉しいわけないだろ!」
「じゃあ、なんで、あの時、手が震えてたんだよ! ルミナちゃんに、何かされて、動揺してたんじゃないのかよ!」
「動揺してたのは、お前だろ! シオンさんに、袖引かれて、デレデレしてたじゃねえか!」
「デレデレしてねえよ! あれは、配信中の事故だ!」
「じゃあ、俺のも、事故だ! あの女が、勝手に耳元で囁いただけだ!」
二人は、取っ組み合いになりかけた。
葛葉が、叶の胸ぐらを掴む。
叶も、葛葉の腕を掴み返す。
「離せよ、葛葉!」
「お前が先に、離せ!」
二人の息が、荒い。
怒りと、嫉妬と、何か別の感情が、混ざり合って、爆発しそうだった。
「……なあ、叶」
葛葉の声が、突然、小さくなった。
叶は、葛葉の顔を見た。
葛葉の赤い瞳が、潤んでいる。
「俺は……お前が、他の奴と仲良くするの、嫌だったんだよ。ずっと、前から」
葛葉が、絞り出すように言った。
叶は、息を呑んだ。
「……なんだよ、それ」
叶の声も、震えていた。
「俺もだよ」
葛葉が、そう返した。
二人は、互いの独占欲を、認め合った。
でも、その先の言葉——恋人でも、相棒でもない、この感情の名前——を、定義できないまま、沈黙した。
スタジオの時計の音だけが、静かに響いていた。
——
叶と葛葉は、スタジオを出る前に、互いのスマホを操作して、同時に配信アカウントで、短い声明を出した。
『俺たちは相棒で、それ以上で、それ以下じゃない。それだけは変わらない。』
配信は、さらに荒れた。
ファンも、分裂した。
『相棒宣言!』
『やっぱり、夫婦じゃなかったのか』
『でも、それって、逆に怪しい』
『クロノワールは、終わらない!』
叶と葛葉は、互いの顔を見た。
この言葉が、解決ではなく、空白の確認であることを、二人とも、分かっていた。
「……なあ、葛葉」
叶が、静かに言った。
「ああ?」
「今日、お前ん家、行っていいか」
叶は、初めて、そう申し出た。
葛葉は、一瞬、驚いた顔をした。
それから、ゆっくりと、頷いた。
「……ああ。汚いけどな」
葛葉は、それだけ言って、歩き出した。
叶は、その後ろを、黙ってついていった。
吸血鬼の自宅に、人間が招かれる。
それは、葛葉にとって、叶を自分の領分に受け入れるという、相棒という枠を超えた行為だった。
——
新宿。
葛葉の自宅マンション。
十八階の部屋は、遮光カーテンで閉ざされ、昼間でも薄暗かった。
「適当に座って。今、なんか飲み物出すわ」
葛葉は、キッチンに向かった。
叶は、部屋の中を見回した。
高級マンションの一室。広いリビング。でも、生活感は薄い。テーブルの上には、エナジードリンクの空き缶が、いくつも転がっている。血の代わりだと、葛葉が言っていたものだ。
「ほら。これしかないけど」
葛葉が、エナジードリンクの缶を、叶に差し出した。
「ありがとう。……お前、いつも、こんな暗い部屋で、一人でいるのか?」
叶は、缶を受け取りながら、聞いた。
「まあな。吸血鬼だからな。光は、あんまり得意じゃない」
葛葉は、ソファに座った。
叶も、その隣に座った。
二人の間に、静かな時間が流れた。
「……なあ、叶」
葛葉が、暗い部屋の中で、ぽつりと言った。
「俺の母さん、人間だったんだ」
叶は、葛葉の横顔を見た。
「父さんが、吸血鬼で、母さんが、人間。二人は、恋に落ちて、血盟の誓いを交わしたんだ」
「血盟の誓い?」
「吸血鬼の儀式だよ。生涯で、たった一人と、血を分かち合って、その相手を、守り続けるって誓うんだ。……母さんは、父さんのために、人間の世界を捨てた。父さんも、母さんのために、吸血鬼の掟を破った。二人は、幸せだったんだ。俺が生まれるまでは」
葛葉の声は、暗く、沈んでいた。
「でも、父さんは、若くして、病に倒れた。吸血鬼の血を引いてても、病には勝てなかった。母さんは、父さんが死んだ後、後を追うように、静かに消えた。……人間と深く関わると、相手を不幸にする。父さんも、母さんも、そうだった」
葛葉は、自分の手を見た。
青白い指。鋭く伸びた爪。
「だから、俺は——」
葛葉は、言葉を切った。
そして、叶を見た。
夕焼けのような赤い瞳が、暗闇の中で、ほのかに光っている。
「お前と、これ以上、深くなりたくない」
葛葉の声は、震えていた。
「お前は、俺にとって、特別だ。でも、だからこそ、これ以上、近づいたら、お前を、失うかもしれない。お前を、不幸にするかもしれない。それが、怖いんだ」
叶は、初めて、葛葉が相棒という枠を守っていた理由を、理解した。
失う恐怖。
見捨てられる恐怖。
それは、叶が、ずっと抱えてきた孤独と、同じものの裏返しだった。
叶は、葛葉の手を、そっと握った。
「……叶?」
葛葉が、驚いたように、叶を見た。
「俺は、お前の隣にいる。それだけは、変わらない。お前が、どんなに、俺を遠ざけようとしても、俺は、お前の隣にいるよ」
叶は、真っ直ぐに、葛葉の目を見て、言った。
葛葉は、何も言わなかった。
ただ、握り返された手が、少しだけ、温かかった。
——
同時刻。
笹塚の叶の自宅マンション前。
シオンは、叶の部屋に向かおうとして、足を止めた。
マンションの入り口に、銀色の髪の少女が立っていた。
「あら、シオンさん。こんばんは」
ルミナが、にこりと笑った。
「……あなた、ルミナさん。叶くんの家に、何の用?」
シオンの声は、冷たかった。
「用なんて、ないですわ。ただ、叶先輩の帰りを、待っていただけです。シオンさんこそ、こんな時間に、何の用ですの?」
ルミナは、首をかしげた。
「私は、叶くんの幼なじみよ。夕飯を作りに来たの。あなたに、関係ある?」
「関係、ありますわ。私、叶先輩のことも、葛葉先輩のことも、大好きですもの。二人の邪魔をする人は、誰であっても、許せませんの」
ルミナの笑顔は、崩れない。
でも、その赤い瞳は、冷たく、シオンを射抜いていた。
「あなたが、叶くんを攪乱してるの?」
シオンが、一歩、前に出た。
「攪乱してるのは、そっちでしょ。幼なじみのくせに、ずっと、何も言えなかったくせに。今更、叶先輩の隣にいたいなんて、虫が良すぎますわ」
ルミナが、笑いながら、言い放った。
シオンの顔色が、変わった。
「……私は、叶くんを諦めない。葛葉さんがいても、絶対に」
シオンは、強く宣言した。
「なら、私も、葛葉先輩と叶先輩、二人まとめて、好きになるだけよ。あなたには、渡さないわ」
ルミナは、挑発するように、微笑んだ。
二人の間に、火花が散った。
互いに、相手を、ライバルとして、認識した瞬間だった。
——
新宿のマンション。
叶は、葛葉の部屋を出た。
「……送るよ」
葛葉が、玄関まで出てきた。
「大丈夫だよ。一人で帰れる」
「そうか。……気をつけて」
葛葉は、そう言って、ドアを閉めた。
叶は、エレベーターに乗り込み、一階で降りた。
外は、夜の空気で、ひんやりとしていた。
叶は、空を見上げた。
新宿の空に、星は、ほとんど見えなかった。
(俺は、葛葉の隣にいる)
叶は、そう心の中で、繰り返した。
でも、二人の間に横たわる、越えられない一線は、まだ、何も解決していなかった。
叶は、ポケットからスマホを取り出した。
シオンからの着信が、一件、入っていた。
叶は、画面を見つめた。
指が、震える。
(シオン……)
叶は、通話ボタンを押すことが、できなかった。
代わりに、メッセージを開いた。
シオンからのメッセージは、なかった。
着信だけが、残っていた。
叶は、スマホを、ポケットにしまった。
そして、笹塚へ向かう電車に、一人で乗り込んだ。
窓の外を、街の明かりが、流れていく。
叶の心の中には、葛葉の言葉と、シオンの涙と、ルミナの笑顔が、ぐるぐると渦巻いていた。
(俺は、どうしたいんだ)
答えは、まだ、出なかった。
電車の揺れが、叶の孤独を、静かに、深く、揺らしていた。Noveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。